催 花 雨

「雨、降ってきたみたいだ」
一番後ろを歩いていた風早が空を見上げて誰にともなく呟いた。声につられて、風早の前にいた忍人が空を仰いだ。
 薄い黄色をまとったモノクロの雲が頭上を覆っていた。雲の灰色は西のほうへの水平線に近づくにつれ濃くなっている。おそらく夜になるにつれ、雨脚が強くなることだろう。早いうちに帰ったほうがよさそうだ。
「早く帰ろう」頬に降ってきた雨粒を軽く拭って、忍人が言う。「これからひどくなりそうだ」
 葦原千尋の即位式が近づいていた。彼女がこちらに戻ってきて二度目の春がこの地に満ちるとき、本当にこの国は彼女を王として頂くことになる。忍人はその前に宮の守りを完璧にしておきたかった。今は戦いに出る以外にも千尋の役に立つことができる。彼女が治める国のためにできることは全てやりたい。
「そうですね。急ぎましょう」
道臣も頷いて、周りの者に急ぐよう促す。
 一行は仕事を終えて砦を発ち、宮殿まで戻りだしたところだった。此処からではたとえ急いだとしても、千尋のいるところへ着くのは日没後になってしまうだろう。雨が弱いうちに少しでも進んでおきたい。
「忍人の身体を雨に濡らすなんて、きっと千尋に叱られますね」
風早が苦笑する。雨に濡れて帰ったときの千尋の反応を考えたら忍人の唇の端からもため息が漏れた。
 確かにここのところ忙しく働いている自覚はあるが、千尋は少々心配しすぎだと思う。しかし、彼女が自分のことを好きでいてくれているからこその心配なのだとわかっているからあまり強くは言えない。そして、時に行き過ぎなほど自分の身体を案じてくれる千尋が愛しくてたまらないというのもまぎれもない事実だった。
「千尋のこと、考えているんですか?」
風早が楽しそうに忍人に尋ねた。
「なっ…………」ずばり言い当てられた忍人は言葉につまってしまう。その初々しい反応こそが、彼の考えが正解であることを風早に教えてくれている。くすくす、と風早がまた微笑む。
「もう視察から帰っている頃でしょうかね。雨に降られてないといいんですが」
「………そうだな」
 しかし忍人にしてみたら、千尋こそもっと自分のことを考えるべきだと思う。今回のことだけの話ではない。いつだって千尋は自分よりも他人を大切にして、時に他人を守るために自分を犠牲にして。
――そんな彼女だから、こんなにも不安になる。
「忍人?」
風早の言葉で現実に引き戻される。霧雨がヴェールのほうになって、すぐ隣にいる風早すら滲ませていた。道臣たちからは数歩遅れてしまっていて、雨に濡れた背中が遠くに見えた。
「……すまない。少し、考え事をしていた」
 そうですか、と風早がそっけなく返した。その目は忍人から離れない。やがて、風早が続けて口を開く。
「心配なことでもあるんじゃないのか?」
「何?」忍人が眉をしかめたが、風早はたじろぎもせずに、
「昔から悩み事があると眉間にしわがよりっぱなしなんだよな、忍人は」
「なっ、」
「独りで悩むのが忍人の悪い癖だ。今朝、千尋がああやって忍人を引きとめたのも、きっと忍人が何かに悩んでることを薄々感づいているからなんじゃないかな」
その風早の微笑みを見た瞬間、忍人は唐突に、千尋と那岐を異世界で五年間育てたのが風早であることを思い出した。
「もう少し頼りにしてくれると嬉しいんだけどなあ。ほら、俺、一応同門の先輩だし」
彼の言葉はまるでこの雨のようにやわらかくそっと忍人の真ん中に巣食っていた暗いものに降り注ぎ、それの表面をずるずると溶かしはじめた。
 忍人の足が止まった。数歩忍人よりも先に行ってから、振り返る形で風早も止まる。道臣たちはずいぶん先へと行ってしまっていて、忍人たちが立ち止まったことに気がつかない。
 取り残されるように立ちつくす二人にも容赦なく雨が落ちてくる。
「………………本当は、俺は、千尋に触れてはいけなかったんだ」
 丈の高い草の葉から溜まった雨水がこぼれるように、忍人の舌から暗い言葉が零れおちた。一度零してしまったらもう止まらなくなって、重力に従わされているかのごとく、暗い想いが言葉に変換されて地上に落ちていく。
「俺はきっと彼女を置いていってしまうのに。その時、千尋はどうなってしまう?自分を大切にしない彼女が、他人のことばかり気にして他人のことばかり考えて他人のことばかり大切にする千尋を、置いていく、なんて、」

――死は美しき乙女の姿で お前の元へと舞い降りる
(――君が、俺の死なのか)

「彼女を置いて、もう守れなくなって、そうしたら千尋はどうなる?きっと周りが心配するからといって無理をして笑って、ただでさえ王になれば彼女はもはや独りの時ですら葦原千尋ではいられなくなってしまうというのに」
 千尋を守って戦うために破魂刀を封印するという約束をしたあの夜、あんなふうに彼女の肌に触れるべきではなかった。あんなふうに熱を交わすべきではなかった。彼女の腕の細さも、彼女の肢体のしなやかさも、彼女の皮膚の下にある蕩けるほど熱い熱も、すべてすべて、愛しさに抗えなくなってしまうのならば、知ってはいけなかった。
「俺が彼女にとってたくさんいる臣下の一人だったら、泣いて泣いて、それで立ち直れるかもしれない。そうだったらよかったんだ。そうだったら、俺が置いていっても、きっと、」
 独りで泣いて、泣いて。孤独な王様は個人的な哀しみを誰にも受け止めてもらおうとせず、重たいそれを抱えたままで民の前で微笑むのだろう。ああ、その、なんと哀しきこと。
「………『置いていく』、だなんて。もう戦いは終わったじゃないか。それにもし万が一戦いが起こったとしても、君が使うのは破魂刀じゃない。生太刀だろう」
 禍日神を倒したあの日、忍人の破魂刀は生太刀へと姿を変えた。忍人が手にしているのは、振るう者に生をもたらす神の剣だ。
「もう君は自分を犠牲にして力を使うことはないだろう。だから、」「違うんだ」風早の言葉を遮るように、否定した。「本当は――、」
忍人はそこで言い淀んだ。しかし、風早の目に宿っていた光が、忍人に、そこで真実を告げるのをやめてしまうことを許していなかった。忍人は一瞬ためらったが、その鋭い光に促され、言葉を続けた。
「――本当は、破魂刀だろうと生太刀だろうと、俺を待つ未来は変わらなかったんだ」
 剣を振るい、倒れたのは、破魂刀という刀が振るう者の魂を削りとる刀だったからかもしれない。破魂刀が生太刀に変わった今はもう、その心配はない。それでも、忍人を待つ未来はほとんど変わらないのだ。少しだけ時期の差こそあれ、忍人を待つ運命はすでに確定していた。
「俺は未来を差し出してしまったんだ、風早」
 忍人は笑おうとした。そうでもしないと、霧のように降る雨はきっと忍人の涙を隠してはくれないというのに今すぐ風早の前で無様に泣きわめいてしまいそうだった。たぶん一滴でも溢してしまったら忍人の感情は嵐になって雨粒に満たされた空気を切り裂くように爆発してしまう。誰にも告げずに一人で抱えていくはずだったどす黒い不安が、ほんの少し見破られてしまっただけでいともたやすくぶちまけられてしまうように。
「望む未来と引き換えに、俺は幸せな未来を全うすることを放棄した。そういう契約を、俺は、俺の牙であり爪であるモノと交わしたんだ」
橿原宮を落ち延びた頃のことはどれも夢か現かの境界線が曖昧で、あの生と死が交差する仄暗い場所でのことも輪郭がはっきりとしない。しかし混迷した状況のなかでの妄想だと一蹴することを許さないほど、足元にからみつくように地面を這っていた空気の生暖かさだけが鮮明に忍人の記憶のなかに巣食っている。
 風早は黙って、雨粒を縫うように届く忍人の言葉と空の涙のようにしとしと降り注ぐ雨にただただ打たれている。
「千尋のつくる新しい国を見ることも、一緒に桜を見に行くという約束を果たすことも、俺はできないんだ」
 彼女が望んだささやかな願いですら叶えてあげることも出来ない忍人の無力さを責めるように雨は激しさを増した。空は苦しみを湛えているような灰色のままで、人目をはばかることなく泣き続ける。




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