本当はずっと気付いていた。
 気付いていないふりをして、そういうことに鈍感であるように装って、微笑んだまま幾度となく好意を押しつけていた。誰に対しても同じだけの温度の好意を。
 それが恐怖からくるものだと思っていた。暴力的に、無慈悲に、女へと変容させられてしまう、恋というモノを、私は恐れているのだとばかり思っていた。恋に飲み込まれ、醜く強欲な生き物になってしまうことが怖くて、だからたくさんの想いたちから逃げていたつもりだった。そして、逃げ切れるつもりでいたのだ。
 そんな愚かな自分に気付きたくなど、なかった。けれど、あのひとを見つけられなかったら、と考えだけで、私は半ば絶望しかける。あのひとと出逢わなかった自分、なんて、想像も出来ない。そんな真っ暗な世界を歩いてゆける自信なぞなかった。少し困ったように目を眇めて、しょうがねぇな、と笑う、あのひと。
 あのひとを想うだけで、胸が甘く痺れる。あのひとに呼ばれるだけで、唇が緩む。それなのだから、もしもあのひとに触れてもらえたら、どんなにか私は幸福を覚えるだろう。目眩のような、乱暴で圧倒的な幸福のなかで、私は呼吸も出来ずにきっとあのひとを貪るだけのあさましい存在となるのだろう。
 ああ、女の、なんとあさましく、おぞましいことか。
 けれど、あのひとの熱が手に入るのならば、私は、そのあさましくおぞましい女へ変わり果てたとて構わない。醜く汚らわしい私であっても、あのひとならば絶対に受け入れてくれる。それなら、他のすべてに拒絶され、嫌われ、罵られ、見限られても、あのひとが傍にいて、私があのひとのものになれるのならば、それにまさる幸福など果たしてあり得るはずもない。

「………犬飼君、私、私ね、あなたのことが――」


      *    *    *     


 彼女にとってこの閉じられた世界はなんと生きにくいものだろうか、と思っていた。同情していた、と言っても差し障りないかもしれない。下手に現実を知ってその上で強かに生きる女とは違い、男とはおしなべてロマンチストで、甘い夢を捨てきれない生き物だ。ましてや、星月学園という箱庭の住人は、平均と比べて、遠く輝く手の届かない美しいものへの憧れだけで生きてゆけるような大馬鹿なロマンチストばかりなのだから、たった一人の『美しいもの』の靴を履かされて踊り続けている彼女は被害者でしかないのではない、と。
 いっそ汚れてしまえば、小さなガラス瓶の中で窮屈に笑いつづける必要はなくなるのだろう。大馬鹿なロマンチストたちが想いを寄せるのは傷一つないお姫様だ。砂糖菓子とホットミルクで育ったような甘い微笑みが、誰かのものであってはならない。誰もが王子様になれる可能性があり、そして誰も王子様でないから彼女はお姫様として愛される。言うなれば、皆が王子様になりたがっているだけなのだ。王子様になるための道具としてのお姫様を押しつけられる存在が、ただ一人、まさにお姫様みたいな顔で笑う少女しかいないから、彼女は皆の、欲望を吐き出される対象と成り果てている。
 俺、夜久が好きなんだ。そう言った友人の横顔を今でもよく覚えている。夕焼けが綺麗な、夏の匂いのする日。インターン出場を間近に控えた、部活からの帰り道だった。あいつ、無理しても笑うから、それが好きで、すげえ、辛い。そう言ってうつむいた彼の、夕陽に照らされた横顔は、王子様の王冠を欲しがる無知なガキのそれとは似ても似つかない、精悍で、真っ直ぐなものだった。
 だからその時思った。ああ、こいつなら、あの、小さなガラス瓶の中のお姫様を助け出す騎士になれるかもしれない。幾臆もの罵声を、降り注ぐ矢を、もろともせずに潜り抜け、その手で彼女の腕を掴んで、かけられた呪いを解いてやることが出来るだろう。
 その瞬間をこの目で見届けることが何よりも楽しみだった。もしも、それこそお伽噺のような、素晴らしい奇跡を見ることが出来たら、王子様にも騎士にも憧れることすら出来ないこの身を縛り付ける呪いが消え去るだろう、と。

「………なんで、俺なんだよ………!?」
「なんで、なんて………そんなの、犬飼君が、犬飼君だからだよ………私を見てくれるのは、犬飼君だけだから」
「お前を、見る……? 俺が?」
「犬飼君は、私のままでいいって、そう言ってくれたでしょう? 私、すごく嬉しかった……」
「何言ってんだよ………俺なんかより、俺なんかよりおまえのことを愛してるやつなんて、」
「違う! っ、違う………だって、だって、他の人は、私を、笑っている私だけを、見てる……苦しんでても笑う私だけが、……そういう、綺麗な私だけだよ、皆が見てるのは。だけど、だけど……犬飼君は、違う……。私、私ね、ずっと苦しかったの。私、本当は綺麗じゃないもの。綺麗なフリをしてるだけだから、ずっと、ずっと怖かった。嫌われるんじゃないかって。皆から見捨てられるんじゃないか、……って。でも、犬飼君が、犬飼君がそれでもそばにいてくれるなら、私はきっと笑ってられるよ……」

Desert Moon
(2012/02/11:無料配布)
(今後出す最低な犬月本のパイロット版)