Monster! Monster!

第2話『カレイドスコープ 発汗惑星』

かいた人:しあえが








人はこの世界の支配者ではない。




 本当に心が乾いていきそうだ。
 皮膚が萎び、肉が固まり、骨が砕ける。
 凶器のような日差しに照らされて、シンジは心の底からそう思った。
 苦痛は皮膚の下をはいずるウジ虫のように全身をさいなむ。喚き散らしたい。転げ回って泣き叫びたい。
 だが、そんなことをすれ5分と保たずに天に召されてしまうだろう。
 だからシンジは無言でマントの端を握りしめた。ギラギラとした日差しから身を守る命綱、全身を覆う真っ白なフード付きのマントを。しかし、今それは砂にまみれ、白色とは言いがたい色になっていた。
 いったいどれくらい、この砂の大海を歩き続けているのか。
 360度見渡す限り目映く輝く白い砂と目が痛いほど青い空、焼け付く太陽しか見えない大砂海。
 広さは第三新東京市一番の広場であるジオフロントの…幾つ分だろう?
 この砂漠こそ世界に名だたる大魔境。国をいくつも飲み込んでなお余りある世界最大の砂漠、ジパルシア大砂海だ。


 客観的に見るなら、砂漠というのは非常に興味深い世界だろう。どんな生き物が住んでいるのか、気候は、雨は降るのか。…好奇心は尽きない。
 だがその世界を、自分の足で歩いている当事者達にとってはどうだろう?
 聞くまでもないことか。
 嫌に決まっている。


 本来なら生きとし生ける者全てに恵みをもたらすはずの太陽は、平地の10割り増しで死の光を投げかけ、太陽の洗礼を受けた砂は旅人の足を焼く悪意の粒となり、靴に入ってその歩みを遅くする。空気には細かい塵が混じり、時折塵旋風となって旅人の喉をひりつかせる。だがこれはまだ可愛い方だ。もっと直接的で、露骨な悪意がこの砂漠にはあるのだから。

 危険な生物群。

 なにも好きこのんでこんな危険地帯に生息しなくても良いのに…と思わなくもないが、彼らには彼らなりの考えというものがあるだろうから、まったくもって余計なお世話だ。
 普通、砂漠で見られる角ガラガラヘビ(サイドワインダー)、蠍、毒蜘蛛、砂トカゲ、肉食スカラベと言った普通の生き物ではない。もちろん、それらも充分に危険である。特に蠍と蛇は要注意だ。血清があったとしても、多量の汗を流させる彼らの毒は、不用意な旅人に確実な死をプレゼントすることだろう。

 ま、それはそれとして。
 ここで言う危険な生物群とは、彼らのことではない。上記の生物は、危険は危険だがきちんと注意すれば、その襲撃を容易く回避することができる。それどころか逆に捕まえて食料にできる。
 ここで言う危険な生物群とは…すなわち、空想の産物に位置する生物(?)である。物語の中の住人、ドラゴン、ペガサスなどの幻獣、魔獣の類だ。注意しないといけない点は、シンジ達の住む世界では空想の産物などではないことだろう。
 ホント、洒落になりませんね。

 具体的にちょっとした例を挙げると、毒の息を吐き、全てを石と化す石化の視線を持つ8本足の大トカゲ『バジリスク』、鋼の外殻を持つ『死の蠍』といった有名どころから、巨大なムカデのようにも見えるが、実は鳥が変化した巨大生物『砂竜』、正体不明の虫型の魔物『砂の王』、全身の毛が棘となっており、なおかつ前足が鋭い鎌という異形の魔獣『トゲ猫』、砂漠を海のように泳ぎ獲物を喰らう『砂鮫』、『砂ダコ』。流砂を作り、不用心な獲物が落ちるのを待つ『ジャイアント・アントライオン(大アリジゴク)』
 何というか、できれば名前も知りたくなかったって感じのモンスターたちだ。聞いてるだけでヤケクソになってきそうな面々である。

 しかもそう言った生物を凌いで暮らしている知的生物が、人肉大好きな変異人間『砂を這う者』や、他者の苦痛を喜ぶ邪神に仕える狂える殺人集団『蛇人間』
 トドメとばかりに遭難者が変じた不死者(アンデッド)『砂の人』までいる。旅人がうっかり迷い込もうものなら絶望だ。待っているのは生きたまま骨の髄までしゃぶられていく、本気で洒落にならない運命のみ。


 動物でなければ安心かというと、そんなわけはない。ここではサボテンでさえ近寄ることは危険なのだから。
 この地方に普通に分布するサボテンの一種、『サボテンダー』は近くに動物が来ると、



「う、動いた───!!」
「抱きついて来るぞ、気をつけろ───!!」
「逃げー! 実を食うどころか、こっちが食われるわ!」


 歩いて。


「なんか当たった、なんか当たった───!!!」
「いて、いて! メチャクチャ痛いぞこれ!
 ゲッ、刺さったところがちょっと溶けてる!」
「のぉぉ───! 堪忍や───!」


 棘を飛ばす。

 サボテンでなく、花なら良いかと言えば勿論そんなわけはない。
 甘い匂いに誘われてフラフラすれば、巨大な食人植物『アストロモンス』に呑み込まれる。

 とどのつまりまっとうな生命の気配はもちろん、水の気配なんて夢のまた夢。たとえあってもそれは魔物の用意した罠だ。オアシスのふりをしてばくんと行く。
 そして吹きすさぶ風は、死ねとばかりに肺を焼く空気。

 この世界全てが敵だ。

 表現するにはまだ足りないが、一言でたとえるなら、そう…。
 死の世界、地獄。

 そんな世界に迷い込んだシンジ達一行が水も食料もなくし、今僕達がどこにいるのかアンサーアス!
 ってな状況になってからもう3日が経過していた、











「なぁ、二人とも怒ってるか?」

 疲れることも構わず、目深にかぶったフードを少し持ち上げ、心持ち体を小さくしながらケンスケが言った。

「やかましわ」

「喋るな…」

 だが彼の三歩先を黙々と歩く彼の仲間、シンジとトウジは、それこそ視線で人が殺せたら10回即死させてお釣りが来そうなくらいの視線を、向けようともしない。向けようともしないのだった。
 それどころかケンスケにしたら怒鳴られた方がまだましと思うくらい、感情を押し殺した声をぶつけるのみ。怒りとかはケンスケでなく、ケンスケの話に乗った自分に向けることで、かろうじて自分を制している。そんな感じに見えた。
 それがケンスケには気が狂いそうなくらい辛い。まだ面と向かって糾弾された方がましだ。
 確実に目に見えない小さい穴が、1000個くらいケンスケの胃にはできているだろう。想像したくもないが、相当ヤバイ色になったケンスケの顔色が如実にその事を語っていた。こう、ミカンの黄色をもっと白っぽくしたような感じの色と言えばいいだろうか。

 だが親友であるはずのシンジとトウジは綺麗に無視。心配なんて欠片もしない。
 それこそ砂を巻き上げるつむじ風の方が、よっぽどケンスケのことを ラブしてる 気にしているくらいだ。

 なぜか?
 答えを言う前に、シンジ達の様子をもっと注意深く見てみよう。
 シンジとトウジの2人も相当疲れているようだ。ケンスケの顔、じゃなくて顔色が悪いと書いたが、彼らも相当に顔色が悪い。
 目の回りに黒い隈ができ、唇はかさかさでひび割れ染み出た血が大きな瘡蓋を作っていた。顔色は不自然なまでに黄色くなり、頬も相当くぼみ目だけギラギラと輝いていた。吐く息は重く、浅く、まるで重病人のようだ。
 あきらかに重度の脱水症状を示している。

 結論から言うと3人揃って死にかけていた。棺桶に片足どころか、蓋をする寸前で。


 なぜこうなったか?
 ってまあ、バレバレだが事の経緯を簡単に説明すると…。







旅の始まり(1日目)。

 昼前の時間、岩陰で日差しを避けながら水でのどを潤し人心地ついたシンジとトウジは、2日前から感じていた疑問を口にした。


「なぁ、ケンスケ。
 これで方角あっとるんか?このままやと、ジパルシア大砂海に行くんと違うか?」
「そうだよ。いくら幻の大墳墓と言っても、そんな危険地帯に作ったなんて思えないよ」

 もっともな話である。
 確かに見せてもらった地図には西に向かうと見つかると書いてあったが、危険地帯の境界線近くだ。
 ハッキリ言って命が危ない。
 いつ境界を越えたモンスターが出るか知れたものじゃない。それでなくとも、生きていくのが困難な地域だというのに。
 だが二人のそんな心配の声を、ケンスケは自信たっぷりに押さえ込んだ。

「大丈夫だって。街から西に×××キロってハッキリ書いてある。常にザビタン座の心臓星を右後方8゜の位置にしながら歩けば、馬鹿だって確実につくさ」
「まあ、ワシらの中で地図が見られるの自分だけやし…」
「信じてるよ、ケンスケ」

 友人を疑ったことを恥じるように、シンジとトウジは揃って言った。ケンスケはよせやいと照れる。

「心配すんなよ。後3日もすれば墳墓は目の前さ!」

 1000年も経てば、星の位置も多少ずれると言うことをケンスケは知らない。



旅だって5日目

 満天の星の下、焚き火を囲んで羊肉をあぶりながらシンジが少し心配そうに言った。

「ケンスケ、食料をさ、そろそろ帰る分とかも考えないといけないんだけど」

 トウジも追従するように言う。

「水もな。まだ余裕はあるんやけどな。
 それとなんや、気のせいか太陽や星の方角がかわっとらんか?」
「ちょっと地図に誤差があったみたいだな。
 だが俺達は確実に近づいてる!」

 彼らの言葉に、ケンスケは自信たっぷりに言葉を返した。少し納得できない部分がないではなかったが、一応のリーダーの言葉にシンジ達はそれ以上何も言わなかった。砂漠や表現など、厳しい環境下ではリーダーを疑うことは御法度なのだ。ただし、リーダーが有能であることが絶対必要条件なのだが。

(大丈夫、大丈夫さ。明日には必ず)

 じつはさすがになんかおかしいとケンスケも思い始めていた。もう着いてないといけないのに、未だに砂以外何も見えない状況なのだから。だが、シンジ達の視線が痛くて言うに言えなかったりする。
 決してケンスケ自身は無能なわけではないのだが、リーダー向きの人材とは言い難い。
 彼らの不幸は、リーダー向きの人材がいなかったこと。
 言うべき時を間違えると大変だという生きた見本だが、この時点で遭難確定。



旅だって2週間

 砂嵐に巻き込まれ、気がついたときには方向を完全に見失っていた。
 だが、そんなこと言えない。言えるわけがない。

「ケンスケ」
「まさか自分」
「だ、大丈夫だ(……大丈夫であってくれ)」

 死神が骨だけの指でおいでおいでしてるのに気が付くべきだったが、もう後の祭り。



旅だって3週間

 予備の食料なんてとっくになくなっている。用意した食料と水は2週間分。遂に荷運びに使っていた動物(ラクダ)まで食い、明日からどうしようって状態になってしまっていた。
 まあ運ぶべき食料と水がなくなったから、荷物を捨てるとかそう言う状態ではないのでちょっとだけラッキーかも。

 しかしながらそんな小さな幸運に気が付かないくらいに、3人の間には緊張が高まっている。一触即発とはこう言うことを言うのだろう。
 明日が見えなくなったことに、3人の友情は凄まじく危機的状態である。友情神コプーが裸足で逃げ出すくらいに。
 シンジは飢えた狼のように目をギラギラとさせて慣れた手つきで包丁をいじり、トウジは冬眠あけの熊みたいに、ギラギラした目でケンスケを頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見る。口が渇いてなければ舌なめずりしたことだろう。

「ごちそうさま。美味しかったよ…。
 ところでさ、もう食料はもちろん、水もないに等しいよ。保って3日
「しゃあないな…。
 いざとなったらケンスケ喰うか?
「そ、それはいくら何でも洒落にならんぞぉ…」

 既に普通に汗さえ出なくなったケンスケは、必死になって仲間を正気に戻そうと頑張る。命がかかってるからそりゃーもう必死だ。もっと早くに必死になれ、と言えなくもない。
 だが、シンジ達は正気に戻る気があるのかないのかその表情は変わらない。正気にならない方が楽と言えば楽ではある。

「いつのまにか危険地帯に連れ込んでくれたケンスケにだけは、絶対に死んでも言われたくないね」
「この際やから言っとくが、ワシは内蔵料理って結構好きやねん」
「謝る、謝るから。だ、だから正気に戻ってくれぇ」

 謝ってすむなら警察と坊主はいらん。



旅だって4週間

「背ビレ?
 肉! 食い物だぁっ!!!」
「おっしゃぁっ!久しぶりの飯やぁッ!!!!
 シンジそっち回れ!ケンスケもっと急がんかいっ!!!」
「……砂鮫を襲うようになるか、普通?
 って馬鹿言ってないで逃げろよぉっ!!」

 錯乱が始まっていた。
 1人正気のケンスケはさぞかし気苦労が絶えないことだろう。
 いや、しかしそれにしても。

 シンジが腰に吊した短刀を鞘から抜く。
 分厚い刃をもつ、一目で業物とわかる短刀が不気味なピンク色の光を放ち、ブーンと微かに唸りはじめる。

「くっくっく、肉、栄養…」

 凄惨な笑みを浮かべてシンジは呟いた。
 なんか間違った連想だし、言ってることが怖すぎます。





 数分後。

 走り回るトウジを追いかける黒い背鰭を、腰を落とした姿勢でじっとシンジは睨み付ける。

「トウジ!」

 シンジの合図に気がついたトウジは、物も言わず一直線にシンジに向かって走り、そのまま横をすり抜けていく。

「シンジ任せたで!」

 軽く頷くとシンジは短刀を青眼に構えなおす。
 刃先が陽光にきらめき、一瞬シンジの瞳を輝かせた。

「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!」
「逃げろよ!」

「逃げてどうすんだー!」

 地響きを立てて自分に近寄ってくる黒い背鰭を前に、シンジは一歩も動こうとしない。ケンスケの声を聞こうともせず、さらに腰を落とし、走り出す寸前のように足に力を込め、ぎゅっと短刀の柄を握りしめる。

『ゴァァァァッ!!』

 シンジの眼前で砂が爆発した。砂柱を吹き上げながら全長5mはありそうな巨体の生物、ホオジロ鮫に酷似した砂鮫がシンジの躍りかかる!
 カタツムリかナメクジのように突き出た目がぎょろりと動き、下水口の蓋くらいもある口の中で、ギザギザの牙が不気味に光る。瞬き一つでシンジは頭から飲み込まれる。
 だがやはりシンジは動こうとしない。親友の凄惨な姿を想像し、思わずケンスケは硬く目をつぶった。

 しかし…。
 血をまき散らして叫び声をあげたのは砂鮫の方だった。食べられるどころかシンジは、砂鮫を一刀両断で切り倒していた。空中に跳ね上がった砂鮫の下に潜り込み、身を屈めながら刃を白い腹に突き立て、そのまま一息に尻尾の先まで切り裂いて。
 そして砂の上に転がり落下する砂鮫の胴体からのがれるシンジ。
 シンジが起きあがるより速く、痙攣する砂鮫の頭部にトウジが何度も何度も鋼鉄製のハンマーを叩きつけた。ぐしゃぐしゃと卵を砕くような音が響き、ほどなく砂鮫の動きは完全に止まった。

 耳が痛くなるほどの静寂。

 血と肉片の滴るハンマーを手にトウジが薄く笑った。

「勝利だー!」
「久しぶりの食い物やぁ!!!!」
「勝っちまったよ…」

 内蔵をぶちまけた砂鮫の死体の上に立ち、普段の彼からは想像もつかない勝ち鬨を上げるシンジの姿に、ケンスケはただ呆然と呟くしかない。
 こういうのも、火事場の馬鹿力とか言うのだろうか。
 だったら俺には必要ないな、と彼は思った。








で、今に至る。








 何故自分はここにいるのだろう。
 なんのために、どうして? どこに行くために?
 もう自分達がどこに向かっているのかなんてわからない状況の中、ただ生存本能がむなしい叫びをあげることに従って黙々と足を前に進める。人は強いのか弱いのか。むなしい、答えのない問答が浮かぶ。強いのなら砂漠でこうも苦しまないという考えが出る。その一方、弱ければもっと早く楽になっていたと誰かが言う。しかし、考えても答えなど出るわけがないのだ。
 それに、もう3人はそんなことを考える余裕など、とっくの昔に無くしていた。


 水、水、水…。



 街で自分達を心配する家族の顔も、柔らかいベッドもベッドの下に隠したままのエロ本のことを考えたのは始めのうちだけ。
 今はただ水のことだけを考え続ける。心の中で大合唱だ。
 小便を飲み、血管を傷つけて血を飲むことでかろうじてのどの渇きを誤魔化しているが、そんな方法を取るようでは長くない。全身を針で刺されているような強烈な焦燥感の中、キリキリと締め付けられるような胃の痛みを、他人事みたいにシンジ達は感じていた。


(楽になりたい)


 もうケンスケを責めることもなければ、こんな馬鹿なことに賛同した自分の考えを後悔することもない。母や、良く覚えていない父の顔ももう思い浮かぶことはない。
 今は水すら欲しいと思わない。

 ただ、楽になることだけを考えていた。

(こんな時にかぎって、魔物は出てこないんだね…)

 また砂鮫が出たら、今度は大人しく食べられてあげても良いのにと思う。食べてみてわかった事実だが、砂鮫は大きさの割りに対して食べる部分がなく、なにより臭くて硬くて食べられた物じゃなかった。それでも無理して食べたが。

(海の鮫は、珍味とか言われてるって言うけど…きっと砂鮫はろくな物を食べてないからだろうね)

 自分を食べたらちょっとは美味しくなるかも。

 自分の思いつきがおかしくて仕方がない。
 遂にトウジが力尽きて倒れたことにも気付かず、シンジは気がふれたみたいに笑顔を浮かべながら歩き続ける。自分の体が自分の物ではないみたいだ。さながら歯車が壊れたカラクリ人形か。ゼンマイで動いてるみたいに、決まり切った動きで足を動かす。それもやがてゆっくりになり、ついには止まる。

「ふ、ふふふ」

 後ろでケンスケが何か叫ぶが聞こえない。聞きたくもない。
 聞こえているが気にならない。

(トウジがどうしたって?)

 どうせ自分も数分の誤差で同じ所に行くんだから。

(ああ)

 自分の影が黒い。
 まるで、どこか別の世界の入り口みたいに見えた。きっと、このまま倒れ込めば影を通り抜けてどこか別の世界に行けるだろう。その世界は暑くなくて、水があるところだと良いな…。

(楽になれる)

 もうすぐ自分は解放される。もやもやとした形容できない感覚の中、シンジは死が近いことを悟っていた。
 遂にシンジの足から力が抜け、顔から地面に倒れ込みそうになった。無意識の内に体が動き、足に力を込めようとする。だが、シンジはそれに逆らった。そのまま倒れてしまえばいいと、あえて体から力を抜く。その時、体の奥で何かが疼く。爆発寸前の爆弾のような何かが…。

(もう良いさ…)

 体が砕ける。そして、その中から。
 しかしシンジは気にしなかった。
 いずれにしても、楽になれる…。


 その時。



(!?)



 風の音とケンスケの声の間を縫うように、小さくか細い、それでいて優しい声が…。

 聞こえたような気がした。









『こっちよ…』

 ハッとした顔できょろきょろシンジは辺りを見回したが、後ろでトウジを引きずりながら近寄るケンスケ以外は砂しかない。
 気のせいか…。
 ヒリヒリする咽を酷使して、ハハッとシンジは笑った。

(ははは、遂に幻聴だ。こんなにハッキリ聞こえるなんて最高だよ)

 心の底からおかしかった。
 所詮自分はこの程度だったんだ。
 僕はもう死ぬ。死んでしまう。楽になる。
 どうせ死ぬなら、思いっきり走って死んでやろう…。それが僕の最後の挑戦だ。今なら空だって飛べる気がするから。いや、飛んでみせるさ。

「おい、シンジ!おい…」
「はははは」

 呼びすがるケンスケを無視し、シンジは走った。狂気に満ちた目で、弱った体でできる限りの速さで。
 足が砂に取られ、体が左右にフラフラ揺れる。急激な運動は弱った体に深刻なダメージを与える。すぐに停止寸前の心臓と肺がパンクしそうになり、平衡感覚がおかしくなる…。


『ダメ、諦めないで!
 行きたくないって強く感じてると思うけど、そこで右に行って。
 そうすれば…』


 血液がドクドク流れる音が頭に木霊する中、その音を押しのけるように再び声が聞こえ、シンジはムッとしながらも足を止めた。過度のストレスに心臓の鼓動は激しさを増しているが、足を止めたことにより、シンジは意識を失うことはなかった。
 ある意味命の恩人…なのかもしれないが、シンジはもうちょっとで死ねたのにと不満そうな顔をする。

(なんでこんな時にまで命令されないといけないんだ…。知らないよ、僕は僕の行きたいように行くんだ)

『お願い!今は私の言うことを信じて!
 助かりたかったら、まだ生きる希望を捨てていないのなら!』


 再度聞こえた声はとても大きく、そしてこれまで以上に切実だった。衝撃にさすがのシンジも走り出そうと動かした足を止めた。この異常事態に、本当に驚いたと言うこともある。
 こんな時だが、むくむくと好奇心が首をもたげた。自分にしか聞こえないらしい他者の声が妙に気になったのだ。こういう幻聴とかは、基本的に自分が見知った人の声がベースになるはずだが、一度も聞いた覚えが…少なくとも今の彼には…ない声だった。
 不思議と、聞いていると心が和む。

『ああ、ありがとうございます。
 私の声を聞いてくれて』

(変な幻聴だね、律儀に謝ってる。まあ、いいさ。
 最後の最後だから、走って死ぬよりこの声に従って死ぬ方が面白いかもね)

『凄く投げやりでそれはそれでどうかって思うんですけど…』

 なんか呆れ返った声にカチンときたシンジは意地悪くニヤリと笑うと、声が言っていたのと反対方向を向いた。なにげに意地悪である。死にかけに間違いないのだが、意外に余裕があったりする碇シンジ16歳。童貞。

「やっぱ走ろう」

 ニヤリと笑うと、シンジは腰を落とし両手を構えてスタンディングスタートの体勢を取る。
 嫌がらせだ。




『あああ、ごめんなさい!謝りますから〜!』


「う、うわぁっ!ごめん!」


 急に、それこそ足に取りすがってでもいるみたいに下手に出る謎の声。
 耳元で叫ばれる突然の涙声と、本当に足に誰かがすがりついたような感覚に、基本的にいじめっ子の属性がないシンジは慌てて謝った。瓢箪から駒で驚いた拍子に正気に戻ったようだが、端から見てると急に走るは叫ぶは、謝るわと危ない人にしか見えない。だが、当人はいたって大まじめである。
 それはともかく、シンジは謎の声をいじめたことがとても恥ずかしくなった。
 なんだか妙に自分と似た雰囲気に親しみを感じたと言うこともあるが、少し冷静になって聞いてみると、なんだか放っておけない声だった。とても懐かしい、どこかで見知った人のような気がして。遠い遠いずっと昔…。
 あと、どっか遠くから『女の子泣かしたのよ、責任取りなさいよ!』という声が聞こえた気もした。それこそ幻聴であろう。
 彼女の出番はもっと後。
 ともあれ、シンジがどうにかこうにか落ち着いた頃、再び声が聞こえてきた。

『うっ、うっ、うっ……。
 あんまりいじめないで下さい』

 なんだかとってもいじめたくなる口調で声は言った。いじめてくれるなと、いじめて欲しいと言わんばかりの声と調子で言われると…。さしものシンジもなんとはなしにいじめたくなる。グッと堪えたが。

(ご、ごめん。つい。
 水がなくってイライラして。君が悪いワケじゃないのに、僕って最低だ)

 後ろ髪引かれながらも今度は丁寧に返事をした。頭をかきながら、何もない空中に向かってぺこりとする念の入れよう。ここまでフレキシブルに応答する謎の声を、さすがにシンジは幻聴ではなく、誰かがどうやってか話しかけているのだろうと判断した。一応経験者の意見として甘いと言っておくが、それを言うと話が続かないから言わない。
 スンスンまだ鼻声で泣きながらも声は続ける。

『ぐすっ、あの私の言うとおりの方向に行けば、水がありますよ』

(ほ、本当!?)

『はい』

 語尾をちょっと上げながら可愛らしく声は言った。

(どっちっ!?)

『あ、そこの砂丘から右に真っ直ぐです。途中人払いの結界があるから行きたくないって感じますが。
 って…』

 声が何か言いかけた時にはシンジは人払いの結界を突破していた。
 水への執念、あるいは人の執念恐るべし。


キーン


 その瞬間、ガラスのコップを指ではじいたような澄んだ音が響き、何かが壊れていく気配が周囲に満ち満ちた。夢中で走るシンジは気付かなかったが、自分の頭の上の空間がゆらゆらと揺らいでいき、煙のようにどこからともなく別の光景が浮かび上がっていく。陽炎がゆらぐように、水の壁が崩れていくように、まったく別の光景が空間に浮かび上がっていった。いや、浮かび上がると言うより、マグリットの騙し絵のような、空間に開いた穴の中にまったく別の世界が見える…正にそうとしか形容できない。
 そしてそれは徐々に下の方に下っていき、遂にはケンスケが驚愕におののく中、信じがたい光景が現れていく。

 ドゴゴゴゴゴッ

 地響きと共に、三千年に渡って張られ続けていた結界が崩壊した。
 太陽の光の中、空間というキャンパスを引き裂かれていき、その後に植物が生い茂ったオアシスと、その真ん中に位置する巨大な、だが時の流れに浸食された建造物が姿を現した。
 光り輝く黄金のピラミッドと、それを守護する2体の人面獅子(スフィンクス)が。

「う、うぉぉぉ。まさかこんな所にピラミッドが」

 意識を失ったトウジを抱きかかえていたケンスケが驚きの声を漏らした。興奮のあまり出るはずのない唾をごくりと飲み込む。それほど眼前で繰り広げられる光景は凄まじい。空は砕け、空間に穴が開き、そこから巨大な建造物が姿をあらわしていく。冷たい空気さえも流れてくる。
 昔カーニバルで見た幻術士の技を凄いと思った。だが、これに比べれば子供だましだ。


 ついに幻影は消えた。  3人の目前には広大なオアシスと、その中で輝く巨大なピラミッドと、それを守護している石でできた2体の巨大スフィンクスが威風堂々とそびえ立つ。信じがたい威容、そして歴史の重みをひしひしと感じる。喩えまったくこれに対する知識のない者でも、潜在的な畏敬を感じずにはいられない。
 観光地にある既に盗賊が入り込み、何度も調査隊が入り込んだ崩れかけのピラミッドとは、根本から違っている。
 間違いない。

 乾ききっていたが、ケンスケの両目から涙が流れた。
 そうだ、俺達はやったんだ。やった、やったぞ!
 ケンスケは確信し、グッと拳を握りしめる。
これこそ探していたマウントクリフの王墓に間違いない。いや、そうに決まっている。今更違うなんて言ったら、たとえケンスケが許しても世間が許さん。

 三千年の間、見つからなかったわけだ。
 ケンスケは涙を流しながら考えていた。
 危険地帯の境界ギリギリに作られ、それを更に人払いの結界と幻影で覆い隠す。
 かつては偶然にここにたどり着いた者もかつてはあっただろう。
 自分達のように。
 だが幻影と結界に阻まれ、結局の所たどり着けなかったのだ。目的地を目前にして…。
 その結果は?
 無論、砂漠にのみこまれたに決まっている。
 自分達は、とてつもなく運がいい。運命の女神に愛されている。
 そう、これを見つけることは運命だったのだ。
 あるいは天運と言っていい。

 一方、周囲の大スペクタクルに欠片も気が付かず、目の前にある井戸らしき物に突撃するシンジがいた。感動台無し。
 彼が考えてることは言うまでもないが、水のことだけだ。
 途中、門番のようにそびえるライオンの体に人の頭をしたアンドロ・スフィンクスと、隼の頭にライオンの体をもったヒエラコ・スフィンクスの像の間を通り抜けたとき、重々しい声が聞こえてきたが…。








『『汝に問う…』』



「人間!」


 シンジ即答。
 せっかくの見せ場だったのに、なんという扱いか。
 スフィンクスの目が悲しいような、虚しいような、とにかく辛そうに歪み、だ〜っと滝のように涙がこぼれた。
 勿論、シンジはそんなこと無視。


『『ぐっ、正解だ。だがもうちょっと情緒というものをだな、って聞いちゃいねぇ』』





 やっと出番だったのに…。切ないなぁ。
 悲しみに泣きながら、今度こそ本当にただの石像に戻ったスフィンクスを後目に、シンジは頭から井戸に向かって豪快なヘッドスライディング。流れる動作で、なぜかあった使えそうなつるべを手に取り、素早く井戸から水を汲み上げる。濡れた桶の手触りに震えながらも、冷たい水を頭からかぶった。

「うああああっ!」

 水が彼の全身に染み渡り、生きている実感がわき上がる。
 水が、水とはこんなにも素晴らしい物だったなんて知らなかった!!

「い、生きているって素晴らしい───っ!!!」
「それはキャラが違うと思うぞシンジ」
「ワシもそう思うが、とにかくシンジは偉いっちゅうことや!」


 大喜びでシンジは水を浴びる。全身を湿らせ、水をまき散らし、端から溢れ返させながら水を口に流し込む。
 遅れてやって来たケンスケとトウジも、共に喜びの歓声を上げる。パパパッと手早く服を脱ぎ、プールに飛び込むみたいにシンジがこぼした水たまりの上にダイビング。

「水や───!」
「ひょほほほほほほ〜〜〜〜!!」

 擦り傷とかができても委細気にせず、同じように冷たい水を被り、乾いた体に潤いを取り戻そうと貪るように水を飲む。でも重度の脱水症状の人がいきなり水飲むと、ショックで死ぬから良い子のみんなは落ち着いて飲もうね。


『あ、あのちょっと…。あ〜ん、無視しないで下さいよ〜』


 服を脱いで水を被るシンジ達に困ってしまったのか、目を隠しながらなんか言う謎の声。って目?
 まあ、確かに目のやりどころに困るか。
 声は引き続き二言三言何か言うが、今のシンジには聞こえていないようだ。らんちき騒ぎの様相だし。

 しばらくは無理そうですね。
 そう判断すると、声はふぅっとため息を付き、シンジには聞こえないように小さな小さな声で呟いた。


『まあ、無理ないわ。落ち着くまで待ちましょう。
 あまり時間はないんですけどね。
 …ちょっと頼りないけど、彼が最後の希望。
 もう私を守っていたお父様の魔力も尽きてしまう。その前にこの封印を解かないと…』

 その声は先のシンジ達と同じか、あるいはそれ以上に切実で、不安に満ちていた。
 果たしてシンジに全てを託して、大丈夫なのだろうか。

 迷いながら、ちょっと謎の声は間をおく。
 よくわからないが、どこからかジッとシンジの顔に視線を彷徨わせて、ポポッと頬を赤くしてるみたいな感じの間だ。

『碇シンジ…くん。
 私の生きていた頃にはいなかったタイプの人。ちょっと、お兄ちゃ…さまに似てるかしら。
 や、やだ。私、こんなに胸をドキドキさせて。
 こんな事今まで一回もなかった。もしかして、これが恋?
 初めてだけど、嫌じゃない。
 碇シンジ君。名前で呼ぶのは失礼かしら?
 やっぱり最初は碇君? それともシンジさん?
 な、なんだか新婚さんみたい…』

 どこか知らないところで、イヤンイヤンと首を振ってるらしい謎の声が気になるが、どうやら命の危機を脱したシンジ達。
 そればかりか、成り行きとはいえマウントクリフの大ピラミッドを見つけてバッチグーって感じだ!
 だが彼らはまだ宝を見つけたわけでも、懐かしい故郷へ生還したわけでもない。
 はたして彼らは無事宝を見つけ、家族の元へと帰ることが出来るのだろうか!?
 そして謎の声の正体と、シンジの貞操や如何に!?
 声の正体はともかく、貞操なんてどうでもいいか。

 シンジのだし。




続く






初出2002/03/16 更新2004/04/25

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