真昼の月 (2/2)
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1/2の続き

 

     *

 

 泉は頬杖をついて窓の外を眺めていた。出された問題はとうに解けている。泉は上の空で、友寿がシャーペンを置いたのにも気づかないようだ。友寿は泉の横顔を見つめる。目尻の下がりぎみの、黒々とした目。小ぶりだが低めの鼻。ふっくらした唇。ため息をつくようにわずかに唇が開き、白い前歯が覗いた。
 何を思っているのだろう。誰を――
 はっとしたように、泉が振り向く。友寿の手が泉の肩を掴んでいた。無意識だった。友寿自身驚いた。そのままくちづけすると、泉は崩れるように友寿の胸にもたれかかった。奪い合うように絡む舌の感触と湿った音に欲望が疼く。ジーンズに包まれた尻に手を回してつよく掴むと、泉の背中がぶるっと震えた。反撃するように友寿の唇に軽く歯を立てる。
 泉の尻を抱えるようにして、ベッドに移動する。泉は自分で眼鏡を外して机に置いた。ジーンズの前立てをくつろげながら、もう片方の手でシャツを顎のあたりまで引き上げる。
 平らな胸に、アクセントのような小さな突起がある。誰にもふれられたことのないような淡い色のそこは、まるで泉を象徴しているようだ。初に見えても、快感を知っている。そこへの刺激だけで達したことすらある。指でつまむとすぐに固くなった。しかしほんとうに欲しがっているのは指じゃない。唇を被せ舌で丹念に愛撫すると、泉は激しく身体をくねらせ声を上げた。
 抱きあった肌から、ふと、泉の使っているのとは別のコロンの香がした。泉のコロンは首筋からかすかに香っている。
 泉がいつもより物憂いようすなのは、他の男に抱かれた後だからなのか。
「泉……」
「ん……なに」
 疲れているのなら、そう言えばいいのに。泉はいつもと同じ甘い笑みを浮かべて友寿を受け入れた。
「なに、友寿くん」
 甘い言葉を紡ぐ唇を塞ぐ。
 見知らぬ男の残り香を嗅ぎながら、泉を抱いた。
 このごろ泉を見ていると、奇妙な不安に駆られる。それは正確には不安とは別の感情だったが、友寿はそれを正しく表す言葉を持たなかった。それが友寿をいっそう落ちつかなくさせる。欲情にすり替えて発散させている自覚はあったが、他にどうすればいいかわからない。
 逐情の余韻に甘い息をついて離れようとする泉を引き止める。まだ熱く疼いている場所を、指で嬲る。
「だめだよ……もう時間が」
 言葉とはうらはらに、泉の内部は友寿の指を捕らえ、煽るように蠕動した。指を抜くのと同時にふたたび侵入した。泉は甘い息を漏らしながら腰を揺らす。一心に泉を責め立てながら、頭のどこかは冷めている。冷静に、身悶える泉と、泉と繋がる自分を観察していた。薄いゴムを隔てて泉の奥深くに密着している。かすかな反応もすべて伝わってくるのに、まるで遠い。
「あ……」
 咥えこんだ友寿を味わうように身体をしならせた泉が、大きく身震いする。誘われるように友寿も達した。友寿の肩に、泉が顔を伏せる。
「はぁ……」
 荒い呼吸が、ゆっくりと寝息に変わる。火照ったうなじにふれた。泉は口を薄く開けて眠っていた。ピンク色の舌が見える。いつもと同じ行為なのに、物足りなかった。こうやって眠っている泉をただ抱いている今のほうが満たされる。
「泉、そろそろ下に降りよう」
 友寿の胸にもたれたまま、とろとろと眠る泉に声をかけた。
「んん」
「眠いのか」
「ゆうべ遅かったんだ」
 あの男と一緒だったのか。それとも別のやつか。
「こんなところ見つかったらクビになっちゃうね」
 泉は笑いながら、脱ぎ散らした服を身につけ眼鏡を手に取る。
「……明日の夜、行ってもいいか」
「明日ならいいよ」
「日曜は?」
「あさっては、ゼミの飲み会があるからダメ」
「……なんで、誰とでもやるんだ」
 泉が振り返る。楕円形の眼鏡の奥の、潤んだ瞳が友寿を見つめる。
「誰とでもじゃないよ。好きな人としかしないもの」
「泉は嫌いなやつ以外は全部好きなんだろ」
「ぼく淫乱なんだよ」
 言い掛かりに近い言葉に応えた泉の言葉に、友寿は絶句した。泉が「淫乱」などという言葉を使うのは、ひどく違和感があった。たとえ泉の行動がその言葉通りだったとしても、やはり似合わない。泉は友寿が驚いていることになどすこしも気づいてないようだ。ドアを開けて廊下に出た。
「早く行かないと、ヘンに思われちゃうよ?」

 

     *

 

 恋人ではないがセックスフレンドというほどドライな関係ではない。そんな気楽さから、徐々に遠ざかっていく。友寿の腹の底には得体の知れないものが黒々とわだかまっていた。気まぐれな獣を飼っている気分だ。それでも泉が家に来るたびに関係を持ったし、週末は泉のマンションに泊まった。あの晩以来、友寿の知る限り泉と父は会ってはいない。泉も、父のことについては何も言わない。遠慮しているというよりは、きれいさっぱり忘れているように見える。
「親父とつきあってたのって、十六くらいのときだろ。親父が初めての男なのか」
「ちがうよ」
「初めての男って、どんなやつ?」
「……友寿くんの知らない人」
 泉はわずかだが言い淀み、友寿は苛ついた。いいから言えよとつよく促すと、泉はちょっと唇をとがらせた。
「飯島正義さん」
「どういう人?」
「どうゆうって」
「だから、先輩とか同級生とか」
「友寿くん、さっきから質問ばっかり」
「はぐらかすなよ」
「どうしてそんなコト訊くの」
 のらりくらりとつかみどころのなかった泉が、ふいに友寿を真正面から見据えた。
「友寿くんの知らない人なのに、どうして訊くの」目の奥を覗き込むように顔を寄せてくる。間近で見る泉の瞳は、ガラス玉のようだった。透き通る。どんな光も。
「どうしてそんなこと知りたいの」
 泉の言うとおりだ。問い詰めるつもりなんかなかった。友寿にそんな権利はないし、垣根越しによその庭を覗くような、そんな人間ではないと思っていた。
「なにも知らなくても楽しめるのに。ほら……」
 ささやきながら、泉の唇が友寿の唇に重なってくる。泉から誘ってくるのは初めてだった。泉は友寿を拒むことはなかったが、自分から友寿を誘うこともなかった。
 泉の肩を柔らかく押して唇を離す。「……ちゃんと話そう」
 友寿の言葉に、泉がかわいらしく首を傾げる。ハタチを過ぎてこんな仕草が似合う男がいるというのは、ある種の奇跡かもしれない。
「ちゃんとって?」
 友寿の肩に手を置くと、向かい合う形で膝に跨がった。ふたたび顔を寄せる。「今日はしないってこと?」
 生唾を飲むのを堪える。「そうだ」
「キスもだめなの」
 甘い声と、唇にふれる吐息にくらくらした。
「友寿くんどうしたの。急にそんなつまんないこと言い出してさ」
 泉はさらさらと痛いところを突く。
「つまんないよ」もう一度繰り返すと、友寿の膝から降りた。
 逃げるように部屋を出ると、玄関の前で大柄な男と行き会った。友寿を見ると男は露骨に顔を歪めた。今日はバックパックを背負っていないし、服装もこざっぱりしている。
(あれ、飯島くん、いつ帰ったの)
「――あんたが飯島正義か!」
 思わず声を荒げた友寿に、飯島の顔つきも変わる。目鼻立ちがはっきりしているので、表情の変化も激しい。威嚇する獣の顔で友寿を睨んだ。
「泉はそんなことまで話したのか」
 獣の表情はすぐに消え、うんざりしたようなため息をつく。「俺じゃない。正義は兄だ」
 泉と兄についての詳しいことは知らない。首をつっこむのはごめんだからな。嫌な顔をしたまま、飯島は吐き捨てた。
「おまえ、本気で泉とつきあってるわけじゃないんだろ。つまらない好奇心は引っこめて適当に楽しんどけよ。泉はあの通りで、たぶん一生あのままだ」
 黙っている友寿を見るうちに仏心が出たのか、飯島は口調を改め心配すことはないと言った。
「俺の知るかぎりでは、泉がつきあってる男は今はおまえだけだ」
 今は、か。
「あんたは?」
 飯島は渋面をさらに歪めた。「俺は泉とは寝ない」
 挑むような目で友寿を見る。
「そんなに意外か、泉と寝てないのが」
「誰。飯島くん?」
 部屋の奥から泉の声が聞こえた。友寿は今度こそ本当に逃げ出した。

 

 合鍵を持つような仲じゃない。だからインターホンを押して、ドアの前で待った。いつまで経っても応答はなく、ドアも開かない。鼻の奥がつんとするような寒い日だ。マフラーを巻いている首は暖かいが、頬は冷たくこわばっている。背後から乾いた羽音が幾重にも重なって聞こえた。振り返って廊下の外を見ると、インコの群が羽ばたいていくのが見えた。色鮮やかなタペストリーが、空を移動していく。
 友寿は腕時計に目を落とした。約束の時間にはまだ十分ほどある。買物にでも出たのか。それとも眠りこんでいるのか。コートのポケットから携帯を取り出す。通話ボタンを押す前に、ふと思いついてドアに手をかけた。
 鍵はかかっていなかった。
 玄関を入ると正面に短い廊下がある。右手が洗面所と風呂トイレ、左が寝室だ。突きあたりにガラスを填め込んだドアがあり、そこを開けると台所とリビングがある。
「泉?」
 リビングのソファに、二人は並んで座っていた。泉は膝を抱え、飯島の肩に頭を乗せて眠っている。飯島は……飯島はこれ以上はないというほど憮然とした顔をして押し黙っている。苦虫を噛み潰したようなその表情は、まるで魔除けの鬼瓦だ。
「おい」
 友寿を見るなり、飯島は声を上げた。太い声にびくりとした泉が顔を上げる。友寿が来るまでは、きっと身動きひとつしなかったくせに。
「ああ……友寿くん」
 泉が頭を上げると、飯島はさっさと立ち上がり、膨らんだバックパックを担いだ。
「もう行くの」夢うつつのような頼りない声で、泉が言う。
「ああ」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 新妻のようなセリフに、飯島はしかめ面のまま軽く首肯いて出ていった。
「今度は北海道だって。旅人なんだ、飯島くんて」
 いたずらっぽく微笑む泉に、思わず尋ねた。
「泉もどこかへ行きたいのか」
 泉は意外そうに目を見張り、それからあらためて微笑んだ。
「どこへ行ったって同じだよ」

 

 これからベッドに入ろうという時になって、泉は爪を切り始めた。手指を切ると床に宅配ピザのちらしを敷いて足指を、胡座をかいてパチリパチリとやっている。
「明日にすればいいのに」
「んん、でも気になるんだ」パチリと、親指の厚い爪を切る。
「ちゃんとヤスリかけてくれよな」
 最中に切りたての爪で引っ掻かれてはかなわない。
 真剣な表情をしていると、泉の顔からはいつもの柔和さが消え不思議なほど冷淡に見える。友寿がそう言うと泉は顔を上げ、ちょっと困ったように微笑んだ。
「昔よく言われた。泉はいつも不満そうな仏頂面ばかりしてるって」
 想像できない。仏頂面の泉なんて。
「俺は石みたいだって言われたな」
 友寿の場合は石のままこの齢になった。泉は友寿をまじまじと見つめると、甘く笑った。
「ぼくはそうは思わないけど」
 飾らない軽い口調だった。泉は手を伸ばすと、友寿の耳の横の髪を撫でる。「うん、全然そんなふうには思わない」
「仏頂面って言われたの、いつ」
「ずっと昔」
 泉は友寿から視線を外すと、爪切りを再開した。
「……誰に言われたんだ」
 飯島正義か。それとも――
 もう一度顔を上げると、泉は微笑んだ。泉には不似合いな、すこし寂しげな笑顔だった。

 

     *

 

 両手にスーパーのビニール袋を持った母が帰宅する。いっぱいに詰まった袋を台所に運ぶのを手伝っていると、買物に使っている自転車の調子が悪いと言い出した。
「グラグラするのよね。ブレーキかけてないのになんだか引っ掛かるし」
「ちょっと見てみるから、庭に回して」
 毎日母の身体と大荷物を乗せて走っていれば無理はない気もする。友寿は工具箱を持ち出すと、リビングの掃き出し窓から庭に出る。
「どう?」
「前輪のリムが曲がってる。どこかにぶつけただろ」
「ああ、そういえば」
 荷物が多くてハンドルを取られて、電柱に正面衝突したのだと言う。
「気をつけろよ」
「自転車屋さんに持ってかなくちゃだめ?」
 友寿は立ち上がると、リムの下部を脚で挟み上部を手で持ってぐいと二度捩った。正面から確認すると、リムの曲がりはほとんどなくなっている。ぶつけた時の衝撃で緩んだらしいブレーキも締め直す。
「しばらく乗ってまたグラグラしだしたら、自転車屋に行ったほうがいい」
「ありがと、助かったわ」
 母がまじまじと友寿を見ているのに気づいた。
「鷹取さんのおかげかしらねぇ」
 突然泉の名が出て、友寿はひやりとした。
「……なにが」
「最近愛想がよくなったわよ、あんた」
「これくらいのこと、いつもしてるだろ」
「いつもは黙ってやっちゃうじゃない」
 そうだったろうか。そう言われれば、そんな気もする。
「……そうかな」
「そうよ」
 母は勝ち誇ったように胸を反らすと、桜餅買ってきたからお茶入れるわねと言いながら家に戻っていった。
 自転車を玄関前に戻しながら、友寿は釈然としないでいた。

 

 泉のマンションで飯島と鉢合わせするのは、これで何度目か。言葉を交わしたこともあったが、たいがいは友寿などいないかのように無視して立ち去る。
「よく会うな」
 飯島が笑った。友好的なものではないにしろ、飯島が友寿に笑顔を向けたのは初めてだ。
「入試もうすぐだろ。猿になってると落ちるぞ」
 そんなに泉にはまってんのか? 嘲るような調子で言われても、腹は立たない。飯島が泉を軽んじてはいないことを知っているからだろう。
 ふいに、飯島が訝るように眉をひそめる。
「おまえ、泉に惚れたのか」
 そうかもしれない。ここしばらくのこのもやもやも、それなら納得がいく。
 だが、別の疑問が浮かんだ。
 俺はいったい、泉のどこに惚れたんだろう。顔か、身体か。それくらいしか思いつかない。正直言って、無節操に男と関係を持つ泉はバカだと思う。何を考えているのかもさっぱりわからない。それでも泉に惹かれていると言えるのか。
 飯島はそれ以上は追求せずに去っていった。友寿は泉に迎えられ、部屋に入る。飯島に会ったあとの泉は機嫌が良い。陽気なのとはすこし違う、穏やかな充実感がある。いつものように他愛ない話をして、一緒に食事をして、ベッドに入った。
 きつく閉じた瞼の内側には、飯島がいるのか。それとも兄の正義のほうか。抱きあっている最中にも、そんなことばかりが頭を巡った。友寿が飯島正義のことを考えると、どうしても弟の顔が浮かぶ。正義の顔を知らないのだから仕方がない。意志の強そうな太い眉に、不機嫌に引き結んだ口。泉が信頼を込めて見上げるあの顔。
 いつもより熱い蠢動に、急激に射精感が高まっていくのを感じた。泉が目を開ける。熱っぽく潤んだ瞳が友寿を見つめる。
 唇が重なる間際に、泉がささやいた。
「……友寿くん」
 その瞬間に、友寿は達してしまった。これまで感じたことのないような、激しい快感が身体を貫いた。思いがけないことに友寿はうろたえたが、しかし泉は気づいてはいないようだ。ねだるように腰を揺らしながら、ふたたび友寿を誘う。
 泉の部屋で交わった後は、二人で風呂を使うのが習慣になっていた。情交の痕跡を洗い流すと身体を拭いただけで裸のまま部屋に戻る。ペットボトルのスポーツドリンクを回し飲みして、やっと人心地ついた。
「友寿くん激しかったねえ」
 自分のことを棚に上げて、にこにこしながらそんなことを言う。
 心地よい疲労感を抱えて、またベッドに戻り抱き合う。抱きあっていないと狭いベッドから落ちてしまう。友寿の腕の中で、泉はうっとりとしたような深いため息を漏らす。
「友寿くんて毛布みたい」
 口ぶりからすると褒めているらしい。胸元にぐりぐりと顔を埋める泉をあらためて抱いて、友寿も目を閉じた。

 

     *

 

 キリのいいところで教科書を閉じる。知らないうちに力が入っていたのか、凝った肩をさすりながらベッドに転がった。耳を澄ますと、階下から母の見ているテレビの音声がかすかに聞こえてくる。高校に上がった年に買い替えたベッドは、泉の部屋のより大きく、ゆったりと手足を伸ばせる。泉と二人のときも余裕があった。
 友寿は小柄な子どもだった。それが中学の三年間にみるみる身長が伸びた。高校に入るころには体格のほうもそれに見合った幅と厚みが出て、顔立ちとあいまって実際より年長に見られるようになった。
 友寿が高校に入学した年、富島栄子は三年生だった。ブレザーにリボンタイの制服姿が滑稽に見えるほど、栄子は大人びた身体つきをしていた。顔の造作は地味だが長い髪に調和して上品な雰囲気を醸し出している。外で会うときなど、きれいに化粧をした栄子は高校生には見えなかった。彼女自身それを充分に承知していて、誇示しているようなところもあった。
 入学してすぐに、中学の時の級友に誘われてカラオケに行くことになった。社交的な級友は親睦親睦と念仏のように唱えながら、誰彼構わず声をかけた。部活の先輩が参加しその先輩が友人を呼びその恋人までやってきて、あっという間に人数が膨れ上がる。誰が誰とどういう繋がりがあるのかすらわからなくなった。
 気がつくと、栄子が隣にいた。広いパーティルームに、いつの間にか数人ずつのグループができている。栄子は私服で、最初はOBだと思った。問われては答える形で言葉を交わし、話しているうちに三年生だとわかった。
「あんまり喋らないんだね」
 グラスを唇に運ぶ仕草に、計算された色気がある。
「知念くんて、彼女いるの」
 栄子の唇は、口紅を塗っていない時も薄紅かった。
 栄子にまつわる噂が友寿の耳に入るころには、すでに関係を持っていた。友寿は童貞だったが、栄子は処女ではなかった。隠すふうでもなく見せつけるふうでもなかったから、友寿も自然に受け入れた。栄子に関する噂はいくつかあった。妻子のあるサラリーマンとつきあっていたとか、栄子と関係した教師が転勤させられたとか。すべてが事実ではないだろうが、本当のこともあったのだろう。だがどうでもいい。
 栄子が声をかけてきたのは、俺が齢より老けてみえたからだろうと、今になって友寿は考える。だが実際につきあってみれば、身体は大きくても中身はまだまだ子どもだし、栄子の目に男らしく映ったらしいぶっきらぼうな態度や寡黙さも、栄子が求めるような円熟した深みから滲み出るものではないとわかったようだ。彼女が落胆し去って行った気持ちも理解できた。
 思い返せば、彼女も自身の外見と内面のギャップに焦っていたのかもしれない。友寿は、栄子の背伸びや見栄をばかげていると感じると同時に好ましく思っていた。しかしそういった好意を、友寿は言葉や態度で表すことができなかった。
 そんなことをつらつらと考えていると、いつの間にか友寿の心は泉に行きついた。もっとずっと後になれば、泉のことも栄子のように客観的に思い返し、見つめ直すことができるのだろうか。
 答えの出ないまま、入試日が近づいてきた。泉がうちに来る最終日だ。真面目に勉強をして、その後すこし話した。他愛ない話だ。
「友寿くんは絶対受かるよ」
 眼鏡の奥の、潤いの多い瞳がまっすぐに友寿を見つめる。泉の声は静かで、まるで魔法のようだった。
 ちゅ、と軽い音を立ててキスをする。二度目はもっと深く濃厚に。友寿の鼻に押されて、眼鏡がずれる。背中に回した手を尻のほうにずらすと、泉は甘いため息をついた。友寿のほうも疼いてくる。だが今日はそんな時間はない。階下ではいつもより早い夕飯の支度がすっかり整っていて、母と――父が待っている。
 離れる間際、泉の首筋に顔を埋めあたたかい肌とコロンの香を嗅いだ。
 和やかな夕飯だった。泉はよく笑いよく話し、母の勧めるビールを飲んでいっそう陽気になった。父は……父が食卓でどんなふうだったかは覚えていない。友寿自身もどんなふるまいをしたのか記憶になかった。
「じゃあね、K大で会おうね」
 泉は上機嫌で去って行った。コートに包まれた泉の薄い肩を見送りながら、これは別れなのかと友寿は考えた。友寿が合格しふたたび泉の前に立てば、いや、明日にでも連絡を取れば、関係を続けることはできるだろう。だがこちらから接触しなければ、泉は別の相手と楽しむだけだ。泉のことはさっはりわからないが、それだけはわかる。泉にとっては飯島だけが、取り替えのきかないただ一人の人間なのだと、今さら思い知る。

 

 入試当日まで、泉とは会わなかった。泉からも連絡はない。
 出掛けに、リビングの親機から電話をした。呼び出し音を聞きながら、泉と電話で話をするのは初めてだと気づく。
「はい。……ああ、友寿くん」
 受話器から聞こえる泉の声は、生で聞くよりさらに幼い。その声が柔らかく耳を打ち、それから静かに染み渡った。深く、友寿の奥深くまで染み渡る。友寿は密かに苦笑した。ほんとうに俺は、どうしようもなく鈍い。
「ちょっと待ってて」
 泉の電話はコードレスではなかった。受話器を置く音と、窓が開ける気配が聞こえた。
「寒いね。でも降らなくてよかった」
「ああ」
 心地よい沈黙。泉の吸っている冷たい空気の香を、友寿も嗅いだ。泉の唇から白い息が吐かれるのすら見えるようだ。
「大丈夫、きっと受かるよ」
 泉は友寿が緊張しているとでも思ったのだろう、気安く請け合った。
「……今夜、部屋に行ってもいいか」
「うん。前祝いしよう」
 じゃあ、と言って電話を切った。
 道の端に霜がついている。緩やかな上り坂をゆっくり歩いた。ひやりとした風が頬を撫でる。見上げると、雲の狭間から陽が射してきた。空は見る間に明るくなり、雲は輝きながら追い立てられていく。天頂に、きれいだけどどこか曖昧な、白い月が浮かんでいる。

 

 

 

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*「真昼の月」覚書*
2000/04/04〜2002/11/05  第19回ビブロス小説新人賞投稿
2003/06/18〜2003/07/08  第44回白泉社花丸新人賞投稿
2004.11.03〜2004.11.05 改稿
2004/11/05 “Phosphorescence”UP
2004/12/16 検索エンジン「カオスパラダイス」に「同性の恋愛♂×♂(年齢制限無)」で 登録