呼んで (2/2)
(C)森田しほ 2004 All rights reserved


 

1/2の続き

 

.   *

 子どものころ、船の模型や海の写真を見ては、船に乗って海原をどこまでも行きたいと夢想していた。司さんへの気持ちはそれと大差ない気がする。叶わないからこそ幸せな夢。
 土日と祭日に大阪港を運行する広報船に乗るには、抽選に受からなくてはならない。五枚出したハガキの一枚が当選した。一枚で二名乗船できる。緊張している俺に向かって司さんは、「楽しみだね」と微笑んだ。
 天保山西岸壁から出港し、咲島、舞洲を回りふたたび天保山に戻る。安治川を昇りUSJが見えるあたりでUターンをする一時間ほどのクルーズだ。途中、夢舞大橋、常吉大橋、此花大橋と三つの橋をくぐる。
 低く唸るエンジンと波の振動が心地よい。風がさわやかだ。いい天気でよかった。休日なので、子どもを連れた家族が多い。「あれはなに」と問う声がし、他の船とすれ違うたびに歓声が上がる。
 俺と司さんは右舷側の手摺りにもたれて景色を眺めた。風に乱された髪を、司さんは不造作にかきあげる。その手に、ふと見とれる。細いけどごつごつとはしていない。節の目立たないきれいな手だ。ふれたい。先の夜のように、口に含んで味わいたい。だが実際には、指先にふれることすらできなかった。ベッドの上でならどんなことでもできるのに。
 また歓声が上がる。俺たちがいるのとは反対の左舷側から、サンタマリアが入ってきた。天保山ハーバービレッジから出て一時間弱かけて大阪港を周遊する遊覧船だ。デイクルーズで何度か乗ったことがある。ナイトクルーズに司さんを誘ったら、来てくれるだろうか。
 より近くで見ようと、小さな子どもたちが先を争うように左舷へ走っていく。
「すごいね――」
 振り返った司さんの手を握る。素早く顔を寄せてくちづけした。乗客の目はみなサンタマリアに注がれている。
 司さんの唇からは、戸惑いしか伝わってこなかった。
「すみません……」
 司さんは何も言わない。静かな目をして俺を見た。ひやりとする。どうしよう。急に不安になった。俺の気持ちを知れば、司さんはきっと俺から逃げる。
 離れても、唇の感触が消えない。鼓動が速い。可笑しい。唇どころか、司さんのすべてを知ってるのに。
「あの船……」司さんは繕うように口を開いたが、語尾はかすれて聞き取れなかった。
 司さんは左舷側に向かって歩きだす。子どもたちは声を上げ千切れんばかりに手を振っている。
 脚が固まったように動かず、司さんの後を追うことができなかった。海風に吹かれるのは好きだ。だが今は心もとない。この風はまるで永遠に吹き止まないようだ。砂像が徐々に流されるように、崩れていく。鼓動が、まるで内側から拳で殴られているようだ。鎮まれ。鎮まってくれ。でないと、身体が裂けてしまう――

 まどろみから覚めても、司さんは浴室に逃げ込もうとはしなかった。疲れているのか、俺の肩に頭を持たせかけて、寄り添うように寝そべっている。俺は内心の動揺と喜びを押し殺して、じっと仰臥したままでいた。自然な動作に感じられるようにと念じながら、司さんの髪にふれる。指先で髪を梳き玩ぶ。
 ふと、司さんの手が俺の腹を羽のようになぞる。一瞬息を飲んだ。
「まだ七月なのによく焼けてるね。何か運動してるの」
「いえ……」
 梅雨が明けると、陽射しは本格的に夏の色合いになる。毎年母に「裏か表かわからない」と言われるほど陽に焼ける。暑さは苦にならない。家の周囲は坂が多い。どこへ行くにも上り坂と下り坂を通る。汗を流しながら黙々と坂を上ったり下ったりするのは爽快だった。
 司さんがふれている場所は、水泳の授業の時くらいしか陽に晒さないので、まだ生の肌色に近い。
「きれいに焼けてる」
 司さんは焼けないタチらしい。そう言うと「そんなことないよ」と腕時計の跡を見せてくれた。
 身体をずらすと、司さんは俺のへそのあたりに唇でふれた。今度こそ俺はぎょっとして身体を震わせた。
 いつになく大胆だ。足りなかったんだろうか。引き寄せると、軽く押し返された。
「今日はもう無理」
 微笑みながら司さんが言う。俺は赤面した。
 司さんの手が、敏感な部分をゆっくりとなぞる。たちまち体温が上がった。司さんはふたたび俺の肩に頭を乗せる。手は休むことなく動き、柔らかく握り込んではつよく刺激する。
 動きはしだいに明確になっていく。息が上がっていく。俺の腿にあたる司さんも反応を示していた。耳元に熱い息を感じた。遠慮がちに尋いてくる。
「どう?」
「……続けて」
 そう答えるのが精一杯だった。

 チェックインしたころに急激に曇りはじめた空は、疲れきった身体をシャワーで洗い流すころには雷を伴った土砂降りになっていた。
「今夜いっぱい降るって」
 受話器を置きながら言う司さんに、窓際で暗く滲んだ夜景を見ながら応えた。
「でしょうね。止みそうにない」
「困ったね」
 振り返り、司さんを見た。「明日出勤ですか」
「いや。でも洋二くんが」
「俺だって」
「ご両親が心配する」
「外泊くらいで心配される歳じゃありません」
 素っ気ない俺の言葉を、司さんは優しく受け止める。
「明日はいい天気になりそうだね」
 渋い顔をしている俺に、司さんが言う。「雨嫌い?」
「好きな人なんてめったにいないでしょう」
「通勤や外回りの時はめんどうだけど、嫌いじゃないよ。とくに夏の雨はね」
 広いベッドに、人一人分ほどの間を空けて隣り合い横たわる。
 司さんは顎の下までしっかり掛布を引っ張る。どうやら癖らしい。はにかむように笑った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 目を閉じると、すぐに司さんは眠ってしまった。常夜灯にほのかに浮かび上がる寝顔は穏やかだ。そっと手を伸ばし、指の背で頬にふれる。ほのかにあたたかい。激情に上気した肌もいいが、静かな感触も心地よい。俺は口元に、かすかな笑みが浮かぶのを感じた。
 雷が、ときおり窓を明るくする。音が追いつくまでの時間を数える。子どものころからの癖だ。雨の勢いはまだ衰えてはいないが、光ってから三で追いついていた音が、今は五まで遠ざかっていた。司さんの寝顔を見ながら、朝方まで起きていた。空が白みはじめたころ、しあわせな気分のまま微睡み、司さんが目覚める前に起きた。

.   *

 兄夫婦と司さんを交えた賑やかな食事の後、俺は一人で部屋に戻った。階下ではいつもどおりの酒宴が始まっていて、ときおり父の胴間声や笑い声が聞こえてくる。
「洋二くん?」司さんが俺を呼ぶ声は、いつも遠慮がちだ。
「開いてますよ」
 ベッドから上体を起こすと、半分ほどに減ったマイルドセブンを、二つに折って吸い殻入れの中に押し込んだ。司さんは戸口に立ったまま、困ったように目を泳がせている。
「未成年なのに」
「でも好きでしょ」
 司さんが苦笑する。自嘲するような寂しげな笑みだ。促すと、おずおずと近寄ってくる。なんとなく、司さんが部屋に来るような気がしていた。
 兄が階下にいることで、さすがにためらっている。しかし唇を合わせると、司さんはすぐに熱心に舌を絡めてくる。ビールの苦味の残った舌をつよく吸う。腰に手を回すと、司さんが感じるやり方で背骨に指を這わせた。うなじが熱い。司さんの唇から、欲情のため息が漏れる。嵐の夜の感触が蘇る。あの淫靡な指。
 何度も合わせた唇から起こる湿った音が耳に響いた。階段を上がってくる足音には気づかなかった。兄はいつもノックもなしにドアを開ける。
「何をしているんだ」
 兄の怒声に弾かれたように、司さんが離れる。
「秀一」
 兄は呆然と立ち尽くしていた。目が血走っているのは、酒が回っているせいだろう。わずかに身体を反らして息を吸い、吐いた。俺を見て、司さんを見る。
 俺は自分でも意外なほど落ちついていた。
「帰ってくれ」
 兄は低い声で言う。「あとで連絡するから、今日は帰ってくれないか」
「洋二くんは悪くないんだ、秀一」
 兄が向きなおると、司さんははっとして立ち竦んだ。兄はすぐに目を逸らすと、もう一度、帰ってくれと言った。断固とした口調だった。司さんは俺のほうを一瞬だけ見て、背を向けた。
 初めて兄に憎悪を感じた。汚いものでも見るような目をして司さんを見た。それでも司さんは、兄が好きなのか。
 司さんが部屋を出て行った後も、兄はなかなか口を開かなかった。それはそうだろう。兄にとっては、まさに青天の霹靂だ。俺はたいした感慨もなく、戸惑う兄を眺めた。沈黙にうんざりして、先に口を開いた。
「俺が部屋に呼んだ」
 まるで台本でも読むように、すらすらと言葉が出た。
「興味があったんだ。司さんは気が弱いから、ばれる心配もないと思った」
 言い終わらないうちに殴られた。勢いで椅子に脚をぶつけて転び、机の角で後頭部を打った。堰を切ったように俺を罵る兄の声が、一瞬遠くなった。
「秀一さん?」
 物音を聞きつけたらしい義姉が階段を上がってくる。軽やかな足音は、まるで別世界からの音のようだった。
「どうしたの? 洋二くんも」
「なんでもない。下に行っていろ」容赦のない口調だ。義姉は驚いたように目を見張ると、困ったように立ち尽くした。
 クズめと吐き捨てられた。
「二度と司に会うな」
 俺を見ないまま、兄は背を向けて出て行った。戸口に立っていた義姉は兄を避けるために身体をずらす。そのまま、階段を降りる兄とベッドに手をかけ立ち上がろうとする俺を何度も交互に見た。
「大丈夫、洋二くん」
 義姉が怖々と声をかける。「あの人酔ってるの?」
 俺と目が合うと、義姉は怯えるように目を逸らした。大丈夫ですからと答え、独りにしてくださいと頼んだ。
 ベッドに横になると、落ちつくために何度も息をついた。これからのことを考えた。しばらくは司さんに会えないだろう。そう思うと怒りか湧いてきて、腹の底が熱くなった。司さんとのことを兄に指図されるいわれはない。
 義姉が、濡らしたタオルを持ってきてくれた。おずおずと手渡されたそれを殴られた頬に押し当てると、ずいぶんと熱を持っていることに気づいた。
「すみません。ありがとうございます」
 義姉は困ったように胸の前で指を組んだり解いたりしていたが、ごめんなさいねと小声で言うと部屋を出て行った。
 冷たかったタオルはたちまち熱を吸い取って生暖かくなった。閉じた目の上に乗せる。落ちついて考えてみれば、俺は司さんのことを何も知らない。
 何も知らない。吹田に住んでいるということだけ。携帯の番号すら俺は知らない。俺は携帯を持っていなくて、連絡はいつも司さんから、自宅の電話にかかってくる。苦いものを口に含んだような気持ちになった。惨めさと情けなさと。秀一と呼ばれながら司さんを抱くときよりも激しい空しさを感じた。
 ――行かないで。
 言えなかった。
 兄に言われるまま俺を残して出ていった司さん。
 生温いタオルを、ベッドの隅に投げる。
 俺が追えばよかったんだ。司さんが振り向いてくれないなら、俺が追えばいい。
 そっと階下に降り、兄が風呂に入っているのを確認すると、テーブルに投出された携帯から住所録を盗み見た。

 週末になっても、司さんからの電話はなかった。兄は何事もなかったように振る舞っている。
 司さんの住まいはJRの駅から二十分ほど歩いたところにあった。入り組んだ住宅街の奥にある、二十戸ほどのマンションだった。電話をして、迎えに行くと言うのを断って室を訪れた。
「秀一が殴ったの」
 司さんは俺を見たとたんに、泣きだしそうに眉をひそめた。赤黒く腫れ上がった目の下にふれようとして、でもふれる前に手を引いた。俺を部屋に上げると戸棚から軟膏を取り出す。手が震えて、容器を床に落とした。
「たいしたことありません」
「だって、そんなに腫れてるじゃないか」
 司さんが拾うよりはやくに拾い上げ、蓋を開けて司さんに渡す。司さんの指が、俺の頬にふれる。軟膏を塗りこむ。細い指の冷たさが心地よい。
「きのう秀一が来たよ。謝っていった。どうして。僕が――悪いのは僕なのに」
「いいじゃないですか。そのほうが波風が立たない」
「だって」
 だって。それでも司さんは兄の謝罪を受け入れたのだろう。ずるい人。ずるくて弱い司さん。今にも涙がこぼれ落ちそうな潤んだ瞳。指先で、その頬にふれる。司さんの目が俺を見る。泣かないで。
「兄は司さんになんて言ったんですか」
「……忘れてやってくれって」
 司さんはせつないように目を細めた。「当分うちには来ないでくれって言われたよ」
「じゃあ俺が行きます」
 意味を計り兼ねたように、司さんは俺を見る。
「俺が司さんのところに行きます。嫌ですか」
 司さんは驚いたように目を丸くして、でもかすかに首を振った。
 今はそれだけで充分だ。

.   *

「どうしようか。食べたいものある?」
「神戸に行きませんか。今日は俺が奢ります」
「気を使わなくていいんだよ」
 僕の勝手につきあってもらってるんだから。司さんがささやく。
「もうすぐ誕生日でしょ。奢らせてください」
「よく知ってるね。誕生日の話なんてしたかな」
 ずいぶん前のことだが、うちで晩酌をしている時に、偶然そんな話題が出た。夏産まれだというのが、なんだか意外な感じがして覚えていた。
「洋二くんはいつ」
「十二月です。末で気忙しかったって、母が言ってました」
「この時期のお産もたいへんらしいよ、暑くて。うちの母は夏に子どもなんか産むもんじゃないって、口癖になってる」ふと、司さんは口を噤む。すぐに言葉を繋いだ。「秀一のところは、ちょうどいい時期だね」
 義姉の予定日は三カ月後、陽射しの和らぐ秋口だ。
 あれから二カ月近く、司さんを抱いていない。それでも以前と変わらない頻度で会っていた。あちこちドライブして、海を見て食事をして。
「洋二くんが海が好きなのわかるな。すごく気持ちいい」
 そんなことを言いながら、司さんはうっとりと目を細める。情事の最中の表情とだぶる。今の関係に不満はないが、肉体の飢えを感じることがある。知ってしまっただけに、その飢えは生々しい。身勝手なものだと我ながら思う。どんどん欲深くなる。どんどん――
 俺は今、卑しい目をして司さんを見ている。
「ほら洋二くん、船が通るよ」
 俺が気のない返事をすると、司さんは窓を閉めた。
 この部屋は俺が予約した。最上階の展望レストランで食事をし、ルームキーを見せた。司さんの表情は固かった。でもついてきてくれた。部屋に入ると、司さんはつとめて明るく振る舞った。
 司さんは俺の前から逃げ出したいようだった。
 俺に背を向けて窓の外を眺めている司さんの肩にふれる。肩がぴくりと震えた。うなじにくちびるを寄せ、肌の熱であたたまった香水の匂いを嗅ぐ。
「洋二くんは」
 声が震えている。
「洋二くんはまだ……子どもなのに。僕が、あんなこと――」
 今さら。
「子どもじゃない」
 俺は静かにそう言うと、顔を寄せる。鼻がふれあうと、司さんは目を上げた。
「子どもじゃない。ちゃんと司さんを満足させてるだろ」
 司さんの目元がみるみる赤くなる。
 キスしようとすると避けられた。抱擁も拒まれる。被さろうとする俺の身体を遠慮がちに押し返した司さんは、うつむいたまま早口に言った。
「洋二くん」
 泣きだしそうな目をして俺を見る。「いいんだ、もう」
 続く言葉を、唇で塞いだ。
 司さんの手を取ると引き寄せた。やっぱりきれいな手だ。けれど俺が司さんの背中に腕を回す前に、離れてしまう。
「シャワーを」
 逃れようとする司さんの手首を掴む。司さんは頑なに手を引こうとして、引き寄せようとする俺との間に緊張が走る。
「……痛いよ、洋二くん」
 掠れた声で言われて、指を緩めた。司さんは逃げるように浴室に入る。その場に立ち尽くしたまま、俺は目を閉じる。鼓動が速い。だが落ちついている。それは司さんが俺を拒めるはずはないという自信からか、それともある種の諦観か。シャワーの音が止むのを待って、浴室に踏み込んだ。
「もう済みましたか」
 司さんはぎょっとして立ち竦む。ちょうどバスローブを羽織ったところで、まだ腰紐は結んでいない。髪が濡れている。道理で長かったはずだ。
「昼間、暑くて……汗かいたから」
 俺が服を脱ぎ始めると、司さんは髪を乾かさずに出て行った。
 髪は濡らさずに、身体だけ洗ってすぐに出た。司さんはバスローブ姿で、膝にはタオルが乗っている。髪を拭いている途中で力尽きたように、ぼんやりと窓の外を見ていた。
 そばに立つと、緩慢な動きで顔を上げる。俺を見る目には、なんとも言えないような光がある。罪悪感と逡巡と、欲情の色。俺がバスローブを脱ぐと、司さんは目を伏せた。
 ゆっくりと時間をかけて司さんを抱いた。竦んでしまった身体がいつものように柔らかく溶けだし、貪欲に俺を貪るようになるまで、時間をかけて解していった。まだ湿っている髪が、首筋やうなじに貼りついている。濡れた首筋に唇を押し当てる。司さんの身体が淫らに震える。数え切れないほど抱かれたくせに、司さんの反応はまるで初だった。いつものように声を上げだすころには、二人とも汗だくになっていた。
 浴室から出ると、司さんはベッドに座っていた。先にシャワーを使った司さんは、もう身支度をすませている。何かを持っている。俺を見ると、手を広げて見せた。ガラスでできた、小さな帆船。
「よく出来てますね」
 司さんはうれしそうに微笑む。目元が赤い。泣いていたのか、それとも先程までの余韻か。「こんなに小さいのに、ディテールがすごく凝ってるんだ」
 声がわずかに掠れている。先週社用で訪れた土地の、アンティークショップで見つけたという。
「洋二くん、好きかと思って」
「呉れるんですか」
 肩をがふれるほど近くに腰を降ろす。ガラスを持った司さんの手に手を沿えて、指先にくちづけした。司さんは困ったように目を伏せる。まるで恥じらっているような慎ましい仕草だ。今度は唇をねだる。司さんはおずおずとだが、ままごとのようなキスをくれた。

 週末の約束を、強引に取りつけた。外で会うのではない。司さんのマンションで。司さんは俺を部屋に招くことをためらっている様子だったが、俺は気づかないフリをした。
 休日の訪問者を、それでも司さんは歓迎してくれた。座卓を挟んで向かい合って座ると、いつもより親密な感じがする。
 司さんの部屋に来るのは二度目だ。司さんは落ちついた色合いのシャツに同系色のチノパンを合わせている。スーツ姿もいいが、くつろいだ服装も似合う。
「ごめんね、今週は忙しくて買い出ししてなくて。コーヒーくらいしかないんだ。次は何か用意しとくから」
 次は、という言葉に胸が高鳴った。
「そろそろお昼だし、出前取ろうか。それとも外に食べに行く?」
 うちにいてもつまらないだろうと司さんは笑う。ビデオもゲームもないし、窓からは眺めも取り立ててよくはない。ささやかな展望を遮るようにそびえる、ルーフバルコニーのある高層マンションを、司さんが指さす。
「あのマンションが建つ前は、エキスポランドの観覧車が見えたんだよ」
「じゃあ花火も見えたんですね」
「うん。きれいだったよ。でも見られたのは引っ越した年だけ」
 コーヒーを飲みたいと言うと、インスタントだけどと言いながら、ヤカンを火にかけカップを出した。二人で、コーヒーを飲んだ。
 膝行って座卓を回り、司さんの隣に移動した。司さんは俺を拒まなかった。くちづけはコーヒーの味がする。
「……待って。布団敷く」
 神妙に座って、司さんが隣の部屋に布団を敷くのを待った。司さんの布団だ。そう思うと緊張した。抱きあって、そっと横たわる。司さんはいつもより声を抑えている。マンションの造りを見ると壁が薄いわけではないのだろうが、気持ちはわかる。俺もなんだか気恥ずかしい。
「秀一……」
 いつもは自分が誰だかわからなくなるほど繰り返される甘い声は、今日は一度だけだった。かすれたささやき。司さんは俺に抱かれながら、声を出さずにひっそりと泣いた。目尻に滲んだ涙を唇で拭う。なぜ泣くんだ。司さんの望みはすべて叶えているのに。
「どうして泣くの」
 濡れた目で俺を見る。でも答えてはくれない。
 司さんの腕が俺の背中に回される。つよくはないがしっかりと抱きしめられて、胸が熱くなる。
「洋二くん」
 かすかな声が耳をくすぐる。幻聴に違いない。司さんが行為の最中に俺を呼ぶなんて、今まで一度もない。そんなことあるわけがない。
 混乱し、その後どう極まったのか、司さんが満足したのかも覚えていない。聞こえるはずのない海の音が聞こえた。それだけを覚えている。
 気がつくと、司さんの腕の中だった。行為の後もまだ泣いている司さんを抱きしめて、そのまま眠ってしまったらしい。初めてのことだった。司さんの寝顔を見そびれた。
「洋二くんの寝顔初めて見た」
 司さんの声は優しい。もう泣いてはいないが、目元が赤く腫れている。
「俺はいつも司さんの寝顔見てましたよ」
「ヘンな顔して寝てるだろ」
「時々口が開いてます」
 俺は司さんが好きです。
「どこか行きませんか」
 司さんは俺が嫌いですか?
「そうだね、いい天気だし。ついでに何か食べよう。行きたいところある?」
「……遊覧船に乗りたい」
 司さんと。
「いいね」
 司さんが笑う。
「これから出るなら天保山のほうがいいかな。海遊館、夜も見学できるんだよね」
「ええ」
 浴室からの水音が、子守歌のように聞こえる。乱れたシーツ。司さんが身を横たえていた場所にふれる。まだぬくもりが残っている。俺はその場所に身体を重ねると、司さんの名残を全身で味わった。手を伸ばし、布団のそばに投出したジーンズを引き寄せる。ヒップポケットからくしゃくしゃになったマイルドセブンのパッケージを引き出し、握り潰した。寝そべったまま窓を見上げる。淡く澄みわたった空が見えた。
 海は凪いでいるだろう。

 

 

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

*「呼んで」覚書*
2000/05/16
2003/04/27 第01回小説リンクス新人大賞投稿
2004/12/21 “Phosphorescence”UP