それからというものの、私と帽子屋さんの共同生活が始まりました。広い屋敷の一部屋を与えられ、私は大抵をそこで、帽子屋さんの部屋にある本をお借りして、過ごしています。 屋敷と庭のなかであれば好きに歩き回ってくれて構わない、ただし庭からは決して外へと出ないでくれ。帽子屋さんは私にそうとだけおっしゃいました。言いつけを破る理由も無いので、私はその通りにしています。時折庭を散歩することもします。しかし、この世界の空はどうにもずっと曇り空で、お日様が顔を覗かせてもくれないので、すっかり気分が滅入ってしまいます。だから、大抵は部屋の中で過ごします。 お腹が空いたら、自分で台所に行って、仕度をします。帽子屋さんはいつ起きているのかいつ寝ているのかがよくわからない方でしたが、もしも私が食事をとるときに起きていらっしゃった場合は、ご一緒に食卓を囲ませていただいております。 この屋敷は本当に広大なのに、どうやら、屋敷を管理したり、帽子屋さんの身の回りの世話をなさる方は誰1人としていらっしゃらないようでした。それは私がこの屋敷にしばらく住んでみた感想であり、また、帽子屋さんご本人の口から聞いたことでもあります。誰もいない、私1人だ。そういったときの帽子屋さんの表情が焼きついて離れません。あの時、彼は、確かに、遠い何かを見ていました。わかってしまいました、昔、この屋敷には他の方が住んでいらっしゃったということが。しかしそれは口にするにはあまりにも重たすぎることでしたので、私は何も言いませんでした。 「お前はこの屋敷にいて、退屈じゃないのか?」 むっつりと押し黙って私のつくったパスタをフォークに絡めていた帽子屋さんが言いました。 私は首をひねって、応えます。 「いいえ?本がありますし、料理もできますし、なにより貴方との会話もなかなか面白いものですので」 「私との会話?」 それはどうやら帽子屋さんにとって予想外すぎる話だったようで、彼が途中までうまく巻いていたパスタがほどけて皿に零れました。無作法だと嗜める気にはなりませんでした。帽子屋さんはナプキンで口をぬぐわれました。彼が黙っているので、私が先に口を開きました。 「ええ。ですから、話をしたいと思っていますよ。……例えば、普段、何をしていらっしゃるのか、とか」 「――奇妙な女だ。この世界のことは尋ねたいと思わないのか?」 「尋ねたくないわけではないのですが、………どうしてでしょう、特にもう、気にならないのです」 どうしてでしょう、此処は私にとって異世界であるのはわかるのです。だけれど、それがもう、気にならないのです。あの、泣き出しそうな帽子屋さんの表情を見てからというものの、心は穏やかに、この場所に居ることを許容しているのです。少しでも触れる場所を間違えたら、全身が涙になって溶け出してしまうのではないかと恐れるくらいの、果敢無さがそこにはありました。丁度、この世界の空に垂れ込める、今すぐに雨が降り出しそうな暗い雲にそれは似ていたのかもしれません。 「世界のことを尋ねるよりも、たとえば、普段、貴方が何をされているのかのほうが気になります」 「私が普段、何をしているか?」 まるで私が『どうして私は人間なのかしら』と尋ねたかのような反応を帽子屋さんが返したので、むしろ私の方がおどろいてしまいました。 帽子屋さんは普段、部屋にずっとこもっていらっしゃいます。ずっと、ずっと。私と帽子屋さんはそういった関係ではないので、初めて帽子屋さんにお会いしたとき以来、帽子屋さんの部屋には足を踏み入れておりません。食事を作るときには、お部屋の扉をノックして、食事はいかがですかとうかがいますが、それだけです。ですから、帽子屋さんはずっと自室にこもっておいでなのです。部屋で何をなさっているのか、気になって当然だと思いませんか? 「お話したくないのならばそれはそれで構わないのですが、……気になりまして」 帽子屋さんはフォークを置いて、食事中でさえ被ったままの真っ黒い帽子を被りなおして、それからまっすぐに私を見ました。そうやって無言で見つめるのは、彼の癖なのでしょうか。初めて会ったときも、同じことをなされたように記憶にあります。 「………昔は、仕事をしていた。しかし、もう、仕事は、――ないんだ」 「仕事が、ない?」 帽子屋さんはかすかに目を伏せるかのように頷かれました。 「私には役があり、だからこそ私は生きている。その役に割り当てられた仕事があるんだ、本来ならば」 彼の口から出た、『役』という言葉。なんでもない言葉のようなのに、なぜか私をキリキリと締め付けました。その言葉が酷く強調されて聞こえたのです。それは途方もなく大きいものであるような心持ちがしました。そんな私の内心のほころびに気づかず、帽子屋さんは話し続けます。 「だが――もう、その仕事は出来ない。この世界の歪みから派生した現象の1つだ」 「歪み………」 「そう、歪みだ――その歪みを、………いや、これ以上はやめておこう」 何かを言いかけて、帽子屋さんは、口を閉ざしました。ふるふると首を振って、それから乱暴にフォークを掴み、食事を再会されました。何を言おうとしたのか、本当は訊きたかったのですが、それはとても許される雰囲気ではありませんでしたので、私も再びパスタと向き合うことにいたしました。フォークでパスタをからめとりながら、歪みだとか役だとか、そういった言葉が頭の中でぐつぐつと茹っていくのがわかりました。 |