spice!


☆ ☆ ☆


「ただいまっと……」
 玄関のドアを開けたレンはスーツケースを持ち上げ運び入れる。
 予定よりも早い便で帰国することができたレンは預けていた荷物を受け取った段階で春歌に連絡を入れていた。サプライズも考えたが、行き違いにならないとも限らない。現に春歌の携帯に送ったメールに対しての返事はなかった。
「ハニーからメールの返事なかったけど、打ち合わせでも入っちゃった……あれ?」
 玄関に春歌の靴を見つけ、レンはリビングに向かって声をかける。
「ハニー、来てるのー?」
 このくらいの声ならばリビングなりキッチンなり届かなくもない。
 しかしレンの望む返事は聞こえてこなかった。
「音楽でも聴いてるのかな?」
 ふと足下を見ると玄関にはレンのスリッパが綺麗に並べられている。
 一週間家を空けていたのだから多少のホコリっぽさは覚悟していたのだが、廊下の様子を見るに春歌が掃除をしてくれたのだろう。そのときにスリッパも出しておいたのだろうが、どうせならちゃんと出迎えてほしかった。
「インターホン押してみればよかった」
 まさか春歌が自分の部屋に来ているとは思わなかったからインターホンを鳴らすという発想に至らなかった。いや、そもそも時差ボケなのか頭の回転が遅くなっている感は否めない。
 できれば少しの間仮眠を取りたいがいくら明日がオフとはいえ今寝てしまうと明後日の仕事中に睡魔と戦うことになる。
 春歌と話していれば眠気も飛ぶだろう。早く春歌に会いたい。
 玄関の壁に手をついたまま取り留めもなくそんなことを考えているうちに、レンはあることに気が付いた。
「そうか。ハニー、やっと合い鍵使ってくれたんだ……」
 こんな些細なことに気付くまでにここまで時間がかかるのだから今春歌と顔を合わせたら眠気が飛ぶどころか安心して寝てしまう気がしなくもない。しかも春歌のことだ、膝枕でもしてくれるんじゃないだろうか。
「あぁ……思考が滅茶苦茶だな」
 玄関先で考え込んでも埒があかない。
 レンは靴を脱いでスリッパに履き替えるとキャリーケースを傾け持ち手を掴んだ。
 春歌はきっとキッチンにいるだろうから一度ただいまのキスをしてから寝室にキャリーケースを運んで、汚れ物を洗面所に持って行くついでにシャワーを浴びよう。熱めの温度にすれば夜までは何とか眠気も耐えられるかもしれない。
「ハニー、ただいま」
 リビングのドアを開けキッチンに向かって声をかけたが、やはり返事はない。
 不思議に思ったレンがキッチンに足を向けると、そこはもぬけの殻だった。
「あれ? あー、でもこのバッグがあるってことは来たことには来たんだな」
 キッチンカウンターの上に綺麗に畳まれた春歌のエコバッグを見つけ、レンは頷く。しかし肝心の春歌の姿はない。
「まさかバスルームでオレを待って……くれてるわけはないか」
 それだったら玄関で声をかけたときに返事があっただろう。
 据え膳を期待した自分の言葉を即座に否定してレンは首を傾げた。
「とりあえず、荷物置きに行ってこようかな」
 寝室のある二階へ続く階段を上りながらレンは軽く溜め息を吐く。
 メゾネットタイプのこういうところが面倒なんだよな。
 アイドルであろうが作曲家であろうが与えられる部屋の間取りは同じなので、ピアノが置けるようにとの配慮なのか寮のリビングは――レンの感覚ではそうでもないが――それなりに広い。そのためか、寝室はメゾネットで二階へ配置されている。
 普段はそれほど気にならないが、こう荷物が大きくなるとどうにも不便を感じてしまう。実家にいたときもこの程度の移動はあったはずなのだがあまり覚えがないのは、今の自分が単純に疲れているからなのだろう。
 レンは一度荷物を下ろすと寝室のドアを開けた。
「こういうことか……」
 レンの口からはついさっき吐いた以上に大きな溜め息が漏れる。
 レンの寝室に置かれたベッドの上には随分と気持ちよさそうに眠る春歌がいた。
 ベッドに腰掛けるようにして掛け布団に抱き付きヘッドボードとは逆の方向に頭を埋める春歌の姿と、ベッドの脇の床に大雑把に畳まれたシーツを見れば今がどういう状況なのか頭の働いていないレンにも理解できる。
「シーツ換えてそのまま寝ちゃったのか……」
 音を立てないように注意を払いながらキャリーケースを寝室に運び入れたレンは後ろ手でドアを閉めると、ゆっくりとベッドへと近寄った。
「ハニー、ただいま」
 囁くように声をかけて春歌の頬にキスを落とす。顔にかかる髪を避けてやると、春歌はレンの手にすり寄ってきた。
「ぅん……だぁ、りん」
 これはマズい。
 身体は疲れているというのに春歌の声を聞いた瞬間レンの下半身は微かな反応を見せる。
 たかが一週間、されど一週間。
 いつもならどんなに仕事が忙しくても時間を作って春歌の顔を見ることはできた。それが一週間とはいえ声だけで我慢しなければならなかったのだからこうなってしまうのも仕方ない。
「いやいや。寝込みはさすがに、ね」
 このくらいなら眠気覚ましを兼ねて今直ぐバスルームに駆け込めばなかったことにできる。夜は長いし明日はオフなのだから、何も今しなければならないというものではない。
 そもそも眠っていて何の反応もしない相手を抱く趣味はレンにはない。顔を真っ赤に染め、瞳を潤ませ、声を上げぬよう堪えながら切なげな吐息を漏らし、身体を震わせて快楽に耽る春歌の姿を見るのが何より――それこそ春歌のナカに挿入するという行為そのものより――レンを満たすのだから、今は我慢するか春歌を起こすかの二択。
 しかし、こうも気持ちよさそうに寝られてしまうと起こす気になれないのだから、レンとしては我慢する他ない。
「シャワー浴びてこようかな」
 目を覚ましたら容赦はしない。それでいいじゃないか。
 レンがそう心に決め春歌から離れようとすると、いつの間にかレンの手を握っていた春歌が、それを自身の口元へと持っていっていた。
「――っ!」
 手の平に柔らかな物が触れそのまま軽く吸い上げられた瞬間、レンの背筋に電流のような物が駆け上がった。
 これは無理だ。耐えられるわけがない。身体は疲れ睡眠を欲していたとしても、今ので全て吹き飛んでしまった。
「こういうのは、起きてるときにしてほしいんだけどなぁ」
 苦笑いと共に出た言葉は紛れもないレンの本心。
 レンがリードするのは当然としても、基本受け身の春歌が自分から何かをしようとすることは少ない。今は経験のなかった春歌を少しずつ慣らしていってる最中なのだが、顔を真っ赤にして視線を逸らした状態で触れるのが精一杯なことを考えると、たとえ手の平とはいえ春歌が自分からキスをして跡を残すような行為をしたということはレンにとっては驚くべきことである。
「オレを煽ったハニーが悪いんだよ?」
 掛け布団に顔を埋めた春歌の肩を掴んで無理のない位置で仰向けにさせる。
 横抱きにしてちゃんとベッドに寝かせてもいいが、この体勢の方が春歌が起きたときの反応が楽しそうだと思い、レンは片膝だけベッドに乗せて春歌に覆い被さった。


…to be continued
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