跡部の後悔(切原と跡部)
宍戸が立ち去った後、切原は動くことができずその場に立ちつくしていた。どのぐらいそうしていたのか、仕事から戻った宍戸の母親に声をかけられた。
切原が、宍戸から会うつもりはないと拒否されたことを言い出せずにいると、彼女は入れ違いになって会えなかったと思ったようだった。
宍戸は夜遅くまで練習することにしたようで、昨日も深夜に帰ってきたのだと彼女が教えてくれる。
切原が、どこで練習しているのか訊ねると、そこまでは知らないのだと申し訳なさそうに言われた。
上がっていくかと言われたが、先ほどの宍戸の表情を思い出し、切原は首を振って別れを告げる。
彼女に見送られながら、切原は駅に向かって歩き始めた。気持ちは少しも浮上していなかったが、彼女に心配をかけるわけにはいかないと、見えなくなるところまでは普通に振る舞った。
家に戻る気にはなれず、かといって行く当てもなく、切原はひたすら歩き続ける。
町中を彷徨いながら、自分にはこんなとき相談する相手がいないことに気づいた。
友人はそれなりにいる方だと自負していたが、込み入った話ができるほど親しい者はいない。
何より、切原は誰にも宍戸とのことを話していなかった。
勝手に気づいた人たちはいたがと、切原は部活仲間のことを思い出す。
彼らは皆、レギュラーで唯一二年生の自分のことを、なんだかんだ言いながらかわいがってくれる。
部室を出るときの彼らの優しさを思い出し、切原は知らず涙を流しそうになった。
誰に声をかけても、きっと慰めてくれるだろうと思う。
けれど同時に、それでいいのだろうかという気持ちもわいてくる。
宍戸は今、誰の手も借りず、恋人である自分さえ拒んで、ひとり頑張っているのだ。
ここは自分も、ひとりで頑張るべきところではないだろうか。
歩いている内にいくらか落ち着いてきたのか、そんなことを考えるようになった。
切原は、宍戸が他人に甘えることを嫌う男であったことを思い出す。
宍戸が何か悩みのようなものをはき出すとき、決まってそれは既に解決した後だった。
ただこんなことがあったと、笑いながら教えてくれるのだ。
切原は宍戸のそういうところを好ましく感じたが、さみしく思うこともあった。
恋人である自分にくらい、甘えてくれたっていいのに。
隠しごとのできない切原は、一度ストレートに口にしたことがある。
宍戸は目を丸くして、照れたように笑った。自分ではこれでも甘えているつもりなのだと、そう言って。
もしも、と考えて切原は足を止めた。
もしも自分が、立海大という敵対校の選手ではなく、同じ氷帝の人間だったとしたら。
そうしたら、彼は自分の手を取ってくれただろうか。
少し考えて切原は首を振った。
氷帝の正レギュラー同士はそれなりに仲がいいらしいと忍足と話してみてわかったが、それでもライバルであることにかわりはないだろう。
こんなとき、宍戸がライバルの力を借りることはありえない。
切原は、そう思って地元に帰ることにした。
次の日部活へ行くと、皆が心配そうに自分を見ていることに気づいたが、切原は何も言わずに普段通りに振る舞った。
そうすることで、何もかもが元通りになるような気がしたのだ。
あの日、家に戻ってから悩んだ末、切原は関東大会で待ってますというメールを送った。
返信はないと思われたが、「ああ」という二文字が返ってきたことで、切原は心の平穏を取り戻すことができた。
宍戸が正レギュラーに復帰することは難しいかも知れないが、少なくとも自分を切り捨てるつもりはないのだとわかったからだ。
しかし、数日後に行われたコンソレーションにも宍戸の姿はなかったと柳に教えられ、切原は宍戸がどうしているか心配になった。
まだ特訓を続けているのだろうか、自暴自棄になってはいやしないだろうか。
宍戸がテニスを諦めるとは思えなかったが、一人で練習するにも限界というものがある。
様子を見に行きたかったが、きっと宍戸は怒るだろうと思うと躊躇われた。
そんなある日、立海大で関東大会の抽選会が行われると知って、切原は部活を抜け出すと会場である講堂へ急いだ。
顔見知りである忍足か、宍戸の幼なじみである金髪の少年あたりがいれば聞きやすいと思ったのだが、どうやら氷帝から出向いてきたのは部長である跡部と、付き添うように従っている後輩だけのようだった。
どう切り出せばよいのか悩んだ末、そのまま口にすることにして切原は講堂から出てきた跡部を呼び止める。
跡部は振り返ると、切原を見て首をひねった。
「誰だてめえは」
不躾な視線にもめげず切原が名乗ると、跡部はああという顔になる。
「新人戦で、うちの日吉とやりあった奴か」
「覚えててくれました? 光栄っす」
にこりと笑った切原の軽口には答えず、跡部はそれでと続きを促した。
「あの、亮く……、宍戸さんのことなんすけど」
宍戸の名を口にした途端、跡部の目つきが鋭さを増したような気がしたが、切原は構わず言葉を紡ぐ。
「今、どーしてます? 正レギュラーには、戻れそうっすか?」
楽しそうに口の端をあげると、跡部は肩をすくめて言い放った。
「宍戸? 誰だそりゃあ。知らねえな、そんな奴」
「なっ」
跡部は、目をむいた切原を愉快そうに一瞥し、そういえばと今思い出したようなそぶりで口を開く。
「無名校相手にぼろ負けして正レギュラーの座から退いた負け犬が、確かそんな名前だったような気もするな」
「……っ!」
あまりのことに、切原は怒りで言葉をなくした。ぶるぶると震える手は、押さえつけていないと今にも目の前の男を殴りつけてしまいそうだ。
自分ではない誰かのために、ここまで怒ったのは初めてのことかも知れない。
宍戸が今、氷帝でどんな扱いを受けているのかわかったような気がして、切原はすぐにでも飛んでいって抱きしめてやりたくなった。
でもその前に、やることがある。
各校の代表が一堂に会しているこんなところで問題を起こしたら、おそらく立海大の関東大会出場は取り消しになるだろう。
入院している幸村や、他の先輩たちの顔が一瞬浮かんだが、それすらも今の切原を止めることはできなかった。
跡部が言葉を発するのがもう少し遅ければ、切原は間違いなくその顔を張り倒していたことだろう。
「他のことに現を抜かしてやがるから、あんなことになるんだよ」
その声音に、どうしようもない悔しさがにじんでいるように感じ、切原は動きを止める。
先ほどまでの人を馬鹿にしたような笑みは既に消え失せ、跡部の顔には何かに対する怒りと憎悪が浮かんでいた。
「春頃から、宍戸の周りをうろちょろしてたのは、てめえか」
それは、形だけは問いかけだったものの、跡部は確信しているようだった。
「なに……」
跡部が何を言っているのか理解できず、切原は目を見開く。
「他人のつきあいをどうこう言うつもりはねえが」
そう前置きして、跡部は更に言葉を重ねた。
「少なくとも、俺の知ってるあいつは。どんな理由があろうと、練習をさぼるような男じゃなかったはずだ」
──俺も、お前に会いに行こうと思って。
跡部の言葉に、宍戸がそう言って部活を休んだ日のことを思いだし、切原は身体を震わせる。
宍戸が、負けたのは。テニスに集中できなかったのは、自分のせいなのだろうか。
少なくとも跡部はそう考えているのだとわかって、切原は顔を上げることができなかった。
「ものごとには、節度ってもんがあるだろう」
「……」
言い返すこともできず俯く切原に、跡部はため息をつく。
「あいつから、テニスを奪うな」
命令形だというのに、まるで懇願するような口調で言われ、跡部の抱いている怒りが宍戸や切原に対してのものではなく、跡部自身に向けられているのだと不意に気づいた。
宍戸が他のことに気を取られていると勘づいていながら、何もしなかった自分を跡部は責めているのかも知れない。
なぜ跡部が宍戸に対してそこまでの感情を抱くのかはわからなかったが、切原にはそう思えてならなかった。
案外、部員思いの部長なのだろうか。
「あいつは今、部活には来てねえ。どっかで練習してるみたいだぜ? 鳳の野郎をつれてな」
「おーとり?」
聞き慣れない単語に、切原は思わず顔を上げた。
「後輩だ」
知らなかったのかという顔で答えると、跡部は興味をなくしたのか切原を置いて去っていく。
頭がついていかず、切原は次々会場からはき出される人の波に消えていく跡部の背を、黙って見つめていた。
宍戸の邪魔をしていたのは自分なのだろうかという疑問と、宍戸は一人ではなく後輩の手を借りていたという事実を前に、切原は混乱する。
自分の手を拒んだくせに、後輩の手を取ったというのか。それは、自分が邪魔をしていたのだと宍戸も考えている証のように思え、切原はよろけて壁に背を付いた。
宍戸は、自分ではなく鳳という後輩を選んだのだ。
それが練習相手としてだけだという保証が、一体どこにあると言うのだろう。
宍戸と、直接会って話がしたかった。怒られようが殴られようが構わないとさえ思う。
このままでは、不安で押しつぶされそうだった。
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