唇が、触れた。
 結露でくもった窓の向こうではしんしんと雪が降り続いていて、暖房をしっかりかけているのに一向に部屋は暖まらなかった。こういうとき、いつもはむしろ有り難く思う生徒会室の無駄な広さが恨めしかった。
 そう、きっとその寒さがいけなかったのだ。独りでいるには、あまりにも寒すぎて、だからつい、他人の体温を求めてしまっていたのだと、思う。
 刹那の、触れるだけのキスは、粉雪のように消えた。不知火が身体をそっと離す。けれど彼の透明な瞳がじっと颯斗を見つめつづけるから、キスした瞬間に感じた熱が颯斗の唇から離れてくれない。鼻をかすめた、彼の匂いすら。
「――失礼します」
 突然、ドアが開く音がして、それから声が聞こえた。二人ともがよく知っている声。振り返らずともそれが誰であるかは明らかだったが、ついついそちらを向いてしまう。案の定、長い髪を揺らしてドアをくぐって入ってきたのは生徒会の書記を務めている夜久月子だった。
「ああ、月子か」
不知火が無感動につぶやいた。投げやりに、よ、と手をあげる。
「こんにちは、月子さん」
 颯斗は不知火の言葉を引き継ぐようにそう言いながら、月子の方へ寄った。背後で不知火がかすかに息を吐いたのがわかったが、気付かなかったふりをする。
「翼君がまだ来ていないんですよ」
月子の隣に立った青空が嘆息。月子は苦笑する。
「しょうがないね、翼君は」
「颯斗」
 月子の言葉を遮るように、不知火が颯斗を呼んだ。彼のこんな風に低く冷たい声を、颯斗は知らなかった。心臓を冷たい手で鷲掴みにされたように、喉の奥に氷を押し込まれたように、颯斗が体温が急激に下がるのを感じた。まるで自分の身体じゃないみたいに、全身が冷たくて、かたい。
「颯斗」
 もう一度、不知火が颯斗を呼んだ。あの冷たい声で。
 だから颯斗は何も出来なかった。呼吸をするのがやっとで、自分が今どんな表情をしているのかもわからなかった。
「……颯斗ちゃん?」
 颯斗はよっぽど酷い顔をしているのだろう、月子が颯斗の顔のぞきこむようにして、おずおずと颯斗を呼んだ。
「どうしたの? もしかして、何処か具合でも――」
 熱があるように見えたのか、月子が颯斗の顔に手を伸ばした。視界いっぱいに月子の白い肌がひろがる。途端、颯斗の意志が介在する隙もないほど唐突に、颯斗の五感全てが不知火でうめつくされた刹那がフラッシュバックして、
「――っ!」
 とっさに颯斗は、彼女の手を振り払っていた。ぱしん、とかわいた音が響く。
「えっ……?」
月子は振り払われたままの姿勢で、今起こったことが信じられないというように颯斗を見ていた。その瞳は今にも涙を流してしまいそうだ、と感じたそのとき、ようやく颯斗は自分が何をしてしまったのか気付いた。
「――すいません、ちょっと、頭を冷やしてきます」
「あ、颯斗ちゃ、」「颯斗!」
月子のふるえる声も、怒鳴るような不知火の言葉も、全てが怖くて、颯斗は逃げるように生徒会室を出て、人気のない放課後の廊下をひた走った。
 とにかく身体がつめたくて、こごえてしまいそうだった。それなのに、あのキスの熱が、不知火の温度が、唇にまだ灯っている。
 ぬぐいさってしまいたいのに、触ることが酷く恐ろしかった。もしも触れてしまったら、指先からこの氷のような醜い身体が溶かされてしまいそうな、その真夏の太陽のような暑さも、心の何処かでそれを望んでいる自分がいることも。

(2010/02/19)