玄徳軍の陣の明かりが見えた途端、どうしようもなく涙があふれてきた。
「……花、殿?」
 じわり、と視界がにじんだ。土を踏みしめる足の感覚が曖昧になって歩き方がわからなくなり、自分の足が自分のものでなくなってしまったかのように花はその場に立ち尽くしてしまう。
「……っ、ごめんな、さ、っ……」
 花は乱暴に目をこする。数歩前を歩いていた子龍が心配そうに眉をひそめて花を見ている。なんの前触れもなくいきなり泣き出すだなんて、変なやつだと子龍は扱いに困っているに違いない。
 とまれと心の中で叫ぶように言い聞かせながらごしごしと目をこするけれど涙はとまらず、歯を食いしばっても唇の隙間から嗚咽がこぼれる。
「っ、ふ、……っ」
 睫毛と両の手のひらを濡らした涙は流れ星のように頬を伝って、夕立のように静かな音をたてて足下の地面へ落ちた。
 「……大丈夫ですよ、花殿」
 優しい呟きの後、花の背中を子龍の手のひらがさすった。
 違うのと子龍の言葉を否定したくても花は呼吸すら整えられずにいて、口をついてでるのは情けない嗚咽ばかりだった。
 それなのに子龍は、ぐずる妹に手をやく兄のように微笑みながら嘆息して、ゆりかごを揺らすようなリズムで花の背を撫で続ける。
「すいません、もっと早くお助けできればよかったのですが……。 けれど、もう大丈夫ですから」
 子龍の手は分厚くて硬かった。たぶん、戦場に出ている男の人の手は皆、一様にこういう手のひらをしているのだろう。
 あの人も、こんな手をしていた。何かのために武器を取って、命の奪い合いをする彼の手は、しかし、花の身体にとても優しく触れた。まるで自分の手が触れることで花の身体が壊れてしまうことを酷く恐れているかのように。
 花は、そんな孟徳の不器用な手が好きだと思った。思って、いたのだ。傍にいて、もっと触れていてほしかったと。
「――もう、そこが玄徳軍ですよ。皆が、貴女を待ちわびております」
 でも、もう、戻れない。玄徳軍の一員である花にとって、孟徳は穏やかに言葉を交わして、ゆっくりと互いに見つめあうことも許されない、敵、なのだ。
(どうして)
 玄徳軍に戻りたい、と花はいつか孟徳に言った。あのときは心の底からそう思っていた、と思う。異世界にとばされて右も左もわからなかった花に居場所をくれた優しい人たちの元は居心地がよかったし、たぶん玄徳軍以外に、花の居場所はないと思っていたから。
 そうだ、子龍の手を掴み、孟徳軍から逃げてきた花には、もう、玄徳軍にしか居場所はない。それなのに、自分で子龍の手を掴んだはずなのに、どうしてこんなにも孟徳の手が恋しいのだろうか。
(どうして)
 彼の元を去った花を、もう彼はあのひとときのように想うことはないだろう。存在し得なかったはずの二人でいた日々は、幻の向こうの虚無へと消える。花ちゃん、と嬉しそうに呼ぶ声も、困ったような笑顔も、忘れ去ることができるのだろうか。あの優しい掌も、この身体から消えて、くれるのだろうか。



いつかの悲劇が繰り返す

(どこかで繰り返されたはずの陳腐な恋物語に泣く、愚かな、わたし)
(04.06.10.)