まるで鏡を見ているようだ、と思っていたことを良く覚えている。
 太陽の光の中で二度目に見た彼女の瞳は、抗うことに疲れ、やがて諦めてしまったひとのそれだった。生の激しい感情に動かされるそれではなく、それこそ鏡のなかの虚像のような、彼女。ああ、この子もそうなのだ、とわかった。
 人形のように美しいその身体が、あの暗闇で爆ぜていた激情を内包しているようには到底見えなかった。近付くもの全てを切り裂こうとしていた彼女の姿は曇りなく研がれた刃のようにうつくしかった。
 おそらく初めて彼女を見かけたときからずっと古嗣は詞紀に想いを寄せていたのだと思う。それが恋や愛と呼べるものなのかはわからない。あるいは同情か、最早嫌いで仕方なかった自分自身の代替品として愛おしく感ぜられていたら最悪だろう。
 しかし考えてみたら、自分に良く似ていると思ったのに、どうして詞紀のことを好きだと思えたのだろう。古嗣はもう随分前から自分のことを忌み嫌っていたと云うのに。
「………、」
 ごとごとと牛車が揺れる音の隙間を縫って、真っ直ぐ射抜くように古嗣を睨む彼女の唇から短く零れた吐息。
 こうやって落ち着いて向かい合うのはいつ以来だろう。もちろん詞紀の方は落ち着いてなどいないだろうが、彼女をこうして静かな気持ちで見つめることがとても懐かしかった。
 狭い車箱のなかに入りこんだ月明かりで、詞紀の白い頬が仄かに輝いている。洗い流せないほどの返り血を浴びたことも一度や二度でないだろう。そんな苦しみとは無縁の世界の住人であるように白い肌はあの夜と同じで、砂糖のようにも見えた。
 しかし、ああ、その瞳は。見つめるにはあまりにも眩し過ぎて、目を逸らしてしまいそうになる。いつからそんな目をするようになったのだろう。
 すぐそこ、手を伸ばせば触れられる距離にあるのに、詞紀が遠く感じられた。詞紀から離れたのは古嗣の方なのに、今更何を哀しんでいるんだろう。
 むしろ、喜ぶべきことなのだ。こんなにも矮小で、醜くて、愚かな自分とは似ても似つかない鮮やかな光を携えたその瞳! 籠のなかの人形のように全てを諦め受け入れていたお姫様は、古嗣の孤独をわかってくれるひとは、もうこの世から消えてしまった。
 そんなものを求めていた自分がくだらなくて、思わず笑ってしまいそうになる。くだらない。この苦しみを他人に理解してもらおうなどという甘えた考えはとうに捨てたはずだったが、この期に及んで未だそんな幻想にすがっているというのか。
 救いなどいらない。夢物語のような穏やかで優しい世界を現実のものにすることにつながっているのだから、その場しのぎのような救いなど必要なかった。救われるとも思えなかった。こんな罪人に救いの手が差し伸べられるような世界だったら、そもそも古嗣は罪人とならずに済んだのだから。
「……失望しました、古嗣様」
 詞紀が、不意に言った。それが詰るような厳しい口調ではなく、すべてを諦めてしまった凪のように静かな声だったので、古嗣は一瞬、言葉を失った。
 どうして。次の瞬間、古嗣の唇を吐いて飛び出しかけたのは、そんな、ガキみたいな問いかけだった。どうして、あの隠れ里で敵として対峙し、残虐のかぎりを一方的に尽くした古嗣を、今の今まで詞紀は信じて、望んでいてくれたというのだろうか。
「――奇遇だね、もう僕は、ずっと前から自分に失望している」
 それなのに、そんな古嗣を、それでも信じていてくれたなんて、そんなことを言わないでほしい。中途半端に差しだされた手にすがりついてしまいそうになる。



ナルキッソスの絶望


(12.10.16.)