真昼の月 (1/2)
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知念友寿(ちねん・ともひさ)×鷹取泉(たかとり・いずみ)

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 秋の陽は儚く、午後五時を過ぎるとあたりはもう暗い。空には冴え冴えとした半月が浮かんでいるが、人工の光の満ちた部屋に月光の入り込む余地はない。
「できた? 友寿くん」
 鷹取泉の言葉に知念友寿は生返事で応えたが、問題はとっくに解けていた。週に二日、午後六時から八時までの二時間、家庭教師が来るようになって三カ月になる。受験生だというのに塾にも行かず鷹揚に構えている友寿に焦れた母が雇ったのだ。泉は友寿の志望するK大の学生だった。
 しかし真面目に勉強していたのは初めの一カ月だけだった。あとは別のことで忙しい。今も上の空で問題を解きながら、次の課題を用意する泉のうなじを見ていた。机は二人で使うには狭いので、泉はカーペットの上に座り、胡座をかいた膝の上にテキストとノートを開いていた。短く切った髪は艶やかだが、柔らかすぎてかなりクセがあった。髪から覗くうなじは白くなめらかで、友寿は自分が欲情しているのを感じた。
 泉はテキストを置いて立ち上がると、友寿の横から手を伸ばして回答を確認する。泉からはほのかに甘いコロンの香がする。
「うん、正解」
 採点をしながら、いちいち声を出す。ちょっと舌足らずな話し方をするせいか、語尾に甘えるような響きがある。「友寿くんすごい。全問正解だよ」
「……教え方がいいんだろ」
 棒読みのお世辞にも、泉は素直に喜んだ。泉があまりに簡単に微笑むので、普段は口にしないような軽口がつい出てしまう。次の課題を出される前に抱き寄せキスをして、瑞々しい桜色の唇を舐めた。泉は上から押し潰したような楕円形の眼鏡をかけている。友寿はその眼鏡を取ると、机の上に乗せた。泉の目はいつもちょっと潤んでいて、下がりぎみの目尻の優しい感じとあいまって妙に色っぽい。泉はそんなことにはまったく気づいていないように、無防備に友寿を見つめる。
「今日の分、まだ終わってないよ」
「後でする」
「嘘ばっかり」
 非難めいたことを言っても、泉が拒絶するようなことはなかった。抱きしめると背中に手を回してくるし、キスをすると先に舌を絡めてくる。小柄な泉を抱えるようにしてベッドに移動した。何度も唇を合わせながら、互いの服を脱がせていく。泉が唇で耳を噛んでくる。熱く湿った息が吹き込まれて、友寿も高ぶった。泉のいる二時間だけは、母は二階には上がって来ない。父がこの時間に家にいることはまずなかった。あと四十分ほどだ。明るい部屋で、あわただしく求め合った。

 

 授業の後、泉はうちで食事をして帰る。かわいい顔におっとりとした性格の泉は母のお気に入りだ。
「友寿も、いつも眉間に皺寄せてないで鷹取さんを見習ったら?」
 母は友寿と泉を見比べると、大袈裟にため息をついた。
「ほんと、友寿ってばオジサンみたいなんだから」
 悪かったな。
「大人っぽくていいじゃないですか。ぼくなんて飲みに行っても身分証明見せろってしょっちゅう言われるんですよ」
 泉の言葉を聞きながら、持ち上げた汁椀の中、ねぎと一緒にみそ汁に浮かぶ自分の顔を、友寿はしげしげと見つめた。たしかに、不機嫌そうに見える。とくに気分を害しているわけではないのに。それどころか、さきほどの情交の満足で、機嫌はいい。目元がきついせいか、それとも閉じると口角の下がり気味になる口のせいか。
 俺が泉のように笑っても似合わない。そう友寿は思う。泉は母の話を聞いてころころと笑っている。子どもみたいな笑顔。さきほど友寿の下でもっととねだった表情を思い出す。
 泉とは告白し合った恋人同士なわけではないが、セックスフレンドというほどドライな関係でもない。好きなのかと訊かれれば、きっと好きなんだろうと答える。そんな相手だった。
「うちの母は料理は全然ダメなんですよ。マメなんでいろいろやるんですけど、べちゃべちゃの天ぷらとか甘苦いグラタンとか。独りで暮らしてる今のほうが、食生活は健全です。普段は学食ばかりですけど、こうして御馳走していただくこともあるし」
 泉と母はつまらない話で盛り上がっている。友寿は一人蚊帳の外で、鯖の煮付けを食べながら、二人の会話を聞き流した。
「よろしくおねがいしますねぇ」
 泉を見送る母が、深く頭を下げた。明日の夜から泉のマンションに二泊することになっている。週明けからセンター試験が始まるのだ。土日を使ってたっぷり勉強することになっていた。しかし友寿としては、たっぷりとできる別のことのほうに気を取られていた。

 

 子どものころから友寿は、目つきが悪いの愛想がないのぶっきらぼうだのと散々言われてきた。
 曾祖母の家は広い庭のある古い平屋だ。その家に曾祖母と伯母――曾祖母にとっては孫娘――夫婦が住んでいる。盆暮れにはその家に親戚が集まった。続き部屋の襖を取り払い座卓を繋げ、料理と酒が並べられる。酒が回り大人たちの話が下世話なほうに流れ出すと、子どもたちは庭に出された。年上の子が、小さい子どもたちのめんどうを見ていた。
 当時友寿は「小さい子ども」の一人だった。滑らかな敷石の上を使ってビー玉をして遊んでいた。友寿が何度か続けて勝つと、対戦相手の再従兄弟が怒り出し、友寿を打った。一人っ子でのんびりしていたのだろう、友寿は突然の理不尽に驚き呆然とした。額の左側を殴られたのだが、痛みよりショックのほうが大きかった。友寿が黙っていると、相手のほうが泣き出した。
 縁側から一部始終を見ていたらしい中年の女が友寿に向かって言った。
「石みたいな子ね」
 どんな縁の人だったかは覚えていない。たるんだ太い首に大きな真珠のネックレスをしていて、母より年上だろうということだけはわかった。  なるほど、うまいことを言うものだと幼心に思った。
 栄子とのときもそうだった。 「もう友寿とは会いたくない」つきあい初めて半年も経たないうちに、面と向かって切り出された。友寿が立ち尽くしていると、栄子は泣き出した。思わぬ愁嘆場だった。
「どうしていつもそうなの。私が何を言っても、どうでもいいって顔して!」
 そんなふうになじられた。友寿は応えることができなかった。
 自分の内には、感情が表に流れ出るのを止める扉があるのではないか。そんな気がする。おまけに無口とあっては、我ながら石のようにつまらない人間だと思う。
 人懐こい微笑みと物柔らかな話し方。泉は友寿とは正反対の人間だった。
 関係を持ったのは、ちょっとした気まぐれとタイミングからだった。こういう言い方が一般に通用するなら、泉はきれいな男だ。子どもみたいな柔らかい髪に、小さくて陶器のようになめらかな顔。印象的な目。舌足らずの甘えるような話し方は、ハタチを過ぎた男にしては幼なすぎるが、不思議に不快ではなかった。つまりは最初から好印象だったということになるのだろうか。
 泉が来るようになってからひと月ほど経ったころに受けた試験の結果は、なかなかのものだった。成果を報告すると、泉は目尻をいっそう下げて喜んだ。
 母は友人と一泊旅行ら出ていて、その晩は家には友寿と泉の二人きりだった。
 ちょっとからかってやろう。そんな気持ちが半分だった。
「ご褒美をくれないか」
「そういうのはお父さんかお母さんに言いなよ」にこにこしながら泉が言う。「ぼくのご褒美も、友寿くんの親御さんからいただいたんだから」
 臨時収入が入ったらしい。ベッドに腰掛けた友寿は、手を伸ばすと泉の腕を取り引き寄せた。膝で泉の脚を挟む。友寿が顔を上げると、覗き込む泉と間近で見つめ合う形になった。泉は微笑んだままだ。友寿の指が泉の耳を撫で眼鏡を取り去る。友寿の目の中にあるものを正確に読み取ったように、泉から唇を重ねてきた。熱い舌がすぐに侵入してくる。友寿の舌を捕らえ、絡め取り、吸い上げる。友寿の口内を存分に味わうと、たっぷりと余韻を残して離れた。くらくらするような濃厚なキスだ。これでいい? と言うように、友寿を見る。いつもと違う、挑戦的で淫靡な微笑み。もう一度唇を求めた。
 拒まれれば無理強いするつもりはなかった。だが泉は黙ってベッドに横たわった。小柄な泉はまるで女の子のようにすっぽりと友寿の腕に納まる。ただ抱きしめた肩や腰の感触が、女とは違う。友寿の顎が、ちょうど頭頂部の髪に埋まり、さわやかな甘いにおいを嗅ぐことができた。
 胸元のボタンを片手で外し、露になった鎖骨から肩にかけてにくちづける。
 泉の掌が、友寿の股間にふれる。焦らすように何度か撫で上げた後、ファスナーを降ろした。掴みだした友寿を握り込む。手慣れていた。少女めいた童顔とその淫猥な手の動きのギャップが、友寿を興奮させた。泉は巧みで、友寿はたちまち登り詰める。
「う……」
 思わず漏れた声を拾うように、泉が唇を被せてくる。それから先は、何も考えられなくなった。
 泉はその後も呆気ないほど簡単に、友寿の誘いに応じた。まるでそれも仕事の一部であるかのように。だが義務的な感じはしなかった。泉はむしろ積極的に楽しんでいた。秘密の時間を楽しみ、セックスを楽しんでいる。ベッドの中と外では別人だ。ベッドの中でも泉は、恐ろしいほど蠱惑的だった。
 身じろぎする気配に目を開ける。ベッドを出た泉は床に投げ捨てたシャツを拾い袖を通す。
「友寿くん、ぼくもう帰らなくちゃ」
「……ああ」
 虚脱感にぼんやりとしている友寿の唇に、泉がキスをする。ちゅ、と音が立った。
「今日できなかった分は宿題だからね。火曜までにやっといて」

 

     *

 

 金曜日、学校から一旦家に戻ると食事をしてから泉のマンションに向かった。泉の描いた地図を頼りにたどり着いたのは、五階建ての古いマンションだった。外観はかなり年季が入っていたが、室内は改装したばかりのようで、明るい色の壁が目についた。独り暮らしなのに広いリビングダイニングがある。室内はモノトーンでシンプルにまとめられていたが、戸棚やベッドにひょいとぬいぐるみが置かれている。
「母さんの趣味なんだよ。置ききれないやつを送ってくるんだ」
 さすがに照れくさいように、泉は言った。
 翌朝は晴天だった。カーテンの隙間から漏れ込む陽光の色合いは春めいている。ゆうべは泉のベッドで抱きあって眠った。シングルサイズのベッドで、友寿は行為の最中に何度か滑り落ちそうになった。
「泉」
 うつぶせで眠る泉の薄い肩にくちづけると、手をかけて軽く揺する。
「泉、朝だ」
「う……んん」
 毛布の抱えてもぞもぞと蠢いている。しばらくそうしてから、のそりと起き上がった。柔らかいクセっ毛が、台風一過のようなありさまになっている。
「頭すごいぞ。毎朝こうなのか」
「んん、そおなんだ。お風呂入んなくちゃ外に出られれ……られれない」
 声がいっそう甘く掠れて、語尾が寝息に溶けていく。身体がゆらゆら揺れている。そのままベッドに沈み込みそうになるのを抱きとめた。
 髪は朝風呂に入らなければ整えるのに一時間はかかるのだと言う。ベッドの中では驚くほど巧みなのに、普段の泉は手先が不器用だった。それを差し引いても、むちゃくちゃに跳ね回っている柔らかな髪を整えるのはたしかに骨が折れそうだ。抱きかかえるようにして風呂場に連れて行き、背中から抱きしめる格好で髪を洗ってやった。ドライヤーとブラシも使う。友寿に身体を預けたままだ。「王様になったみたい」とうっとり微笑む泉をベッドに連れ戻る。
「やだ。またくしゃくしゃになっちゃうよ」
 着せたばかりのシャツを脱がすと、泉は陽だまりの猫のように友寿の腕にじゃれついた。湯上がりの肌は熱を含み、友寿の肌にぴったりと吸いつく。
「また洗ってやるよ」
「勉強、どうするの。あさってからテストなのに」
「後でする」
「嘘……ばっかり……」
 友寿がキスしたので、泉はそれ以上言いつのることはできなかった。
 午前中をベッドで過ごしたあとは、夕食までみっちり机と向かいあった。いつもの授業の後も、泉が帰ってから夜中まで勉強している。
「友寿くんて頭いいんだね。なんかぼく責任重大だなぁ」
 初めて友寿の部屋に来た泉は、友寿の成績表を見てそう言った。成績と頭の良さは関係ないと、友寿は思う。要領と集中力があれば、ほどほどの成績はとれる。友寿は受験に対してとくに思い入れがなかった。受験費用を出す両親には申し訳ないが、落ちればそれまでだと思っている。しかし泉が来てからは、以前よりは真剣に受験勉強に取り組んでいた。友寿が落ちれば、泉はすくなからず責任を感じるだろう。友寿をやる気にさせるという点では、母の目論見は成功と言えた。
 昼は勉強して、夜は泉とたっぷり楽しんだ。有意義な二日間だった。

 

 日曜の夕方、泉は友寿を家まで送り届けた。夕食をという母の誘いを、大学の友達と約束があるのでと断った。
「テストがんばってね」
 駅まで送ると言う友寿に、笑って手を振る。「いいよ、寒いから。風邪でもひいたらたいへんだ」
 たしかに陽の沈むこの時間に吹く風は、太陽の最後のぬくもりを拭い去るように冷たい。泉について門扉まで出ると、ちょうど父が帰ってくるところだった。休日とはいえ、こんな時間に帰宅するなんてめずらしい。父は高校で教師をしている。家庭より職場に重心を置いて生きている人で、会話どころか顔を会わせることすら稀だった。何が気にいらないのか、いつも眉間に皺を寄せている。友寿は父親似だ。
「親父だ」
「え、じゃあ、あいさつしなくちゃ。友寿くんのお父さんに会うの初めてだったよね」
 泉はあわてて、コートの襟を整え、髪に手をやった。夕闇が迫る道、茜色の残光を背にした父の顔を見ると、泉の笑顔が固まった。父が足を止める。
「知念先生……」
「……鷹取くん」
 たかとりくん、と言う前に、父の口が別の形を作っていたのを、友寿は見逃さなかった。いずみ。
「お久しぶりです」
 泉の顔がこわばっていたのは一瞬だけだった。
「友寿くんの家庭教師をしています」
「そうか。K大に受かったんだな」
「はい。先生のおかげです」
 父も泉も明らかに友寿を意識している。うわべだけの言葉が交わされるのを聞いていると、居心地が悪くなった。
「……コンタクト、やめたのかい」
「やっぱり合わなかったみたい」
 泉はささやくように言って、かすかに苦笑した。泣いているみたいな顔。泉がこんな顔をすると、友寿はいつも刺激された。いじめてやりたいようなずっと抱きしめていたいような、奇妙な気分になった。だが今日は違う。
「駅まで送る」
 泉の腕をとって歩きだした。父のわきを通って。だが父のほうは見ずに、まっすぐ。
 二人きりになると、泉は目をくりくりさせて笑い出した。友寿は憮然とする。
「びっくりした。友寿くんて知念先生の息子さんだったんだ」
「知念て、けっこうめずらしい名字だと思うけど」
「そうだね」
「気がつかなかったのか」
「全然」
 けろりとしている。
「つきあってたのか、親父と」
 さすがにすこしためらってから、泉は首肯いた。「ごめんね」
 高校のころに、と付け足した。
「でも今はもう別れたから」
「なんで別れたんだ」
「ぼくが子ども過ぎたんだよ」ため息のようにささやいた。「会うたびに、帰らないでって泣いたりしたから、先生疲れちゃったんだと思う」
 泣くほど好きだったのか。泉は他人に執着するタイプではないと思っていた。泣いて縋る姿など想像できない。
「今でも」
 自分でも思いがけない言葉が出た。「今でも好きなのか」
「そりゃあ、好きだよ。嫌いで別れたわけじゃないもの」
 泉はさばさばと言うと、友寿の顔をうかがった。
「でももう昔のことなんだから、知念先生のこと悪く思わないでね」
 それは無理というものだ。

 

     *

 

 泉のマンションで週末を過ごすことが多くなった。泉のところへ行くと言えば、母はたいがい気持ちよく送り出してくれる。
「ご迷惑にならないようにね」
 などと言われて、煮物の入ったタッパーや缶詰を持たされる。泉のバイト料も上がったそうだ。
「なんだか騙してるみたいで、罪悪感あるなぁ」と泉は言うが、まったく勉強をしていないわけでもないのだからと友寿は思う。
 泉の住むマンションは駅の周囲が開発される前に建てられたらしく、古いが生活の利便は良く、裏手は開発制限地区に指定された緑地が広がっている。掃き出し窓から朝靄に煙る木々を見渡すと、町中とは思えない清涼感があった。早朝には野生化したインコが群れを成して飛んでいくのを見ることができる。何百羽ものインコの羽音と鳴き声、飛び立つときにしなる枝々の立てる音はうるさいが、ベッドの中で夢うつつに聞いていると、山奥にでもいる気分になる。
 夜には月が美しい。ビルの上に浮かぶ月とは、違うように見える。
「いい月だね」
 うっとりと言う泉に、寝ぼけた月だと言い返す。中天にかかる月は周囲が淡く霞んでいた。空との境の曖昧な月は、見ていると不安になる。月を見上げる泉の、首筋が白い。抱きしめて、ベッドになだれこんだ。
「あ……ん」
 泉の声はいつ聞いても劣情をそそられる。背後から重なり、うなじにくちづけする。身体中に手を這わせながら内部に侵入した。泉がもどかしげに身体をよじるのを楽しみながら、ゆっくりと動く。
「や……おねがい、友寿くん」
 哀願を無視して、さらに焦らす。きつく閉じたまぶたのあわいに涙が滲むのを見て、身震いするほど高ぶった。抱きあったまま、身体を入れ替える。狭いベッドにも慣れた。常に密着していなければならないのも、ゲームのようで楽しい。
「う、うん……は」
 友寿が身体を揺らすのに合わせて、泉は歌うような声を上げる。絡み合い、高まり合っていく。
 インターホンが鳴る。泉が身体を起こそうとしたので、反射的に肩を押さえた。
「ほっとけよ」
「でも……」
 口ではそう言っても、泉の抗う力は弱かった。深く繋ぎとめたまま、被さるようにしてくちづける。そのまま激しく動いてやると、泉は声を上げてしがみついてきた。玄関ドアに鍵が差し込まれ開閉する音も、寝室のドアが開く音も聞こえなかった。
「泉」
 突然声をかけられて、ぎょっとして動きを止めた。
「あれ、飯島くん」泉は友寿を受け入れたまま、友寿の肩越しに声の主に笑顔を向けた。「いつ帰ってきたの」
「二時間前に空港に着いた。何度電話しても出ないから来た。……こんなことだろうとは思ってけどな。新顔だな」
「家庭教師の話したっけ? ぼくの生徒」
「ナニ教えてんだか」
 友寿は情けない格好のまま、二人のやりとりを聞いていた。首を捻って「飯島くん」とやらを見る。大柄でがっちりした体格をした男だった。旅行帰りらしいでかいバックパックを持っている。色あせ擦り切れてはいるものの頑丈そうなバックパックを見て、旅馴れているのだろうと友寿は思った。男は呆れ顔で友寿たちを見おろしている。
 友寿の腰に絡めた脚を解きベッドから抜け出すと、泉はバタバタと浴室に駆け込んだ。部屋に戻ると、まだ上気した肌に友寿が投げ捨てたシャツを被る。
「ごはんまだだよね。ファミレス行く?」
 泉が訊くと、男は友寿をちらりと一瞥してから、ああ、と言った。
「ごめんね友寿くん。すぐ戻るから課題やっといて」
 ジーンズに足を通し髪にブラシを入れると、泉は出て行ってしまった。あっという間の出来事だった。友寿はすっかり拍子抜けして、風呂に入ったあと泉に言われた通りに課題を片付けてからベッドに入った。いつ眠ったかは覚えていない。

 

     *

 

 友寿も泉も、料理は得意ではない。勉強を終えると、散歩がてらに外に出た。泉は夜風でかき乱された髪を「やだなぁ」と言いながらしきりに撫でつけている。
 あの男が来た翌朝、目が覚めると泉がいた。上機嫌で朝食の支度をしている。支度と言っても、食パンをトースターに入れインスタントスープに湯を注いでいるだけだ。朝食を摂りながら、泉はゆうべのことを謝った。飯島は高校時代からの友人だという。泉はそれだけしか言わなかった。友寿もそれ以上は訊かなかった。
 街灯に引きつけられる蛾のように、目についたファミレスに入った。夕食時はとうに過ぎていたが、店は混雑している。
「どこから湧いてくるんだ」
「ぼくらだって同じだよう」
 席につくことはできたが、そこからが苦行だった。テーブルに案内される客と会計に向かう客がひっきりなしに友寿たちのテーブルの横を通り、注文した料理はいつまで経っても運ばれてこない。喫煙ブースから流れてくる煙。家族連れの子どもの発する、耳を刺す奇声。失敗した。もうすこし歩いて牛丼にすればよかった。
「あれ……た、鷹取?」
 席に案内されている途中のグループの中から、男が一人近寄ってきた。両耳に三つずつピアスをしているのが目についた。短いシャツの裾から覗くヘソにもひとつ。ボロ布同然のジーンズを履いた、気弱そうな猫背の男だった。泉はいつも通りの愛想の良さで微笑む。友寿に見せるのと同じ笑顔だ。
「竹内くん、久しぶり」
「い、飯島、帰ってきたんだって」
「うん。でもまた来週から出掛けるって」
 竹内は露骨にうれしそうな顔をした。
「じゃあ、週末にでも……飲みに行かないか」
 うっとりと泉に見とれていた竹内は、友寿が睨んでいるのに気づくと口の中でもごもごと言いながら去って行った。ああ、今日は彼と。そんな言葉が聞こえた。
 今日は彼と。
(新顔だな)
 こんな男とも、泉は寝るのか。
「出よう」
「でも、まだ料理来てないよ」
 強引に店から連れ出した。
「どうしたの」不思議そうに目を丸くした泉が訊く。「どうするの」
 石を飲んだような気分だった。なぜこんな気分になるのかわからない。ファミレスの明かりが届かないところでまで歩いて足を止める。友寿が突っ立ったままでいると、泉はあたりをきょろきょろと見回した。
「あっち。あの路地にラーメン屋があるはずだよ」
 行こう、と今度は泉が友寿の手を引いた。
 ラーメンと焼き飯を食べてマンションに戻った。
「ラーメンおいしかったね」
 先に風呂を使った泉が髪を拭きながら浴室を出てくる。トレーナーの上下を着ていて、眠るときはいつもこの格好だ。上気した頬と乱れた髪は、情事の後を思わせる。泉を見る竹内の、媚びるような卑しい目が浮かんだ。いつも眉間に皺の寄っている父の顔も。
 誰にでも甘く微笑む泉。
 泉は汚い。
「あいつとやったのか」
「あいつって竹内くん? んー……どうだったかな。したかも」
 とぼけているのではないらしい。
 わかっていたはずだ、と友寿は思う。泉はそういう人間だと、承知していた。でなければ友寿に抱かれることもなかっただろう。
「友寿くんもお風呂入っておいでよ」
 手を取って引き寄せる。泉はすんなりと友寿の腕に納まった。髪の香も湯であたたまった肌の感触も、もうすっかり友寿の中に馴染んでいる。泉の唇は柔らかい。くちづけて、濡れた内側に舌を這わせた。
 どうして俺だけのものじゃないんだろう。
 風のように、そんな考えが友寿の中を吹き抜けた。ただそれはほんの一瞬の風だったので、友寿自身もその考えを捕まえることはできなかった。

 

2/2に続く