「目、美味しかった?」
 長い長い軍議は結局折り合いがつかず、結論は持ち越しになって散会となった。いつまでもこうして先延ばしにすることは出来ないが、賛成側と反対側の意見はどこまでいっても平行線をたどるであろうということは、頭脳派でない元譲にもはっきりとわかっていて、果たして議論を重ねたところで結論など出るのだろうかとこれからの孟徳軍の行く末を案じていたまさにその時、背後から唐突にそんなことを孟徳が元譲に訊くものだから、一瞬、彼の意図せんとしているところが理解できなかった。
「は?」
 間抜けな声をあげて孟徳を見つめれば、孟徳は肩をすくめて嘆息。
「左目」短くそう言って、にこ、と唇の端を持ち上げて孟徳が嗤った。「食べたんだろ?」
そこでようやく元譲は孟徳が問うている意味を理解し、そして、言葉を失った。
「………、」息を吐き、吸う。平静を保つように自分に言い聞かせながら、言葉を選んだ。「どういう、意味だ」
「どういう、って言われても。他にどんな意味があるんだろうな」
元譲の言動が可笑しくてたまらないと云ったように孟徳が声をあげて笑った。いっそ朗らかなその笑い声は、軍議が終わり三々五々部屋を出ていく将軍たちが交わしあう話し声の喧噪のなかで、やけに大きく響いて聞こえた。
「……何故、いまさらそんなことを訊く」
 ぞくり、と背筋が震えた。元譲の、軍人としての本能が叫んでいる。圧倒的な捕食者の前に引きずりだされた、ということへの恐怖を。
 額にうっすらと汗を浮かべた元譲は、叫びだして逃げ出そうと怯える身体を抑えつけて孟徳を見た。孟徳は元譲の目を確かに見つめ返して、つめたく微笑んだ。
 全ては、過去の話だ。元譲が左目を失くしたのは、孟徳がまだ今のように強大な権力を手に入れるよりももっと遠い昔の、戦場だった。敵将をまさに打ち取らんと駆けているところを弓で射抜かれたのだ。痛みを通り越し、まるで鮮烈な雷が眼底で轟き続けているようなすさまじい感覚と、突然赤黒く染まった視界。元譲が正確に覚えているのはそこまでだった。
 おそらく無我夢中で、一種のパニック状態だったのだろう。他の武将の話に依れば、元譲は矢が刺さった途端、元譲はその矢を左目もろとも引っこ抜いて何か大声で叫びながらその左目を喰らい、そしてそのまま元譲を射かけた敵武将を討ち取った、のだという。
 それはまさに鬼の様であった、とその時の元譲の姿を見たものは異口同音に話をしめくくる。自分の身体を口にするなど人間業とは到底思えない、まさに鬼のみがなせる業であるというのは、他人事のように自分の武勇伝を聞く元譲も頷く。その時の自分は鬼に憑かれていたのであろう。血塗れの戦場に潜む鬼に。
「元譲」
 黙ったままの元譲にしびれを切らしたのか、孟徳が諭すように元譲を呼んだ。
 孟徳は依然として、完璧な微笑みを浮かべている。目を細め、唇を微笑の形に歪めている。それがたまらなく恐ろしかった。
 元譲は孟徳のその微笑みを知っていた。元譲が左目を失ったのとちょうど同じ頃、どれが誰の何であるか判別がつかないほどに原形を留めていない屍体の山の中心、血だまりの海のなか、全身を朱に染めた孟徳は、この微笑みと寸分たがわぬものを浮かべ、そして元譲の前で誓った。もう誰も信じない、と。
 元譲はぐ、っと固く拳を握った。目をつぶり浅い息を吐けば、左の眼窩がズキリと痛む。空っぽのそこに棲みついた何かが疼いたかのようなその痛みを、恐れや躊躇いと一緒に飲み込んでしまうよう、深く息を吸った。
元譲ははっきりと目を開けて、孟徳を見据える。
 孟徳の微笑みはちっとも揺らいでいなかったけれど、元譲はもうその微笑みにたじろぎもひるみもしなかった。覚悟を決めるというのはそういうことだ。
 そして元譲が、口を開いた。
「………あの娘は、」
 ぴくり、と孟徳の唇の端が動いたのがわかっても、元譲は言葉を続けた。
「……花は、どうしている」
 一瞬、世界が反転した、ような錯覚を覚えたのは、瞬きと瞬きの間のほんの刹那、孟徳がまるで、ずっと繋いでいたはずの手をいつの間にか離してしまったせいで母親とはぐれたことに気付いた少年のように表情を崩したからなのだろう。彼はそのまま地面に倒れて、途方にくれて泣き出してしまいそうに見えた。
「も――、」掬いあげなければ溺れて沈んでいってしまいそうで、元譲が手を伸ばしかけると、それが合図になったかのように、世界がもう一度反転した。
「訊いているのは俺だ、元譲」
 元譲が手を伸ばそうとしていた全てが幻だったように、孟徳は数秒前と何ら変わらない微笑みを浮かべていた。
 しかし元譲はもう恐ろしさなど微塵も感じなかった。
「孟徳、」一歩、踏み出した。目はそらさず、正面に孟徳を見据え、もう一歩近づくと、水面に波が立つように孟徳の微笑みが揺らいだ。
「――まだ、やり直せる」
 確証なんて本当は持っていなかった。けれど、そう信じたくて、元譲は断定を孟徳に投げつけた。
「ッ、いい加減なことを――、」
「目を覚ませ孟徳!」
 再び元譲が伸ばした手は確かに孟徳の両肩を掴み、彼の身体を力任せにゆすった。
 主人に対してこのような振舞いをするのは武人として間違っているというのはわかっていた。しかし、孟徳がいくら声を荒げて振りほどこうとしても、例え不敬罪だとして処刑されるとしても、元譲はこの両手を離す気はなかった。
 それなのに、孟徳は、ただ静かに目を伏せた。今までの激情が嘘のように、うつむいた彼の顔は青ざめていた。
「………無理だよ」
 あたかも数億光年の孤独を経た老人のように、しわがれた声をあげて孟徳は嗤った。
「無理なんだよ、元譲。俺はもう、」
 顔を上げた孟徳の瞳を元譲は目の当たりにする。無色透明で、最早絶望すら枯れ果てた砂漠のような彼の瞳。
「……閉じ込めて、自分だけのモノにしたはずなのに、満たされないんだよ。あの目が、あの瞳が、」
 かきむしるように乱暴に孟徳が自分の胸元を掴む。心臓をえぐりだすように手が赤くなるほど強く自らを掴む孟徳に圧倒された元譲は、無意識のうちに彼の肩を掴んでいた手を離していた。
「あの瞳が、欲しくてたまらないんだ――」
 それだけを絞り出すように言って、膝から崩れおちるように、孟徳がその場に座り込む。糸が切れたあやつり人形のように、重力のままに頭を垂れ、だらしなく腕を身体の横に下ろした。
 あの少女と孟徳は出会うべきではなかったのだろうか。けれどもどうして孟徳からあの少女を引き離せたというのだろう。彼女といる孟徳はあんなにも穏やかに笑っていたのだ。もう一度、人を信じることが出来るようになるんじゃないかという幻想を元譲に抱かせるほどに。
そんな浅はかな希望を見出した元譲が愚かだったのだろうか。もしも、孟徳を信じきれなくなっていた彼女に、違う言葉をかけていたならば、今でも太陽の光の元で二人が笑いあうのを、微笑ましい気持ちで眺めることが出来たのだろうか。
「――いつか、俺よりももっと強大な何かに裁かれる日まで、俺はずっと、罪人であり続けるしか、ないんだ……」
 指先すら動かせず息を呑んで孟徳を見ていることしか出来ない元譲の鼻先を、腐臭がかすめた。あの日の、屍体の山の中心に出来た血だまりの海の、匂い。



推定有罪

(from "A New Day, after tomorrow")
(06.06.10.)