チョコレート

 2月も半ば。
 調べ物で夜遅くまで学園に居残っていた俺は、夕食を軽く済ませようと帰宅途中コンビニに立ち寄ることにした。
 自宅近くのそのコンビニは、一人暮らしの俺にとって通い慣れた場所だ。自動ドアを抜け迷うことなく弁当の置かれた棚に足を向けると、好みのものを選んで手に取りそのまま他に目を向けることなくレジに向かう。淀みなく流れるようなこの一連の行動は、無駄を嫌う俺の通常のパターンだった。これでレジに並ぶことがなければ完璧なのだが。
 弁当を手にして振り返った視線の先、二つあるレジは生憎と両方とも塞がっていた。俺は内心落胆の溜息をつきながら、客が少ないほうの最後尾へ並ぶ。順番を待つというのは退屈なもので、所在なげに視線を彷徨わせているとやけに派手にディスプレイされた棚の一角が目に入った。……目に入ってしまった。
 バレンタインデー、と派手に装飾された文字を黙読すると同時に、頭の中に樫元の声が響いた。
『もうすぐバレンタインデーっすよね』
 だからなんだと聞いても、曖昧に笑うばかりで答えない。それでも、事あるごとにその単語を持ち出してくる。目を見るまでもなく意図は明確で、なのにはっきりと要求するわけでもないのだ。
俺はそもそもそのイベントに興味もなかったし、樫元の曖昧な態度が些か気に入らなかったので無視を決め込むことにした。そう、無視するつもりだったのだ、今の今まで。
 それなのに。
「お客様?」
「あ、いや。すまない。買い忘れた物があった。どうぞお先に」
 あろう事か俺は、そう言って次の客にレジを譲ってしまったのだ。
(買い忘れなどないぞ。何をやっているんだ俺は)
自分で自分の行動がわからないまま、混乱する頭で逃げるようにレジを離れる。
 再び弁当の棚へ足を向けるものの、当然選ぶものなどありはしない。殆ど惰性で飲み物の棚まで眺めてみたが必要なものなどありはしなかった。
冷静さを取り戻そうとその場で深呼吸し、ふと、振り返れば先ほど見かけた派手な陳列棚に辿り着いてしまっていて、声が出そうなほど驚いた。きらきらと照明を返して輝くラッピングに無言の威圧感を感じて、気圧されたように一歩後ずさる。
(何で俺がこんなものに脅されなければならないんだ!)
 敗北感に苛まされながらじりじりと後退した挙句、最後に辿り着いたのはお菓子の棚だった。きらきらしたラッピングの残像がちらつく俺の目には、『それ』はずいぶんと質素で奥ゆかしく見えて……気がついたら俺は『それ』を手にしてレジへと向かっていたのだった。
(不本意だ)
 会計を済ませて無造作につめこまれた買い物袋を受け取りながら、俺は何度も頭の中で繰り返した。
 空調の効いたコンビニの扉を開け冬の夜道に足を踏み出せば、むしろ頬を包む冷え切った外気が心地よかった。無意識のうちに体温が上昇していたのかもしれない。よもや赤面していたのではとごしごしと頬を擦ると、動きに合わせて持っていた薄いビニール袋がかさかさと音を立てる。それが不快で睨み付けてみれば……ビニール越しに浮かび上がった包装紙のロゴ……茶色地に白でこれでもかとばかりに大きく配置されたCHOCOLATEの文字……が目に入って軽く眩暈を覚えた。
 俺は小さく溜息をついて腕を下ろし、重くなる足取りで家路を急いだ。
 こんなものをこんな時期に買う予定はなかった。いや逆にそんなことを意識することすらないくらい、このイベントに興味はなかったのだ。バレンタインデーだからと妙に色めきたつ世相には些か閉口したが、祭り好きな国民性ならばこそ一過性の熱病のようなものなのだろうと諦めてもいた。実際のところ自分さえ関わらなければ問題はなく、女生徒から贈られるチョコレートはすべて断ってやり過ごせばそれほど煩わしい行事でもなかったのだ。
(こんな事になったのも、樫元があんまりしつこいからだ。毎日毎日、顔を見ればバレンタインデーと繰り返して……)
 それでも、派手に装飾された品物ではなくごくシンプルなものですんだのは幸いだっただろう。どこにでもある板チョコレートの、どこのメーカーかわからないくらいありふれたパッケージ。まさかバレンタイン用に買ったとは店員も思うまい。
(バレンタイン……用だと?)
 そこまで考えて、俺は言いようのない疲労感に襲われて足を止めた。
(バレンタイン用に買ったのか、俺は)
 冗談じゃない。不本意にもほどがある。バレンタインデーなどという浮ついたお祭り騒ぎに便乗してこれを樫元に渡すなど、とてもじゃないが無理だ。無理というより嫌だ。
 とはいえ、俺はもともと甘いものは苦手で、自分で処理するのにも無理がある。女子供なら喜んで受け取ってくれそうだが、生憎と俺にそれほど親しい相手はいなかった。普段そんな交流もないというのに、いきなりチョコレートなんか渡したら逆に怪しまれてしまう。
(……捨てるか?)
 一瞬頭を過ぎった想像に、俺は思わず頭を振った。それは駄目だ。レジに返す……のも嫌だ。今度こそ不審に思われてしまうだろう。
(渡す……しかないのか……?)
 血の気が引く思いで夜空を見上げれば、聞こえるはずのない樫元の笑い声が頭の中に響いた。


***


「いただきまーす」
 当日。なぜか俺は自宅マンションで樫元と夕食を共にする羽目になっていた。
「うめー!すっげー旨いっすよ、先生!」
「……それは良かったな」
 子供のように満面の笑みで与えられる賞賛を複雑な気持ちで聴きながら、俺は二日目で味の深みが増したカレーを口に運んだ。
「先生、料理うまいんすね〜」
「市販のルーなら小学生にもできるだろう」
 そっけない俺の返答にも慣れたもので、樫元はスプーンを手にしたまま身を乗り出さんばかりの勢いで言葉を返す。
「ややや、でも俺のお袋のよかうまいっすよ?なんつーか、コクがあるっつーか。なんかコツでもあるんすか?」
「……強いて言うなら隠し味だな……」
 失言だ、と思ったときにはもう遅かった。案の定、樫元は目を輝かせて問い返してくる。
「え?なんすか隠し味って?なんかはいってるんすか?」
「……企業秘密だ」
「え〜教えてくださいよ〜。あ!もしかしてあれっすか?愛情が隠し味〜とか?とか?」
 頬を上気させ期待を含んだ視線で俺を見ながら問いかけてくる樫元に、もう何度目かわからない後悔の溜息をつく。やに下がった顔をレンズ越しに睨みつけながら自分のスプーンを皿に置き、半分も減っていない奴の皿に手を伸ばす。
「喋るばかりで食べる気がないなら下げるぞ」
「あ!スンマセン!食います!食わせてください!」
 樫元はあわてて俺の手から皿を守るように自分の手元に引き寄せると、懲りずに『旨い』を連発しながらあっという間に平らげてしまった。
「あの〜おかわり大丈夫っすか?」
「ああ、沢山あるからな。遠慮は要らないぞ」
「そっすか?そんじゃ遠慮なく〜」
 差し出された樫元の皿を受け取り俺は席を立った。おかわりをよそう俺の背中に樫元の視線を感じたが、あえて無視を決め込んだ。
「センセ〜ちょっとだけ聞いていいっすか?」
「なんだ」
「なんで食いきれないほど沢山カレー作ったんすか?」
「それを聞いてどうする」
「え、ええっと〜、バレンタインだから、俺に食わせるつもりで作ってくれたのかな、とか……。そうだったら嬉しいなぁ、とか、まぁそんな感じで……」
 奴の期待をばっさり切り捨ててやろうと振り返れば、軽めの言葉からは想像もつかないくらい真剣な視線が向けられていて、俺は一瞬言葉に詰まった。内心の動揺を悟らせまいと平静を装いつつ、奴の目の前にカレー皿を置く。
「……生憎だが、これは二日目のカレーだぞ」
 それだけで俺の言いたいことを悟ったのか、樫元は落胆の表情を一瞬だけ覗かせて……すぐに嬉しそうに笑って見せた。
「……そうっすねー……味がしみて旨いっすけど。いただきま〜す」
 少しばかり勢いは衰えたものの、樫元は嬉しそうにカレーを口に運び始めた。
 俺は暫く無言で食事を続けることに集中した。そうしないと、余計なことを口にしてしまいそうだったからだ。
「あれ、もう終わりっすか?」
 食事を終えて食器を手に立ち上がると、樫元が不思議そうに俺を見上げてきた。
「ああ、十分だ」
「もっと食わないと。そんなんじゃもたないっしょ?」
「それほど燃費の悪い体はしていないのでな。……お前はかまわず気が済むまで食べなさい」
「ういっす」
 食器をシンクに置き水を張った。ついでに冷たい流水で手を洗うと、少しだけ冷静な思考が戻ってくるような気がした。
 俺はその場で体を反転させて背中をシンクに預けるように立ち、食事を続ける樫元に視線を向けた。
「……樫元」
「なんふか?」
「食べながら喋るんじゃない」
 樫元は肩を竦めて口の中のものを嚥下した。それを見届けてから、言葉を続ける。
「……カレーの隠し味というのは色々ある。カレー自体各家庭で味に違いがあるように、隠し味もまた様々だ」
「……?は、はい」
 突然始まった俺の講義に驚いた様子を見せつつも、樫元は居住まいを正して俺の言葉に耳を傾ける。
「各家庭の味付けの違いに加え、更にカレーの種類の豊富さもある。たとえばシーフードカレーやチキンカレー、ほうれん草などの野菜メインのカレーといったように、カレーの種類も豊富だから隠し味はそれらとの相性も考えて選択する必要がある」
「奥が深いんすねぇ」
 樫元は神妙な様子で相槌を打った。
「隠し味として挙げられるものは、まず正統派といえるスパイス類。これはそもそもカレー粉自体がスパイス類のブレンドされたものなので馴染みやすい。ソースやケチャップなどという一般的な調味料なども良く使われるな。醤油やジャム、チャツネという変り種もあれば牛乳のように濃度調節と兼用しているものもある。ほんの一例だが」
「……へ〜」
「また、意外に思うかもしれないがコーヒーやチョコレートも……コクを出すのにごく少量使うことがある」
「……へ〜へ〜……って、ええ?!」
 なにかに気がついたのか樫元が素っ頓狂な声を上げた。かまわず俺は言葉を続ける。
「そのカレーにも今あげた内の隠し味が一種類だけ使われている。どれとは言わないがな」
「あ、あの、それってもしかして……」
 動揺に立ち上がろうとした樫元の手からスプーンが落ちて、皿の上で細く耳障りな音を立てた。
「樫元!行儀が悪いぞ!」
「す、すんません!」
 慌てて座りなおしてスプーンを手にしたものの、樫元は心ここにあらずといった様子で俺とカレー皿とを交互に眺めている。俺はその視線に奇妙な居心地の悪さを感じ、なにか言葉を返そうかと考えた。だが上手い言葉が思いつかない。こういう場合は迂闊に口を開かないほうが良いと判断して、俺は表情を隠すように眼鏡の中央を中指で押し上げつつシンクを離れた。
「……さて、悪いが俺は纏めなきゃならん仕事があるのでな、部屋に篭らせてもらう。お前は最後まで残さず食べるんだぞ」
「は、はい!了解っす!」
 明るい返事に頷き返し、リビングのドアを開けた俺の背に樫元が声をかけた。
「先生!あの、これすっげー旨いっす!俺、めちゃくちゃ幸せっす!」
「……それは良かったな」
「はい!よかったっす!」
 心底嬉しそうな返答に背中を押されるようにリビングを後にした。
(疲れた……)
 一人になるとどっと押し寄せる疲労感はここニ三日感じたそれと同じもののはずなのに、何故か今は妙な甘さを含んで纏わりついてくるのだった。


バレンタインの二人。