天を衝くような巨体と顔に走る傷のせいで人間には怖がられてばかりのランデルはしかし何やら小動物には好かれるらしい。いつだったか、猫たちがわらわらと彼に群がっているのを見たこともある。
「えっ、っと………少尉? 何か……?」
 しゃがみこみ、膝に乗せた白い兎を撫ででいたランデルが、ふっと顔をあげてアリスに問う。
「いや、なに、おまえは、小さいものには随分と好かれるのだな、と思ってな」
 ランデルに倣って隣に座ろうかとも思ったが、彼が座っていて自分が立っていると、目線の高さがちょうど同じであることに気づいたアリスは、そのまま立ち続けることにした。
「以前、赤子が軍の前に捨てられていたことがあっただろう? あのときもあの赤子は伍長にいたく懐いていた」
「――ああ、そんなこともありましたね」
 確かランデルが三課に来たばかりの頃の話だったように思う。三課の中で一番子供に怖がられそうな見た目をしているランデルが一番扱いに慣れていて、そして一番あやすのが上手かったのが当時は不思議だったが、彼の家族を知った今では納得がいく。
 あの空が猥雑な街にいるランデルは兄の顔をしていた。アリスも弟がいるわけで、一応は姉であるはずなのだが、どうにも可愛がってくれる二人の姉の存在やらなんやらで、姉らしいことをしてやった記憶はほとんどない。彼が立派に成長するまでマルヴィン家の次期当主として完璧に振舞うことが、アリスが姉として出来る一番大切なことなのかもしれないが。
「そういえばあの赤子は元気にやっているんだろうか。連絡先くらい聞いておけばよかったかもしれぬな」
 アリスは腰をかがめるようにしてランデルのほうへ身を乗り出し、彼の膝の上の兎にそっと手を伸ばした。おそるおそる後頭部に触れると、確かな温かさがあった。手袋越しでもわかる、ふわふわとした毛並み。
「聞いたとて特別に何か出来るわけでもないかもしれぬが、………しかし、やはり三課でああして迎え入れてしまうと、気になってしまうものだな」
 気持ち良さそうに目を細めてアリスのさせるがままにしている兎を見て、ふふ、と微笑むアリス。彼女の睫毛が頬に落とす影が優しく見え、そこでようやくランデルはアリスが自分のすぐ近くにいることを自覚する。
 あ、と声をあげかけ、すんでのところで飲み込む。無駄に意識する方が失礼だ、と自分に言い聞かせるものの、それでも、無防備に優しい横顔がすぐそこにあるという事実は揺らがずランデルの目の前にある。作戦中に彼女を守って、ならばいい。が、こうして何でもない瞬間に不意打ちのようにして接近すると、何がどうとは上手く言えないのだが、とにかく、心臓が痛いほど高なって、顔に血が集まって、手がじっとりと汗ばむ。逃げ出したくて、でも一方で、この一瞬があたかも永遠のように引き伸ばされた中をずっといられたらそれはどんなにか幸福だろうと思えたりもして、結局ランデルは身じろぎすらしないようにじっと息をつめる以上のことが出来ない。
「ところでこの兎はどうしたんだ?」
 ランデルの膝の上の兎を撫でることに夢中になって俯いてばかりいるせいで彼女のうなじが露わになっている。髪を短く切りそろえているとはいえ、軍服をまとえば当然首回りは隠れてしまうため、その白をランデルが目の当たりにしたのは初めてだった。眩しい白。きっとその部分の皮膚は薄いのだろうと思わせる、儚げな白。触り方がわからないランデルが少しでも触れたら壊れてしまいそうに見えるのに、その温度を肌で確かめられたらなんて欲望が頭をもたげている。
「おい、伍長!」
 語勢を強めランデルを呼ぶと同時に、アリスは鋭くランデルを見上げた。前ぶれもなく、彼女の怪訝そうな瞳と視線が交わる。途端にアリスは呆気にとられたように目を丸くした。突拍子もないものを見た、そんな表情だった。
 どんな顔をアリスに晒してしまったのかなんて想像するまでもなかった。文字に還元出来ないような声をあげ、ランデルは真っ赤になった顔をそらす。
 弁明をした方がいいような気がした。けれど、どんな言葉ならば上手く取り繕えるというんだろうか。そもそもそんな芸当が出来るなら、伝えられないまま胸の内にくすぶらせているすべての想いは既に正しい宛先へ真っ直ぐ届けられているだろうに。
「あの、…………その、」
ランデルは毛糸を絡ませてしまったように喉元で言葉を詰まらせる。ほぐそうとすればするほど糸がもつれて無茶苦茶に絡まっていく。焦りばかりが空回り、唇からはたどたどしい音が零れる。それでも脳裏には先程まざまざと見せつけられた白が鮮やかに焼き付いて、消えてくれない。いっそ告白してしまうしかないのだろうか、あなたの白さに俺はどうしようもなく――、
 突然、ひょいっ、と、膝が軽くなった。それから、すたたたた、と小さなものが走ってゆく音。
「あっ」と声をあげたアリス。その髪がそよいだ気配がして、ランデルがそちらを見ると、兎もアリスも、先程あった場所になかった。
 白い毛悠然となびかせて向こうへ駆けていく兎。二、三歩追いかけたのか、アリスはランデルに背を向け、少し離れた位置に立ちつくしていた。
 立ち上がってみたが、それでもランデルにはもう兎の姿を見つけることは出来なかった。あんなにも短い足なのに、器用に逃げるなあ、としみじみランデルは思う。
「逃げて、……しまった」
と、アリスは呟き、それっきり無言で、ただ肩を落とした。
 どうしたものかとランデルはしばらくアリスの背中を見つめていたが、十数秒の後も同じように肩を落とすのみの彼女に、流石になにか言わなければいけない気分になってきて、
「え、ええと………逃げちゃいましたね」
気のきいたことは言えないしどんなことを言えばいいのか見当もつかなかったから、ランデルはアリスの言葉を鸚鵡返しにして投げかける。
「……抱いてみたいと思って持ち上げようとしたんだ」
 淡々とした口調でそう言ったアリスが、諦めたようにランデルの元へ戻ってくる。」
「白くてふわふわしていたから、ぎゅっと抱きしめたらどんなだろうかと思って抱きあげたら、逃げられてしまった」
「……野良ですから、なかなか気まぐれなんですよ」
「おまえにはあんなに安心しきっていたじゃないか」
そうは言うけれど、彼女は寂しそうな顔をしているわけでも、悔しそうな顔をしているわけでもなかった。翡翠の瞳はガラス玉のように透明で、それは彼女を普段より幼く見せた。
「………では、皆のところへ戻るぞ」
「あ、もしかして、わざわざ探しに来てくださったんですか……?」
「街の視察がてら、だがな」
 行くぞ、とアリスに促され、ランデルは彼女の二歩後を追うような形で彼女に付いていく。それ自体は今までずっとしてきたことだったはずなのに、あの白が未だに網膜の隅にこびりついているせいなのか、どうにも彼女の首筋のあたりに目線がいってしまう。白。あの眩しさがちらりと頭をかすめる。
「いつか、」立ち止まることも振り返ることもせず、アリスが口を開いた。「あの白をぎゅっと抱いてみたい。優しく触れてみたらいいのだろうか、なあ」
「……………俺も、そう思います」
 自分のものにしたいわけではない。もっと単純で根本的な衝動だ。手袋に包まれた指先が、あの白の温度を求めている。その柔らかさに触れてみたい、ぬくもりを確かめてみたい。誰のものでもない白を、いつか。


白い目をした兎を抱いた
(2011.09.08)
(「惹かれる」10題/約30の嘘より)