玖路・出会い編

 熱さも次第に薄らぎつつあり、秋の到来も近くなった頃。
 白虎の住まう庵に務める者たちの間で、とある噂がたびたび口に上るようになっていた。

「近々、次期白虎選出試験が行われるらしい」
 庵勤めの者たちが集うこの日の夕餉の折にも、味気ない質素な献立に一品添えよとばかりにその噂が場所を憚ることなく話題になっていた。それだけ、関心の深い出来事なのは理解できるのだが、食事中の私語ましてや主の目の届かぬ場所での噂話など、とても行儀の行き届いた者の行為とは思えない。話の輪に積極的に参加しようとしない玖路を不満に思ったか、噂話に熱弁をふるう相手が同意を求めようと水を向けてくる。表向き玖絽は温和な表情を崩すことなく、適当な相槌を打ってさらりとかわしていたのだが、内心失笑を禁じえなかった。
 先の内戦で白虎が深手を負ったことはとうに知っていた。ならば新たなる白虎選出の試験が、遠くなく行われることは当然であった。だからこそ、玖絽は庵仕えを志願したのだ。

 玖路には幼き頃より内に秘めた野望があった。白虎となって里の覇権を握り、ひいては白の帝をも手中に収めること。しかし己は白虎候補ではなかったし、仮にそうであったとしても白虎の精霊を体に住まわせるのはぞっとしなかった。だが、野望のためにはどうあってもその力が欲しい。
 それならば、白虎の小姓となって白虎を傀儡のごとく据え置き、裏から覇権を手にするのが、玖路にとっては最良といえた。だが、当代の白虎には小姓頭の美実がいたし、その任期も後僅か。それよりは候補者のうちから手懐けておけば、野望の実現は容易だった。すでに次期白虎の補佐をする、小姓候補に己の名前が挙がっているのは知っている。それは玖絽にとっては至極当然のことだ。残りの小姓候補の名もすでに把握していた。いかな白虎候補といえど、その身一つで白虎になるのは易くない、小姓の能力や相性も大きく関わってくるのだ。その点をとっても、自分ならばたとえ無能な候補者であったとしても白虎に仕立て上げる自信があった。
 だが、小姓候補者の中に、僅かとはいえ玖絽の心を騒がす人物がいた。自分と同様に庵に勤務し、そしてまた同様に小姓候補に名の上がっている人物。
(志麻……か)
 玖路は、噂に加わることなく、一人無言で食事を続けている志麻の、白く整った横顔を盗み見た。この男の素性だけは、全容を把握することが叶わなかった。なにやら過去に曰くありとの事で、庵においても腫れ物に触るような扱いを受けていたし、何より、彼自身が頑なに情報公開を阻んでいるようだった。そう、玖絽の情報収集能力をもってしても、いまだ謎の多い存在なのだ。認めたくはないが、志麻の手腕は玖絽のそれを脅かす。彼は、玖絽にとって鬼門になりえる存在だった。この上は自分が担当する候補者が、志麻のそれよりも有能であることを願うばかりだった。


「影虎……様」
 玖絽は確かめるようにその名を頭の中で何度か復唱した。これが、自分が担当する候補者の名前だった。玖絽は、思惑通りに手にした小姓候補の任を告げる令書に一通り目を通し、その内容を全て記憶する。そうしておそらくは二度と開かれることのないであろうそれを丁寧に巻き取り紐をかけて書簡箱に放り込んだ。
 小難しく飾り立てた言葉を除けば、実のところ令書に記されている情報は、名前と年齢ぐらいのものだ。こんな僅かな情報ではこちらの対処が遅くなる。常に先手を打ち、確実に相手を手中に収めねばならない。そのためには彼の人がどんな人物なのか、生い立ちや、身体能力、好みに至るまで知りえる情報は全て把握しておく必要がある。弱みの一つでも見つけられたなら、それ一つで後はどうにでもできる自信があった。
 ゆっくりと窓辺に近づき、音もなく障子を引くと闇に沈んだ外界に何かを探すような視線を投げる。あたりに潜む者の気配がないのを確認してから、玖絽は喉奥を震わせて常人には聞き取れない音を出した。その直後、夜を切り取ったような闇の塊が、乾いた羽音を立てながら滑るように窓辺へと降立った。行灯の僅かな明りを返し怪しく光る視線を玖路に向け、広げた羽を体に仕舞い込む大きな梟に戸惑うこともなく、労うようにその喉元を指先で掻いてやる。満足そうに何度か瞬きをする梟に指を引くと、玖路は徐に懐から細い紐を取り出した。いくつかの珠止めを連ねたそれは忍びの使う暗号だ。玖路は手際よく紐を梟の足に結ぶと、その眼前に指を二本立てて見せた。一瞬の瞬きの後弾かれたように羽音を立てて梟が飛び立ち、再び夜の闇に溶けるように姿を消した。
 それを確認して玖絽は満足げに目を細めると、外界へと続く障子を引いた。僅かに残った闇の気配が、逸る玖路の心を覚まし冷静な思考へと導く。人事は尽くした。後は影虎の身辺を調べるよう指示した暗号を携えた梟が、仲間のもとへ降り立ち良き情報を得て再び自分の元に舞い戻るのを待つばかりだった。


 仮住まいの準備も着々と進むある日の夜。
 すでに仮住まいで寝泊りしていた玖絽の元へ、仲間から暗号を携えて梟が舞い戻ってきた。暗号を紐解けば、記されていたのは連絡用に使っている森の奥深くの大木の洞の名。玖絽は闇に乗じて仮住まいを抜け出し、首尾よくその場所に隠された書簡を持ち帰ると、自室で目を通した。仲間の努力の賜物か長々と記されたその内容は、玖絽の予想を遥かに越えた驚くべきものであったのだが、彼にとっては都合が良いものだった。強力な切り札を得た事で、玖路の計画は確実に実現へと一歩近づいたのだ。彼は再度書簡に目を通しその内容を記憶すると、証拠を隠滅すべく釜の火に焼べ始末する。
 知らず湧き上がる笑みが、炎の朱に照らし出されていた。


 初めて顔を合わせたのは、指定された日付の午後だった。
 緩く跳ねたやや長めの髪に、生来のものなのか季節にそぐわぬ褐色の肌、意志の強そうな切れ長の瞳……他に屈することを拒む野生の獣のようなその姿が、いずれ玖路の意のままに動く傀儡になるのだ。高揚する精神を僅かも表に出すことはなく、長旅の疲れか緊張のためか硬く唇を引き結び挑戦的な視線で自分を見上げてくる少年を、玖路は柔らかな笑みを浮かべ深く頭を下げて迎え入れた。
「ようこそ影虎様。道中お疲れ様でした、どうぞ中へ」
「……ああ」
 そっけない返事ではあったが、玖路は怯まない。初めて敷居を跨いだ時の緊張に強張った影虎の表情が、計算された自分の笑顔で緩んだのを見逃しはしなかったのだ。存外、扱いやすい相手と思われた。玖絽は笑みを湛えたまま、当然のように自然な所作で影虎の荷物を抱え自分が先立って居間へと促した。
 影虎が上座に座るのを見届けると、玖絽は荷物を部屋の傍らに置いて膝を折り、恭しく三つ指を突いた。
「改めてご挨拶申し上げます。私は玖絽と申します。試験期間中影虎様の御世話を仰せつかりました。不束者ですがどうぞ宜しくお願い致します」
 畳に擦り付けるほどに深々と頭を下げれば一瞬だけ戸惑いを見せた影虎だったが、思い直したように鼻を鳴らしておざなりに頷いて見せた。
「ああ。宜しく」
「お疲れでしょう、お食事までお休みになりますか?」
「いや、今すぐにでも修練を始めたい。場所はあるか?」
「ご案内いたします」
「頼む」
「ではこちらへ」
 案内の為に先立って歩く玖絽の背に、溢れる感情を抑えきれぬように影虎が呟きを漏らした。心の奥から搾り出したような、それでいて力を感じさせる声音で。
「俺は、白虎になる……なんとしてでも」
 主人の呟きを耳にし、玖路は足を止めた。音もなくゆるりと振り返り、意思の光を湛えた瞳をしっかりと正面から受け止め頷いてみせる。
「当然ですとも。私も粉骨砕身をもってお仕えいたします」
「……頼んだぞ」
「はい」
 玖路は裾を軽く払ってその場に膝をついた。そうして何事か誓うような真摯な瞳で影虎を見上げる。忠誠を表すようなその姿も、玖路にとっては計算のうちでしかない。しかし、影虎は彼の思惑に気付くことなく倣うように居住まいを正すのみだ。
「貴方は白虎になられるお方です」
 暫し主人と視線を合わせた後、秘めた野望と思惑を胸に表に出したのはそんな一言で。
「そうだ、俺は、白虎になる……どんなことをしても、だ」
 影虎の答えは、彼の背後に複雑に絡んだ過去から発せられるもので、本来その意を玖路が知るはずはない。だが、当然玖路は影虎の心情を理解していて、その上で何も告げることはなかった。


 こうして影虎と玖路の生活は幕を開けた。
 表向きの玖路の仕事は完璧で、影虎に尽くすその姿は献身的とも取れた。
……身の内に秘めた野望は誰にも悟られぬままに。


影虎と玖路の出会い。秘められた野心と過去。