志保・出会い編

 日々寒さの募る初冬の朝。

 志保は朝餉を終えた後、自室で日課の写経をしていた。
「志保、お話があるのですがよろしいですか?」
 襖の向こうから、こちらを伺う声がかかった。
「はい、どうぞ」
 志保が筆を置くと同時に静かに襖が引かれ、声の主である志保の兄、志麻の姿が現れた。
 志保に促されるまま座布団に腰を下ろした志麻は、手にしていた巻物を向き合った二人の間に置いた。
「これは……?」
「昨夜遅くに白虎様の庵からこの令書が届きました」
「令書、ですか」
「諸事情により、次代の白虎選出試験が行われることになったのです。そしてその候補者を補佐する小姓の一人に、あなたが選ばれました」
「私が、小姓に?」
 思わず素っ頓狂な声で問い返してしまってから、志保は慌てて口元を押さえた。
「私も僭越ながら、あなたと同様に小姓の任を受けました」
「兄様も……」
 兄が小姓という大任を賜る事は容易に納得がいくのだが、同じ任を自分も賜ったという事にはどうしても実感が持てない。 多方面において優れた才覚を備えた兄に比べ、自分がどれほど劣っているか嫌というほど自覚していたからだ。勿論、努力だけは人一倍しているつもりなのだが、それでもなお兄には遠く及ばないのだった。
 戸惑いを隠せない弟とは対照的に、志麻は落ち着いた様子で言葉を続ける。
「このような大切な任を賜ったのですから、白虎様の御意にそえるよう、白珠の為、風牙の為に尽力いたしましょう」
「……」
「どうかしましたか?」
「いえ……兄様と共に小姓の任に就けるのはとても光栄な事なのですが、私のような若輩者がこのようなお役目を果たせるものかと……」
 言いよどむ弟に、志麻はうっすらと微笑んで見せる。
「白虎様から、この任を賜ったという事は、お前が白虎様に認められたという事です。自信を持ちなさい。これより先は自分ひとりの力でお役目に当たらなければならないのですから」
 常日頃敬愛してやまぬ兄のこの一言は、強く志保の心を打った。
「は、はい!……兄様には及ばないかもしれませんが全力を尽くします」
 志麻は満足そうに頷くと、弟に令書を手渡した。
「それではこれを。こちらに詳しい事項が書いてありますから、きちんと目を通して自分のなすべき事をするのですよ」
「に……兄様」
 立ち上がろうとした兄に思わず差し伸べた手を、志麻は取らなかった。
「兄弟と言えど、手加減はしませんよ、志保。自分の担当するお方が白虎になられるのを補佐するのが小姓の役目なのですから。互いに競い合っている以上、もう、私がお前を手助けする事はできないのですよ」
 ぴしゃりといわれて、志保は伸ばしかけた手を引き、強く握り締めた。
「すみません、兄様」
 志麻は力が入りすぎて白くなってしまった志保の手に、一度だけ触れてからすぐに立ち上がった。
「では、私は先に行きます。後の事は下男に話してありますから、必要なら手伝いを頼むといいでしょう。……体に気を付けるのですよ」
「はい、兄様も」
 来た時と同じように静かに襖を引いて、志麻が姿を消した。
 残された志保は、振るえる手で恐る恐る令書を開き、目を落とした。先ほどから動揺に鳴り響く鼓動が思考を遮り、何度目を通してもなかなか内容を理解する事が出来なかった。
(こんな事では、小姓などとても勤まるはずがない。もっとしっかりしなくては……)
 志保は鼓動を抑えるように唇を噛み締めた。




 令書をどうにか理解し、庵での手続きを済ませた志保は、担当候補者にあてがわれた仮住まいに生活の場を移した。
 荷物の整理もどうにか終わり、ようやく新しい生活にも慣れてきた頃、庵から伝令がきた。
「三の里の虎千代様より、内内にご返信を頂いた。昨日三の里を発たれたとの事だから、明日か、遅くとも明後日にはこちらにご到着になるだろう。お迎えの準備は整っているか?」
「はい、こちらはいつでも構いません。」
「うむ、ではこれは虎千代様の書状である。あとは頼んだぞ。」
「あ……あの……」
「ん?」
「兄……いえ、他の候補者の方々はもう央の里にご到着になっているのですか?」
「……影虎様は昨日ご到着になった。虎鉄様も本日中にはお着きになるそうだ。志麻殿の担当される虎太郎様は手違いで令書の発送が遅れてしまったから、皆様より遅れてこられるかもしれない」
「そうですか、ありがとうございます」
「志保殿も、兄上に負けぬよう、しっかりお役目を果たしてくだされよ。では」
「は、はい」
 去って行く伝令係を見送りながら、志保は自身に圧し掛かった重圧に重い溜息をついた。
(兄様と争うつもりなんてないけど……でもお役目だから仕様がないんだよね……)
 担当する候補者が白虎になれば、自分も位が上がる事になるだろう。権力に固執するつもりはさらさらないが、志保にもそれなりの向上心はあった。任を受けたからには最良の形で成し遂げたい。候補者が白虎になる事を望んでいるのなら、全力でそれを叶える手助けをしたかった。そのためには兄への思慕の気持ちも抑えねばならないだろう。
(虎千代様か……どんなお方なんだろう)
 令書には名前と出身地、年齢くらいしか書かれていない。これだけではその人の人となりを推察する事は出来ない。
 願わくば、自分が仕えるに値する人物であって欲しいと、志保は思った。

 翌朝、志保はいつにもまして早く目覚め、候補者を迎える準備を始めた。
 といっても、ほとんど支度は済んでいたので、念入りな掃除と食事の下ごしらえ、さりげなく花を飾ってみたところでもうする事はなくなってしまった。
 居間に腰を据え、さて、と待ち構えるも、待ち人はなかなか訪れなかった。何事かあったのではと焦る気持ちは、ただ過ぎゆく時に比例して大きくなってゆく。
 ついに太陽が真上に昇った頃、志保は思い切って玄関から表を窺ってみた。  数人の人通りはあるものの、それらしい人物の姿は見当たらない。諦めて一旦は室内に戻ったが、志保の気持ちは焦れる一方だった。
(今日はお越しにならないのだろうか……。もしや道に迷われたのでは……)
ガタン
 玄関から、微かな物音がした。
 我に返った志保は、慌てて玄関に駆け寄り引き戸を引いた。
「虎千代様?!あっ!!」
「わあっ!!」
 勢いよく飛び出した志保は戸口に立っていた人物に気付く事ができず、勢いよくぶつかってしまった。志保は衝撃によろめいた体を、戸口を掴むことで押し留める。
「す、すみません!!大丈夫ですか?!」
「いったー」
 足元から弱々しい声が上がった。
 見れば、少年が尻モチをついて痛みに顔を顰めている。その脇にはどうやら荷物とおぼしき大きな風呂敷包みが落ちていた。志保は慌てて手を差し伸べる。少年は素直にその手を取って体を起こした。
「すみません、私が外を確認もせず飛び出してしまったから……」
「ううん、ボクの方こそ前がよく見えなくって、手も塞がってたもんだから……あ!そうだ荷物荷物!」
 少年は地面に落ちていた風呂敷包みを拾いあげた。
 なるほどその大きな包みを抱えると、小柄な少年の顔はすっぽりと隠れてしまう。これでは前方が見えなくて当然だろう。
「随分沢山あるんですね」
「うん、央の里って珍しいものが沢山あるから、いっぱい買い込んじゃった。あのね、三の里のお土産もあるんだよー」
「あ、あの……失礼とは存じますが、虎千代様、ですか?」
「うん、そーだよ。あれ、名前言ってなかったっけ?ごめんね」
「い、いえ……とりあえず中にお入りください。お荷物も私がお運びしますから」
「んーじゃあ、半分こして持とうよ」
「は……はあ」
 年齢は事前に知っていたものの、実際会って見るとそれよりもずっと幼く見えた。外見だけ見れば無邪気な子供そのものの、この少年が白虎候補なのだろうか?
 内心の疑問を押し殺して、志保は虎千代を居間に通した。
「とりあえずこちらで、後ほど虎千代様の自室にお通ししますので……」
「ありがとう……えっと……」
「あ!こちらこそ名乗るのが遅れてしまって申し訳ありません!!私は志保と申します。虎千代様の小姓の任を仰せつかりました。どうかよろしくお願い致します」
「小姓?」
「試験期間中、候補の方のお手伝いとお世話をするのが小姓の役目です」
「そっか。じゃあこれからよろしくお願いします」
 虎千代はぺこりと頭を下げる。柔らかそうなくせっ毛がふわりと揺れた。つられて志保も、もう一度頭を下げる。
「長旅、お疲れになったでしょう?お飲み物をお持ちしましょうか?それとも少し遅くなってしまいましたがお食事にいたしますか?」
「うーん、ここに来るまでに色々食べ歩いちゃったからおなかはすいてないかなー。喉はちょっと渇いたかも」
「それではお茶をお持ちします。少々お待ちください」
「うん」

 台所で茶の用意をする間、志保はぼんやりと思考を巡らせた。
 初めて会った担当候補者は予想とはかけ離れた人物だった。
あちこち気ままにはねた髪、明るい茶色の大きな瞳、幼さを残した丸みのある頬、小柄で華奢な体は少年というより少女のようだ。だが彼が虎千代本人である限り、紛れもなく白虎候補、志保の主人なのだ。
(あの方は白虎になられるお方。疑うなんて以ての外じゃないか!)
 志保は心の不安を振り払うように何度か頭を振る。
 改めて決意を固めたところで、用意の整った茶器を手に虎千代の待つ居間に向かった。

「お待たせ致しました」
 ことりと茶を置くと、虎千代は嬉しそうに手を伸ばし、念入りに冷まし始めた。
(もしかして、熱いのは苦手なのだろうか……)
「猫舌なんだよね、ボク」
 まるで自分の考えを見透かしたような発言に、志保は動揺した。
「済みません!煎れ直してきます!」
「あ!そういうつもりで言ったんじゃないよ。熱いのをふーふーするの好きだから、平気だよ」
「は……はあ……」
 にっこりと微笑まれると、志保にそれ以上の言葉はない。黙ってただ主人の所作を眺めていると、ふいに視線が合った。虎千代はようやく冷めたらしい茶をゆっくりとすすりながら、なにやら観察するようにじっと志保を見ている。
「……何か……?」
「えっとさ、志保、って呼んでいい?」
「はい、構いません」
「じゃあ、志保っていくつ?」
「十五になります」
「ボクより三つも年上なんだー」
 虎千代はもう一度茶に口を付けてから、思い切ったように顔を上げた。
「ねえ、なんで髪伸ばしてるの?」
「何故、と申されましても……父上からそうするように言われて育ったものですから……」
「へえ、お父さんが?なんで?」
「それは私にも分かりません。幼い頃より私も兄も髪を長くするように言われて育ちまして、とくに不思議に思うこともなかったものですから……。父上が亡くなった時、兄はすぐさま髪を切ってしまいましたが、私はなんとなく躊躇われたもので、そのままにしてあります」
「お父さん、亡くなったんだ。ゴメンね変な事聞いちゃって」
「いえ、もう随分昔のことですから……。それよりも、もしかしてこの髪はお気に召しませんか?でしたら明日にでも短く……」
「あ!ゴメン、違うよ!!別に嫌とかじゃないんだ。ただボクも少し前まで志保くらい髪が長かったから……」
「そう、なんですか」
 確かに虎千代なら長い髪も似合っただろう。妙に納得してしまった志保だったが、虎千代の暗い表情になぜ切ったのかと問う事はできなかった。
「女の子みたいだから……切ったんだ」
 どこか切ない表情で呟く様子に、いよいよ志保は言葉に詰まった。
「志保は、女の子みたいだって誰かに言われなかった?」
「ええまあ、けれど父上はそれが気に入っていた様子でしたので……」
「女の子みたいって、言われても平気?」
「とくに不快に思った事はありませんでした」
「ふうん」
 呟いて、虎千代は一気に茶を飲み干した。
「……ボクも切らなきゃ良かったかな……」
「虎千代様?」
「あ!ゴメンね、もうこのお話はおしまい!それよりボクのお土産見てよー!色々あるんだから!!」
 虎千代は打って変わって明るい声でニコニコと笑ってみせた。
風呂敷包みからあれこれと取り出しては熱っぽく語る旅の話に相槌を打ちながら、志保は先ほど見た寂しそうな虎千代の呟きと表情が気になって仕方なかった。明るくて幼い主人の、触れてはならない暗い部分を垣間見てしまったような気がして。
 そうして、虎千代に、どこか弟のような感情を持ちつつある自分に気付く。白虎となる手伝いは勿論、おそらくは傷つきやすい虎千代の心を支えてやりたいと、そう思い始めていた。




 こうして、虎千代と志保の生活が始まるのだった。
いっそ過保護とも思える、志保の献身的な尽くしぶりが見られるようになるのはこれより後のことである。


虎千代と志保の出会い。似たもの同士の安らぎの場所。