spice!



 昇降口で靴を履き替えて職員室に向かう廊下を歩いていると、花瓶を持った西園寺先輩の姿が見えた。
「おはようございます、西園寺先輩」
「おはようございます。今日は随分と早いですね」
 先生に見つかっても注意されない程度の速さで駆け寄って挨拶をすると、西園寺先輩は立ち止まり振り向く。
 私が横に並ぶと西園寺先輩は微笑んで挨拶を返してくれた。
「今日は日直なんです」
「そうでしたか。頬がほんのりと赤く染まっていますが、走ってらっしゃったのですか?」
「外が寒くて早く中に入りた――ひゃあ!」
 花瓶から離れた西園寺先輩の手が私の頬に触れた瞬間、私の口から声が漏れた。
 西園寺先輩の手、すごく冷たい。
 今朝はすごく寒いけどこんなになるなんて、何をしてたんだろう?
「あぁ、すみません。先ほどまで花を生けていたことを失念していました」
 手を引いた西園寺先輩が申し訳なさそうに謝る。
 花瓶持ってるんだからそうだよね。
 それなのに驚いたからって叫んじゃうなんて。
「こ、こちらこそすみません。大きな声出してしまって」
「いえ、とても可愛らしい声でしたよ」
 あんな変な声が可愛いって……やっぱり西園寺先輩の考えることってよくわからないな。
「えっと、その花瓶は余ったんですか?」
 西園寺先輩が持っている花瓶は空っぽ。
 枯れてしまったお花を出して花瓶を洗ってたならわかるんだけど、それだったら生けてたとは言わないよね。
「ええ。温室の花で開ききってしまったのがあったので生けていたのですが、この花瓶は色が合わなかったので片付けるところなんですよ」
 学内に飾られてるお花は花器もすごい合ってる気がする。
 そういうのも考えて生けられてるんだ……
「そうだったんですか。そのお花、どこに飾られてますか?」
「生徒会室ですよ。時間がおありでしたら、見ていかれますか?」
「はい。でも今だと日誌を取りに職員室に行ってからになってしまうので、お昼休みとか放課後でも大丈夫ですか?」
 できることならゆっくり見てみたいし、それなら時間のあるときの方がいいよね。
 私の問いかけに西園寺先輩はゆっくりと頷く。
 こういう仕草が様になるのは西園寺先輩だからだよね。
「ええ、構いませんよ。せっかくですから、一緒に昼食は如何ですか?」
「是非。お弁当持っていきますね」
「はい。生徒会室でお待ちしています」
 階段の前で華道部の部室に戻る西園寺先輩と別れて職員室へ向かう。
 そういえば、さっきの西園寺先輩何かおかしかったような……?


 ☆ ☆ ☆


 生徒会室のドアを軽く二回ノックして、ゆっくりと開ける。
「失礼します」
 恐る恐る覗き込むと、室内には西園寺先輩一人。
 守部君は教室にいたけど、他の役員の人は今日は来ないのかな?
 私に気付いた西園寺先輩は読んでいた本を閉じると椅子を引いて私に手招きをした。
「ようこそいらっしゃいました。こちらへどうぞ」
「ありがとうございます。あっ、これが朝生けられたのですか?」
 大きな音を立てないよう気を付けてドアを閉めて、西園寺先輩が引いてくれた椅子に歩み寄る。
 机の上には凛とした水仙が生けられた花器が飾られていた。
「そうですよ。綺麗な水仙でしょう?」
「はい。こんなに素敵だと、生徒会室に飾っておくのはちょっともったいない感じがしちゃいますね」
 私が座るのを確認した西園寺先輩は机の上に置かれた急須に手を伸ばした。
「あっ! 私がやります」
「構いませんよ。私が好きでやっていることですから」
 楽しそうな様子で西園寺先輩はポットから急須にお湯を注いでいる。
 膝の上に置いていたランチトートからお弁当箱を出していると、私の前に木製の茶托に乗せられた湯呑み茶碗が置かれた。
 生徒会室って何でもあるんだなぁ……
「白状しますとね、職員室も応接室も昨日華道部で生けたものがあるので、ここくらいしか飾る場所がなかったんですよ」
 西園寺先輩は内緒という様子で立てた人差し指を口元にあてていたずらっ子のように微笑んだ。
 私の隣に腰掛けた西園寺先輩はポットの脇に置いていた風呂敷包みを手に取り、結び目を解き始める。
「そのおかげで今こんな綺麗なお花見ながらご飯を食べられるなんて贅沢ができてるんですね」
 お花とお弁当に向かっていただきますと手を合わせて、卵焼きに箸を伸ばして――
「私としてはあなたと一緒というのが何よりの贅沢なのですがね」
 西園寺先輩の言葉に卵焼きをうっかり落としそうになった。
 危なかった……
「そ、そうですか?」
「ええ。箸を持つあなたの指先や軽く開かれた唇。あなたという花を眺めながら食事をいただけるのですから。そういった意味では、ここに持ってきて正解でしたね」
 西園寺先輩と話していると、たまに表現が大袈裟で反応に困ってしまう。
 褒め……られてるのかな?
 私が卵焼きを口に運んで食べている間、西園寺先輩は箸を止めてじっと私を見ていた。
「あの、そんなに見られていると……」
「これはこれは、失礼しました。私に構わず食事を続けてください」
「はぁ……」
 向かい合わせじゃなくて隣に並んでるのに、私がちらりと視線を向けると西園寺先輩と目が合う。
 緊張するなぁ……
「そういえば、先輩今日はお弁当なんですね」
 綺麗な若草色の風呂敷に包まれていたお弁当はご飯が綺麗な花の形になってたりしてて、百貨店で売られてるお弁当みたい。
 西園寺先輩のおうちだと、お手伝いさんとかが作ってくれるのかな?
「あなたがいらっしゃるので午前のうちに手配しておいたんですよ」
「えっ!?」
「あぁ、気になさらないでください。誘ったのは私ですし、生徒会の仕事が立て込んだときにもやっていることですから」
 確かに守部君もお昼にお弁当持って生徒会室に行ってたりしてたっけ。
 でも、やっぱり西園寺先輩に気を使わせちゃったことには変わりないよね。
 お弁当持ってきてるのかとか、ちゃんと確認してからにするんだった。
「寄らせていただくの、放課後でもよかったですね」
「あなたが放課後とおっしゃっても、私から昼食に誘っていましたよ。放課後は役員が来ますからね」
 そっか。放課後だと生徒会の仕事の邪魔になっちゃうかもしれないから、お昼にしたんだ。
 西園寺先輩ってやっぱりすごいなぁ……
「この室内にあなたと二人きりという状況は私にとって何よりも大切なものなのですから、それを邪魔をされないためでしたらどんなことでもしますよ」
「ど、どんなことでもですか?」
 あれ? 思ってたのと何か違うのかな?
 私が聞き返しても、西園寺先輩はニコニコ笑って頷くだけ。
「どんなことでも、です」
「そう、ですか……」
 やっぱり西園寺先輩の考えてることってちょっとわからないかも


 ☆ ☆ ☆


「せっかくこうしてあなたと過ごせるのですから、何か茶菓子を用意しておくべきでしたね」
「いえ、お花を見に来ただけなのにお茶までいただけいてしまってすみません」
 お弁当を食べ終えて温室のお花について西園寺先輩と話をしている最中、お茶のおかわりを淹れていた西園寺先輩が、ふと背後の棚に視線を向ける。
 いつもはあの中に何かあるのかな?
「招いた側がもてなすのは当然のことですから。どうぞ」
「ありがとうございます」
 茶托に添えられた西園寺先輩の手にふと視線が向く。
 もしかして朝のって……
「あなたに見つめられるのは嬉しいことですが、できることなら手ではなく私の目を見ていただきたいですね」
「す、すみません。失礼ですよね」
 西園寺先輩の少し照れたような声に、慌てて顔を上げる。
 いけない。いくら気になったからって、失礼なことしちゃった。
「いえ、あなたでしたら構いませんよ。私の手がどうかなさいましたか?」
「その……西園寺先輩の指、少し荒れてるのかなって」
 差し出されたお茶に視線を落として、朝の違和感の正体に気が付いた。
 西園寺先輩に頬を触れられたとき、肌が少しかさついてたからだ。
「そうですね。花を扱っていると水に触れないわけにはいきませんから、冬はどうしても荒れてしまいますね。このような指で触れてあなたの肌に傷を付けてしまうわけにもいかないので、気を付けてはいるのですが――」
「あっ! 私、ハンドクリーム持ってますよ」
 確かランチトートの中に入れておいたはず。
 ばつが悪そうな顔で指先を見ていた西園寺先輩は軽く目を見開いてから小さくため息をついた。
「本当にあなたは……いえ、ハンドクリーム持ち歩いてらっしゃるんですか?」
「はい。私も冬場は特に荒れちゃうので、リップとハンドクリームは欠かせないんです」
 リップは今塗り直しちゃうと湯呑みに付いちゃうから、教室に戻ってからにしようかな。
 取り出したクリームを持ったままランチトートを机の脇に寄せる。
「そうなのですか。あなたのこの美しい手と艶やかな唇は、日頃の手入れの賜物なのですね」
 褒めてもらえるのは嬉しいけど、やっぱり大袈裟だなぁ……
 持っていたハンドクリームのチューブを西園寺先輩に差し出す。
 ちょっと香りの付いてる奴だけどそこまで強くないから気にならないと思う。
「これ、よかったら使ってください。先輩が使うには香りが少し強いかもしれませんが……」
「カモミールですか。あなたに似合う、甘く優しい香りですね」
 西園寺先輩が何か思い付いたのか、伸ばしていた手を止める。
「せっかくですから、塗っていただけませんか?」
「え?」
 塗るって、西園寺先輩の手にハンドクリームを塗るってことだよね?
 西園寺先輩は微笑んで差し出した手をくるりと返して手のひらを向けてくる。
「人に触れられたりすることで心が落ち着いたりすることがあるでしょう? あなたのその手で、私を癒していただきたいのです」
 何かすごく含みを持った感じだけど、ハンドクリーム塗るだけだよね?
 西園寺先輩は私を真っ直ぐ見たままニコニコと微笑んでいるけど、差し出した手を引く様子は見せない。
「じゃあ、私でよかったら」
「ありがとうございます。ではお願いしますね」
 そういえば、前にハンドマッサージのやり方教わったんだっけ。
「ちょっと多めに付けますね」
 普通に塗るよりも多めに出して、手のひらで広げて温める。
 確かこんな感じだったような……
 西園寺先輩の右手を取って、私の両手で包み込むように手の甲から順番にマッサージしていく。
 少し荒れてる指先を重点的に親指の腹で撫でると、西園寺先輩の口から驚きの声が漏れた。
「おや、随分とお上手なんですね」
「ありがとうございます。見よう見まねなんですが……左手を」
 マッサージを一通り終えた右手から手を離すと、西園寺先輩が頷いて左手を差し出す。
「とても気持ちいいですよ。私の肌の上をあなたの指が滑る様はとても扇情的で、見ているだけでもそそられてしまいます」
「え?」
 今、何て言ったんだろう?
 ハンドクリームを温めながら顔を上げても西園寺先輩は微笑むばかり。
 差し出された左手もさっきと同じように手の甲から手のひら、指を重点的にやってまた手の平手の甲と戻していく。
「あなたが私を悦ばせようとしてくれるということが嬉しいということですよ」
「そ、そうですか……」
 上手って言ってもらえて私も嬉しいけど、喜んでもらえたならよかったかな。
 西園寺先輩の手を解放して自分の手のひらに残ったクリームを手の甲にまで伸ばした。
「ええ、そうですよ。ですから、今度は私の番です」
 少し固くなっていた爪周りにクリームを塗り込んでいると、西園寺先輩の手が添えられる。
「さ、西園寺先輩!?」
「私にあなたを労らせてください」
 西園寺先輩は両手で私の手を包み込んだまま引き寄せた。
「ほんの僅かな時間でもこうしてあなたと香りを共有できるのでしたら、少しくらいの手荒れもいいかもしれませんね」

 これからもお願いしてよろしいですか?

 そう言って西園寺先輩は引き寄せた私の手に唇を寄せて微笑むのだった。



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