この手をはなさない(切原と宍戸)


 切原がテニスを始めたのは、中学に上がった姉がテニス部を選択したのを真似てのことだった。もっとも姉はレギュラーを目指すつもりなどなく、習い事程度の認識だったようだが、切原の目には姉の買って貰ったラケットがかっこうよく映ったのだ。
 同じものを手にしたくなった切原は、親にせがんでテニスクラブに通わせてもらうことになった。
 当時小学生だった切原は、もともとの才能もあったのか、めきめきと実力をつけ、中学生になる頃には、テニスクラブで切原にかなう者は存在しなかった。
 そのまま、憧れて入った立海大付属中テニス部でも、切原は自分が一番だと思っていた。幸村をはじめとする三人に敗れるまでは。
 実力の差を痛感した切原は、それでもくじけずに立ち上がった。いつか必ず、立海大で一番になることを目指して。
 切原の、勝利に対する執着は、目標としていた幸村が病に倒れたことで一層強くなった。
 誰にも負けたくないという思いが、常に切原を支配していた。
 その、切原の一番に固執する考えは、宍戸に出会ったことで、初めてテニス以外のものに向けられることになった。
 宍戸の、一番になりたかった。他の何よりも、誰よりも自分を見て欲しかった。
 だが宍戸の中には、まずテニスがあって。自分がそれに勝つことはできないのだと知って、切原は絶望した。
 一番でなければ、意味がないのに。自分の理想と現実とのギャップに、苦悩しながら、それでも切原は宍戸を切り捨てることができなかった。
 絶対に一番になれないことがわかっていても、それでも切原は宍戸のそばにいることを望んだ。宍戸の中で、テニス以外では自分が一番なのだからと、そう言い聞かせて。
 そんな切原が、宍戸の正レギュラー落ちを聞いて、内心喜んでしまったのは仕方のないことだったのかも知れない。
 だがそれは、本来なら決して抱いてはいけない感情だった。
 恋人が打ちのめされた姿を見て喜ぶ者など、存在してよいはずがない。
 だから、切原が宍戸に別れを告げられたのは、当然のなりゆきだったのだ。
 そう思ってはみても、その事実は切原には受け入れがたいことだった。


 次第に、切原の中で、自分が悪かったのだという考えから、宍戸を負かした相手が悪いのだという考えに変わっていった。
 遅かれ早かれ、自分たちは別れていたのかも知れない。
 それでも、こんなに早くそれが訪れたのは全て、宍戸に勝った対戦相手──不動峰の橘が悪いのだ。
 宍戸が橘に負けることがなければ、自分たちは今もうまくいっていたはずなのだと、切原はそう考えるようになっていった。


 そんな折、関東大会準決勝の相手が不動峰に決まったと聞き、切原は笑みを浮かべた。
「柳先輩、俺が部長さんと当たるよう組んでくださいねっ!」
「ああ。相手は九州二強の一人だ、心してかかれよ」
「わーかってますって!」
 いつも通り、無邪気に柳にまとわりつきながら、切原の心は橘への復讐心でいっぱいだった。
 宍戸の敵討ちと言えば聞こえはよいが、切原はただ、己の理不尽な怒りをたたきつけるつもりでいた。
「赤也のやつ、気合い入ってんなー」
「相手が相手だからな、弔い合戦のつもりなんじゃないか?」
 切原の練習を見ながら、丸井とジャッカルが感心したように話している。
「なにもないとええんじゃけどね……」
 仁王が、何かを予感したようにそう口にした。


 準決勝の日は、すぐにやってきた。切原が頼むまでもなく、立海大は圧倒的な強さを見せつけ、不動峰のダブルスをくだした。試合中だというのに泣き出してしまった相手に、切原は腹を抱える。D1の二人が戻ってきたところで、切原は立ち上がった。
「俺の出番っすね!」
 コートに立った橘を見据え、切原はビンゴ、と口笛を吹く。
「さっすが柳先輩、狙い通り」
「当然だ」
 靴ひもを結び直すと、切原はラケットを手にコートへと向かった。
 その背に、仁王が声をかける。
「赤也! ……無茶したらあかんぜよ」
 背を向けたまま手を振り、切原はネットを挟んで橘と対峙した。
「あんたにゃあ、でっけー借りがありますんで。この試合で返させてもらうっすよ」
「お前と対戦するのは初めてだったはずだが?」
 橘の疑問には答えず、切原はラケットを構える。
 切原は、これまで幾度も「潰す」という言葉を吐いてきたが、今日ほど本気だった試しはなかった。
 この手で、完膚無きまで叩き潰してやる。


 6-1というスコアで橘に勝利した切原は、しかし苛立たしさにラケットをネットへ叩きつけた。
「ちくしょうっ」
 怒りは消え失せるどころか、ますます強くなっている。
 わかっていたのだ、最初から。
 どれだけ橘を叩きのめしたところで、自分の気が済むことはないと。
 ボディーショットを多用して痛めつけても、ちっとも気が晴れたりはしなかった。
 それどころか、どんどん自分の醜さに嫌気がさすばかりで、切原は挨拶もそこそこにコートから立ち去った。
 こんなことをしても、宍戸が戻ってくるはずがない。ますます嫌われるだけだ。
 それでも、テニスしかやってこなかった切原には、これ以上なにをすればよいのかわからなかった。
 どうすれば、宍戸は戻ってきてくれるのだろう。どうすれば、また笑いかけてもらえるのだろうか。
 ありえない未来を想像し、切原は首を振った。
 泣きたくなるような後悔を胸に、切原は歩き続ける。帰ろうと言うチームメイトに断りを入れると、誰もいない芝生に転がった。


 しばらくして茜色に染まった空に、日が暮れかけていることを知る。
 だが起きあがる気にはなれず、切原は黙って空を見上げていた。
「……亮くん……」
 ぽつりと漏れた言葉に、自分自身はっとして唇に指を当てる。
 会いたい。会ってどうするかなんてわからないけれど、ただ会いたかった。
 叶うことのない望みに、切原は横を向いて身体を丸める。
 会っても、きっと他人を見るような目を向けられるだろう。何も言葉をかけられず、こちらからかけることも許されないだろう。
 それでも、会いたかった。
 顔を見たかった。
 触れたかった。


 誰かの足音が耳に届き、切原は顔を見られないように両腕で覆う。
 やってきた人間は立ち去る気がないのか、そのまま佇んでいるようだった。
 早くどこかへ行って欲しい。そう考えていた切原は、その声に自分の耳を疑う。
「……切原?」
 幻聴ではないかと、思った。会いたいと、そればかり考えていたせいで、自分は幻を見ているのではないかと。驚きに顔を上げた切原を見下ろしていたのは、制服姿の宍戸だった。
 逆光で、宍戸がどんな表情をしているのかはわからない。
 声を発することもできず、近寄ることもできずに、切原はただ呆然と宍戸を見上げる。
 やがて、宍戸が一歩二歩と、こちらへ歩み寄ってきた。
「お前に会ったらさ、」
 真摯な声が響いて、切原の心臓が早鐘を打つ。もう二度と、この声を聞くことはできないと思っていた。
「いろいろ、言ってやろうと思ってたんだけど」
 そこで言葉を切ると、宍戸は横たわったままの切原の前にしゃがみ込む。まだ、その表情は見えない。
「でもなんか、お前の顔見たら……」
 ふと、空気が和らいだような気がした。
「ああ、好きだなあって」
 試合会場のライトがつき、切原はようやく宍戸の顔を見ることができた。
「それしか、頭に浮かばなかった」
 目の前で宍戸が、照れたように微笑んでいる。
「赤也が、好きだ」
 耳慣れない宍戸の声に、初めて名前を呼ばれたことに気づいた。
「亮……くん」
 夢ではないかと思った。自分にとって、どこまでも都合の良い夢。だってまさか、宍戸が、あんな別れかたをした宍戸が、まだ自分を好きでいてくれるだなんて、そんなこと、あるはずがなかった。
「夢かな、これ」
 ぼんやりと呟いた切原に、宍戸が怪訝な顔をする。
「お前なあ切原、せっかく人が好きだっつってんのに、そりゃねえだろ」
 顔をしかめた宍戸を、切原は起きあがって抱きしめた。もう一度、この手に抱けるときがくるだなんて。
「夢でもいいよ。だって、会いたかったんだ。好きなんだ、亮くん。まだこんなに、大好きなんだ」
「だから、夢じゃねえって」
 苦笑とともに背中へ回された腕の確かな感触に、これが現実なのだと教えられる。震えながら、切原は懸命に宍戸の身体を抱いた。
「好き、大好き。俺、亮くんがいないとだめなんだ、なんにもできないんだ。だからお願い、もういっかい、……」
 堪えきれない涙に、切原の声がとぎれる。宥めるように、背中を撫でられた。
「俺はさあ、切原」
 声音が変わったことに、切原は身を固くする。やはり、もう一度つきあうことは無理なのだろうか。
「やっぱり、一番はテニスだし、引退したって、やめることも忘れることもできねえ」
「……」
「でもさ、お前といるときは、お前のことだけ考えるようにする」
 まさかそんなことを言われるとは思わず、切原は目を見開いて宍戸を眺めた。宍戸が、困ったような顔で目をそらす。
「あー。えーと、なるべく……、たぶん、そうする、から」
「もう一回、俺とつきあってくれるの!?」
 勢い込んで訊ねた切原に、宍戸が苦笑した。
「お前が、それでいいならな」
「じゅうぶんっす!」
 叫んで、切原は宍戸から手を離す。一歩下がって距離をとると、戸惑っている宍戸に右手を差し出した。
「宍戸亮さん。俺、すっげーわがままだし、独占欲強いし、束縛するし、年下だし、背も低いし、頭悪いし、取り柄っつったらテニスだけだけど、あんたを想う気持ちだけは、誰にも負けない。……こんな俺でよかったら、つきあってください」
 少しして、その手が握り返される。
「喜んで?」
 優しく微笑まれ、切原は我慢できずに飛びついた。


 宍戸が切原の元を訪れたのは、心配した仁王から連絡がいったかららしいと聞いて、明日お礼を言おうと、切原は隣を歩く宍戸を見つめる。
「お前、ちゃんと橘に謝れよ」
「えー! なんでっすか! あれは作戦っすよ、作戦! 身体狙うショットが一番とりにくいんすから!」
「狙うなっつーの」
 ぺしりと額を叩かれ、切原は口では文句を言いつつも内心喜んでいた。こんな、他愛もないやりとりでさえ、いまは嬉しくてたまらなかった。
「俺もついてってやるから」
「うー」
 楽しそうに笑う宍戸に、切原も笑みをこぼす。


 繋いだままの手から伝わる体温が、愛おしくてならない。
 もう二度と、この手を失うことがないようにと、そう願った。


【完】


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2005 01/24 あとがき