母は強し。
〜 ある国王の言葉 〜 「ありがと。美味しかったわよ」 湯飲みの中のお茶を下品にならない程度に飲み干し、慣れた手つきでテーブルに置くとユイは丁寧に礼を言った。猫のようにいたずらっぽい瞳が楽しげに揺れる。 「お粗末様でした」 ホッと肩の力を抜きながら、ユイの向いに座って一緒にお茶を飲んでいたマユミが頭を下げる。何か言われるかな、と少しばかり心配になっていたけど…そんなことにならなくて本当に良かった。もっとも、今まででユイに嫌味のたぐいを言われたことはないのだけれど。 長い長い幽閉がどう彼女の精神に影響したかは定かでないが、ともあれマユミは人からお礼を言われることが嬉しかった。化石じみた時代から来た自分に価値を認めてくれて、自分が役に立っている、必要とされていると認識を新たにすることができるから。 子犬みたいに ─── 尻尾があったらブンブン振って ─── うれしがるマユミをユイはじっと見つめる。 (良い子ねぇ。彼の妹とはとても思えないわ) 生真面目、気弱、内省的。性的なことに恐怖感を抱いており、少し潔癖性。 極端に人見知りして、他人を避けるが安心できる人間…シンジにはそれこそ子犬のように接してくる。自分にもそうなってくれると良いんだけど、まだそこまで心を許してはくれないらしい。 はやくシンジにも教えて上げない、女同士の秘密を共有したいなー、と。 ただマイナスなくらいに非活動的だが、それもまた彼女の愛嬌だろう。 そう、色んな意味で彼女は目立つまいとしながらも特徴的だったりする。 砂漠に住んでいて飲むのはコーヒーならぬ緑茶。渋い趣味だ。 今着ている服は、模様のない紺色のワンピース型ドレス。その上からフリルが色々ついたエプロンドレスを付けて、一言で言うとメイドの格好だ。 些か偏った趣味をしているが、本当に良い子だと思う。彼女の名誉のために弁解すると、彼女の格好はシンジの趣味。 ま、ユイもそんなことは百も承知だけど。 別にメイドの格好をしているからと言って、なにが困るってワケでもない。いや、ユイも結構そう言う格好は好きだ。見るのも着るのも。 (思い出すわ。新婚の私とあの人…。あの人は私にすごく恥ずかしい格好をさせて) 思い出しただけで体の芯から熱く…っておい。シンジが知ったら泣くんじゃないか。 何を思い出して顔を赤くしてるかは謎だ。 ともかく、最後になるかも知れない我が家のお茶を堪能して、ユイは取りあえず思い残すことはなかった。まあ、これを最後にするつもりはさらさらない。今度はお茶と一緒にマユミの作ったお菓子を一緒にいただくとしよう。 (ちょっと頼り無いけど、シンジが側にいれば強い子よね) だから彼女はたぶん大丈夫。 不肖の馬鹿息子ことシンジにも何か一言告げておいた方が良いかと思ったが、さっき充分話をしたし、また喧嘩腰で言い合いをしたくはない。 (旅立つ覚悟は…できたわ。私のいない間、しっかりね。 っと忘れてた。これをしっかり渡しておかないと) 「マユミさん、ちょっと」 「はい? …え、手紙ですか」 手を振ってマユミを側に呼び寄せ、白い紙の束…手紙を手渡す。 飾りも何もない素っ気ない便箋が、かえってマユミの興味をかき立てた。どういうことですか?と不安で瞳が揺れるマユミの頭をぽんぽんと撫でながらユイはふっと口元に笑みを浮かべる。 「私が旅に出てる間、色々困ったことがあると思うけど…。 しっかり頑張ってね」 「え? ええ?」 ワケが分からないのか手紙と自分を交互に見るマユミをぎゅっと抱きしめ、ユイは優しく言った。 あまり多くを語るわけにはいかない。なに、大丈夫。聡明な彼女はきっとわかってくれる。 「シンジをお願いね」 「…ユイさん」 「困ったことがあったら…その手紙を見なさい。全部じゃないけど、色々な対策を書いておいたから」 「は、はい」 体を離すと、片目を閉じてウインクをする。戸惑って顔を赤くしたマユミが、おずおずと…なにか予感めいた物があったのか、泣きそうな顔をして言った。 「あの…道中、体に気をつけて下さい」 (さぁてと、待ち合わせの場所に急いでいかないとね) 内心で第三者が聞いたところでさっぱり謎のことを考えながら、ユイは軽やかな歩調で街路を歩いていた。長旅の直前だが、それに対する気後れや不安を微塵も見せず、途中すれ違う顔見知りの人達に挨拶し、2,3の言葉を交わしていく。失礼な話かも知れないが、結構常識がないように思えてきちんと一般常識をわきまえていたみたいだ。本人はその事をどう思っているかは別にして。 そんなところが何というか新鮮な感じに見えた。近所づきあいもちゃんとしているようで、シンジが見たら彼女の評価を書き換えること間違いなし。まずはホッと一安心といったところか。 普段…と言うか家で見せる姿が姿なので、シンジにはノホホンとしすぎとか、浮世離れしていると思われているみたいだが、どうしてどうして。ちゃんと主婦をしているユイだった。 本音を言うと、逃げ出したいくらいイヤな井戸端会議にも高い出席率を誇っているところに、それが現れている。 え?井戸端会議が大変? と怪訝に思う御仁もいるかもしれないが、このおばさん達の井戸端会議というのは、結構馬鹿にならないのだ。いや、マジで。なにしろ相手は自分と相容れない…言葉を変えれば異なる価値観があることを認めようとしない。自分の主張だけをし、一方的で相手の意見を黙殺する。そして相手が理詰めでくると逆に怒り出す。 ヤクザかよ。 ユイに言わせれば、まだ魔物と戦っている方が気が楽なのだ。 特に…。 「あらあらユイちゃんじゃない! 今日もいい天気ね!」 「(げっ…)あ、あら伊吹さんのお母さん。おはようございます」 内心げーと舌を出しながら、表面はにこやかな笑顔でユイがにっこりと笑いかけた相手は、ユイをして地上最強といわしせしめた生物。 じゃなくて。そんな程度はこの世界じゃ雑魚。 そうでなく、 「あのさ、ちょっと家で写真見ていかない?」 「い、急いでますので…」 そいつは強引だった。しつこく、無遠慮で、不躾だった。 それはまさに怪物だった。 冷や汗流して私ホントに急いでるんですけど、と言葉以外の全身全霊で語るユイを無視し、一方的に喋りながら腕を掴んで引っ張っていく。あれ〜、拉致される〜。 その気になれば簡単に引き離せる、引き離せるはずなのだけれど。巨人と綱引きをしているような錯覚に襲われ、少しめまいがした。 (ああもう…どうにでもしてよ) 投げやりになったユイをズンズンと引っ張る。 そここそ彼女のテリトリー。さながらユイは蟻地獄に落ち込んだ蟻。ユイは無駄だろうと思いながら周囲に目を向けるが、ヤッパリ逃げ場はなかった。井戸の横のベンチにドスンと重い尻を置き、そのまま流れるような動作で、どこからともなく男性のプロフィールが書かれて綴じ込まれた写真を取りだした。俗に言うお見合い写真という物だ。 (ああ、やっぱりね) げそっと頬を心持ち痩けさせたユイに気がつくことなく、彼女はユイと対照的に嬉しそうに言った。 「ほら、この人。いいでしょ〜。 年は40で年収はこれだけ。ね、こぶつきだけどユイちゃんもそうなんだし大丈夫よ!」 「いつもいってますけど、私は再婚する気なんてありません。 それに今ちょっと急いでまして…」 (人の話聞け) 目で力一杯言ってみるが、無視してるのか本当にわかってないのか次の写真を手に取る。 ユイの言葉が聞こえていないわけではない。聞く気が端から無いのだ。 「気に入らない? もう理想が高いわね。じゃあ、この人。なんと貴族の血を…」 はい、勘のいい人はもうおわかりですね。 …すなわち。 人の話を聞かないおばさん!! オバハンと言い直しても良い。 タチ悪いぞ、これ。 (うっだぁあああああっ!! どないせーって言うのよ!? ぶっ飛ばすわけには行かないし、それになんとなく街がなくなってもこの人だけは平気な気がする〜) まったく。 ただ子供にはお菓子をくれたりするし、他所の子でも悪ガキはしっかり叱る人だから、評判は悪くないのでまた始末に困る。留守をしたとき、シンジを預かって貰ったこともあるし。 嫌われ者だったら一切遠慮はしないんだけど、さすがに…。 そう、それこそ破壊王、またはエンジェルバスター(使徒またユイ)と呼ばれた、不本意な通り名の由来をとくと見せつけた物を…。 心の一番深いところでユイはそう考える。しっちゃかめっちゃかにするところを考えてほんの少し溜飲を下げる。もちろん考えるだけ。考えるだけならタダだ。考えるだけでいけないなんて心の狭いこと言うなどっかの誰か。 悪意のない善意の押しつけってのは、本当にタチが悪い。 実際、彼女、伊吹マイちゃん、カグラちゃん姉妹のお母さん(マヤの母に非ず)には悪意は全くない。彼女なりに、独り身でシンジを育てているユイ達のことを心配しているからこそ、こう言うことをしてくるのだ…。 だが、だからといってマユミにまで見合いの話を持ってきたときは、何を考えてるんだと思ったりしたのだが。 当人は良いことをしてるぐらいのつもりで居るのだろうが…。 んでも、今は邪魔でしかない。 短絡的な思考回路の命令に従い、ぶっ飛ばせ、本性見せてやれと吼えたける自分の感情を理性で無理矢理押さえながら、ユイは何とか ─── かなりぎこちなく ─── にっこりと微笑んだ。 「あああ、あのですね。せっかくのご厚意ですけど。本当に、今は緊急事態で急いでいるんです! 写真ならまた今度見ますから…」 「そう? あ、そうだ。以前マユミちゃんに見せた写真の人、彼女なんて言ってた?」 「…それは聞き捨てなりません。 ふざけないで下さい。彼女は家のシンジのお嫁さんなんですよ」 さすがにこれはちょっと腹が立った。当人に悪気はないのかも知れないけれど、でもだからこそ放っておけない。 冗談でない目つきでユイが睨み付けると、鉄の心臓の彼女も少し慌て、意味もなくがさがさと写真をいじりながらあさっての方を見てもごもごと言い訳する。 「あ、そのね。人妻でも良いって言う人が…シンジ君には別の人を紹介…ああ、嘘々。 冗談よ。だからそんな目しないで」 今自分はどんな目をしてるんだろう? 怖い者知らずのはずのおばさんがおたおたしている。 …少し、本気を出しすぎたかも知れない。 我が事ながらちょっと反省。 「あ、そのね。 …じゃあ今度の日曜日に写真持って遊び行くから」 「どうぞ、お待ちしてますわ」 と、答えながら、ユイは心の中で舌を出した。なぜって、その日彼女は家にいないはずだから。 (ふっ、今度の日曜日、私うちにいないわ。マユミちゃんに一任よ。 良い機会だから、おばさんの襲来という試練にうち勝って見せなさい!! できなかったらあなたは私の子猫! ……はまずいわよねぇ) 相当にまずい思う。 とは言うものの、ユイは来週彼女は来ないかも知れないと思った。来たら来たでそれなりに楽しい人なんだけど。 少し脅かしすぎたかな…と少々不安になる。 後日、彼女はオバハンの行動力と怖い物知らず、都合の悪いことはさっさと忘れる事実に認識を改めることになるのだが、それはこの話に一切関係がない。 とりあえず、面倒ごとをシンジ達に押しつけることに成功したユイは、妖怪アンテナが新たなる反応(おばさん)に気を取られる前に、急いでその場から退散した。 もう時間が迫っている。待ち合わせてる彼は素敵なヒトだが、時間にうるさいのが玉に傷だ。1秒でも遅れたら、でかい図体してるくせに細かく、神経質に、それこそ鬼の首を取ったようにネチネチ嫌味を言うだろう。しかも定規で書いたように真っ直ぐで、面白みのない正論でしか物を言わない。 故にこそ焦っていた彼女は、自分の後を尾ける怪しい影に気がつくことがなかった。 |
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真
Monster! Monster! 第7話『ドラゴンスピリット』
かいた人:しあえが
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<町中の喫茶店> 「……はぁ」 深く、重いため息をついたのは、女顔をした気弱な少年こと碇シンジ君。 その横でまたかと呆れた顔をするのは彼の親友、ジャージファイター鈴原トウジと盗撮シューター相田ケンスケの両名である。ろくな通り名じゃねぇな、全く。 久しぶりに一同が会したはずなのに、あまり盛り上がっていないらしい。 原因は俯いてため息をつくシンジにあった。 「なんや、重苦しいため息をついて」 シンジのネガティブ魔空間に囚われそうになり、さすがのトウジも露骨に嫌な顔をし、ケンスケは自分には今回セリフがあるのかと妙なことを心配する。 トウジの質問にのろのろと顔を上げると、シンジは重苦しいため息と共に言葉を吐きだした。 「やまぎ…じゃなくて。 マユミさん、最近僕のこと避けてるんだ」 「ほぅ、新婚3週間でもう離婚の危機か。某ブリッコママドルよりも早かったのぅ」 トウジがかなりギリギリなことを言って作者とケンスケは冷や汗流すが、シンジはなに言ってんだこいつとばかりに顔をしかめると、即座に断固とした態度で否定した。 「違うよ! そんなわけ…そんなわけないじゃないか。 あの時、お互いの命が危険にさらされたあの時の気持ちは、嘘じゃない」 「せやけど、そう言う命の危機で燃え上がる恋は錯覚やって言うしのぅ。 ……具体的にどう避けられとるんや」 珍しく、彼にしては珍しく知的なことを言ってトウジはシンジの言葉を否定する。 ケンスケはそのギャップに驚き、自分のセリフを忘れてしまう。それくらいに彼の口から出た言葉とは思えない。失礼な話だが。 だが意識がマイナスベクトルを向いたシンジは気がつくこともなく、言わなくて良いのに淡々と具体的な例を話し始めた。 「前は、遺跡から帰還してからの一週間はずっとべったりだったんだ。 トウジは知らなくても良いけど、彼女の体ってとても柔らかいんだよ。でもふにゃふにゃってワケじゃなくてキュッとした弾力もあって、触ってるとさ、ドキドキして気持ちいいんだ。 それにとっても敏感でさ、髪の毛触っただけで『あ』とか色っぽい声出すんだ。 そんな声出されたら、男として止めるわけには行かないだろ!? 止められないよ! トウジ達わかる?僕の気持ち!」 「わからへん」 「だろうね、僕もそう思うよ」 人としてかなり間違った領域の言葉をさらりと言ってしまうシンジ。 ケンスケが内心、『シンジって実は悪なんじゃないか?』と疑問に駆られるが、彼の考えは今のところどうでもよい。 「だから彼女がもう気絶しちゃいます、って本当に泣いて息も絶え絶えに嫌がっても、なんか止められなくて、そのあと彼女が本当に気絶するまでは…。 それがもう3日前から『勘弁してください。このままだと私ぃ…』って涙目になるんだ。 あんな目されると、なんだか僕が酷いことをしてる気分になって。で、躊躇してる間に、マユミさん、するりと服を着ちゃうんだ。まだ僕満足しきってないのにだよ。 もう3日も…3日も…。今朝久しぶりにできると思ったのに、なのに。 きっと僕のことが…」 言い終えたシンジは机の下をのぞき込むように俯くと、それっきり黙り込んだ。 それっきり彼らの周囲だけでなく、辺り一面の音が消えたように静かになった。音を伝える風の精霊が、どこか遠くに出張でもしたのだろうか。 鉄仮面のような無表情でトウジは周りを見渡した。 顔を知っている者、まったく知らない者、いずれの例外なく周囲にいた者達は無表情だった。彼らは揃って親指を立て、首を掻き切る仕草をすると、ゆっくり手首を回して親指を地面に向けた。 トウジは大きく一回頷き返す。 おまえ達の意志、確かに受け取った! そして…。 トウジはぬるくなったコーヒーを最後の一滴まで飲み終え、ゆっくり勿体ぶった動きで受け皿にカップを置いた。ケンスケは無言で立ち上がり、さも当然のように厨房に行くと、腕より少し細いくらいの太さのすりこぎと、硬い樫の木でできた麺打ち棒を借りてきた。料理に使う道具とはいえ、どちらも固さ、重さ共に手頃だ。 ぱしっ、ぱしっと道具をもてあそぶ2人の顔は一様に暗く、表情がまったく読めない。特にケンスケなんてメガネが光を全方位反射して普通じゃなかった。 「ねぇ、トウジ聞いて… あれ?」 親友2人の様子がおかしいことに気がついたシンジが、ふと顔を上げた。 上げなきゃ良いのに。 「あ、あれ? 2人ともどうしたの?」 「シンジ」 「な、なに? トウジ(怖いんだけど)」 すうっとトウジは息を吸うと、とてもさわやかに、空の太陽サンシャインってくらい爽やかに笑った。 「殴ってええか?」 <街の外、砂漠の中> 街の城門から外に出たユイは、しばらくは街道に沿って進んでいた。日差しは若干強いが、統治者の賢明な判断によって植えられた街路樹のおかげで、進むの比較的楽だった。砂漠ではほんの僅かな日陰でも有り難い。だからといって凄く楽なわけではもちろんないが。ユイは健康的に汗を流しながら歩き続け、街の城壁と最も高い塔が微かに霞むようになったところで、唐突に進路を変えた。いきなり道から離れ、砂漠の中に入り込んでいく。 彼女としてはこれから起こることを余人に見られたくなかったからなのだが、彼女の後を付けていた存在は、突然の行動に少し慌てながらも、これは好都合とフードの中でニヤニヤ笑う。不自然に思う知恵すらないのだろうか。いや、目先の欲望に狂った人間というものは、えてして彼らのようなものかも知れない。浅薄で愚か…。 一方、ユイは尾けられてるとも知らず、日よけのフードの下で鼻歌を歌いながら、砂に足跡を残しながらえっちらおっちらとドンドン歩く。 少しばかり砂漠に詳しい人間なら、これが自殺行為だと言うことは良くわかるだろう。水や食料、地図やコンパスなどの類をまったく持たず、普段着の上から白い厚手のマントを着けただけの姿で砂漠を進むなど。 だが、追跡者…実のところ、ユイを見て不埒なことを考えた街のごろつきは、もう手を伸ばせば届くところに来たユイのことを考えて、砂漠の常識とも言えることが脳裏に浮かばなかったようだ。 そしてそれから半時ほど過ぎ。 数キロ歩き、街路樹が遠く、白い砂漠の中に書かれた黒い線のようになったとき、ユイは唐突に足を止めた。 周囲には目印になるような物は何もなく、ごろつきが想像した一時休憩をしているラクダキャラバンのような隊商も見あたらない。 (なにかおかしい) さすがに変だと、この期に及んでようやく彼らも怪訝に思うが、マントの下にかすかに浮き出るユイの艶めかしい体は、彼らの乏しい脳にまたも理性を失わせた。もう何ヶ月も女を抱いていない。しかも最後に抱いたのは年を食いすぎた商売女だった。 歩くのを止めたのなら好都合。 ユイを取り囲んだ彼らは一斉に、砂漠の色に塗装されたカモフラージュマントを脱ぎ捨てユイに粘ついた視線を向けた。 「へっへっへ。姉ちゃん、こんな所に一人で何のようだい?」 「あのおばはんの話だと、後家さんなんだろ?」 「独り寝の夜が寂しいってか。慰めてやるぜ…」 「馬鹿野郎。一番は俺だろうが、てめえら。まずは俺がするのを横目にマスでもかいてろ」 頭らしいひときわ野蛮そうな男は言いながら、腰に差していた鉈を抜いた。 砂漠の人間が普通使う繊細な曲刀ではない。単純に作業に使う鉈だ。ただし、木を割る以外のことにも使っているらしいことは、男の鉈の扱い方と柄に着いた赤茶けたシミから容易に伺える。 ユイは驚きでショックを隠せないと言うように両手で口を押さえ、ブルブル震えていたが内心で考えているのは、ごろつき達が考えていることとはまったく違う内容だった。 (あらまあ。街を一時離れる前に、もしかしたらシンジ達に害をなすかも知れないのを誘い出そうと思って誘蛾灯の能力を使ってたけど…。これまた最高に下種な連中ねぇ) 人間は決して善でも悪でもない、その両方を併せ持つ、不完全な生き物であることはわかっているつもりなのだが…。 彼らのような人間を見てると、過去の自分の選択は誤りだったのではと思う。 「たまんねぇ。震えてやがる」 ユイが逃げられないように牽制しながら取り囲み、砂漠に敷く厚手の毛布を手早く用意していた男が、口の端から黄色く噛みタバコの色に染まったよだれを垂らしながらそう言った。 彼に限らず、ごろつき達はこれまでにない興奮で心臓を破裂させるように動かしながらユイの包囲を縮めていく。自分達が高ぶりすぎている、様子がおかしいと思うことすらできずに。どうにも興奮でいてもたってもいられない。 彼らはその尋常でない興奮が、ユイがこれまでにない最高の獲物だからと思っていたが、実際はユイの使ったらしい、悪の心を持った人間をおびき出す魔法の結果だと知ったらどう思うだろう? ユイはどうでも良い好奇心でちょっとだけ知りたいと思ったが、すぐに考えを改めた。 まったく持って馬鹿馬鹿しいことだからだ。 「足腰立たねえようにしてやるぜ奥さん。その後は舌を切って奴隷市に売ってやるよ」 ふふっ。 頭の言葉に遂に堪えきれなくなったのかユイは鼻で笑うと、左手で軽く髪をかき上げた。 頭を覆っていたフードがめくれ、彼女の茶色味を帯びた髪の毛がそれによって乱され、整えられていた髪型が崩れシャギーカットになる。 魔法の結果とはいえ、身の程を知らない愚か者! 相手と自分の能力差の想像すらできない、上辺でしか物事を判断しない。 私に勝てると、私を捉えて慰み者にできると思ったとは! マユミでさえも、戦闘能力だけなら彼女に比べたらおむつの取れない子供程度の実力なのだ。家事は別。 翼を使うことはできないが…、だが翼を出せなくても充分だ。 さっきのこともあったから、ムシャクシャしていた自分の憂さ晴らしに丁度良い。 「…かかってらっしゃい。坊や達」 ユイの口元がニィッと不敵に、誘うようにゆがみ、男達は奇声を上げながらユイに飛びかかっていった。 「なんや?」 初めて感じる不思議な感覚に、トウジは何ごとかと眉をひそめる。 直前まで、この幸せモン〜! と正気に返って平謝りに謝るシンジの頬に一発熱い一撃を入れて満足しながらコーヒーを飲んでいた。1杯のコーヒーは喉を潤し、2杯のコーヒーは心を潤す男の余裕だ。 ふぅと一息ついた彼は、突然薄暗くなった空を怪訝に思いながら、真っ青なはずの空を見上げた。 この時期、太陽の光が僅かでも陰ることなどあるはずがない。怪訝に思いながら見上げた空には、思ってもいなかった現象が起こっていた。どこか遠くからゴロゴロという音が聞こえ、東の方から真っ黒な雲が近づいてくるのが見えた。 「雨?」 頬をさすりながらシンジが同じく空を見上げる。雨期はまだずっと先だ。なのに、雲が…? なにかチリチリとした言いようのない感覚が彼の全身を駆け回り、先ほどまであったお茶らけた雰囲気は欠片もなくなっていた。 乾期の今、来るはずのない雨雲に普通でないものを感じながら、2人はじっと空を見上げ続けていた。 彼らなりに異なった何かを感じて…。もしかしたら、これが全ての前兆なのかも知れない。 ケンスケが何か言いたそうにしたが無視。 「この雲は、普通じゃない」 洗濯物を程良い日陰になっている物干し部屋に干し終え ─── 砂漠では日向に干すと板のように固まってしまう ─── 掃除の続きをしましょうね♪ と、外に出てスキップしていたマユミは唐突に感じた異様に大きな力に驚いていた。箒をぎゅっと握りしめ、髪の毛を一本だけ逆立てて黒雲にその漆黒の瞳を向けた。 特に魔力感知の魔法などを使わなくても、彼女は肉体に備わった特殊能力で魔力や妖力を感じ取ることができるのだ。 「間違いないわ。あの雲は、魔力によって生み出された物。それだけじゃない、中に、なにか…いる」 じっと精神を集中して雲の中に探りを入れてみる。魔物と魔物は呼び合うという言い伝えがある。もしかしたら、この雲もまた、自分に、あるいはシンジに縁がある物かも知れないと警戒しながら探りを入れる。 (んん…大きい、何か蛇みたいに長いなにか…?) ビクンとマユミの体が大きく震えた。 「…きゃああっ!?」 彼女の意識の触手が雲の中心にいた何かにふれた瞬間、彼女はキャァッと悲鳴をあげながらへたり込んだ。恐怖に目を見開き、酸欠になったように浅く早い息を何度も何度も繰り返す。 逆立っていた髪の毛も今は怯えた犬の尻尾のようになり、彼女自身も怯えた犬のようにうずくまって震えた。 「いや、いやぁ。なんなの、なんなのこれ。 そんなまさか、ドラゴンなんて」 真っ青になった唇から、マユミはやっとそれだけの言葉を漏らすと、怯えた顔のままフルフルと震え続けた。心細そうに自分の肩を抱きしめ、恐怖で歯の根が合わないのか、カタカタと音をたてながら。 ドラゴンが、こんな所に。人間の生活圏にやってくるなんて! それも一般市民でも知っている程度の、色つきネームのドラゴンではない。 赤竜、青龍、白竜。黒竜、緑竜、金竜といった存在が知られるドラゴンは、その生息密度に比べると非常に有名な種族だ。たいていの人間は彼らと一生縁があることはないが、冒険者といった命知らずな商売をしている人間はごくたまに縁がある。大抵縁があるのは比較的若い青年に当たる竜だ。 竜はそのサイズによってパピー、タイニー、スモール、ラージ、ヒュージと頭に着く冠詞が変化する。もちろん、大きいほど強く老獪となる。そして彼らの上位種、一説によると年へたヒュージドラゴンが天命をまっとうしたとき、それまで集めた財宝類と一体となって生まれ変わると言われる宝石竜達がいる。 マユミの能力なら、宝石竜のラージ程度なら何とか屈服させ、使役することもできる。だが、今彼女の頭上を飛んでいるドラゴンは、宝石竜ですらも相手にならない存在だった。 雲(雷)、炎、水、といった元素の名前を冠した竜、エルダードラゴン。 卵から生まれ、ただの知識のある爬虫類となったドラゴンとは根本から違う、天地自然から生まれた神の末裔だ。 その一体、雲竜が彼女の頭上にいた。 しかもこれは……最強種! 主は主あるを知る。 つまりはどんな強い存在でも上には上がいる。 マユミは今、魔法の師でもある父親の言葉を思い出していた。 自分は、とても弱い存在だ。心細い。 (怖い…怖い。助けて、誰か助けて。 1人に…しないで) 「マユミさん!」 「し、シンジさん」 虫の知らせによってか、突然現れたシンジに抱き起こされる間も、ずっと彼女は震え続けた。 なんとなく、この竜はユイに関係あるのではないかという、笑えないことを考え続けながら。 (もしかして、ユイさんって。私の想像通りなら…ってあれ?」 考え込んでいたマユミは、柔らかいベッドのクッションに沈み込む感覚でハッと我に返った。きぃきぃと軋むベッドの音がなんとも不安。 実際、立っていることもできないくらいの衝撃に襲われたのだから、ちょうど良いとも言えるのだが。 ただシンジが優しい、だがどこかニヤリとした光を宿す目がじっと自分を見ているのだから、彼女の腰がちょっと引けるのも無理はない。と言うか、あのシンジさん何事ですか? 「マユミさん、こんなに真っ青になって、こんなに震えて。 とても強い何かの力を感じて、そして君が怯えて震えているのがわかったから急いで戻ってきたけど…。まさか本当にこんな事になってるなんて。 その、大丈夫?」 「は、はい。あ、あのその」 お礼の言葉を言いながらも、マユミはなぜか手際よく服を脱がせていくシンジの手にしどろもどろ。 心配してくれるは涙が出そうなくらい嬉しいんですけど、そのなんで服を? 「し、シンジさん、なんで服を…」 「だって寒そうだし。暖めてあげる」 そんなの決まってるでしょ♪ シンジの目は笑っていた。 しまった! また油断してた! すこし後悔するけど後の祭り。 気がついたときには2人揃って全裸だ。正しく言えば全裸なのはシンジだけで、マユミは半裸だ。 たちまち、手慣れた動きで体中を愛撫される。 (あ、ああん! 嫌いじゃないけど、しばらくぼんやりして掃除できなくなっちゃう! もう、あとで絶対お掃除手伝わせるんだから!) てな事を考えながら、マユミは快楽に身を任せた。心細くて、誰かの温もりを感じていたかったのは間違いないから。勿論、シンジ以外の人の温もりなんて絶対にイヤ。 「朝の続き〜」 「や、あん…。もうエッチ」 再び場面変わって。 ユイが腰に手を当て、くだらない物を見る目つきで、腰が抜けたのか必死になって腰で後ずさるごろつきを見ていた。事実、くだらない物と思ってるのだろうが。その目には普段シンジやマユミに向ける優しさや、いたわり、面白がるような光は微塵もない。 ただ冷徹で、恐ろしかった。 彼からそう遠くないところでは、砂が溶けガラスの塊のようになった跡、場違いに粉々に砕け散った氷の欠片、そして得体の知れない芋虫のような生物が何かに群がっている光景があった。 後から来た者がなんと思うかは不明だが、これこそ残るごろつきの末路だ。 「腰が抜けるまで相手するんじゃなかったの?」 小馬鹿にするように呟くユイ。その顔はとても美しく、凄惨だ。 弱く矮小で、それでいて身の程をわきまえない物が彼女はもっとも嫌いだった。 そしてユイの背後から重々しい声が聞こえてきた。パイプオルガンのように重厚で、それでいてフルートのように繊細な美しい発音を持った声が。 『ユイ、何を遊んでいる。 北の小娘の所に行くのだろう?早くしてくれ。 元々ここは私にとって居やすい場所じゃないのだから』 そしてゴフーと台風のような音と共に、大量の空気が吐き出される。 「はいはい、ライちゃんせっかちなんだから。まあ、呼びつけた私のセリフじゃないけど」 『どうせ私も北に行く用事があったからな。とにかくさっさと乗ってくれ』 愚図は嫌いだよ。そんな感じで促す言葉に従い、ユイは彼女の背後で宙に浮かぶ、顎だけで5mはありそうな竜の頭に飛び乗った。そう、彼こそ先ほどシンジ達が知覚した恐ろしい力を持った竜だ。 ユイが頭に乗ったことを確認すると、青い竜は伸びをするように首をもたげた。 「あ、ついでにアレの掃除もお願い。なんだか久しぶりに電界の覇者と呼ばれた電磁竜『ライディーン』の雷見てみたいし」 ユイの言葉に竜は、人の目から見てもハッキリわかるほど顔をしかめた。 不遜な言葉だから? 否、もの凄くエネルギーの無駄遣いだからだ。 『ユイ、氷蓄熱式発電とか、そう言うエコロジーには興味ないのか? そんなだから君はアイスに会うたびに説教されるのだ』 「彼女、エコロジーの権化だもんね〜。まあ、言われてみればあなたの言うとおりだし。 どのみち彼が生きて街に戻れるとは思えないから、ほっといても良いかもね。四方八方から砂漠の生き物が集まってきてるわ」 『良い性格だな』 砂漠の生き物が集まってきている…か。誰が呼んだのやら。 一言皮肉を言った後、竜は扇形の巨大な翼を広げた。広げた翼の隅々まで体液が循環するまでしばしじっとし、やおら蛇のように細長い体をぐにゃりと曲げると、重力を無視するように天に向かって飛び立っていく。 同時にそれまでユイ達のいた空間に向かって滝のような雨が降り注ぎ、惨劇の後を流し取っていった。氷は溶け、ガラスは砂に埋まり、虫は砂の中に潜り込んでいく。 唯一残った男は、雨に打たれながら、恐怖で半ば発狂した目をして飛び立っていく竜を眺めていた。 「ひ、ひひひひ」 背後に巨大な顎を開けた砂竜が姿を現しても、ずっとずっと空を眺めていた。 竜が雲の上まで上昇したとき、ユイは完全に地上であったことを忘れていた。竜の頭上に仁王立ちという無茶な姿勢を保ったまま、腕を組みながら風を切る。普通なら風圧でどこかに飛んでいきそうなのだが、どういうからくりなのかしっかりと彼女は自分の足で立っていた。 そんな些細なことより、これから起こることの方がもっと重大だ。 なんとしても二人を穏便に説得しなければ…。 今はまだ良い。 自分の力は健在で、彼らに対する抑止力として充分に働いている。 だが、彼女の力は無限ではない。そう遠くない日、それも1年程度で彼女は…。 そしてその時、彼らを止めることは誰にもできなくなる。 (でも、希望はあるわ。あの2人だけと思っていたら、マユミちゃんが。 そしてあと2人、5人の戦士が見つかれば…) そして色々気になる謎を残し、ユイを乗せた雲竜は風よりも早く、一路北の王国ハーリーフォックスに向かうのだった。 「ひぃっ、シンジさん! 溢れちゃう! もう、もうだめぇ───! ああ───っ!」 「大丈夫、ほら君だってこんなに…」 「うあっ! ひっ、きゃうっ!」 息子とその嫁さんがしてることも知らないで。 続く 初出2002/03/07 更新2004/09/08
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