歪み、歪み。その単語だけが酷く私の耳に残っていたものですから、なんだか活字を目で追う気分にもなれず、あらかた食器を片付けた後に、私は庭を散歩することにいたしました。過去の栄華を思わせる庭はしかし手入れされていないせいで朽ち果てていました。咲いている花はなく、ただ寂しい色をした草が並んでいるだけなのです。見捨てられた、という表現がこれだけ似合う庭も少ないでしょう。
ぼんやりと私は草を踏みしめて歩いていました。どんよりした雲は私の気分を落ち込ませていきます。雨が降っていてもおかしくないような雲模様だと思いました。
どれくらい歩いたのでしょうか。気がついて振り返ってみると、随分とお屋敷が小さく見えました。
目の前の生垣は、今まで歩いてきた庭とは明らかに雰囲気が違っていました。もっと厳かなものがそこにはあるように思えたのです。少しだけ、その生垣に囲まれた場所に足を踏み入れることがためらわれましたが、その一方で、私は呼ばれているような気がしました。誰かに、というよりは、その生垣に囲まれた場所にある何かに。
ゆっくりと息を吸って、吐いて、それから私はその中へとはいっていきました。
左右を見渡して奥へと進んで行く私の口から思わずため息が漏れました。今までの庭のあの寂しさとは対照的だったのです。その、紅い紅い、薔薇の、まさに生きているという色といったら!


「――誰じゃ!」


鋭く高い叫ぶような声で、私はびくりと身体を震わせました。すぐさま声のしたほうを見ます。
そこにいたのは、女性でした。気が強そうな瞳を縁取る睫毛は長くそして真っ黒。薔薇よりも鮮やかな赤に濡れた唇を綺麗だと思いました。まとっている服は鈍い赤色をしていて、そこから覗くのは白い肌。甘い色をした髪はふわりと巻かれていて、それが風に揺れていました。
誰なのだろう、と思いました。帽子屋さんは私に、この屋敷には帽子屋さん以外は住んでいないと言いました。事実、しばらく過ごしてみて、私は帽子屋さん以外の方にお会いしておりません。屋敷の中も随分と見て廻りましたが、誰か他の方がいらっしゃる気配すら感じ取ることができませんでした。ですから、私は帽子屋さんの言葉を信じていたのです。


「あの、私、帽子屋さんの許可を得て、この屋敷に滞在しているのですが」
「――帽子屋!?」


彼女をなだめようとした私の言葉はむしろ彼女の感情を逆なでしたようでした。彼女はつかつかと私の方へ寄って来ました。


「お前は帽子屋と会ったというのか?」
「え、あ、………はい。……え、だって、このお屋敷にいらっしゃる、帽子屋さんですよね?」


近くまで彼女はやってきました。この距離で見ると改めて、途方も無い美人だと思いました。薔薇の匂いがします。
私の顔をみながら、彼女は眉をひそめて、疑うように物思いにふけっていらっしゃるようでした。


「……帽子屋は、何と?」
「何、とおっしゃいますと?」


彼女は苛立ちを隠そうともせずに言います。


「お前にその帽子屋は何を言ったのか言えといっとるんだ!」
「え、……ええと、『この世界の住人でない者を必要としている』から、私に『この世界にいろ』と」


確かに彼は私にそう言いました。私はきっとその言葉の意味を本当に理解しているわけではないのです。ないのですが、その言葉は表面だけでも妙にずっしりと重く、私にしっかりと焼きついているのでした。
目の前の女性は、苦々しげに、息を吐きました。私は恐る恐る尋ねます。


「……あの、………貴女は?」
「わらわのことを知らぬと?――ああ、そうか、お前は余所者なのか」
「余所者……確かに、この世界ではない場所から来たのですけれど」


言ってから、こんな馬鹿げたことを口にするなんて、と自分で自分を罵りたくなりました。初対面の方に言うようなことではありません。どう考えても頭がおかしいと思われるに決まっています。
ところが彼女は私の言葉のどこにもおかしなところを見出さなかったようで、表情すらかわることはありませんでした。それで、私はやっぱり、私が違う世界から来たのだということを、信じていていいのだと思いました。この世界が、私の世界と違うものであることはなぜかすんなりと私の中で真実になっていました。それすら不思議だとも思えませんでした。やっぱりこの世界は、私の世界とは違う世界なのだ、と証明出来たような気分になりました。
私は自分の名前を手短に名乗りました。それから再び彼女の名前を尋ねます。


「――わらわは、ビバルディという」


ビバルディ。なんだかとても品格のある名前だと感じました。それは彼女の口からでた名前だからでしょうか。
なぜなら、ビバルディが口にした私の名前は、自分の名前とは思えないような響きを持っていたのです。


「1つ、警告しておこう。――帽子屋のことは、信じるものではないよ?」













(2007/07/28)