Nebel ―霧―

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  1-4  


 ジンが再び目を開くと、真っ先に飛び込んできたのは無数の星々を圧巻するかのように浮かぶ月だった。
 月を見ると心の奥底で叫び声が轟く。苦しみからなのか、恐怖からなのかは判らない、声帯を絞って出てくる金切り声である。
「……月が、落ちてくる……」
 理論的に考えれば、月がこちら側に墜落してくる事などないはずなのに、ジンは幼少期からそういう先入観が抜けきれない。彼の兄が「落ちてくる訳ねーだろ、バーカ」と笑いながら頭を撫でてくれる。それが妙にもどかしく、そして嬉しかった。
「あの時の兄さんは、僕を見ていてくれた……」
 ではいつから避けられるようになったのだろうか?
「…………」
 少しばかり考えてみたのだが、全く記憶に残っていなかった。いや、忘れているだけなのかもしれない。
 ――最初から【そういう記憶がなかった】としたら……?
 すると再度激しい頭痛がジンを襲う。この波動の共鳴はユキアネサからだ。
 ジンは脂汗の浮かぶ額を押さえつつ、しゃがんでいた場所から腰を上げて一点を見つめる。その先にあるのはテンジョウと無数のイカルガ民が籠城していると言われている摩訶不思議な【城】だ。
「悪は……滅びるべき存在だ……。ゆくぞ、ユキアネサ。奴らを、抹殺しに行く」
 そうジンが口にすると、事象兵器は低く嘲笑するように嗤った。


 明朝、統制機構の師団数小隊が敵の城門近くまで近付くと、ありとあらゆる場所から飛び道具が襲ってきた。
 昔ながらの苦無や手裏剣もあれば、使い勝手の悪そうな銃で牽制してくる。
 どこから来るのか慎重に見定めている場合ではなく、生き延びるために師団が散り散りになる他選択肢はなかった。ジンもまた、敵の攻撃を事象兵器で受け流しながら安全そうな場所へと駆け込み、様子を窺うため茂みの中へと身を隠した。
 どうやら敵側は城の一部を改造した『穴』から銃撃を行っているようだ。あの場所を制すれば容易く城内の一部は制圧出来るであろう。苦無や手裏剣など、所詮は時代遅れの武器だ。所有者の息の根を絶やせば攻撃は止む。
「苦無や手裏剣を用いている奴らは恐らく民間から持ってきた人物だろう」
 一瞬、ジンの思考が混濁する。――その先にあるものは正義なのか、と。
 頭《かぶり》を振り、脳内に残留していた善意を全て打ち消し、鞘から氷剣を抜きだした。
「それでも、この戦いが終わらない限り……平和は訪れない……ッ!!」
 猪突猛進とはこの事を指すのだろう。迫り来るイカルガ戦士を愛刀で薙ぎ払い、確実に仕留めていく。綺麗な頬には返り血、細い体躯にも赤い返り血を浴びせながら、ジンは城門へと進んでいく。
 ジンに斬られたものたちの末路は、氷漬けにされた挙げ句、身元が分からないくらい粉砕されていた事だった。その一部始終を眺めていた師団の衛士はブルリと身震いをする。氷剣から発せられる冷気ではなく、ジンの異常な行動に対して。
「な、なんだ? あの新人は……。本当に士官学校から出たばかりの人間なのか?」
 思わず一人の衛士が言葉を漏らした。
 無理もなかった。ジンの鮮やかな剣舞に皆、視線を集める。比較的温暖な地域のはずなのだが、肌寒い空気が周囲をまとう。
 ジンはそんな周囲の目など気にすることもなく、淡々とイカルガの兵士を一人、また一人と斬り捨てていく。
 脳裏にユキアネサの悦びの声が轟くが、些細な事などどうでもよかった。
(体が……熱い……。この感覚は何だ? 僕は……楽しんでいるのか?)
 変わった形をした柄から流れ込む冷気。そこに潜む危険な情熱。反比例する感覚に、次第にジンの脳神経は麻痺をしていく。
 ドサリと、斬り捨てた死体が地面へと倒れ込むのを見、ジンは初めて戦場での震えを覚えた。――しかしその震えは【恐怖】の震えではなく、【高揚】の震えに近い。その間にも彼の口元には笑みが浮かんでいる。まるでそれは三日月のように、細く細く、しかし存在を主張するかのように……。
(これが、悪を斬り裂いた感触なのか?)
『そうだ、ジン=キサラギ。さすがキサラギ家が選んだだけはある男だ。見事』
「……っ!」
 再び頭に鈍痛が走る。
 不思議な感覚……そう、これは幼い時に体験したものと同じ感覚だ。
(ここには……、――さんは、いない……。むしろこの場所に…………)
 その先の言葉を紡ごうとした時、ユキアネサの声が全身に響き渡る。普段よりも更に強い冷気を放ちながら。その姿を見て、ジンは双眸を見開いた。
『ジン=キサラギ! この場には悪しかいないッ! 統制機構や十二宗家に歯向かう者、帝に反逆するものは全て敵だ!!』
「て……き、」
 先程まで紡ごうとしていた言葉が砕け散ってゆく。まるでユキアネサの零刀《フロイトバイト》にかかり、粉々に砕けたかのようだ。もう思い出せない。
 ここは戦場。腕を下ろせば殺される。生き延びる為には常に腕を上げ続けなければならない。返り血を浴び、本拠地を叩き、功績を上げなければならないのだ。
「そうだな……ユキアネサ……。僕たちは立ち止まってはいけないんだ、ひたすらに悪を倒していかないと」
 ――何かが引っかかる。
 けれどそれを【思い出す】暇さえユキアネサは与えてくれなかった。


   * * *


「何たる卑劣な輩……ッ! あの者は人間《ひと》の心というものを持ち合わせておらぬのかっ!?」
 赤くそびえ立つ城の天守閣にて、シシガミ=バングは怒りに燃え奥歯を噛み締めた。
 彼の傍には当主であるテンジョウが目を瞑り静かに座って時を待っていた。バングとは真逆の温度で、下から響き渡る絶叫を聞いている。
「……バングよ」
 無言を貫いてきたテンジョウが突如口を開く。その声を聞いたバングは慌てて当主の方へ振り向いてしゃがみ、頭を下げた。
「はっ! テンジョウ殿!」
「わしはもうすぐ死ぬだろう」
 思ってもいなかった台詞に目を見開き、テンジョウを見つめる。冗談を話しているような素振りではない。眉間に険しく皺を寄せこちらを見つめていた。思わず息を呑み、次に発せられる言葉を待った。
「テンジョウ殿、なにゆえそのような事を仰るのです! 我々イカルガの民は……!」
「よく聞くのだ。バングよ」
 テンジョウの声がいつも以上に響く。何かを予感させる、そんな抑揚を持っていた。
「これをお主に預ける。絶対にその身から離すではないぞ。その武器はイカルガの、希望……いや。人類の希望かも知れぬ」
 手渡されたのはバングの背に収まる程大きな釘だ。普段はテンジョウの傍らに置いていた代物。ただのコレクションかと思っていたのだが、どうやら違うようだった。
「奴らの狙いはわしの命とこの事象兵器だ」
「事象、兵器……?」
「まだ眠りから覚めておらぬようだが、いずれは必ず……。バングよ、修行を重ねてそれを使いこなせるようになれ」
「眠っている? 使いこなす?」
 テンジョウの話している内容が、異国語に聞こえる。そんなバングをよそに、淡々と話す主。悲鳴と斬り裂く音が天守閣に近くなってきた。おそらくジン=キサラギが登り詰めてきたのだろう。バングは臨戦態勢をとり、テンジョウを守るようにして仁王立ちになる。
「ついに統制機構の奴が来たでござるか」
「バング! その事象兵器を背負っておけ!」
「はっ!」
 テンジョウから渡された巨大な釘をしっかり背中に結びつけ、再び襖の方へと視線を送った。
 イカルガの戦士二人の目線が一点に集中する。――そして、その時がきた。


「待たせたな……、イカルガの当主……」
「っ!?」
 眼前に現れた人物を見て、バングとテンジョウは驚きを隠せず声を上げる。
 陣羽織風の制服を着用した若い男が一人、全身血まみれで佇んでいた。その血液は己のものよりも他人のものの割合が多いだろう。
 そして彼からは恐ろしい程の殺意と憎悪、その姿に見合う冷気をまとっていた。
「事象兵器《アークエネミー》の所有者だと!?」
 後ろにいるテンジョウが声を荒げる。
「しかもあやつは……ッ」
 次の言葉を発しようとした時、美丈夫からとは思えないくらい低い声が空間にこだました。
「テンジョウ……。テンジョウは、どこだ……?」
 ゆったりとした口調だったが、明らかな敵意と怒気をはらんだ声色でジンが呟く。
「いかにも、わしがイカルガ連邦当主・テンジョウである」
 堂々とした声でテンジョウが告げると、ジンは鞘に入ったユキアネサの先端をテンジョウとバングに突きさしながら叫んだ。
「なぜ貴様らは【窯】を覗こうとする!? なぜあんなものを造り続けたんだ!!」
「【窯】を、覗く……?」
 言葉に違和感を感じたバングは、ジンの台詞の一部を反芻する。するとジンは更に絶叫に近い声で話す。
「そうだ! あれは統制機構だけが保持していいもの……。だが第七機関はそれらを破り、境界を干渉させる為だけの人形を造り、そいつらをかくまってきた貴様ら……イカルガ住民は悪だ!!」
 思い出すだけで吐き気がする。破壊され尽くされた、妹の面影を残す次元干渉素体の山。
 妹だけではない。士官学校時代の下級生にも似ている。ああ、イライラする。どうしてここまで頭に血が昇るのだろうか? ふと浮かんだ疑問を誰かがかき消した。どうでもいいことだと囁かれるようだった。
 ジンはゆっくりと柄に手を当て、抜刀術と似たような構えを見せる。
「統制機構でもない奴らに、【窯】の恐怖を知らない奴らに……、【境界】を覗かせる訳にはいかないッ!!」
「違う! その言い分は統制機構のでたらめでござる!! 拙者らは――!」
 バングがこの戦闘を避けようと声を荒げるが、ジンの耳には入らなかった。
「うるさい!! ゆくぞ、ユキアネサ――!!」
 零刀《フロイトバイト》がテンジョウとバングに向けて発動される。氷の塊を避けるようにして二人は攻撃をかわす。先程まで二人が立っていた場所には氷柱がそびえ立っていた。
「ええい、この分からず屋の話を聞かぬ奴めッ!! 志半ばで散っていった同志の分も含めて、拙者がお主を成敗してくれるッ!!」
 素早い動きを駆使して、バングはジンの間合いまで詰めていき蹴り上げる。攻撃はバックステップでかわされ、一歩及ばず当たり損ねてしまう。
 ここからジンとバングの戦いが始まり、運命の歯車が動き出そうとしていた。


【続く(2012/12/15)】
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