恋の病(切原と宍戸)


 宍戸の部屋に明かりがついていないことを確かめると、切原は家の前で帰りを待つことにした。
 時折近所の住人が通りがかっては不審げな目を向けられ、居心地は悪かったが我慢するほかない。
 じっとしていると嫌な考えばかりが浮かんできてしまい、違うことを考えようと試みて、切原は部活をさぼってしまったことを思い出す。
 先日は仁王達がうまいこと真田を言いくるめてくれたようだが、今日はそうもいかないだろう。
 真田の怒りを買うことは恐ろしかったが、それも宍戸を失うかも知れない恐怖とは較べものにならなかった。
 こういう状況を、跡部はテニスをおろそかにしていると詰ったのかも知れない。
 切原にしてみれば、テニスと宍戸とのつきあい、どちらがより大切というわけではなく、どちらも同じくらい大切なものなのだ。
 宍戸が、切原と同じ考えでいるかどうかはわからないが。


 足音に、切原は自分が眠ってしまっていたことに気づいた。
 慌てて立ち上がってあたりを見渡すと、宍戸が歩いてくるところだった。宍戸からは、街灯のあたらない場所にいる切原が見えないようだ。
 宍戸の覚束ない足取りに、切原は手を貸そうと飛び出そうとしたが、その前に宍戸を支える者があった。
「大丈夫っすか、宍戸さん」
 宍戸の後ろからやってきた長身の男が、宍戸の腕を己の肩に回す。おそらく、あれが跡部の言っていた鳳という後輩だろう。
「ああ。悪いな、長太郎」
「いえ」
 それだけの会話だったが、口調や表情から、二人が随分と打ち解けていることがわかった。
 声がかけられず立ちつくす切原に、まず気づいたのは鳳だった。
「わっ、びっくりした……」
 暗闇から突然出現したように見えたのだろう、鳳が切原に驚いて声を上げる。
 つられてこちらを向いた宍戸の顔が、見る間に険しくなった。
「お前、なんでいるんだよ」
「誰っすか、そいつ」
 問いかけには答えず、切原は鳳の肩にまわされた宍戸の腕にちらりと目をやる。
「宍戸さん? 知り合いですか?」
 にらみ合う二人に、事情を知らない鳳が首を傾げた。その戸惑ったような声に、宍戸が動く。
 鳳から手を離すと、宍戸は一歩前に出た。間近で見た宍戸の身体があざだらけであることに、切原は目を見張る。
「何してんすか! こんな傷だらけで……っ」
 思わず掴みかかった切原の腕を、宍戸が乱暴に振り払った。
「何しに来たんだって、聞いてんだろ。今お前に構ってる暇はねえんだ」
「なにって、……亮くんに会いに来たに決まってんじゃないすか!」
 声を荒げる切原に、宍戸は小さく息を吐く。
「会わないって言っただろ」
 子供を諭すような口調で言われ、切原は憤った。
「なんすか、それ。大体、そいつはなんなんすか! なんでそいつはよくて、俺は駄目なんすか!」
 切原に指さされ、鳳は驚いた顔で宍戸を見つめる。ちらりと鳳を見上げ、宍戸は切原に向き直った。
「俺の特訓には、こいつの力が必要なんだ」
「特訓ぐらい、俺がいくらだってつきあってやるよ! 俺がこんな奴に負けるはずねえだろ!?」
 敬語を使うことすら忘れ、激高する切原に、宍戸が目を細める。
「どっちが強えとか、そーゆーんじゃねえんだよ。今は、こいつの力が必要なんだって、」
「なんだよそれ……っ」
 宍戸の言っていることが理解できず、切原は怒りのあまり涙をこぼしそうになった。なんとか堪えると、もう一度、今度は振り払えないぐらい強く宍戸の腕をとる。
 宍戸が痛みに顔をしかめたが、気にする余裕はなかった。
「あんた、俺のことなんだと思ってんだよ……? 俺は、あんたのなんなんだよ! こんなときそばにいてやれなくて、……なにが恋人だよ」
「切原……」
 ぽたぽたと、堪えきれなかった涙が、掴んだ宍戸の腕をぬらす。
 宍戸の目が弱々しい光を浮かべてこちらを見たが、俯いていた切原は気づかなかった。
 力強い腕が二人の間に割って入ってきて、切原は鳳によって宍戸から引き離されたことを知る。
 それが目的なのか、鳳に目の前に立たれ、切原からは宍戸の姿が見えなくなった。
「頼むから、帰ってくれないかな」
「……は?」
「今、宍戸さんは大事な時期なんだ」
「んなこと、わかってるよ」
 なぜ、なんの関係もないこの男にそんなことを言われなくてはならないのか。新たな怒りがわいて、切原は鳳をにらみ付ける。
「わかってるなら、宍戸さんの邪魔をするような真似、しないでくれよ」
「邪魔……?」
 ──あいつから、テニスを奪うな。
 跡部の言葉が、頭をよぎった。言葉は異なるが、同じことを言われたような気がする。
 ほんとうに、自分の存在は、宍戸にとって邪魔なのだろうか。
 先ほどまでの怒りは消え失せ、かわりに恐怖が切原を支配していた。
 無意識に、身につけていたユニフォームの胸のあたりを握りながら、切原は鳳の向こうにいる宍戸を窺う。
「亮くん、俺は……邪魔なの?」
 少しの沈黙の後、まだ緊張している鳳に宍戸が声をかけた。
「長太郎、どけ」
「でも……」
 鳳は迷うような素振りを見せ、困ったように切原に目をやる。また切原が宍戸に掴みかかったりしないかと心配しているようだった。
「いいから」
 強い口調で言われ、鳳は仕方なさそうに横にずれる。
 再び姿を現した宍戸の目には、強い決意が浮かんでいるように見えた。
「今は、テニスのことだけ考えてたい。邪魔しないでくれ」
 宍戸にきっぱりと告げられた瞬間、なにか鋭い刃物で刺されたように切原の胸が痛んだ。
 邪魔だと、言われた。自分の存在は、宍戸にとって邪魔なのだと。鳳のほうがいいとか、そういう問題ではなく、自分は宍戸にとって邪魔なのだ。
 そう理解して、切原は一歩下がった。よろけたと言った方がいいかも知れない。
 宍戸は黙ってそんな切原を見つめた後、早く帰れと言って家の中に消えた。
 俯いて涙を流す切原を見ていられなかったのか、鳳がなにかフォローを口にしていたようだったが、切原の耳には届かない。
 ついこの間まで、この腕の中で微笑んでくれていたというのに。しあわせは、確かにここにあったのに。
 今は、喪失感でいっぱいだった。


 どこをどう歩いて帰ったのか、──もしかすると鳳が途中まで送ってくれたのかも知れない、切原は朝、自分のベッドで目を覚ました。
 メールも着信もない携帯を置くと、切原は洗面所へ向かう。どれだけ泣いたのか、目のまわりがすっかり腫れあがってしまっていた。
 顔を洗ったぐらいでは治らず、これで学校へ行ったら皆になんて言われるだろうと考え、切原は憂鬱な気分に陥る。
「赤也」
「姉ちゃん」
 いつもは遅く起きてくる姉が、珍しく洗面所に顔を出した。
 姉は何も言わずに、タオルを差し出してくる。
「蒸しタオルであっためれば、少しはマシになるでしょ」
「あ……」
 腫れた目のことを言われていると気づいて、切原はありがたく熱くなっているタオルを受け取った。
 からかわれるかと思ったが、姉は二度寝するつもりなのか、そのまま階段を上がっていく。
 いつもは顎で使われてばかりいるのにと、ぼんやりと思った。
 蒸しタオルを押し当てると血行が良くなったのか、いくらか腫れが引いたように見える。
 ホッと息をつくと、切原は朝食を食べにキッチンへ向かった。あんなことがあったというのに、お腹はすくのだ。
 母が焼いてくれたトーストをかじりながら、切原は今後について考える。
 宍戸に邪魔だと言われたことはショックだったが、鳳長太郎という具体的な敵が見えたことで、一晩経って冷静になれた気がした。
 あの男は、宍戸に対して恋愛感情を抱いている。切原の目には、はっきりとそう映った。
 そんな男が宍戸のそばにいることは不安だったが、何も気づいていないであろう宍戸に忠告しても、おそらく逆効果にしかならないだろう。
 昨日、ほんの少し接触しただけでも、鳳からはその育ちの良さと優しい人柄が感じられた。
 喜怒哀楽が激しく、我を忘れやすい切原とは正反対のタイプだろう。
 あの男がいなければ、激情のまま宍戸に暴力をふるっていたかも知れないと思うと、そればかりは感謝したい気持ちになる。
 それでも、あの男が自分と宍戸との仲を妨げていることに変わりはない。
 宍戸は鳳の力が必要なのだと言ったが、あの男さえいなければ、自分の手をとっただろう。
 ひとりぼっちの宍戸を慰める役は、恋人である自分だけに与えられた特権なのだからと、切原は鳳へ腹を立てた。


 朝練のために部室へ向かうと、切原は挨拶もそこそこに柳へ問いかけた。
「柳先輩、氷帝の鳳って知ってます?」
「鳳長太郎か?」
 打てば響くとはこのことだろうか、柳はすらすらと鳳のデータを述べ始める。
「プレイスタイルはサーブ&ボレーヤー。185cmの長身から繰り出す超高速サーブが武器のようだな。部員の間では、サーブだけで正レギュラーの座を勝ち取ったと噂されている」
「超高速サーブ……」
 切原のナックルサーブもそれなりの速度だったが、どちらかというと相手へ向かって跳ね上げるほうに重点を置いているため、鳳のサーブには劣るだろう。
 どんな特訓をしているのか知らないが、宍戸が必要としていたのは、そのサーブではないだろうかと切原は見当をつけた。
 家族構成などを語った後、柳は窺うように切原に目を向ける。相変わらずその目は閉じられていて真意は読みとれなかったが、続いた言葉で気遣われたのだとわかった。
「どうやら、現在一つ上の先輩にご執心らしい」
「知ってるっす」
 切原が口をとがらせて見せると、そうかと柳が苦笑する。
 それまでジャッカルにまとわりついていた丸井が、おもしろそうな話題だと目を輝かせて食らいついてきた。
「なになに、そいつもしかして、宍戸に惚れてんの!? やっべ赤也、ライバルじゃ〜ん!」
「うるさいっすよ」
 ぺしりとその頭をはたくと、切原はつられるように笑う。丸井の明るさは、人の心を浮上させる効果があるらしい。
「柳先輩、氷帝と当たったら俺とそいつが対戦するようにオーダー組んでくださいね!」
 末っ子の気安さで甘えると、柳はわかったわかったと頭を撫でてくれる。
「だが、鳳はダブルスをするようだぞ?」
「えっ!」
「お前、誰と組むつもりなんだ」
 どこか楽しそうな口調で訊ねる柳の背後で、他の面々が興味深そうにこちらを見ていた。
「ええっと……」
 誰もが一癖あるタイプなのだ、誰を選んでも苦労することに変わりはないだろう。
「……じゃあ、ジャッカル先輩で」
「じゃあってなんだよ、じゃあって」
 指名を受けたジャッカルが、力無く突っ込んだ。
「だめ〜! ジャッカルは俺と組むの!」
 丸井が横からジャッカルの腕をとったので、切原はどーでもいいっすと背を向けた。
 とにかく、氷帝がうちと対戦するまで勝ち残ってくれればいいのだ。
 自分の試合を間近で見れば、宍戸も次は迷わず自分を選んでくれるだろう。それだけの自信が、切原にはあった。


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2005 01/14