「これでよしっと」 朝食の準備を終えた春歌が、寝室へ続く階段を軽やかに駆け上がっていく。 忙しいカミュが珍しく丸一日休みの今日。 自身の仕事が残っているため外出してのデートとはいかないまでも、それでも久し振りに二人でゆっくり過ごせるのだから春歌が浮かれてしまうのも無理はない。 階段を上りベッドへと視線を向けると、俯せ寝で肩越しに視線を向けてくるカミュの姿が見えた。階段を上ってくる音と気配で起きたのだろうが、春歌と視線が合っても動こうとしないカミュに春歌は首を傾げつつも、まだ寝ぼけているのかと思い声をかけてみた。 「カミュ先輩?」 「わんっ!」 「えっ? カミュ先輩? えっ!?」 顔を春歌に向けたカミュの口から発されたのは、言葉ではなく鳴き声だった。 驚きで頭が真っ白になった春歌が階段の手すりを掴んだまま立ち尽くしていると、今度は階下から地を這うような叫び声が聞こえてきた。 「どういうことだあああああああああああ!」 「えっ? えぇええええ!?」 聞き覚えのある声に、春歌は慌てて階段を駆け降りる。 すると、リビングの一角、カミュ愛用のソファの傍らで眠っていたはずのアレキサンダーが前足で床を踏み鳴らしていた。 「もしかして……カミュ先輩、だったりします?」 まさかそんなこと……とは思いつつ、春歌は恐る恐るアレキサンダーに向かって声をかける。 聞こえてきた声は多少の違いは感じられたものの、どう聞いてもカミュのそれだったから。 「俺以外の何者に見える!」 アレキサンダーは厳しい声と鋭い視線を春歌に向けてくる。 「アレキサンダー、です……」 何と言われようと、春歌には真っ白い毛並みのボルゾイ犬にしか見えない。 「ということは、カミュ先輩の中はアレキサンダーなんですね」 虚勢を張っていたものの春歌の言葉に現実を受け入れざるを得なくなったのか、どうやら中身はカミュらしいアレキサンダーは力なく床に伏せた。 「俺としたことが何たる不覚。刺客の気配に気がつかなかったとは……」 アレキサンダーの姿になったカミュの前にしゃがんで、春歌は頭を撫でる。 「……おい」 その手が両手で顔を包み込むように撫で始めると、カミュは不機嫌そうな声を上げた。 「す、すみません。つい癖で」 カミュの声に春歌が慌てて手を引っ込める。 「先輩のお帰りが遅くて寂しそうにしてるときとか、頭撫でたりブラッシングしてあげるとアレキサンダーが喜ぶので」 「俺が家を空けている間、そんなことをしているのか……」 そう呆れた声で呟くと、カミュは立ち上がりおぼつかない足取りで歩き出す。 「あの……先輩どちらへ?」 春歌が傍らに立ちカミュに尋ねると、カミュは歩みを止めないままチラリと春歌を見上げた。 「俺の身体……アレキサンダーの様子を見に行く。陛下と通信するにも、ここではできんからな」 「女王様に、ですか?」 「落ち着いて考えれば、このようなことをできるのは、俺の周囲では陛下か愛島くらいだろう」 「それは、確かにそうでしょうけど……」 前足を階段にかけるカミュの腹部に春歌は腕を回す。 「なっ、何をする!」 「えっ? あの、先輩が大変そうなのでお手伝いしようかと……」 上りにくそうに見え身体を支えようとしただけなのだが、カミュは急に伸ばされた手に驚き声を上げた。 「そ、そうか。だが、アレキサンダーは大きく体重もあるからお前では抱えられまい。先に寝室に行ってアレキサンダーの様子を見てきてくれ」 「は、はいっ」 確かに先程はカミュの怒号に驚いてリビングに戻ってしまったが、アレキサンダーが慣れないカミュの身体で動いて怪我でもしたら大事である。 カミュにそう言われ、春歌は小走りに階段を駆け上る。そのままベッドに駆け寄ると、カミュの姿をしたアレキサンダーは布団をかけたまま枕に顔を埋め幸せそうに眠っていた。 「可愛い……」 いつものカミュなら絶対に見せないであろう表情に、春歌はついときめきを感じてしまった。 「いけないいけない。アレキサンダー、起きて」 「うぅ〜」 ベッドに片膝をつきカミュの身体を揺すると、その口からは犬らしい唸るような鳴き声が漏れる。 「アレキサンダー、ご飯ですよー」 「わぅっ!」 春歌の言葉に跳ね起きたアレキサンダーが、春歌の上に覆い被さった。 「わふん。わうわふん」 「あ、アレキサンダー。ちょっと待って」 中身はアレキサンダーだとわかっていても、上半身裸のカミュに明るいうちからのしかかられるのは刺激が強すぎる。 「ひゃっ」 頬を舐めてくる舌の感触に、春歌は身体を震わせた。 アレキサンダーとしてはいつもと同じようにしているだけだとしても、春歌の目に映るのはカミュの身体。 普段アレキサンダーを抱いているときとは違う、人間の皮膚の感触に春歌は瞼を固く閉じた。 「おい、何をしてる」 「あ、アレキサンダーが……」 怒気をはらんだ声の方に顔を向け、春歌は声の主に助けを求める。 カミュとの体格差を考えたら力ずくで退かすことも難しく、何よりカミュの身体に怪我でもさせてしまったらと思うと春歌は身動きがとれない。 「降りろ、アレキサンダー!」 強い口調でカミュに命じられ、アレキサンダーは慌てて春歌から離れた。 「わっ……きゅんっ!」 「だ、大丈夫?」 人間の身体になっていると思いもしていないアレキサンダーは、春歌から離れ伏せようとしてベッドから転がり落ちる。慌てて春歌が床に下りると、アレキサンダーは這いずって春歌の膝にすがりついた。 「きゅ〜ん」 「放っておけ」 春歌の膝に顔を埋め頭を撫でられている自分の姿が見ていられないのか、カミュは春歌の隣に歩み寄ると、春歌にもたれるように身を寄せて伏せた。 「でも、先輩とアレキサンダーが入れ替わってしまうなんて、どうしましょう?」 春歌に背中を撫でられるがまま、カミュは大きく溜め息を吐く。 「幸い今日はオフだからな。陛下と連絡を取り元に戻してもらえばよい」 『甘いの、カミュ』 「えっ? 女王様?」 突然部屋に響いた声に、春歌は顔を上げた。 …to be continued
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