エンデニールによって放たれた精霊ウィンダリエに攻撃され、気を失ったセヴェリエは深い意識の底に沈んだ。そして、永遠ともとれる無の時間を過ごし、ようやく意識の岸に辿りついた。記憶は朧気だったが、光もなく、あるいは闇でもなく、匂いも味もない世界だったことは、片隅に残っていた。
抜け出られた、とはっきりわかったのは、五感にかすかに、自分以外の生命の息吹を感じたからだった。
閉じていた瞼を静かに開ける。
柔らかな日射しが突き刺さった。
起き上がるとしばらく目が眩んだが、慣れてくると、部屋の異変に気が付いた。
そこは、海市館の一室。館の主エンデニール・リンクの書斎。…そのはずだった。しかし、室内の調度品や窓、扉のかたちや配置。すべてが見覚えのないものに変わっていた。
壁は、旧い土壁だった。石を組んだ暖炉や家具の装飾も、素朴なものだった。
大きな窓は開け放たれ、外には矢車草の咲きほこる庭が見えた。その向こうは田園が青空の下、延々と続いていた。
小鳥のさえずりが聞こえ、吹いてくる風が、甘い花の香りを運んでくる。
(ここは…?)
身も心も、おだやかに癒されていく。
夢の中にしては、感じられるものすべてが、生々しい。
ところがその中で、セヴェリエが座っている長椅子だけは、蔓草の細工が施された華美な長椅子────エンデニールの書斎の物であった。
セヴェリエはそこで、この状況の異常さに気がついた。気配がして、窓のほうを見る。
するといつのまにかそこには、人が居た。窓辺に腰掛けたその人は、組んだ膝の上に、リュートを抱えていた。厚手の緑の上着と、緑のフェルトの帽子、瑪瑙と緑松石の腰紐といういでたちは、王国が安泰だった頃、あちこちで見掛けられた吟遊詩人に似ていた。黒く豊かな髪は、ひとふさに編まれ、肩口から胸元へ流れている。詩人は、セヴェリエに気が付かない様子で、憂う様な目を窓の外に向けていた。右手の指はリュートの弦に触れるでもなく、膝の上に置いたままである。
そして、ふう、と溜息をつく。
───新しい歌の思索に耽っているのだ。
セヴェリエはそう思った。そこで、詩人は初めてセヴェリエのほうへ顔を向けた。視線があうと、にっこりと微笑む。気高さと深い慈愛がともに窺える。セヴェリエは、つい陶然となった。
『我が国へようこそ。セヴェリエ』
ポロン、とリュートを悪戯にはじきながら、詩人は言った。
遠くに居るのに、まるで耳元で囁かれているかのような蠱惑の声。
『我が国?…ここは、どこなのです。あなたは』
言いながら、セヴェリエは自分の心臓が高鳴っていくのを感じた。しかし、セヴェリエの問いに対する答えは、たちまちに彼を地の底へ叩き付ける。
『精霊界──────精霊たちが住む世界。人間は、肉体を捨てねば来ることはできぬ。それゆえ、黄泉あるいは“地獄”とも呼ばれている。…余が支配する王国だ』
一瞬、詩人の顔の上にあの晩の、炎の悪魔の顔が重なる。
『──────おまえは!』
悪魔。
罵ろうとしたが、セヴェリエの口は不思議な力で閉じられてしまった。
悪魔はリュートをとりあげると、弦を爪弾き始めた。
風に乗って、静かな旋律が流れ出す。
セヴェリエは耳を塞いだ。ところが悪魔の調は塞いだ手の内にまで侵入してきた。眼は、悪魔の姿を閉じこめたまま凍り付く。四肢は石のように無感覚で、重く感じられた。────だんだん、気が遠くなっていく。
(駄目だ。負けてはいけない)
セヴェリエは抵抗した。
『まさかお前のほうから、我が国へ出向いてくるとはな。手間が省けたというものだ。ウィンダリエに褒美をとらせねばなるまい』
ちらりと、窓の外へ目をやる。
庭に、水色の衣装をまとった少女達が、ひれ伏していた。
『おまえは…一体』
『精霊王アルスと、エルフ達は呼ぶ。あまねく自然の力と精霊を統べ、生きとし生けるものすべての守り手』
『黙れ!人を誑かし、堕落させる外道───』
強烈な眩暈に襲われながら、セヴェリエは叫ぶ。
旋律は先程とは変わり、静かではあったがどことなく妖しい音色を含みはじめた。
それを感じると、セヴェリエの胸はふたたび早鐘を打つようになる。
『──────悲しいものだ。むかしは、人と精霊は共に生きていた。今では精霊と心を交わすのはエルフたちだけだ。精霊達がいくら努めようと、その心を知らぬ人間は世界を破壊していく。お前のような純粋な心を、悪しき人間は破壊にしか導かない』
アルスは独り言のように呟くと、それきり口を開くことはなく、リュートを奏で続けた。
くらい地の底へ誘われるような音楽だった。
低音が体をとらえ、踊るように掻き鳴らされる高音が、心を揺さぶった。
不思議な調に、セヴェリエは刺激を感じた。
眩暈はもう感じなかった。むしろ、頭の中はどんどん冴えていった。