長い長い午前中の授業がようやく終わって、犬飼は大きく伸びをして、息を吐いた。
 今年の神話科二年木曜日の午前中の時間割はおおよそ生徒のことを考えずに組まれていると思う。予習が必要不可欠な英語とギリシャ語が連続している上、その次の授業は毎時間テストを実施しているギリシャ神話だ。これはもう神話科を妬む誰かの陰謀じゃないだろうか。いや、知らないけど。
 午後の最初の授業が予習も復習もいらない現代文なのは唯一の救いだな、と考えながら、犬飼は筆記具やノートを机の中にしまい、席を立つ。木曜日は必ず学食で昼食をとると決めているのだ。他の曜日は購買で総菜パンをいくつか買ってすませてしまうことも多いのだが、木曜日だけは午前中の授業がハードな上、放課後は部活動の練習がある。部活動があまり盛んではない星月学園だが、犬飼が所属する弓道部はインターハイを目指して真面目に活動している。きちんとした食事をとらなければとてもやってられないのだ。
 教室の後ろ側にあるロッカーにしまってある鞄から財布をとりだし、さあ食堂へ急ごうと教室の出入り口に目を向けたそのとき、珍しい人物が視界に入った。
「よォ、夜久」
 ぶらぶらと手をあげながらその人――夜久月子に声をかける。
「あ、犬飼君」犬飼を振り返って、月子が微笑む。「――そっか、犬飼君もここのクラスだっけ」
「犬飼君“も”、って……」まるで犬飼が誰か別の人のオマケみたいな言い方だなと思った。仮にも同じ弓道部で一緒に練習を重ねている仲間なのになあと少し寂しく感じたが、その寂しさは月子が向かい合っていた生徒を見た途端に吹き飛ぶ。
「ああ、青空に用事だったのか。悪いな、邪魔して」
「いいえ」
 彼女――青空颯斗と月子は共に生徒会の役員をやっている。颯斗が副会長で、月子が書記だったはずだ。颯斗も、他に比べて割と活気がある音楽部に所属しているというのに、二人ともまあよく生徒会役員として頑張っていることだ。ただでさえ星月学園でたった二人きりの女子だから、色々と気苦労も多いことだろうに。
「……それじゃ、明日までに報告書まとめてくるね」
がんばります、と月子が微笑む。颯斗もふっと表情を緩めて、
「ええ、それではお願いします。僕も去年の資料をきちんと探しておきますね」
 同じ生徒会役員で、それでお互い、星月学園でたった一人の同性の友人。そりゃ、ただ同じ部活に所属している同学年の男がオマケ扱いになってしまうのも仕方がないことだろう。それに、別に月子が本当にそういう意図で発言したのではないということは明確だ。それなりに仲の良い友人同士の関係を築けている自信がある。
「じゃあ、よろしくお願いします。また、明日」
かすかに頭を下げて、颯斗が言う。月子も返すようにぺこりと頭を下げた。
「こちらこそお願いします」それから犬飼の方を向いて、「犬飼君、またあとでね」
「おー。練習頑張ろうぜ」
と、おどけて犬飼が言うと、はにかむように月子が笑った。
 そして月子は犬飼と颯斗に手を振って、振り返り歩きだした。合わせるように彼女の艶やかで長い髪が揺れるのを見つめるのは犬飼たちではなく、ほとんどの生徒が友人と喋ったり昼食をとっている体を装っているがちらちらと月子を意識しているのはいっそあからさまだった。天文科に所属する月子が星座科の教室にくることはあまりないから、野郎共が浮足立ってしまうのも無理はないというのは犬飼もわかる。名ばかりの共学校、しかもド田舎の山奥にある星月学園のマドンナは、枯れた毎日の癒しであり憧れであり、唯一の望みだろう。
「………全く、大人気ですね、月子さんは」
 同じことを考えていたらしい颯斗が腕を組んで小さく呟いた。単純な男子生徒たちへの呆れ半分、月子への同情半分といったようなため息を吐いた。
「ま、夜久はただでさえ可愛いからな。気にならない方が男としておかしいだろ」
 月子の可愛さは下手なグラビアアイドルなんか目じゃない。ちょっと天然が入った性格は鬼に金棒のごとく、多感な男子高校生の頭と下半身はイチコロだ。中学まで普通の公立校に通っていたと言っていたが、たぶんそこでも当然のようにモテていただろう。そこらへんは月子の幼なじみである東月と七海が色々頑張ったんだろうな、とそれほど仲良くしているわけでもない二人に思わず同情してしまう犬飼。
「夜久も罪作りだよなあ」
 ケラケラと楽しそうな犬飼の笑みはしかし、
「………そうですね」
と、いう颯斗の、無機質に冷え切った言葉に消し去られる。犬飼ではなく、何故か自分自身を責めているようなその冷たさにぎょっとして見下ろした、まるで月子の背中から目をそらすように俯いていた颯斗の唇が、まるで何かをぐっと堪えるようにぎゅっと真一文字に結ばれているのを見つけてしまったから、どうしようもない愛しさが犬飼のなかであふれた。
 脊髄反射的に犬飼の手が伸びて、颯斗の肩を掴んで少し乱暴なくらいに抱き寄せる。
「きゃっ!」
 驚いた颯斗があげた可愛らしい悲鳴が廊下に響いた一瞬、確かに昼休みの喧噪がぴたりと止んだ。けれど瞬き一つの後、静寂は犬飼の気のせいだったかのように、さっきの続きの喧噪が耳を揺らしていた。それでも、嫉妬だったり、羨望だったり、諦念だったりという視線が自分たちに注がれているのをはっきり感じた。
 本当はこんな風に公然といちゃつくことはしないようにと心がけているはずなのだけれど、不意打ちでそんな可愛い顔をする颯斗が悪いということにしておく。というか颯斗が悪い。考えてみれば颯斗の目の前で他の女を褒めるなんて犬飼の無神経さは全くなじられて然るべきなのに、犬飼の言動で生じたマイナスの感情の矛先をどうして颯斗は自分自身に向けるんだろう。
「急に何を、」
 前ぶれ一切なしの行為に文句をつけようとしたのだろう、顔をあげて犬飼の方を向いた颯斗に、すかさず犬飼はキスを降らせる。方々から舌打ちやらため息やら囃したてるような口笛やらが聞こえてきたような気もするが、そんなもんはどうでもいい。
 本当はもっと深く彼女の温度を確かめたかったのだけれど、触れるだけのキスにとどめておくだけの自制心が働いてくれてよかった。あやうく、犬飼だけが知っている颯斗のとびきり可愛い表情が他の奴らにバレてしまうところだった。
「っ、な、……!」
 それでも、顔を真っ赤に染めて、口をぱくぱくとさせている颯斗を見ていると、やっぱり触れるだけのキスでは物足りなく思えてきてしまう。しかしここは大人になろう。昼休みは愛し合うには短すぎるし、午後には現代文と世界史の授業だけでなく弓道部の練習も待ち構えているのだから。
「ま、とりあえず昼飯食おうぜ? 俺は学食だけど、お前は?」
「……ぼ、くも、学食、です」
「よし、じゃあ行くか」
 うん、と一人頷いて、彼女の肩から手を離し、そのままあっさりと颯斗と指をからませて、犬飼は歩きだす。ひっぱられる形で颯斗の足も前へと進む。
「ちょっと待ってください、僕、財布が教室に、」
「あのなあ、デートに誘っといて俺が金を出さない男だとでもいうつもりか?」
 やれやれと肩をすくめた犬飼はすれ違う生徒の顔を見て、やっぱりたまには学校でわざといちゃついたほうがいいかもしれないと思った。青空颯斗は俺のモンだから手を出すんじゃねェぞ、というアピールはしておくにこしたことがないかもしれない。
「デートってそんな……」
「好きあう男女が食事に行く。デートだろ、どう考えても」
 な?といたずらっぽく犬飼が笑いかけると、化学反応がおこったみたいに、まだ頬の赤みがひき切らない颯斗が、つられて唇をゆるめ、はにかんだ。
「確かに何処も間違ってない、ですね」
 その可愛さといったら、もう、半端なくて、今なら犬飼は神話科二年の時間割をつくった血も涙もない男ですら笑顔で許せそうな、そんな気がした。  
ランチタイムラバー
(Winter-Autumn, 2010)