例えば袖口から時折のぞく花の細い手首の白さに、時折、何もかも投げ出して食らいついてしまいたいという衝動に駆られることがある。上質な陶磁器のようなまっ白い肌はどんなにか甘いだろうか。おそらくは血も骨も、おおよそ花のものであればきっと甘いに違いない。
 幾度となく触れた掌に触れることが今はたまらなく恐ろしい。その指先のぬくもりに触れたが最後、普段必死で抑えている薄ら暗い衝動に主導権を奪われて、彼女の全てを貪りつくしてしまいそうで。
 それは他ならぬ孟徳の最上の欲望であるのだけれど、それが叶ってしまったらいったい孟徳はどうなってしまうのだろう。その成就はすなわち喪失だ。今の孟徳が最も恐れている、一番大切にしたいたくさんのものたちを失くしてしまったら、そのほかたくさんを、それに付随する世界も含めて破壊してしまうことに何ら抵抗を持てなくなる気がする。

(そしてたぶん君は俺がこんなことを考えているなんてちっとも知らないのだろうね)

「孟徳さん? どうかしましたか?」
少し首をかしげて、花が問う。
 あはは、と孟徳は彼女の質問を軽く笑い飛ばす。
「何にもないよ? どうしてそんなことを訊くの」
 逆に訊き返すことで会話の主導権を奪取する。意識せずにやっていることもあるが、今回はかなりわざとだ。
「え、っと……」案の定、花は口ごもって孟徳からわずかに視線を外した。ややあってから、おずおずと口を開く。「な、……なんでもないならいいんです。変なこと訊いてごめんなさい」
「そう?」
 にこり、と孟徳は花に微笑みかける。「それならいいんだけど。ほら、冷めないうちに、お茶、飲んで飲んで」
「あ、はい。えと、……いただきます」
 孟徳に言われるがまま、目の前におかれた湯呑みに両手を伸ばした花は、中を満たす琥珀色の液体に口をつける。先ごろ届いた最高級の茶なのだが、いつだって彼女は特別驚いたりすることなく、少しだけ嬉しそうに、けれど疑いなく飲む。出逢ったときからそれは変わらない。
 たぶん、お茶が彼女の世界では高級品ではないのだろうな、と今ならわかる。争いもなく、王はいるけれど、皆が参加する選挙で選ばれた者が政治をするという、彼女の世界。その楽園にいつか花は帰るつもりなのだろう。だったら、どうせ永遠に彼女を手にすることができないのだったら、その肌を暴いたところで誰が孟徳を責めるだろうか。
「美味しい?」
 ほう、っという吐息をともにカップから口を離した花に孟徳がそっと尋ねる。彼女はこくんと小さく頷いて、
「美味しいです。ありがとうございます」
と、笑った。それこそ花が開くかのように。
 つられるように孟徳も笑みを返す。
「よかった。そう言ってくれるのが一番うれしいよ」
 けれどその眼差しが花の手首にばかりそそがれていることに、彼女はおそらく気づいていない。ふんわりと長い上着の袖口からのぞく、あまりにも細く、滑らかであろうと想像させる白をした手首がいかに孟徳を駆り立てるのか知らずに笑う彼女を、どれほど孟徳が愛おしいと思っているのかも、おそらくは。



暴かれざる肌

(知らずに笑う君が、愛おしくて憎らしい)
(22.06.10.)