数週間サボったツケがまわってきて、生徒会室のデスクには書類がうずたかく積まれ、前人未踏の未知の山を彷彿とさせていた。ここまでくると手をつけないわけにはいかず、しょうがないので昨日から果敢にもその山に挑み始めた。ためたのは会長の責任なんですからねとちっともねぎらってくれない青空の冷たさに耐えながらもようやく三合目まで登ったのだがそこから先はさらに険しかった。髪をかきむしりつつそれでも必死でしばらく取り組んだのだが、どうにもこうにも先へ続く道すら見えない。さすがの青空もみかねて、気分転換に散歩でもしてきたらどうですか、なんて、真夏に雪でも拝めそうなことをいってくれたので、お言葉に甘え、外の空気を少し吸ってくることにした。
 空調のばっちりきいた校舎を一歩出れば、大きな太陽の光にじっと肌を灼かれるような感覚。とは言ってもこの山の上につくられたこの学園に訪れる夏は、とても優しい。七月に外を散歩する気になるくらいなのだから、なんともすばらしいことだと思う。その分、冬の寒さは容赦ないが。けれど吐く息が真っ白く染まって溶けるような澄んだ夜空に輝く星はとてもうつくしいので、あの極寒もそれなりに気に入ってはいる。
 半袖の白い制服からのびる腕を時折柔らかく撫でる涼やかな風をすいこみ、空を見上げる。空色というラベルのついた絵の具で塗ったような、きれいな青空。
 ふと校庭に視線を落とせば、陸上部のジャージを着たの生徒たちが一団となってトラックを走っていた。
 この暑いなかよく頑張るな。努力する子を見守る父親のような微笑みを浮かべた不知火は、ふと、ある生徒のことを思い出した。そういえば最近生徒会室で見かけないけれど、たしか大会が近いとか言っていたような……。
 陸上部の予算をもうちょっと融通するように翼に言っておこうと心のなかにメモ書きしつつ、不知火は踵を返してグラウンドを後にした。目指すは学校の端に存在する、弓道場。
 坂道を下りながら少しずつ近づくにつれ、音が聞こえてきた。矢が的に当たる、あの音だ。やっぱり弓道部も練習に励んでいるようだ。
 生徒会室に顔を出さないと思ったら、こっちで頑張ってるのか。何事にも一生懸命で、けれどいつも笑顔の彼女を思い出して、自然と顔がほころび、足が速まる。
 道場の入り口が見えてきたところで、その戸がタイミングよくガラッと開き、きっちりと道着をまとった生徒が一人、出てきた。
「おーい」不知火がその人に大きく手を振る。「誉!」
「あれ、一樹」
 彼――金久保誉は不知火を見て、少し驚いたように首をかしげた。
「一樹がこっちに来るなんて珍しいね」
駆け寄ってきた不知火に金久保が言う。弓道場は学園の敷地の端にあり、その奥には職員寮と守衛所くらいしかないのでどこかへ行く途中に通りがかるというようなことがない。そのため弓道部員以外が弓道場へ来ることはほとんどない。
「あ、」不知火が口を開く前に、思いついたかのように金久保が声をあげた。「夜久さんに用事?」
 今にも道場の戸を開けて彼女を呼ばんとする金久保を慌てて止める。
「違う違う!」
「あれ、そうなの?」
「そう、違う。ただちょっと仕事の息抜きでぶらぶらしてるだけだ」
 不知火の言葉に、ああ、と金久保は微笑んだ。その微笑みは優しくて穏やかなものだったのだが、不知火は妙に居心地が悪かった。道場から出てきた金久保を見かけたときにはちょうど彼が出てきてくれてラッキーだと思ったのだが、今は金久保に出会ってしまった自分の間の悪さを呪いたい気持ちだった。
「じゃあ、こっそり、だ」
 いたずらを企てているように、金久保は唇に人差し指をあてて笑った。そして道場の扉にそっと手をかけ、数センチあけた。そして不知火を手招きする。
 バツが悪い、とはきっとこういうことを言うのだろう、と不知火は頭をかきながら考えた。ただ散歩をしているだけだと言ったのに、やっぱりすべて見透かされている。きっといつまでたっても金久保にはかなわないのだろうと半ば諦めながら、金久保が意図する通り、身体をかがめて戸の隙間から道場の中をのぞく。
 長い髪を後ろで結った少女の背中が、見えた。金久保が言うところの『夜久さん』、弓道部員であり生徒会で書記を務めている、夜久月子だ。
 後ろ姿だけで彼女だとわかるのは、彼女が星月学園唯一の女子生徒であるというだけではなかった。もしもたくさんの中に紛れていたとしても、不知火は彼女を一目で見つけられる自信があった。それほど、彼女の後ろ姿は、まさに彼女らしかった。
「彼女らしい、射形だよね」
弓道に関しては素人である不知火でも、金久保が言うことがよくわかる。何にも一生懸命な彼女らしい、ぴんと背筋を伸ばしたその背中。
「……そうだな」
 クーラーのきいた部屋で書類の山に挑んでいたあのとき、不知火は、今、必死でがんばっているのは自分だけだと思っていた。けれど、この太陽の下、不知火と同じ、もしくはそれ以上に頑張っている人が、いる。
「俺、帰るわ」
 一つ息を吐いて、真っ直ぐに立ち直す不知火。
「いい気分転換になったみたいだね。じゃ、仕事頑張って」
金久保はそう言って、また微笑んだ。ああやっぱり彼は笑顔ですべてを見透かしている。しかしそれがちっとも悔しくない。いい奴と出会えたもんだとさえ思えてくる。
「ああ、邪魔したな!」
不知火はさっと手をあげ、すぐに金久保に背を向けた。木々を通って吹いてくる心地よい風の中、不知火は坂道をかけのぼるように走り出す。どんな山でさえ、今なら頂上まで走ってゆける気がした。



(in Winter,2009)