呼んで (1/2)
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「秀一……」
 司さんの声が切迫してくる。眼前に晒された顎裏にくちづけし、皮膚の下で動く喉骨の感触を味わう。
「ん、う……」
 より深く繋がり、ひたすら追い詰める。司さんが望むものはすべて知っている。腰を使いながら、脇腹からへそのあたりにかけてを丹念に愛撫していくと、司さんはぞくりとするような艶っぽい声を上げる。どんな小さなシグナルも逃さずに汲み取って、時には焦らしながら与えた。内気でじれったいほどおとなしい司さんが、この時だけは大胆に、素直に快楽を求めた。そんなようすにも劣情をそそられる。
 司さんの手が、大切なものにふれるように俺の頬を包む。潤んだ目でキスをねだる。
「秀一」
 舌を絡めて、司さんの言葉を封じる。外は風がつよいようだ。波の音が聞こえる。地上十階のホテルの一室、窓からは初夏の海が見渡せる。今は窓を閉めきりカーテンを引いているので、陽にきらめく海面や白いさざ波を見ることはできないが、波の揺らめきや吹き渡る潮風を近くに感じる。司さんを抱くとき、俺はいつも海を感じていた。
 司さんとの行為は充実していた。二人の間には見栄も繕うものもなかったから。ただ自分の欲望を満たすことだけに集中すればいい。
 俺の下で、司さんの身体が強ばる。逐情に震える身体を抱きしめながら、俺も達した。その瞬間、俺は目を閉じない。快楽に蕩ける司さんの表情を見ながら達する。俺の放ったものは薄いゴムに阻まれて、司さんの中には届かない。それは俺たちの関係の象徴のような感じがする。
 満足を得た後、司さんはいつもそのまますこし眠る。腕の中の司さんの寝顔を見て、俺はやっと安らぐ。俺が俺のまま、司さんにふれていられる。上品に整った顔を、なんの遠慮もなく見つめることができる。司さんの目の中に、怯えるような色を見ずにすむ。このままずっと、眠っていてくれればいいのに。そんなことすら考える。
 小さく身じろぎして、司さんが目を開ける。夢の時間が終わる。身体を起こすのに手を貸した。頬に乱れかかった髪を指先ではらうと、司さんは顔を上げた。優しい顔に、気弱な笑みが浮かぶ。
「ありがとう」
「大丈夫ですか」
「……ごめんね、洋二くん」
 司さんは行為の後決まって謝まる。洋二くん。そう呼ばれて、俺は俺に戻る。
「俺も楽しんだから」
 ぼそぼそと答える俺の言葉もいつも通り。交替でシャワーを使って、司さんの車で家の前まで送ってもらう。そのくりかえし。月に一二度の割合で、司さんとこの海沿いのホテルを使う。

 初めてに司さんを抱いたのは、兄の披露宴の晩だった。
 八歳年上の兄は、俺が小学生のときに京都の大学に進学し家を出た。卒業後は戻ってきたものの、生活時間のズレから話どころか顔を合せることすら稀だった。とくに不仲なわけではないが、希薄な関係であることは間違いない。司さんと兄は大学で知り合ったそうだ。司さんは兄とは逆に、就職にともなって地元からこちらに引越してきた。初めて会ったのは四年前。俺は十四歳だった。
「秀一に似てるね」
 そう言って目を細めて笑った司さんの顔。唇から覗いた白い歯まで、今でも鮮明に覚えている。一人っ子の司さんは、俺をとてもかわいがってくれた。俺の部屋に帆船模型や船舶に関する本が並んでいるのを見ると、車で南港まで連れて行ってくれた。港を出て行く船よりも穏やかな海よりも、司さんから目が離せなかった。こんなことは初めてだった。動揺しながらも、潮風に揺れる髪や初夏の陽射しを浴びて心地良さそうに微笑する口元を見つめた。
 司さんは高校時代の友人に誘われて、興したばかりの広告関係の会社に就職した。同じ学部を出て外資系の大手商社に潜りこんだ兄からすれば、愚かな選択に見えたのだろう。
「司はお人良しなんだよ」
 なにかにつけ兄はそう言う。司さんは困ったように笑うだけだった。1LDKのマンションに独り住まいの司さんは、よくうちに来た。司さんが来る日は俺は朝からなんとなく落ちつかず、しかし実際に司さんを前に出ると、目を逸らして黙りこんでしまう。
 それが恋だと気づいてはいたが、司さんに対してなんらかの行動を取るつもりはなかった。友人の弟に向ける好意以上のものを求める気はなかった。しかし恋情は肉体の欲望を呼び起こし、罪悪感に苛まれた。会いたいと思う心は募るのに、彼の前に立つことを恐れた。言葉から視線から吐息から、本心を知られてしまうような気がした。
 披露宴会場になったホテルのロビーで兄夫婦を見送ったあと、ドライブしないかと誘われた。俺はすこし酔っていた。めでたい席であることと、前日の面談で第一志望のK大が安全圏内であることを教師に告げられたことから、父も母も飲酒ていどのことには寛大になっていた。
 司さんの白いスカイラインに乗り込み、町へ出る。車窓から流れこんでくる冷たい風が、火照った頬に心地よい。司さんは家とは反対方向に車を走らせた。それは俺を気持ちを浮き立たせた。「友人の弟」という立場からも遠ざかり、個人として司さんに対しているという感じがつよくなった。すでに陽は暮れている。俺は追い越していく車のライトに浮かぶ司さんの横顔ばかり見ていた。
 吹田インターから高速に入る。
「どこに行くんですか」
 そう尋いたのは覚えている。けれど司さんがなんと答えたのかは覚えていない。
 結局車は神戸に入った。神戸港近くのホテルで軽く食事をして、またグラスを重ねた。司さんは咎めなかった。いつも頑ななほど生真面目な人なのに。車であるにもかかわらず、自分も軽いカクテルを注文した。淡い期待を感じて、俺は密かに胸を高鳴らせた。
 気がつくと部屋の中だった。酔い覚ましをしようと話したのだけとはかろうじて覚えているが、その後の記憶がない。間接照明に淡く浮かび上がる、見慣れない部屋。ベッドの上だった。大の字に寝ている俺の足の間に誰かが――いや、司さんだとすぐにわかった――顔を伏せている。
 痛いほど猛ったものに圧迫感を感じないのは、前立てがくつろげられているからだろう。充血し鋭敏になった皮膚に外気を感じる。司さんは指を添えると、それを口に含んだ。
 時おり見る夢の続きかと思った。苦しいほどの欲望と罪悪感を伴う夢。しかし生々しい感触は現実のものだ。突き上げるような快感が、背骨にそって何度も走り抜ける。
「ふ……」
 司さんの吐息に、甘い声が混じる。ふたたび唇が被さり、先端を舌でなぶられる。ねっとりとした動きに、腰が震える。つよく吸われ、激しい衝撃とともに達した。
「司さん……」
 声が喉に絡んだ。顔を上げた司さんは泣きそうな目をしている。瞳の白い部分が際立って青白く見えた。唇が、俺が迸らせた精で濡れている。
「ごめん……ごめんね」
 司さんが重なってくる。思っていたより軽い。司さんは背が高いわりに身体つきは細くて、身長ではわずかにかなわないが体重は俺のほうがある。
 顔を寄せ唇を合わせると、青くさい精の味がした。舌を差し入れ、司さんの口内を清めるように動かす。
 一度達したにもかかわらず、すぐに勢いを取り戻し、司さんの熱と重なった。
 ぴったりと身体を重ねたまま、司さんの手がゆっくりと俺の身体をなぞっていく。やんわりと握りこむ。司さんの指はピアニストのように細くて長い。その指が、唾液と吐精、そして新たな先走りに濡れた俺をゆっくりと扱き上げる。
「秀一」
 絞り出すような呟きが、俺の耳を切った。乱れた前髪から覗く目はひどく怯えているようで、その表情は不思議と幼く見えた。
「秀一」
 頭の中に白い火花が散って、俺は夢中で司さんをかき抱くと、位置を逆転させた。司さんをベッドに押しつけるようにして、覆いかぶさる。深くくちづけしながら、あわただしく体中に手を這わせた。
 腰を抱いて浮かせると、司さんは自分から脚を開いて、俺の腰に巻きつけてきた。掠れた声ではやく、とささやく。初めてだと悟られないように、慎重に腰を進めた。司さんが苦しげに眉を寄せると、侵入する角度を変え、熱いため息をついた場所はつよく擦り上げた。司さんの肌はみるみる熱くなり、薄く汗がのりはじめた。コロンの香がつよくなる。
 堪えきれなくなって、強引に奥まで貫いた。司さんは一瞬息をつめる。苦痛に身を震わせながら、それでも俺の性急な動きを受け入れた。もっと、とねだって腰が揺れる。
「ああ……秀一」
 秀一、そう呼ばれながら司さんを抱いた。

 休みのたびに、電車で港に行く。乗り継ぎのある南港より、神戸まで出るほうが運賃は安くすむ。ただ海を眺めて帰ることが多いが、バイト料で懐が潤っているときには遊覧船に乗ることもあった。小金が貯まると連休を使って、一泊二日ていどのショートクルーズに出ることもある。潮風とエンジンの振動を感じていると、頭が中で凝り固まっていた様々なものが解れていくのを感じた。わざと嫌なことを考えた。考えはすべて潮風に攫われ、最後には頭が空っぽになる。
 船舶に興味を持ったのは兄の影響だった。中世の帆船から遊覧船まで、兄の書棚にはイラストの多い子ども向けの本から、専門書の類まで並んでいたし、壁にはポスター、棚には模型が並べられていた。高校に入るころには兄の関心は別のことに移り、集めた本や模型などは丸々俺の部屋に移された。船への興味が、そのまま海への興味へと広がり、さらに本が増えた。
 新婚旅行の後そのまま新大阪の分譲マンションに移り住んだ兄夫婦が実家に顔を出し、司さんも呼ばれて食卓を囲むことになった。会うのは披露宴の夜以来だ。司さんは終始笑顔で、友人の幸せを喜んでいるように見える。
 夕飯の皿が片付けられ替わりにビールと肴が並ぶ。俺は座を抜け、司さんを部屋に呼んだ。ひとつしかない椅子を勧めて、俺はベッドに腰掛けた。二人きりというだけで胸がざわつく。前日港の土産物屋で買った小物を渡すと、司さんはとても喜んでくれた。口べたな俺のとりたてて面白くもない話を、熱心に聞いてくれる。
「明日暇ですか」
 海を見に行きませんかと畳み掛けると、柔らな笑顔を見せてくれた。
「夕食奢るよ」と言う司さんに、海沿いの道をドライブして、この前のレストランに行きたいと言った。司さんの表情に、かすかに困惑の色が滲む。
「遠いよ。それに……」
 言葉を濁す司さんに、あの部屋から見える海をもう一度見たいと言って誘った。もっとうまい言い方があったかもしれないが、そう言うのが精一杯だった。
 司さんは複雑な顔をして、それでもあの晩と同じコースを辿った。部屋に入るなりベッドに向かう。司さんにふれた瞬間に、頭の奥が痺れるようなつよい欲望を感じた。自分の中にこんなにも激しい情熱があることに、俺は驚いていた。理性は消え失せ、激情に酔った。最初は戸惑い緊張していた司さんも、すぐに乱れ出す。あの晩から二週間近く経っている。彼の身体がひどく飢えているのを感じて安堵し、さらに欲情した。
 無言で貪り合う。前回よりはスムーズに侵入することができた。待ち焦がれていたように、司さんの内部が蠢く。夢中で味わった。時間の感覚のなくなるほど深く、激しく溺れこむ。苦痛を感じるほど極限まで昇りつめてから解放した。射精感は強烈で、一瞬意識が飛んだ。一拍置いて波が引く、それすら激しい快感を伴った。
 司さんの胸に顔を伏せ、息を整える。火照った身体が密着すると、司さんがまだ達していないことに気づいた。所在無げに立ち上がったままの司さんを握ると、司さんは俺の肩に縋った。抱きしめて、首筋を唇を這わせながら手を動かした。焦らしたつもりだが、すでに限界が近かったのだろう。あっさりと弾ける。
 司さんは目を閉じたまま、熱く長いため息をついた。そのまましばらく目を開かなかった。まるで永久にそうしていたいように。俺は司さんが目を開けるまで、その眠っているように静かな顔を、鼻がふれあうほどの距離で見つめていた。目を開けても、司さんは身じろぎひとつしなかった。まっすぐに俺を見つめる目には、縋るような、苦しむような色があった。

.   *

 パッケージから引き出したマイルドセブンに火を入れる。兄の鞄から持ち出した一箱は先週無くなったので、新しいのを買った。ライトでもボックスでもエクストラでもない、マイルドセブン。携帯用の吸い殻入れと一緒に本棚に隠してある。
「マイセンな。ライトでもボックスでもエクストラでもないやつ」
 兄が煙草を頼むときの口癖だった。一度間違えてライトを買ってきたことがあるからだ。大学の最初の休暇で帰宅したときには、兄はすでに煙草を嗜むようになっていた。当時は未成年だったので、両親がいるところでは大っぴらには吸ってはいなかったが、部屋が煙っているのを何度か見かけた。俺は煙草は好かない。においも嫌だし、吸うと舌が痺れるような感じがするのも不快だった。
 けれど司さんは気にいったらしい。煙草の臭気の残る唇に、司さんはよりつよく兄を感じることができるようだった。だから司さんと会うときは、一本だけ吸っていく。一人のときも時々パッケージに手が伸びるのは、自虐的な心理からだろう。舌にまといつく煙草の苦味は、嫉妬と自嘲の味だ。
 高校受験を控えた夏だった。午後に水泳の授業があったせいか、夕飯と風呂のあと部屋に戻り机に向かうと、にわかに眠気が襲ってきた。階下では司さんと兄が酒を飲んでいる。一時間だけ。そう思って、机に腕を乗せ顔を伏せて目を閉じた。司さんが帰るまでには起きて、駅まで送ろう。
 ふと呼ばれた気がして目が覚めた。誰かが近づいてくる気配がする。はじめは兄だろうと思っていた。兄はいつも、声もかけずに部屋に入ってくる。いや、声がして目が覚めたのだ。眠気が重くのしかかって、顔を伏せたままでいた。どうせ煙草を買って来いとかスイカを食べに来いとか、そんなことだろう。
「洋二くん?」
 兄ではなく司さんだった。ひそめた声は奇妙な艶を含んで響いて、起きそびれた。
 司さんの手が、俺の頬にふれる。耳の近くだ。そっと。柔らかくふれた手から、あたたかみがほんのりと伝わってくる。酒が入っているせいか、司さんの体温は高い。
 どうしていいかわからずに、思わず目を開けた。さっと手が引かれる。心臓がひやりとした。眠ったふりを続けていればよかった。ふれられていた頬が寂しい。
「……こんなところで寝てると風邪ひくよ」
 優しい声に、なんと答えていいかわからなくて目を伏せた。スイカを食べにおいで。そう言って、司さんは部屋を出て行った。司さんにふれられた頬に手を伸ばして、だけどふれることができずに手を降ろした。どうしようもなく胸がざわついて、息苦しい。
 深くひと吸いしてから、タバコを吸い殻入れに放り込み蓋を閉じた。
 最初から、俺は兄の代替でしかなかった。

「いつも悪いな」
 三和土で靴の紐を解いていると、居間から兄の声が聞こえた。声の調子から、電話をしているのだとわかった。今日は金曜日だ。
「退屈だろ。洋二なんかと」
 居間は和室に絨毯を敷きソファセットを入れて、洋風に設えてある。三人掛けのソファに深く腰掛けて話していた兄は、俺を見ると「帰ってきた」と言って受話器を差し出した。
「おまえ、司にたかるなよ」
「そんなことしない」
 受話器を受け取る。兄は入れ替わりに立ち上がり、台所に向かった。冷蔵庫を開けて麦茶のボトルを取り出す。兄は俺に向かってボトルの尻を軽く振って見せた。「いらない」と手振りで応える。
「洋二くん?」思いがけず兄と言葉を交わした司さんは、動揺しているようだった。「……あの、明日なんだけど」
「はい」
「もうじき試験なんだって?」
「はい」
「……いいの」
「構いません」
「いつもの場所でいいかな」
「はい」
 じゃあ、とささやいて、司さんは電話を切った。
 週末の約束は、金曜日の夜に電話がある。間際にかかってくるのは、俺が断りやすいようにとの配慮だろう。無論、一度も断ったことはない。
 土曜日、仕事帰りの司さんと待ち合わせる。だからいつも司さんはスーツ姿だ。
「大学、どう。もう慣れた?」
「ええ」
「コンパとか出ないの」
「はあ」
 司さんはもともと饒舌な人ではないから、俺が生返事をすると会話が続かない。俺は司さんから顔を背けていた。砕いた鏡のように陽を弾く海を眺めながら、神経はすべて司さんに集中していた。
「ごめんね」
 ため息のような呟き。司さんはいつも俺の顔色を伺う。高校を出たばかりのガキとこんな関係を持つことに、罪悪感を感じているようだ。後ろめたいのならやめればいいし、続けるのなら割り切ればいい。司さんが謝ることはない。俺だって司さんの気持ちを利用しているのだから。
 司さんの手を制して、濃い青色のネクタイに手をかける。結び目を解いて襟から抜き取った。多少もたつくのはしかたない。中学も高校も学ランだったから、ネクタイには慣れていない。密やかな衣擦れの音に、胸が鳴る。
 抱きあいベッドに倒れこむと、司さんのためらいは消える。潤んだ目で俺を見上げて、自分から服を脱いだ。
「……ああ」
 司さんの喘ぎは、まるで歌のように俺の身体の奥深くに響く。シーツを上を彷徨う手を捕まえる。指を絡めてつよく握る。骨が軋むほどつよく。恋人同士のようなことをすると、司さんはひどく悦んだ。指を絡めたり、動きながら、唇や顎、鼻先に軽くキスしたり。司さんも、俺の頬にキスをして抱きしめる。
「秀一」
 いや、違う。司さんが抱きしめているのは俺じゃない。行為の間、俺は自分の言葉を持たない。司さんにとって、俺は俺ではないのだから。
 手を取り、指先を口に含んだ。ゆっくりと舌を絡めると、司さんの喉がひくりと鳴る。首筋に唇を這わせて、つよく吸った。桜の花びらのような跡が残る。何度も吸う。司さんの首から胸にかけて、花を散らしたような無数の跡が浮かんだ。
 安らかな表情で眠る司さんは、疲れていたのだろう、いつもより呼吸が深い。腕にかかる頭の重みが心地よい。身体に、司さんの香水の匂いが残っている気がして、すこし気持ちが弾んだ。司さんは行為の前にシャワーを使いたがるが、そんなことしなくていいと俺は思っている。
「司さん」
 ささやいても、司さんが起きる気配はない。
「司さん」
 もう一度呼んだ。司さんが眠っている間だけ、俺は俺に戻る。薄く開いた司さんの唇が、俺の名前を呼ぶのを想像した。司さんが目を覚ますまで、哀しい顔をして、ごめんね洋二くん、とささやくまでは、俺は司さんの恋人でいられる。
 司さんが目を覚ますと、俺はベッドを出て浴室に向かう。ホテルの浴室は何度使っても慣れない。初めてのときはシャワーカーテンの使い方がわからずにバスタブの外まで濡らしてしまった。俺の家は祖父の代に建てた、木造の二階家だ。風呂だけは五年ほど前に父の趣味で広々とした桧風呂に作り替えられたが、それまではタイル貼りの狭い風呂で、シャワーはなかった。今でもシャワーよりは湯桶のほうが使いよい。そそくさと身体を洗って部屋に戻ると、司さんはベッドに腰掛けてペリエを飲んでいた。バスローブを羽織っている。司さんは長身のわりに細身だが、バランスのいい身体つきをしている。サイドテーブルには俺のグラスも出ていた。司さんは疲れたふうで、目元がほんのり赤い。俺が出てきたのを見ると、グラスに残った分を飲み干して立ち上がった。入れ替わりにベッドに腰を降ろし、グラスを手に取る。
 最初の晩も、ペリエを飲みながら司さんが浴室から出てくるのを待った。司さんは俺がいない間に、うちに電話を入れていた。
「僕がシャワーを使ってる間に支度できるね」
 泊まるのかと思っていた。朝まで一緒に過ごせるのだと期待していた。支度といっても、荷持があるわけではない。着替えをして髪を整えると、ベッドの上でペリエを飲んで、司さんを待った。いつも、司さんを待つ時間はどうしようもなく哀しい。子どものころ大型スーパーで迷子になった。溢れるほどの人の中で独りきりだった。あの時の気持ちに似ている。
 シャワーの後、鏡を見た司さんは真っ赤になった。たとえタートルネックの服を着たとしても、顎の下にまでついているキスマークは隠せまい。司さんはあわてて、タオルを濡らして冷やしたり暖めたりして跡を消そうとした。これから俺の家で遅い夕食を摂ることになっている。兄夫婦も同席する。所帯を持った後も、兄はちょくちょくうちに来る。週末を過ごすこともたびたびだ。専業主婦の義姉はついて来ざるを得ない。義姉にとって夫の実家は、落ちつく場所ではないようだ。いつ見てもそわそわと、忙しなく立ち働いている。姑である母はおおらかだが鈍感なところがあって、義姉の心労には気づいていない。おとなしすぎるところがあるが気のきく良い嫁だと無邪気に喜んでいる。義姉には兄よりも、司さんのようなタイプの男性のほうが合うのではないか。そんなことを考えて、その勝手な空想に嫉妬した。
 司さんは電話をかけ、約束をキャンセルした。「急な仕事で」と電話口で何度も謝る司さんは、ほんとうに苦しそうだった。せっかく兄に会えるチャンスだったのに。俺の中に、暗い悦びが花のように開く。
「すみません」
 口でだけそう言うと、窓の外に目を向けた。消防艇がゆったりと港に入ってくる。
 家の前ではなく近くの駅前で別れた。外気には昼間の熱が残っているが、ときおり吹き渡る風はひやりとしている。
「ごめんね」
「いえ、俺こそ」
 すぐには歩き出さず、スカイラインの丸いテールライトが遠ざかるのを見送った。

 

2/2に続く