初めての想い
俺と兄と婚約者との秘め事
五.
――初めてだった。
弟である司馬昭の部屋の前で立ち尽くしている司馬師はそう直感した。
胸の奥の奥で渦巻く黒くて暗い、醜い塊が形をなしていく。その証拠に彼の右手は爪が皮膚に食い込み、赤い鮮血を流していた。
自分の前だけ元姫の甘美な声を、裸体を目に焼き付けられると思っていた。――だが実際は違っていた。
「は、はは……。私はとんでもない思い上がりをしていたのだな……」
思わず乾いた笑いが込み上げる。
師と元姫は相思相愛だが、表向きでは昭と元姫は親が決めた婚約者同士なのだ。そして自分は昭の兄であり、元姫はその妻になるべき人なのだ。
戸の向こうから聞こえる嬌声、寝台の軋み、そして荒い息づかい。全てが虚しく、その現実が師の心を鋭利な刃物で突き刺していく。
拳をほどかぬまま師は室《へや》の前から立ち去る。
室に戻るなり、師は手当たり次第に壁を殴りつけた。鈍い衝撃音が室内にこだまする。
外から漏れ出す淡い光が彼の寝台を照らす。つい数日前までここで元姫と体を重ね合わせていた事を思い出し、奥歯を噛んだ。
「やはりこれは、許されぬ恋慕だったのか……?」
返答のない空間で、ポツリと師は言葉を漏らした。
俯く師の背後から暗闇が迫ってくる。
そして嗤いながら誘ってくるのだ、あの二人を壊してしまえばいいのだと脳に直接話しかけてきた。
彼を覆うように暗闇は襲いかかってくる。
力のなくなった全てを食い尽くすかの如く、黒く黒く、包み込んで離さない。
しかしかろうじてだが、師の理性が憎悪にまみれた暗闇を拒み続けた。
――昭は私の弟だ。そして元姫は昭の許嫁だ。
残された理性が咆哮する。対し、憎悪はそれを否定する。
――確かに昭は弟であり、元姫は許嫁だ。……だが、それでお前はいいのか?
額に汗を浮かべながら、苦悩で閉じていた双眸を大きく開く。そこには驚きの色が浮かび上がっていた。
「私は……私は……っ!」
確かにこの耳で聞いたはずだ、元姫が昭の行為に溺れゆく声を。よがり、淫靡な先を求める音を。
そこで師は何を思っただろうか。……紛れもない、嫉妬の心だった。
奪い取ったものを奪われ、惨めな気持ちにされる。このような心境は初めて味わった。いや、気にしたことがなかったのかも知れない。
今は違う。実の弟である昭に対し、強い敵対心を持ってしまい、憎悪という感情論が先走っていた。
「ここで諦めるわけには……いかない」
そう、元姫と一つになったあの夜から覚悟を決めていたはずだ。どのような逆境がこようと、彼女を愛するという気持ちだけは譲らないという事を。元姫も共に付いていきたいと話してくれた。
光に怖がることはない。このまま闇へ堕ちてしまえばいいのだから。
元姫が闇を怖がる事があるのなら、安心させるまで調教すればよい。恐怖を取り除けばよいのだ。
そう結論づけた時、師の口元が三日月のように弧を描き、背筋が凍る程の冷たい笑みを浮かべた。
「そうだ。私も元姫も闇へ向かえばよいだけなのだ……。誰にも邪魔のされる事のない、二人だけの楽園を作ればよい」
笑いが込み上げ、自然と口元から声が漏れる。止まることの知らない笑い声は、いつしか部屋中に轟くようにけたたましく共鳴する。
そこには先程まで苦悩していた司馬師の姿はなく、暗闇に堕ち狂気にかられた男が笑っていた。
「フハハハハハハハ!! もう、私を止める事など赦されない。いや、許さぬ……!」
体を交わるという行為が終わり、元姫は眠りの縁から起こされる。
いつの間に寝ていたのだろう? 隣では昭も衣も何も着ていない状態で寝ていたが、そのたくましい腕はしっかりと元姫の体を引き寄せていた。
「子上殿……」
無邪気に横たわる昭を眺め、元姫は心を痛める。その原因は彼の兄である師の存在だ。
「罪深い事をしてしまっているわね……」
昭の胸板に顔を寄せ、思いに耽った。
確かに昭は放っておけない存在だ。それは親が決めた者同士という訳ではなく、自然と惹かれるものを彼が持っているからだと思う。だがそれは兄である師にも同じ事が言えるのだ。この二人には何か因縁があるのではないかとすら感じてしまい、失笑をしてしまう。
師も昭も、元姫を抱くときは非常に優しい。普段部下に見せる厳しさとは違い、女性を労り、喜ばせようとする姿はおそらく元姫にしか判らない姿だ。
愛しているという言葉が蜜のように広がり、元姫の正気を奪わされる。……だからと言っていつまでもこの関係が続くとは到底思えない。だが、司馬師も司馬昭も大事な存在であり、心の支えになりつつあった。
その支柱を失ってしまったら、私はどうなるのだろう? ふと思うとその思考を排除しようとする風が巻き起こり、元姫は元の定位置へ引き戻されてしまうのだ。甘く、官能的な世界へと。
「ごめんなさい、子上殿……」
眠っている司馬昭の唇に、軽く触れる程の口づけを交わすと、元姫は再び目を閉じた。
翌朝の朝議。
元姫は司馬昭をたたき起こし、今日こそは定時に間に合うように広間へと向かう途中、司馬師と出会った。
「子元殿、おはようございます」
廊下の端に行き、深々と頭を下げて挨拶を交わす。遅れて昭も兄へ頭を下げた。
「兄上、おはようございます」
「珍しいな。昭がこのような時間に起きているとは」
司馬師は目の前の光景に吃驚するように、僅かに双眸を見開き言葉にする。
それもそのはずだ。毎回朝議には遅刻して来る昭が、定時を前にこの場にいるのだから。
「は、ははは……。元姫に今日こそは定時に行けって言われまして……」
「当然のことでしょう? あなたは司馬一族の次男。子元殿の素晴らしい姿を目に焼き付けておくべき存在よ」
現在は司馬懿が先頭に立っており、その補佐を長兄である司馬師が行っている。
あとどのくらい司馬懿が先頭にいられるかは不明だ。そして跡を継ぐのは司馬師、そして司馬昭だろう。だが昭にはその心が師に比べると薄い気がしてならないのだ。以前「自分にはそのような器はない」と昭は話していた事があったが、決してそのような事はないと元姫は直感で思った。もしかするとこの男は懿や師をも超える存在になるかも知れない、そう漠然とよぎったのだ。
「元姫。私を買いかぶりすぎだ。父上と比べれば、私などまだまだよ」
昨晩から様子が変だ。
昭と元姫が雑談している姿が飛び込むたびに、心が乱れていき、黒へと支配されていく。
これ以上二人を一緒にさせたくはない。その心事が溢れ出した時、彼の歯車が一つ狂い始めた。
「昭」
「は、はい! 何でしょう、兄上」
「今日はお前が父上の補佐をしてみろ」
「え、ええっ!?」
あまりにも突然の発言に、昭は思わず声を大にして驚く。兄の顔を覗くと、嘘を吐いているようには思えなかった。
「折角定時に参加出来るのだ。お前も司馬一族の人間なのだ、やってみるといい」
「ですが兄上! 俺にはそんな大層な事出来っこないですって!」
司馬昭の言葉を聞き、師はわずかに眉をつり上げる。
「……お前は何でも“出来ない”で済ませるクセがある。そこで終わるような人間ではないのにもかかわらず、だ」
「兄上……」
「やってみろ、昭。私は後ろで見ていよう。何かあれば助太刀くらいは出来る」
当初は難色を示していた昭だったが、師の説得もあり、今朝の朝議は父親の補佐役として出席することになった。
盛大に溜め息をつき、師と元姫を横目で見やったあと、広間へと足を向けて歩いて行く。
「元姫」
司馬師が名前を呼んだのと同時に、視界が一気に狭まった。数秒のちに口づけされているのだと気付いた時には、師は貪るようにして元姫の唇を襲っていたのだった。呼吸すら許されないのではというほど、激しく情熱のある接吻だった。
「……っふう!」
その行為に応えるように、元姫も貪婪《どんらん》に師の唇に吸い付いた。
誰かに見られるかも知れないという思考など、今この二人には持ち合わせていない。ただただ『男と女の』出会いを味わっているに相違ない状況だった。
やがて口吸いが終わると、師と元姫は息を乱して見つめ合う。
「子元殿……」
「……広間へ行こう」
あまり遅れては昭に怪しまれてしまう。そう付け足した。
「そうですね。子元殿が遅れれば、司馬懿殿もご心配されます」
「だな」
そう二人は笑った。
元姫は優しい笑みを。
師は影を潜ませた妖しい笑みを。
このあと起こる事を承知していたのは、司馬師のみだった。
【続く(12/10/20)】
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