まるで天女のように現れて幼い孔明の命を救い、孔明の心に火を灯して光を与えて孔明の元を去った一人の少女のことが、孔明はずっと忘れられなかった。
 あの少女は孔明に光をくれた。それはまるで星のように輝くその光は孔明に、囁いていた。いつか、もう一度、孔明が彼女に出逢う日を。
 孔明はその日まで真っ直ぐに生きてゆこうと決めた。何処かに彼女がいるのだろうこの世界から哀しみをなくし、彼女が彼女の大切な人の傍で笑っていられるように。年齢を重ねてシワが増えて少しだけ小さくなった彼女に再会したときに、誇れる自分でいれるように。
 たくさんを失くし、嫌というほど自分の無力さを思い知らされるこの世界で、それだけが孔明の希望だった。
 だから、初めて“曹孟徳”の顔を見た刹那、孔明は地面が反転したような錯覚を覚え、立っていられないほどの衝撃を受けた。
 孟徳は孔明の記憶のなかの、少女を妻だと言った青年、“夏侯孟徳”に瓜二つだった。唇をゆがめるような微笑み方。深い河底のような低い声。ただ、何処か近寄りがたい雰囲気すら漂わせた夏侯氏の精悍さは曹孟徳にはなく、茶色のはねた髪の向こうに見え隠れする顔はまだあどけない少年の面影すら携えていた。それだけが、ほんの少しの違和感のような、夏侯氏と曹孟徳の差だった。
 最初、曹孟徳は夏侯氏の子なのかと孔明は思った。けれど彼女はあのとき子どもを持っていないといっていたので、彼が二人の子どもであるという可能性は年齢的にあり得なかった。
 しかし他人の空似というには“孟徳”はあまりにも似すぎていた。表面だけでなく、その奥の心根のまで、孔明には同じ色をしているように見えたのだ。まるで二人が同じ人間であるかのように。
 そんなお伽噺みたいなこと本当にあるわけがない。何度も言い聞かせた。だが、いくら考えても、違う結論を見出すことが出来なかった。
 二人は未来からやってきた? そういう視点で思い出をひっくり返せば、言動の端々にそれを裏付ける証拠を見つけてしまう。
 けれども、だとしたら、もしも二人が未来から来た人間だったのだとしたら、押し並べて『未来』というものは『現在』において既に確定しているということになる。それはつまり、この世の中の、全てとまではいかなくても、大きな社会の流れというものは、『現在』の人間の試行錯誤などに一切影響されないということであり、いつかの『過去』から見れば『未来』である、『現在』も、とうの昔に全てが決められていてるということだ。人の死も哀しみも何もかも? 亡くすことも傷つけることも傷つけられることも? ならば、今ここで『哀しんでいる自分』の、哀しみは? 未来の哀しみを減らそうとどれだけもがいたところで、変えられる未来などないとでもいうのだろうか。そもそも苦しむことすら決められていると? 
 孔明の唯一の希望であったはずの、いつか彼女に逢う日が、恐ろしく感じられた。時間というものは、既に決定された過去から一定方向に、全ての人に平等に流れているのだと、疑う事もなく信じていた。信じていたかった。そうでなければ今の自分の全ては、そもそも自分というものの価値が、孔明にはわからなくなってしまう。もしもいつか、孔明の記憶よりも幼い彼女に出逢ってしまったら、それは自分という存在の意志も意思も、そして未来も可能性も、孔明が信じていた何もかもを打ち砕かれてしまう。
 孟徳の思想や行動には賛同できないところが多かった。だから彼の元で働こうと思わなかった。しかし、心の何処かに、孟徳に仕えることであの少女といつか出逢ってしまうのではないかという恐れが、全くなかったとは言い切れない。
 月日が過ぎるごとに、孟徳の顔は変わってゆく。纏う雰囲気がかわってゆく。孔明の記憶に焼きついたそれに、徐々に、ゆるやかに近づいていく。それが無性に恐ろしかった。
 もういっそ全てから目をそむけて逃げてしまおうか。どうせ自分が何をしたところで、未来が決まっているのだとしたら、意味がないのだから。玄徳と名乗る男が訪ねてきたのは、孔明が人の世を捨てかけたときだった。
 山奥に逃げ込んだ孔明に、玄徳は言った。あなたの力を貸してほしい。正しく天子を抱く、平らな世のために、と、透明な瞳で真っ直ぐに彼はそう言った。濁りのない、凪の海のような瞳。あの少女に似ていると、少しだけ思った。
 この世界の何処かに、彼女はいるのだろうか。例えば、孟徳の隣に。笑っているのだろうか。そうであればいいと、思った。どうか、どうか。もしも彼女が本当にあのときの孔明にとって『未来』からやってきた人間だとしても、それでもいい。どうせ、もう二度と逢わないのだろうから。この世界はあまりにも広い。探してもいない少女と逢うことなんて奇跡よりももっと有り得ないことだろう。孟徳の傍で彼女がその才を発揮していたとしても、まさか女の軍師を表に出すようなことはしないだろう。だから、玄徳の傍で働いても、いいだろうか。玄徳の言葉は、孔明が、逃げるために捨てようとした志そのものだった。既に未来が確定しているかもしれないという疑惑から自分の存在意義や可能性を信じきれなくなる前の孔明が、本気で願った、想い。それは、かつて、あの少女から託された光だった。彼を導く星だった。
 それだけをひたむきに見据えれば、もう一度戻れるかもしれない。ただ彼女に出逢う日を夢見て、本気で世界を変えられると思っていた、幸せな頃の自分に。
 次に玄徳が訪ねて来てくれたら、彼の申し出を了承しようと決めた。未来が決まっているかどうかなんて、結局確かめる方法などない。だったら、自分が自分であるために、自分がやりたいことに邁進すればいい。――華奢な身体に、辺鄙な服をまとった少女の後姿を不意に見かけたのは、そんなときだった。

「……――娘。お前の名は?」
 半ば祈るように、背後から孔明は声をかけた。どうか。どうか。
「っ、え……?」と、少女は辺りを見回した。「どこから声が……」
 その声は、鮮やかに孔明の記憶を呼び起こした。あまい匂い。やわらかい微笑み。瞳の奥の、芯の強い光。拍動が早鐘のように速くなる。呼吸の仕方が、わからなくなる。めまいがした。どうか。どうか、否定してくれ。
「……名を」
「私は……」
 おもむろに彼女が振り返る。息が、止まりそうになった。白い顔。孔明の記憶の、まさにそのままの、可憐な、少女。否、違う、光がない。瞳に、あの、全てを覚悟したような、強い強い光が――
「山田花っていいます」
その、とてつもない幸福と果てしない絶望の暴力に、孔明は世界が崩れ去ったような感覚を覚えた。




有卦入り

(15.05.11.)