気をつけなさい。
気をつけなさい。

生きると言うことは苦しみ続けること。
大地は生物を受け入れたわけではないのだから。
海は生物を産んでも、育てる義務があるわけではないのだから。
自然は生物に、優しいわけじゃない。
太陽は祝福を与えるだけではない。
試練も与えているのだから。

依然、人は試されている。
人だけでなく、全ての生物が、存在を試されている。
動物も、植物も、そのいずれでない存在であっても。

足掻き続けて生き抜いて。
その中で、諦めず、歩き続ける者こそ、
あるいは…。



〜 吟遊詩人が歌う歌 〜









 太陽は容赦なく地面を焼く、そして地面はその輻射熱を周囲にばらまいている。熱気の悪循環と言うべきか。気温は軽く摂氏50℃を超え、まともに見続けたら目を火傷しそうな白い光が、本来黄土色の砂を白く輝かせていた。
 ここには通常の砂漠に存在する小さな蜘蛛や甲虫、蜥蜴などの生物の姿は見られない。彼らのように、砂漠という環境に適応したはずの生物であっても、この地で生きることは難しいからだ。
 ジパルシア大砂海。
 地上最大の広さを持ち、生物の存在を拒む、極限の地の一つとして、広く世に知れ渡っている魔界。かつてシンジ達が端の方に迷い込み、死にかけたことは記憶に新しいだろう。

 そして今、大砂海の中心付近を歩く、無謀な存在が1人いた。
 頭から足先まで、外気を遮断する目の細かい布地のコートで覆い、露出している部分は目の周りだけという出で立ちで、顔形はおろか、性別だって分からない。敢えて言うなら背が高いため、男性のようにも思える。
 奇妙なことは彼(彼女)がまるで荷物らしい荷物を持っていないことと、彼女が纏っているコートは、砂漠を行く人間が着ける物ではなく、空気が薄い高地の人間が着ける類の物だと言うことだ。
 まるで雪深い山奥から、突然砂漠の真ん中に現れたような、そんな感じに見えた。

 その人物は一心不乱にある一点に向かって足を進めていた。
 地平線の果て…とまではいかないが、陽炎で全体がゆらゆらと揺れて見える奇妙な建造物に向かって。具体的に語れば、正四面体の石でできた構造物だ。つまり、王の墳墓、天文台、宗教儀式の設備などなど、諸説紛々と語られるもの…ピラミッド。確かに目立つ物ではある。
 そこに行けば何がどうなるというわけではないが、とにかく、その人物はピラミッドに向かって歩き続けていた。少々、途方に暮れた目をして。
 と、その時。
 何ごとか聞きとがめたのか、その人物は足を止めると、僅かに腰を落とし、厳しい目をして周囲を睨み付けた。素早く目だけを左右に動かし、針の落ちる音も聞き逃すまいと聴力を、砂に感じる振動を感じるため触覚を、空気の動きを感じ取るために嗅覚を最大限に使用する。

 ズ…ズ…ズ…。

 衣擦れにも似た、小さな音が聞こえ、いや感じられる。
 常人なら気がつかなかっただろうが…。

(来る!)

 コートの内側に入れていた両手を外に出し、すぐにでも動けるように更に腰を落として身構える。

(大きい。…直下から、秒速9m!)

 ほんの僅かに振動する地面の砂、そこからどの方向より、どれくらいの大きさの物が、どの程度の速度で自分に向かってきているのか、謎の人物は正確に状況を把握した。このまま立っていたら、自分がどうなるかも。

「トォ!」

 思いの外甲高い声…女性の声で叫ぶと、人物…いや、彼女は大きく真上に飛んだ。その動きで起こった風に煽られ、彼女の頭を覆っていたフードが、はぎ取られるようにして宙を舞う。
 僅かに赤みがかった金髪が陽光を反射してキラキラと輝き、白く染み一つない白磁のような肌を持った、美しい女性の顔が現れた。彼女は深い湖のような瞳に挑戦的な、ふてぶてしい光を湛え、楽しそうに笑った。
 まるで戦いを、自分の危険を楽しんでいるかのように。

「ふっ、出てきなさい!!」

 刹那、彼女が直前まで立っていた砂地が爆発し、その砂煙の中から、巨人の使う鋏のような大顎を持った、全身を硬く滑らかな外骨格で覆われた生物が姿を現したのだった。

【キュゥオオオオオオオオオオオ!】

 蛇のようにしなやかな体を空中に伸び上がらせ、その巨大生物…砂竜は空中に逃れた女性を追いかけた。たとえ跳んで逃げたとて、金属の大顎は容易く獲物を捕らえ、その脆い胴体を両断してあふれ出す内蔵を貪る。
 しかし…。

「つかまってたまるもんですか!」

 大顎は彼女の体を捕らえることがなかった。
 通常なら、1mも跳び上がればそれで充分に凄いのに、彼女は人間の限界を超えた高さへと、高く、高く舞い上がる。2m、3m、4m、5m…。
 魔法使いの中には、自身に作用する重力を、ある程度捜査できる存在がいる。浮遊(レビテート)、飛行(フライ)など呼ばれる魔法だ。それを知っているというなら、彼女が重力の束縛から解放されていることに説明が付く。しかし、彼女は魔法を使って浮遊しているのではなかった。

「地を這う存在の常識で、私を捕らえられると思わないことね!」

 叫ぶ彼女の背中で、黒々とした蝙蝠にも似た一対の翼が、ゆっくりと羽ばたいていた。
 翼はそのゆったりした動きと、大きさに反して、さらに彼女の体を高みへと上昇させていく。その下で何度も大顎は開かれては閉じられ、彼女を捕らえようと無駄なあがきを繰り返す。

【キュオオッ!?】

 さしもの砂竜も、自分の体を支えきれなくなったのか、5mほど追いかけたところで、急に動きを止めた。だが、それだけの高さに体を持ち上げても、彼女の体は顎から遙かに高い位置にあった。

【キ、キィィ!】

 突然砂竜は甲高い悲鳴をあげ、直後メトロノームの針のように体が揺れる。右に、左に、前に後に…。

「逃がさないわよ!」

 さらに女性はすばやくその顎を掴むと、翼を一杯に広げ、ハチ鳥がホバリングするときのような勢いで翼を羽ばたかせた。驚いたことに、圧倒的に体重が違うはずの砂竜の体が空中へと持ち上がっていく。ハンミョウの幼虫のようにねじくれ曲がった尻尾の返しで踏ん張って、驚き藻掻きつつ砂竜は抵抗する。だが、上と下両方からの力で体の節を限界まで引き延ばされ、キーキーと悲鳴のような声を漏らしながらズルズルと引きずりあげられていく。

「ぬぉりゃー!」

 アスカの少々下品なかけ声の直後、ボグッと妙な乾いた音をたてて砂が爆発すると同時に、砂竜の毒針が生えた尾が空中に姿を現した。しかし、体の上昇は止まらない。速度を速くしながら、尾と地面の間隔が1m、2m、5m、10m…20m…30m…50m………100mと広がっていく。
 その間も砂竜は、全身をねじったゴム紐のようにはね回らせるが、歯を食いしばって翼を羽ばたかせ続ける彼女は微動だにしない。本当のところはきついわ手が痛いわで叫び声をあげて手を離したかったのだが。
 しかし、彼女はその時まで我慢した。
 もう充分という高さに達したとき、

「潰れて死ね」

 嘲りの言葉の直後、彼女の腕が離された。妙にゆっくりした動きで砂竜は地面に向かって急速に接近し、濛々と砂煙を吹き上げながら激突した。

 ズズンッ

 ピーナッツの殻を割る音に似た乾いた音と、空気が震える重く籠もった音が響き、砂漠が揺れ、振動で僅かに細かい砂が舞い上がった。
 巨大な体を持つと言うことは、とても重い体重をしていると言うことでもある。巨大生物は、ただ大きいというだけで充分に驚異的な存在だ。しかし、今はその巨体が仇となった。

 割れた甲羅の隙間から体液をこぼれさせ、グジュルグジュル…と不気味な音をたてながら、紫色の体液を口から吐きだして砂竜は苦痛に身悶えた。まさか砂漠でも最強の生物の一体である自分が、こうもやすやすと倒されると思いもしなかっただろう。
 ともあれ、砂竜はすっかり食欲を無くしてしまったのか、側面に無数に生えた小さな足を忙しなく動かし、なんとか砂に潜ろうと足掻く。
 しかし、彼女はその顔に似合わず執拗で、容赦がなかった。

 流体力学、空力学を無視した動きで、なおかつ回転しながら砂竜の眼前に着地すると、彼女は左腕を突きだし、右腕を腰の辺りに引いて身構えた。緩く指を開いた左手とは対照的に、右腕はしっかりと拳を握りしめ、力を溜め込むように腰を落として砂竜を睨む。

「燃え上がれ、私の魂! 轟炎渦巻き敵を滅ぼせ!」

 ゆるく、淡い影のようなオーラが彼女の背後から立ち上り、同時に彼女の右腕が燃え上がった。まるでガスでも噴き出しているように青白い炎を吹き上げ、白く発光する!

「必殺!」

 彼女の足下の砂が爆発したように後方に吹き飛ばされた。尋常ではない力で後方に蹴り飛ばされたのだ。アスカはその反動により、引き絞られて放たれた矢のように砂竜の頭めがけて突き進む。

「バニシング・フィストォー!」

 気合いの叫びと共に、彼女の右拳は砂竜の頭部に激突した。右腕は炎の軌跡を残して顎を砕き、口中に肘までめり込む。
 次の瞬間、

「爆発!」

【ぎゅわおうっ!】


 砂竜の頭部が、内側からの圧力と高熱によって、体液を沸騰させながら爆発四散した。僅かに遅れて胴体の節部分が、幾つも小さな爆発を起こし、細切れの肉片を周囲にまき散らす。
 頭部を失った砂竜の体はそれでも激しく動き回り、まるで破壊された頭部の仇を求めるように這いずっていたが、その動きもやがて止まった。それでも、数本の足は細かく震え続けていた。
 肉片が飛び散り、キチン質の甲羅の燃える生臭い臭いが漂うスプラッタな光景の中、女性はようやく体から力を抜き、砂の上に腰を下ろした。そして、髪の毛についた砂粒を落とすこともせず、膝を抱えて疲れ切った言葉を漏らした。

「無駄な体力を使わせて…」

 誰が聞いているわけでもないのに、こんな時でも強がることを忘れない口調で呟く。のろのろと、右手にこびりついた砂竜の肉片を擦り落とし、本当に疲れたのか重い重い息を吐いた。今更ながらだが、周囲の物凄まじい光景に気分が滅入りそうになっているのだ。やったことに比べ、精神的には意外に柔弱だ。

「はあ〜。昨日から数えて、これで10回目の襲撃か…。
 砂竜、死の蠍、バジリスク、蛇人間の一個小隊…。
 なんなのよこの砂漠は。なんでこんなに生き物が、それも危険生物がいるのよ!」

 今更あえて書くまでもないが、彼女…悪魔(淫魔)であらせらる、自称、SGBL(スーパーグレートビューティフルレディ)炎の烈風こと惣流アスカは、本日何度目になるか分からないため息を吐くのだった。










Monster! Monster!

第20話『冒険浪漫』

かいた人:しあえが









「あ〜お尻が熱い」

 そりゃ、焼けた砂の上に腰を下ろせば熱いだろう。普通の人間だったら火傷したって不思議ではない。でもアスカは腰を上げようとしない。そんな気力もなかった。
 疲れたのか、そのまましばらく頭を抱えて蹲っているアスカだったが、そうしていても状況が変わるわけではないことは分かっていた。いつまでもじっとしていたら、騒ぎを聞きつけた物見高い砂漠の生き物達が集まってくる。だから、うんざりした目つきのままだが立ち上がると、砂竜の死体の側に落ちていたフードを手に取り、砂を叩いて落として深々とかぶった。

「ふぅ…。やばかったわ。日射病になりかけてた」

 それだけでも大分変わるのか、こめかみを押さえて絞り出すように呟く。本音を言えば水が欲しいところだ。頭から冷たい水をかぶる…普段は水を避ける彼女だが、今回ばかりは命の源という言葉を直に感じたい気分だ。
 それにしても解せないのは、なぜ悪魔である自分が日射病になるのかと言うこと。松明の火を直に掴んでも、アスカは火傷一つしないのに。炎の力を色濃く持った彼女は、通常の炎や熱では決して傷つくことがない。日常生活に支障が出るため、熱いとは思うけれど。強力な魔法などの超自然的な影響を受けた炎か、極めて高い熱 ─── 数千から数万℃ ─── を越えた熱だけが彼女に火傷を負わせる。
 それなのに、それに比べれば遙かに温度が低い太陽光線を浴びると日焼けし、日射病になるとはどういうことだろう。疑問で一杯の顔をして、日焼けして褐色になった腕と、ブレスレットをしていたのでそこだけ白くなっている手首をじっと見る。

(世の中の不条理を感じるわ。世の中みんな私の敵になったみたい)

 一応説明するなら、松明の火は火属性で、太陽光線は光属性だからアスカは傷つくわけなのだが。
 冷静に考えれば、それにすぐ気がつくはずなのだけれど、よっぽどストレスが溜まっているのか、それとも考えることが嫌いなのか、アスカは太陽に対する恨み辛みをブツブツと呟いてまた歩き始めた。当初の目的地である、ピラミッド目指して。

(あそこに行けば問題が解決するわけじゃない。なにも解決しないかも知れない。
 でも、方角も分からない、今居る場所も分からない私には、他に選択の余地はないわ…)

 文字通り、蜘蛛の糸にすがるような気持ちだった。
 何も手がかりがなかったとしても、少なくとも、あそこに行けば日陰があるはずだ。
 頭上から自分を焼く太陽を遮り、彼女を守ってくれる日陰が。無いと泣く。

(ううう、どうして私がこんな目に。もう嫌、家に帰りたい…)

 不覚にも涙がにじんできたが、アスカはその事に気がつかない。膝の所まで丈がある、編み上げのブーツの中にさえ少しだが砂が入り、そのことにイライラしていたからだ。細かい砂は、ほんの小さな隙間からでも入り込むからだが、今のアスカには砂が悪意を持って意地悪をしているようにしか思えない。
 なんか世の中全てが嫌になってきたのか、彼女の表情が険悪になる。

(まさか、おばさま達…わざと座標を間違えたんじゃ)

 あり得る。あの2人なら。
 人を不幸に巻き込んで、試練の一言で片づける常習者だと言うし。
 ナオコの方は知らないが、ユイはかつて使徒またユイというわかりやすいあだ名の他に、恐怖王の二つ名で呼ばれたこともある存在だ。どんな思い切ったことをするかは知れた物じゃない。それを言うならアスカの母親のキョウコは、破壊王の二つ名で呼ばれていたのだが、それは都合良く忘れていた。あるいは心の棚の奥にしまい込み。
 アスカにとっては、キョウコは憧れであり、大好きな母親に代わりはないのだから。ユイは…?
 時々嫌い。
 ちなみに、ナオコは憎悪王の二つ名で呼ばれていたりする。よく嫉妬してヤキモチ焼くから。

(魔界と人界の違い…か。見聞を広めなさいってよく言われたけど)

 アスカは、地上、人界という世界は魔界に比べれば、どんな厳しい環境も小春日和の草原みたいなものと思っていた。遠回しに、氷の極地に住むレイを見下していたのだが、その世の中を甘く見ていた彼女に対する戒めのつもりで、ユイはわざとこんなことをしたのでは…と、悪い方向に物事を考えてしまう。あるいは都合よく考える。
 もしかしたら、どこかで自分のことを見ているのかも知れない。何故か。自分を試すために。
 そう思ってユイを捜したりもした。しかし、アスカの淡い期待に応えることなく、ユイの姿はどこにも見られなかった。事実は本当に座標を間違えただけだから、当然と言えば当然なのだけれど。

(いるわけないか…。
 とにかく、今はあのピラミッドに行かなくちゃ。人がいるかも知れないし、水とか食べ物があるかも知れない。無かったら…どうしよう。
 はあ、肉体を持ったときはドキドキしたけど、こんなに不便な物だったなんて。お腹は空くし暑いし汗をかくし、花を摘みに行きたくなるし…)

 しばらく何も考えず、アスカは歩き続ける。
 砂山を登っては降りを繰り返し、先の砂竜の死体が砂丘の影に隠れて見えなくなったとき、再びアスカは顔を上げてピラミッドを見つめた。
 太陽に光で白く輝く砂の中、巨大な石作りのピラミッドが、無言の時を刻んでいた。

(あと、20kmくらいある…。昨日の夜見つけたときは近くだと思ったのに…)

 いくら歩いても、距離が縮まらないのではないか。
 自分が泣いていることに気付かず、アスカは親の仇を見るようにピラミッドを睨んだ。でも、どんなに憎くても彼女は歩き続けるしかなかった。

(チクショウ、チクショウ! 私にこんな苦労をかけさせて、これでもし禄でもない男だったら。くっくくくく。
 碇シンジ…。シンジ…。馬鹿シンジ!
 うん。馬鹿シンジが一番しっくりするわ。
 …覚悟しなさいよ。絶対タダじゃ済まさないんだから!)











「うわああああ、ごめんなさいごめんなさい!」

 突然跳ね起きて、土下座して謝るシンジがいた。

 ちょうどアスカがシンジに謂われのない憎悪を向けた頃。
 レイとマユミの魔法で気温が20℃に保たれた碇家のリビングにて、へにゃ〜と全身を弛緩させてのんびりしていたシンジは、突然感じた悪寒で体を振るわせていた。直前までの幸せそうな雰囲気を雲散霧消させ、跳ね起きたその場で平伏して無我夢中で額を絨毯に擦り付ける。

「みんな本気なんだ。1人だけ選ぶなんて…」

 何を言ってるのか、正気ではとても言えないようなことをブツブツ呟き、そこでようやく自分が今どこにいて、何をしていたのか思い出した。

(…………あれ)

 意識が覚醒すると同時に、高ぶっていた全身が冷えて鳥肌が立つ。驚いたことに、着ていたシャツが変色するほどに汗をかいていた。じっとりと張り付く、少しサイズが大きいシャツが気持ち悪い。
 なにか悪い夢でも見たように…見たんだろうけど。きょろきょろと不安を隠そうとせず、リスみたいに忙しなく首を動かして周囲を探る。よく覚えていないが、とてつもなく不吉な何かを見た気がする…。

「…なんだよ。今のは」

 すぐに悪寒は去ったが恐怖が晴れないのか、シンジは落ち着かない顔をして周囲を見渡し続けた。部屋の角から異次元の魔物でも出てくるのではないか、棚の影、ソファーの下の隙間から毛むくじゃらの魔物の手でも飛び出すのでは。そんな幼子が抱くような恐怖に、シンジは空元気を出すための独り言を呟くことも出来ず、ただ深く重い息をするのだった。

「どうしたの?」

 シンジのすぐ横から、風鈴のように澄んだ声がかけられる。寝ていたシンジの隣に座って、本 ─── シンジにはタイトルすら読めない ─── を読んでいたレイが、顔を上げて彼を見つめていた。その紅い瞳に戸惑ったシンジの顔が映る。
 突然のシンジの様子が気になって仕方ないのだ。それに心配している。下心が全くない、心の底から心配した顔で、レイはシンジの側に跪くと、彼の顔をのぞき込んだ。
 間近で見るレイの瞳と、ほのかに感じる冷気にどぎまぎしながら、シンジは自分自身に言い聞かせるように、つとめて冷静な声で返事をした。

「なんでもないよ。そう、ただの…悪い夢だよ」
「そう?」
「うん。驚かせてゴメン」

 しかし…。
 正夢かも知れない、とは思ったが。
 なんというかタチの悪いことに、こういう場合の予感、予想は良く当たるものだ。全然ありがたくないことは言うまでもない。苦虫を噛みつぶしたような顔をして、シンジは心の中で呟いた。

 災厄と災難の魔神、マーフィーに呪いあれ。そして自分に幸あれ。





 砂漠でアスカは叫び続ける。

「馬鹿シンジ、覚悟しなさいよ〜〜〜!!」





 願いは叶いそうになかった。












 どんなに辛い物事でも、いつかは終わりがある。だから人間は生きていくことが出来る…と言うが、アスカの当面の移動は終わりが近づいていた。
 目の前で異様なまでに巨大な存在感を誇示するピラミッドは、もうすぐそこにまで来ていた。

(やっと、やっと到着か。昨日の夜から数えて、9時間は歩いたわね)

 それも途中で魔物と戦い、水も飲まず食料も食べず。無いから仕方ないんだが。
 悪魔のアスカだから出来たが、普通の人間だったら途中で魔物の胃袋の中だろう。今更ながら、自分の能力に感心する。

 しかし、それだけの苦労をしてここまで辿り着いたのに、アスカの表情はあまり良いとは言えなかった。乾きの所為でカラスの足跡が出来た目を細めて、ピラミッドを、その周囲を観察する。

(ここ…本当にピラミッドなのかしら)

 守護獣であるスフィンクスやアヌビスの立像、殉死者の小ピラミッドなど、普通ならあってもおかしくない他の遺跡が見あたらない。偉大なる死者、神の一員と国民にあがめられた生き神を、その業績を祭る遺跡とは到底思えない。神々と交信する神殿とは思えない。

(そう、この雰囲気は天文台などの施設でも、死者を祭る墓のいずれでもない。まるで、まるで…)

 悪魔を封じている重石…。
 忌まわしき過去を封じ込め、現世に決して関わらないようにした負の遺産。

「なによこれ…。この雰囲気なんなの」

 今頃になって自分にのしかかるような影が恐ろしく感じる。太陽の日差しを遮って涼しくなったと言うより、体温を奪われて力が抜けていきそうな気分だ。まるで悪戯をした自分を叱るキョウコを目前にしたような、あるいは容赦をしなさそうな分もっと恐ろしい雰囲気に、アスカは震えていることに気がついた。

「くそっ。なにを親とはぐれた子犬みたいに…」

 ある意味正鵠をついている。たとえ天才であったとしても、今まで彼女はたった一人になると言うことがなかったのだから。常に父親か母親、もしくはユイなどの頼れる大人の庇護下にあった。つまり、今の彼女は本当のひとりぼっち。手に負えない魔物に襲われたその時…それは彼女が死ぬときだ。
 自らを奮い立たせるように強がりを言うと、アスカは砂を一歩一歩を踏みしめながら、ピラミッドの入り口に向かって歩き出した。ピラミッドの入り口…。大概、死を指し示す北方向に開けられているはずだ。つまり、最悪休められなかったとしても、その扉の位置から方角が分かるはずだ。

 しかし。

「入り口が…ない」

 ピラミッドには、入り口は勿論、休められそうな場所は何もなかった。盗掘者が掘った縦穴もなければ、岩が削れて庇のように太陽を遮る場所も。当然、井戸なんてどこにも見あたらない。

「そんなぁ」

 ぐるりとピラミッドの周囲を一周したアスカは、砂の上に膝を落とし、両手をついて項垂れながら呟いた。ぎゅっと砂を掴み、体を震わせて呻くように声を漏らして、彼女は泣いた。涙がこぼれて、砂に黒い染みをつくっていく。そしてすぐに砂に吸い込まれ、大気中に蒸発して消えていく。

「う、うううっ。こんなところで…こんなところで」

 もう歩けない。体力は限界近かった。喩え悪魔だと言っても、肉体を持って顕現している以上、ある程度、生物としての法則に従わなければならない。水と休息が彼女には必要だった。

(勢い込んで地上に来たのに、シンジに会う前に地獄に帰ることになるの?
 それじゃあ、私はいったい何のために!
 ただの馬鹿じゃない!)

 厳密に言えば死ぬわけではない、いや、人間界では死ぬのだけれど、魂が消滅するわけじゃない。魔界に帰るだけだ。だから、まだ余裕が多少はあると言えばあるのだけれど、それでも死を体験するのは恐ろしいし、不名誉なことであるのは間違いない。魔界に帰り、傷が完全に癒えるまでの長い間、周囲から徹底的にいじめられて過ごすことになるだろう。

「いやよ。それでなくともいじめられてたのに。この上、魔界に帰ったら…」

 どんな容赦ないいじめがあることだろう。人間が考えつく程度のいじめではないだろう。

(いや、いや、いやぁ)

 だから彼女は泣いた。人目もはばからずに。どうせ、誰も見ていないから。
 幼い子供のように。

「うええ〜〜〜ん、死ぬのはいや〜〜〜」

 涙をまき散らして、わんわんと泣くアスカ。若干幼児化してるらしい。
 だからか彼女は気付かない。
 足音もたてずに、背の高い何かが背後に立ったことに。そして静かにかがみ込み、彼女の頭のすぐ後で、耳まで裂けた口を開いたことに。



『何をしてるのかね、君わ』
「えええ〜〜〜〜〜ん!! ママァ、パパァ、ユイおばさまぁ!
 レイでも良いからヘルプミ〜!」
『あの〜もしもし、聞いてるかね?』
「びぃえええええぇぇぇ───ん!!!」

 そして、妙に困惑した声を掛けられても、アスカは気付かない。
 1人パニックに陥って、自分が何を言ってるのかもわからないのか大声を上げて泣き続ける。
 そんな彼女の後で、ピンと立った耳の後を書きながら困った顔をする…犬の頭を持った身長2mほどの巨人。2人の様子を端から見ると、迷子の子猫ちゃんに困ってしまった犬のお巡りさんって感じだ。
 犬の頭と言うだけで充分すぎるほど異常だが、人間に似た胴体の形状も、普通の人間とは少々異なっている。見事なまでに逆三角形の体に、やたら細くて長い手足を持っている。さながら、以前シンジ達が見たピラミッド内壁に描かれた、壁画の登場人物のような体型だ。よく見ればその体も肉と骨で出来ているのではなく、硬く冷たい…磨かれた黒曜石でできていた。身に纏っている衣装や飾りも、全て黒曜石を磨き、削った物だ。

「水〜〜〜〜!!」
『水ならある』
「…へっ?」

 やたら疲れた言葉に、ようやくアスカは気がついた。恐る恐る背後を振り返り、至近距離から自分を見ている瞳と目が合う。やたら切れ長で細い犬の瞳が、じっとアスカを見つめていた。

(誰…? てーか…犬!?)

「おわぁっ!? 後ろに立つなぁ!?
 襲う気!? エッチスケベ変態! 異常性癖!痴漢!色魔!」

 反射的に後に飛び下がり、耳を伏せて飼い主の後から別の犬に向かって吠える犬みたいに、口だけは威勢良くわめき立てる。犬犬と喩えが犬ばっかりで、自身犬っぽいアスカだが、じつは犬が大嫌いなのだ。

「ひぃ───! 埋められる殺される犯されるぅ!!」

 しかし、そんな事情を知らない怪人物は、露骨に顔をしかめて身を縮める。彼らを作った主の性格がある程度反映されているからか、その悪口暴言、罵詈雑言に怪人物は耳をへにゃりと伏せ、落ち込んだようにズーンと暗くなる。
 女の子はそんなセリフを言っちゃイカーン。いかんですよホントに。
 意識が飛びそうになるのを堪えながら、彼はかろうじて口を開いた。

『…誰だ君は』
「人に聞く前に自分から名乗りなさいよ、この色情狂!!」

 正論だが、妙に癇に触るのは何故だろう。
 しかしながら元々人が良い性格の彼は、言い争うこともなくアスカの質問に答えてやった。

『私はアヌビス。冥界の神。山犬(ジャッカル)の頭を持ち、オシリスを助け死者を裁き導く者なり。
 ただしくは、神に似せて作られたガーディアンスタチューだがね』
「私は…惣流アスカ。見ての通りの悪魔よ」

 口の聞き方を知らない娘だなぁ。犬ではなく、ゴーレムの一種と分かると途端に強気だし。
 ともあれ、大して情報が増えたわけではないが、その怪人物…というか意志を持ったリビングスタチュー(生きている彫像)は、アスカの言葉に納得したように頷き返した。

『悪魔か…。人間、不死族などは破壊しろと言われたが、さすがに悪魔に関しては何も言われてなかったからな。無理に侵入しようとしているわけでもない』
「…一応聞くけど、人間だったり、無理に侵入しようとしてたらどうしてたの」
『心臓えぐり出して、秤に乗せて重さを量る』
「よーするに殺すわけね」
『そういうこと』

 口調はあくまで軽いが、言葉の裏を読めばアスカも何ごとか敵意を見せれば、直ちに殺すと言ってるわけだ。その言葉の裏に秘められた意志を感じ取り、アスカは静かに身構えた。なにかあったら、逆に心臓をえぐり取りそうな眼光を浮かべて。
 アヌビスが面白がるように口の橋を歪める。アスカの意志を敏感に感じ取り、その素早い精神集中と意思表示を素直に賞賛していた。戦いになれば、さぞ面白い駆け引きを楽しめるだろう。恐らく、自分では勝てまい。
 しかし、今の彼は戦いをしたくなかった。なにしろ、この任務に就いてから初めての、来訪者なのだから。敵であれ、そうでない者であれ。だから彼はアスカを安心させるように両手を上に上げ、おどけるように肩をすくめた。

『別におかしな事をしなければ人間だって殺さない。そもそも、君は遭難者じゃないのかね』
「違うわ!」

 違う?
 当初からこのピラミッドを目的としていたと言うことだろうか。だとしたら敵か。しかし、敵だとしたら何とも手の込んだことをするのだろう。
 少し警戒したのか、アヌビスは耳を立て、怪訝な目をしてアスカを見つめる。
 アスカもまた真剣な眼差しで言葉を続ける。

「ただ砂漠で道に迷っているだけよ!」
『それを遭難者と世間では言うんだ!』
「言わないわ!」

 耳と尻尾をピンと立てて怒鳴った直後に言いかえされた。さすがにこういうリアクションは初めてだ。

(えっと。
 心の底から本気で言っている?
 本気かよ?
 …あの目は本気だ。色んな意味で)

 それとも、本当に世間では言わないのだろうか。そんなわけはない。
 何を想像したのか、アヌビスのこめかみに流れるはずのない汗が流れる。

(まさか、彼女は…天然というやつなんだろうか)

 きっとそうに違いない。
 生まれて初めて目にする天然者を前に、口をあんぐりと開け、目を点にした状態のままアヌビスは固まった。
 相手が納得したと判断したのか、立ち上がって背筋を伸ばすと、やたら偉そうにアスカは言う。

「それはそうと、水があるって言ったわよね!
 貰ってあげるから早くよこしなさい!」
『………………』
「ごめんなさい。お水ください」

 黙っている間に、急速に萎れていくのが印象的だと彼は思った。









 とりあえず、いつまでも砂漠にいても仕方がない。アスカの反応の変化をもう少し見ていたい気持ちもあったが、ゴーレムなどの無機物から作られた魔法生物が大概そうであるように、彼は極めて合理的な性格をしていた。多少、アスカにつられてるようにも思えるが。
 とっとと、アスカをピラミッド内部に案内する気になったらしい。それにしても、敵ではないとは言え、部外者をいきなり案内しても良いのだろうか。ガーディアンとしての性能に、いまいち信頼が置けないリビングスタチューではある。

『じゃあ、案内しよう』
「案内されてあげるわ」
『…君、友達いないだろ』
「な、なんでわかるの!?」

 なんて疲れるやり取りのあと。
 誰も知らないはずの秘密を暴露というか看破というか。
 秘密になってない秘密があっさりとばれてしまい、動揺しつつもアスカはアヌビスの2歩ほど後についていく。
 アヌビスはアスカの性格と対処の仕方が何となく分かったのか、それ以後何も言わずにピラミッドの角の部分に向かって歩く。何か反応したらダメなのだ。何も言わず、素っ気なく流せばペースに巻き込まれない。どこまで徹することが出来るかは分からないが、とにかくアヌビスは無駄なことを言わないようにしようと決めた。

「ねえねえ。どこに行ってるのよ」
『……入り口にだ』
「入り口? 合い言葉でも唱えると、入り口が開くとか?」
『その通りだが。なぜその事を?」
「ベタベタねぇ。少なくとも、ここ1000年ぐらいの間に、物語とかじゃすっかりと使い古された展開よ」
『仕方ないだろう。このピラミッドが造られたのは、少なくとも1000年以上前だぞ』

 人が良い性格だからか、それともけたたましいアスカに巻き込まれたのか、やっぱり素っ気なくできないアヌビスであった。
 しかし、アヌビスの事情など知った事じゃないアスカは、返事をしてもらえたからと、アヌビスをつつくつつく。

「1000年以上って、正確な時間は分からないのかしら」
『面倒になって1000年まで数えたところで数えなくなった』
「ふーん。ところで、合い言葉ってどんなの? やっぱり開けゴマとか」
『似てるけどちょっと違う』

 それだけ言うと、アヌビスはピラミッドの壁から5mほど離れたところにまっすぐに背筋を伸ばして立ち、鈎爪のはえた右腕を伸ばしてピラミッドに向けた。手の平に張り付けられた鏡がキラリと太陽に光を反射し、ピラミッド頂上部のキャップストーンを一瞬輝かせる。

『ゴマ通りにはどうやったら行けるんだろう』

 ゴマはゴマでもそっちのゴマか。

 呆れた顔をするアスカと、恥ずかしいのか少し俯くアヌビスの眼前の空間が、突然ずれた。景色が描かれた窓を開いたように、目前の空間がそっくり横にずれ、その後には、地下(?)へと続く黒々とした口を開けた石の階段が姿を現していた。

 見ていると気分が悪くなりそうな空間の穴をくぐり、アヌビスに続いてアスカは階段を下りていく。10段降りたところで、背後の空間が閉じてしまった。出口が無くなったことでアスカは身構え、文字通り敵を見るような目でアヌビスの後頭を睨むが、アヌビスは肩をすくめただけで、無言のまま階段を下りていく。

「…ま、何かするつもりならいちいち助けたりはしないわよね」
『早く来たまえ。仲間も紹介するから』
「はいはい」

 そこからはアスカも無言のまま、壁に松明が灯り、自分達の影が揺らめく階段を下りていく。
 何十段、何百段降りたか分からなくなった頃。唐突にアヌビスは足を止めた。
 勢い余ってアスカはその背中に鼻をぶつけそうになるが、寸前にこらえ、そして目前の空間から自分達を興味深そうに見ている、複数の異形の姿に目を奪われていた。いずれも人間の体に、獣の頭という姿をしている。そしていずれの例外なく、その体は冷たい石でできていた。アヌビスと同じく、リビングスタチューなのだろう。

 アスカの正面に錫杖を持って立っていた、スズメの頭をした彫像がアスカに横顔を見せたままの姿勢で尋ねる。

『アヌビス、誰だ』
『道に迷った悪魔だそうだ』
『迷子なら仕方ないな。見たところ、まだ子供のようだし』

 孫の悪戯を、微笑ましいもののように語る老人のように、スズメ頭…ラーは言った。鳥が何を言ってやがると、子供扱いされたことも加えて少しムッとするが、とりあえずアスカは言い返しはしなかった。アヌビスは穏やかな性格をしているようだが、他の奴らもそうとは限らない。それくらいは考えるまでもなく分かることだ。
 アスカが黙っている間に、アヌビスは周囲を見渡しながら言葉を続ける。

『行き倒れを見捨てるのも目覚めが悪い。主の命令違反かも知れないが、彼女を中に招き入れてしまった』

『確かに悪魔は対象外だが、しかしここに封印されている存在の重大さを考えれば、軽率な行動ではないのか』
『その通りだ。あの恐るべき刑を受け、しかも数千年の間砂漠の怨念を吸い続けた奴は、世界を破壊する人食い鬼と形果てている。決して外に出すわけにはいかんのだぞ』

 アヌビスの言葉に、女性の体に猫の頭をした彫像と、女性の体に雄ライオンの頭をした彫像が、非難する態度を隠そうとせずに言った。アスカが何か言おうとするのを片手で制し、アヌビスはあらかじめシミュレーションしていたとおりの言葉でそれに対して反論する。

『だが、主はこうも言っていた。
 《可愛い女の子や美女が遭難していたら何があっても助けろ。そして住所と氏名を聞き出せ》 …と。
 そうではなかったか、バステトにセクメト』
『ぬぅ、確かにそう言ってはいたが』
『どーしよーもない女好きだったからなぁ』

 それからしばらく、彫像達はああだこうだと、アスカのことを色々と話し合っていた。その内容が、殺すか生かすかだったらアスカは落ち着いてはいられなかっただろう。
 幸い彼らが話してる内容は、どこまでアスカを助けるのか…だった。助けることが前提になっていることはありがたい。

 曰く、水を与えて外に出せばいい。
 あるいは水や食料を与えて、あと最寄りの街への道を教えればいい。
 またあるいは、数体が道案内を兼ねてついていく…等々。


(いやしかし、よくもまああれだけ意見が出るわね)

 察するに、長く退屈な任務に就いていたから、その反動が今出てきたのだろう。
 喋りたくて、意見を言いたくて…。
 便利だからと言って、気安く意志を持ったゴーレムなんて作るものじゃない。アヌビス達の今までの暮らしを想像して、アスカは深く同情した。事実、彼らの任務は相当に辛く大変で、報われるものではなかった。
 どんな奴が彼らを作ったのやら。











 アスカのいるジパルシア大砂海とは違う、岩だらけで、すぐ近くで荒波が砕けている場所。そこにいた複数の人影の内、髪の毛を後で一つに束ねて馬の尻尾みたいにしていた男が、場違いなくらいに大きなくしゃみを漏らした。

「へっくしゅ!」
「あら、加持君風邪?」
「そんなわけないんだがなぁ。こりゃどこかの美女が俺のことを噂してるのか」
「こら加持。寝言は寝て言いなさいよ」

 妙になごやかぁな雰囲気で加持とリツコ、そしてミサトは言葉を交わしあい、そしてアハハと楽しそうに笑った。
 そんな彼らの態度が我慢ならないのか、彼らの眼前に立つ異形の怪人が叫んだ。腹立たしげに、短気で軽率な性格を物語るような早口で。
 混沌がもたらした、時空の異なるテクノロジーに汚染でもされたのか、金属のような質感の表皮、車輪やピストンなどの機械部品のように見える器官が全身についた異様な姿をしていた。ここまで来たら怪人といった言葉ではとても追いつかない。
 ともかく、正体不明の…機械と生命体が融合した怪獣が苛立たしげに叫んだ。

「お前ら、今の自分達の状況を分かってるのか!?
 貴様ら如き脱走者を、黒十字様に仕える大幹部、暴魔大帝ネオラゴーン様が、手ずから殺そうとしているのだぞ!
 もっと恐れろ!泣け!見苦しく命乞いしろ!」

 その叫びに追随するように、彼らの周囲を取り巻いていた、何かの生物の骨で出来ているらしい、奇妙な形の剣を持ち、揃いの制服を着たゴブリンやオークなどの妖魔達がゲタゲタと不気味に笑う。その数…数千を越え、万の単位に届くかも知れない。

『『『『『『ケケケケケケケ』』』』』』

「見よ、この圧倒的戦力差!
 …だからなんでそんなに平気な顔をしているんだ!
 恐がれ!お前達は死ぬんだぞ!」

 怪人ネオラゴーンの脅しにも関わらず、加持達は涼しい顔をしてあさっての方向を見ていた。これは彼ならずとも怒るというもの。
 しかし、そんな彼の態度自体を嘲るように、フッとミサトは鼻で笑い、肩越しにネオラゴーンに向かって振り返った。頬に手を当て、首を傾げていたリツコも、駄々っ子のわがままに困った母親のような苦笑を浮かべる。加持に至っては笑いもせずにため息をつく始末。

「いやあのさ。この程度の兵力で大いばりされても困るんだけど」
「そうね。質も量も足りないわ。
 大体、部下だった存在に切り倒されて死んだ奴が何を偉そうに」
「せっかく生き返った命を粗末にするものじゃない。
 出直した方が良いんじゃないか。三下」

 まったくネオラゴーンの脅しに怯んでいる様子は見られない。
 立場がないのはネオラゴーンだ。脅しが効かなかったばかりか、三下呼ばわりされたのだから。
 クランクやピストンを激しく動かし、爪の先から毒液を滴らせ、早くも巨大化の兆候を見せながらネオラゴーンは叫んだ。組織の性質上、自分が最初というわけにいかない。まず、無駄と分かっていても雑魚を攻撃させなければならないのだ。

「おのれ…。かかれ、者共!
 こやつらは細切れの肉片にしてしまえ!」

 奇声を上げながら、一斉に妖魔達が加持達に殺到する。
 地響きと土煙、その向こうで身の丈10mはありそうな巨体に巨大化するネオラゴーンに、加持は感嘆の口笛を吹いた。茶化してはいたが、こうして見ると確かになかなかの戦力だ。

「今のままの姿だと、勝てないかもな」
「じゃあ変身する?」
「はあ、やれやれ。あまり変身したくはないんだけど…」

 そして三人に、涎を垂らしながら先頭を走っていた妖魔が、剣を振りかざして飛びかかる!

「調子に乗るんじゃないわ!」

 その刃が無防備に立つミサトに突き刺さる寸前、ミサトは太股を惜しげもなく晒しながら回し蹴りを繰り出し、殺戮の期待に震えたゴブリンの頭蓋骨を、剣ごと蹴り潰した。

『ぎゃぶふっ!?』

 悲鳴と言うより、肺から空気が漏れる音をたてながらその死体は地面に叩きつけられ、脳漿混じりの血の水たまりを地面に広げた後、小さく痙攣して動かなくなった。その惨劇に一瞬、妖魔達の動きが止まる。
 その隙を逃さず、ミサトは叫んだ!

「行くわよ!」
「おぅ!」
「ええ、ミサト!変身よ!」

 各々異なったオーバーアクションでポーズを決めた三人の全身が光った。

「超変身!」
「鎧よ、来い! 超結晶!」
「電脳転身!」

 加持達のかけ声が聞こえた瞬間、彼らがいた場所が爆発した。
 赤、青、黄色の閃光が閃き、轟く爆風に小柄な妖魔達が台風に飛ばされた看板の様に宙を舞う。

「なにごとだ!? なんなのだ、この魔力は!?
 これは…ヤミマルの比ではない!?」

 驚くネオラゴーンが見つめる中、土煙は徐々に収まっていき、そして…。












 なんて事になってるとは知る由もなく。
 時々的外れな意見が出て、アスカはなにか口を挟もうかとも思ったが、大人げないと思って辞めた。

(せっかくの機会なんでしょうし、言いたいことを好きなだけ言い合えばいいわ)

 泉から汲んだ水を飲んで大人しくしていたアスカだったが、その内、瞼が重くなってくる。思い出したように四肢が重く感じられ、力が入らない。

(あ〜ねむ。でも私のことで話し合いをしてるのに、ここで眠ってしまうのは…いくらなんでも…しつれ…い)

『そんなこと言って、どうせ遊んできたいだけだろう!』
『ハトホル! この私がそんなことをすると思うのか!』
『めっちゃ思うわ! それになんでお前が行くんだ!
 私でも良いだろう!』
『てめぇだって遊びに行きたいだけじゃないか! 俺が行く!』
『ミン! お前が街に行くと猥褻物陳列罪だろうが!』
『なに、この腕ほどもある俺様のビッグマグナムを馬鹿にするのか!?』

 全然失礼じゃない。あっさりとアスカは眠りの国に旅立った。










 目が覚めたときには話し合いも終わったのか、十数体いた彫像達全員が神妙な面もちでアスカを見ていた。数体が傷だらけなのは、とっくみあいの喧嘩でもしたのか。だとしたら、随分と高性能なゴーレムだなとアスカは思う。さすがは古代魔法文明の遺産と言うべきか。でも、寝ていたところをじっと見られていたわけで、その事に関しては気味が悪いと思う。まさか、彼らの見ていた映像がきっちりがっちり保存装置に保存されているとは思いもよるまい。
 本当に制作者の顔を見てみたい。なに、そんなに待たずともいずれ見られるさ。


 アスカが目を擦りつつ彫像達に向き直ると、牛の角を生やした男か女か分からない、端正な顔をした彫像が彼女の目の前に立った。

『すまないが、我々に出来ることは限られている。我々には任務がある。決してこの場を離れるわけには行かない』
「そうでしょうね。私も余り無理を言うつもりはないわ」
『配慮に感謝する。道案内や護衛などは出来ないが、ここまで来ることが出来た君だ。なんとかできるだろうことを期待する。とりあえず、水と幾ばくかの食料を渡そう。そして、まだあるかどうかは分からないが、最寄りの街までの進み方を教えよう』
「わかったわ」

 申し訳なさそうにそれだけ言うと、彼らのリーダーであるオシリスの彫像は軽く頭を下げた。彼としては出来る限りのことをしてあげたかったのだ。だが、やはりこの地を離れて、警備の手を薄くすることは出来なかった。

『配慮に感謝する。
 水は今用意しよう。結界の境界線の所まで、アヌビスに持たせる』
「そこまでしなくても良いのに」
『我々の退屈という地獄に、君は風を吹き込んでくれた。これでもまだ感謝の気持ちには足りないくらいだ。
 まあ、それは良い。君の進むべき道筋について教えよう。
 ここを出たら、当面北に向かいたまえ。そこに幅20m、深さ50mほどの谷間があるはずだ。その谷に沿って、西…右に向かって進みなさい。ずっとずっと進み続ければ、やがて巨大な河、ナース河に辿り着くはずだ』
「ナース河? 聞いたことあるわね。確か、人界最大最長の大河だったかしら」
『ほう。それは知らなかった。
 続けるが』
「話の腰折って悪かったわね。続けて」
『ナース河についたら、今度は北に向かいなさい。川が流れている方向だ。まだ街があるかどうかは分からないが、だが、少なくとも川沿いに人の集落はあるはずだ。最悪、河口まで行けば大きな街がきっとある。そこで、第三新東京市がどこか聞いて欲しい。
 本当に申し訳ないが、我々は第三新東京市という街が出来る遙か以前に作られた。故に、その街がどこにあるか知らない。かつての名前が分かるのなら何とかなったのだが』

 アスカは軽く笑うと、気にしないで欲しいと言った。感謝したいのは自分の方なのだからと。

「いや、そこまで恐縮されるとこっちの方がむず痒いわ。助けてもらったのは私の方だし」
『そうか。いや、そうだな。
 ところで、君は気分が悪いとか、そう言うことはないか』
「なんで?」
『ここは、とある大罪を犯した罪人を封じているのだが、その罪人が甦らないように幾重も封印の結界が施されている。不死族の力を削ぐ結界なのだが、多少とは言え悪魔族である君にも影響を与えるはずだ』

 そう言われてみれば、体がだるいかも知れない。戸惑った顔をするアスカに、やはりと頷くと、オシリスは背後に立っていたアヌビスを仰ぎ見た。

『アヌビス、先に行け』

 軽く頷くと、水の入った水筒を手に、アヌビスは階段を上っていった。それを見届けた後、オシリスは改めてアスカに向き直る。

『追い出すようですまないが』
「…別にここに住もうとしていたわけじゃないし、別に良いわよ」
『本当に申し訳ない』
「くどいって。
 ま、それはともかく世話になったわ。縁があったら、また会いましょう」













 階段を上りきり、空間に開いた穴から外に出ると、すっかり薄暗くなっていた。寝ていたのでよく分からないのだが、アスカはそこまで長居していたとは思わなかった。
 少し驚くアスカに、アヌビスはついてくるように身振りで示す。

『こっちだ。黄昏の時間、太陽が左手に来る方向が北になる』
「なるほど。そっちが北なのね」

 大丈夫なんだろうか。
 ちょっと不安に思うが、アヌビスは言葉を続けた。夜藍色になった空を指し示し、真北に輝く小さな星と、その星の近くの星について説明する。

『あの星は常に北の空にある。蛇蛸座を目印にしても良い』
「ふーん」
『ふーんって、君に関係することだぞ。もう少し身を入れて聞いてはどうかね』
「いっぺん聞けばわかるわよ。それよりさ、あのピラミッドに封じられてる奴のこと、聞いても良いかしら」

 人間だったら眉をひそめる…アヌビスが顔に浮かべたのはそんな表情だった。言ってみれば、アスカは他人のプライバシーにずけずけと足を踏み込んだようなものだからだ。
 しかし…きちんと断りはいれているし、それに話してはいけないと言うことでもない。
 アヌビスは僅かに逡巡したが、結界の端に行くまでの短い間、そのことを話すことに決めた。それがシンジ達の知る歴史とは異なる歴史とは知らずに。

『あそこには、王を、偉大なる王とその御子息達を謀殺した大臣が封じられている』
「大臣…? ってそれだけじゃ誰か分からないわ。王って誰?」
『マウントクリフ王朝、星を呼ぶとも言われた太陽王リョウジ陛下だ』
「マウントクリフ…太陽王…ってことは、あのピラミッド3000年前のものなのね。
 となると、大臣の名前はラムセス・カースか」

 アヌビスは少し驚いたように体を震わせた。アスカが、歴史の正史から抹殺されたはずの大臣の名前を知っていることにも驚いたが、それよりも過ぎ去った時間の長さに驚いた。2000年は過ぎていると思っていたが、まさか3000年も過ぎているとは思いもよらなかった。

『良く知って…知っていてもおかしくはないな。君は悪魔なのだから。
 しかし、3000年…か。そんなに永い時間が。
 …できればで良いが。その後、マウントクリフ王家はどうなった?』

 少し言いにくそうにアスカは答える。

「………大臣を、大臣の行ったことを歴史から消したあと、王子様は突然姿を消して、混乱したところに北の帝国が攻め込んできて…滅んだみたいよ」
『そうか』
「国は滅びたけど、国民が虐殺されたって話は聞かなかったわ。いや本当に。
 …でさ。話を戻すけど、その大臣って、なんでこんな厳重に封じられてるわけ?」

 さて、言うべきか。
 これは完全に野次馬根性での質問であることは、リビングスタチューである彼でも容易に分かった。別に言う義理はないが、アヌビスはせっかくだからと話すことに決めた。ここまで話せば、毒をくらわば皿までだ。

『リョウジ殿下…つまり、国王陛下の御子息が、最も恐ろしく、むごたらしい禁断の処刑方法で奴を処断した。大臣は謀殺の証拠を残していたわけではなかったが、そんなことは関係なかったそうだ。その処刑はあまりにも恐ろしく、かつて行われたことのない方法だったという。
 封じられている限り、延々と苦しみ続け、その苦しみは終わることがない。だが、ひとたび封印が解かれれば、奴は怨念と砂漠の魔力を吸い取り、世界に仇なす人食い鬼と化す。
 そして刑を執行した当人も、呪いを受けると言われている』
「後先考えないコトするのね。それだけ怒ってたって事かしら」
『そうだろうな。だからその後、我々を作って奴が目覚めないように見張らせているのだろうから』
「なにをしたからそこまで怒ったのかしら」

 期待するようにアスカはアヌビスを見るが、アヌビスは今度こそ無視した。これは皿を通り越して、料理を乗せる机に当たる部分だからだ。知らないわけではないが、しかし、これは言う必要はないし、誰も知る必要がない。だからアヌビスは何も言わなかった。

 やがて1人と一体は結界の端まで来た。アヌビスはこれ以上先に進むわけには行かない。
 アスカは荷物を受け取ると、彼女を知る者からしたら信じられないくらい丁寧に礼を言った。

「ありがと。本当に世話になったわね」
『君の旅に幸あらんことを』
「あんた達にもね」
『やめてくれ。悪魔の祝福など冗談じゃない』
















 北に進むアスカの背中を、アヌビスはじっと見つめていた。彼の驚異的な視力であっても見えなくなるくらい長い間静かに。
 なんとも珍妙な訪問者だったが、だが退屈極まる生活にわずかばかりの刺激を与えてくれた。

『砂嵐みたいな娘だったな。悪魔という者は、皆ああ言う者なのか』

 それは絶対にない。

 誰に言うでもなく呟くと、アヌビスは踵を返し…返そうとした。
 しかし、体が動かない。ただ、視界が上に滑っていく。
 ドサリと音がし、彼は自分の頭が砂の上に押しつけられたことを悟った。

(な、なんだ!? なぜ体が動かない。なぜ視界が上に滑って!?)

 その時、彼は自分の体の胸から下が綺麗になくなっていることに気がついた。顔を押しつけられたのではなく、下半身が無くなったので体を支えられなくなったのだ。痛みは元から感じない体だが、それにしては音も何も感じなかった。

(しんじられん! 気を抜いていたとは言え、山犬の五感を持つこの私が…!)

 目の前に立つ、十数人の影に気がつかなかったとは!
 影の中心に立ち、どうやらアヌビスに何かをしたらしい小柄な影が、何でもないような口調で何ごとか呟く。

「なんでこんな所にいたのかは知らないけど。僕達に見つかるとは運が悪かったね」

(黒曜石製の私の体を、砕くのではなく、切った…というより消滅させた!?)

 奇妙に柔らかい声質で、ゆっくりした口調だった。男か女かよく分からない。アヌビスはなんとか目だけ動かして確認しようとするが、既に夕方ではなく、太陽も沈んで周囲が闇に包まれていることもあり、その顔は見えなかった。いや、彼は夜の闇でも見通す視力を持っているのだが、だがその顔はまったく確認できなかった。ただ、赤く光る双眸だけを確認することが出来た。

「じゃあ、行こうか。
 老人方も新しい軍団を待ちこがれているはずだからね。早く仕事は片づけないと」

 それだけ言うと、その影は闇にうっすらと浮かぶシルエットとなったピラミッドに向かって歩き始めた。幾つもの影が彼に続く。巨大なもの、小柄な影、手足が複数ある影…。

(皆が危ない! くそ、なんということだ!!)

 そして彼らの姿は消えた。体を両断されたアヌビスを残し。
 全ては闇に閉ざされる。数分後、ピラミッドから轟音と共に炎の舌が立ち上るまで。











 ピラミッドの横原に開いた巨大な大穴から、真っ黒な煙が立ち上る。夜でなく朝だったらさぞや遠くからでも見ることが出来ただろう。
 その穴の奥で、幾つもの異形の影と、リビングスタチュー達が激しい戦いを繰り広げていた。いや、それは戦いと呼べるものではなかった。一方的な虐殺だ。

 巨大な岩巨人が鴫の頭を持ったトトを握りつぶし、体にピッタリとした黒い軍服を着た男が鞭を、カラスのように黒いマントを羽織った青白い顔の老人が杖を振るうたびに、干からびたマミーを吐き出すサーコファガス(棺)が砕け散る。

「いやはや。無謀な戦いを挑む守護者たち。君たちの行為はまったく意味がない。
 でも、愚かだけど美しい行為だよ。
 戦いはいいねぇ」

 異形達の戦いの中を、銀髪の青年が散歩しているような気軽さで歩いていく。その姿は、場所がピラミッド内部であることを差し引いたとしても、些か場違いだと言えた。雨が降っているわけでも、風が吹いているわけでもないが、首から下をすっぽりと覆い被すような黒いマントで全身を包んでいる。その下にあるのは如何なる姿か。今はまだ語る時ではない。
 時折、神をかたどった彫像が、あるいは肉食スカラベの群が襲いかかったりもしたが、それらは一つの例外もなく、彼の背後に影のように控えていた異形の存在に叩き伏せられた。
 人間の顔が幾つも浮かび上がった巨大な人面岩がスカラベの群を呑み込み、エビに似た赤い甲冑を纏った男が、陰険そうに笑いながら左手に持った鉄球で隼頭のホルスを叩きのめすのを横目に、青年は楽しそうに呟く。

「みんな元気だねぇ。仕事熱心な彼らは好意に値するよ」

 誰かが意味を確かめたわけではないのに、青年は言葉を続ける。
 そんな彼を、『ちっとは手伝え』と言わんばかりの目で見る異形の存在達。

「好きってことさ」

 いや、そんなこと言われても全然嬉しくないし。以外に人望がなさそうな青年。
 やがて青年は、幾重も封印が施された大扉の前に立った。その歴史を感じさせる黒々とした石の扉を前に、青年はにっこりと耳まで裂けていそうな口を歪めて笑いを浮かべた。紅い瞳が、玩具を前にした子供のように輝く。

「ここだね。大いなる災い、砂漠の闇の力の申し子。
 闇の王ことラムセス・カース…恐怖のミイラ、呪博士が居る場所は」

 彼が扉の鎖に手を掛けたとき、彼の背後から叫び声がした。

『待て!扉に触るな!』

 声に僅かに遅れて、角を根本からへし折られ、白目をむいたサイ男が空中を水平に飛んでいった。サイ男は一瞬前まで青年が居た空間をぶち抜き、そのまま壁にぶつかり、呻き声も上げずにその場に崩れ落ちた。
 おやおやと興味深そうに青年が振り返ると、片腕を失ったオシリスが、通路の壁にもたれかかっていた。しかし、その目は鋭く青年を射抜いている。放たれた矢のように。

『やめろ、その扉を開けるな! 貴様、世界を滅ぼすつもりか!
 そこに封じられた存在は、決して他者に利用できるような奴ではないぞ!』

 その言葉には、真実の響きがあった。生ぬるい、甘ったれた考えを否定する、自分が何をしているのかと思い直させるのに充分な重さがあった。
 しかし、青年は表情を変えることなく楽しげに返答をした。魔法生物であるオシリスが唖然とするほど楽しそうに。既に彼は、そんな考えとは超越したところに意識がある証拠と言える。

「大げさに考えすぎだよ。見ていると良い。
 僕と彼、どちらが強いかをね」
『待て!』
「いやだね、待たないよ」

 青年はマントの内側から手を伸ばした。綺麗に爪の切り揃えられた、白い白い手が慈しむように、死者の書を写した彫刻を撫でさする。彼が扉の表面を触った瞬間、そこから扉は腐り始めた。

『玄武岩の扉が!?』
「僕の左手が触れる物は、全て腐れ落ちるんだよ」

 扉に開く穴が大きくなるにつれ、大地を揺るがせるような、深く重い唸り声がピラミッド内部に、いや周囲数キロに渡って響きはじめる。その声は青年以外の全ての者の動きを一瞬止めた。オシリスは、自分達が三千年の長きに渡って封じてきた存在が、目覚めようとしていることを悟った。

「ははは、3000年ぶりの解放の時だよ。早く出てくると良い。待ちこがれていたんだろう」

 彼がそう言う間にも、扉は腐り続け、ついには穴が開いてしまう。暗い、闇の奥底に通じるような穴が。それを目をいっそう赤く輝かせながら、青年は見つめた。
 ふと、その時、青年の髪の毛が僅かに揺らいだ。部屋の外にはまったく影響はないようのだが、彼のいる室内の気圧がゆっくりと、だが確実に変化していく。

「脅えているのかい? 子猫のように臆病だね」

 常人なら息が出来ず、その場で倒れてしまうような気圧変化の中、青年はいたって平然とした顔をしていた。それどころか、穴の奥にいるのだろう、闇の王カースに対して挑発の言葉を平然と吐き出す。
 次の瞬間、穴の中から灰色をした物体が、噴水の水が噴き出すように室内にあふれ出した。
 青年は素早く身を捻って直撃を避けると、その物体…灰色をした砂は部屋の中央に集まり、見ている間に人間のような形を形成しはじめた。ただし、隙間だらけですっかり干からび、胸腔で虫が這いずる朽ちてしまった姿でも人間と呼べるのならだ。
 異形の存在は、既に存在しない舌と声帯を震わせながら青年に恐しい叫び声をあげた。

『キサマか! 私を目覚めさせたのは!』
「そうだよ。君にはぜひとも、僕の部下になって欲しいと思ってね」
『ふざけるな! 私は誰の言うこともきかん!私はこの地の王だったのだ!』
「でも今は違うだろう。そもそも君は王を殺しただけで、王になったわけじゃないじゃないか。
 それに復活させたんだ。人の言うことを聞いてくれても良いとは思わないのかい?」
『馬鹿め! 私はそれどころではないのだ!
 復讐をせねば、恨みを晴らさねば、この胸の憤りはおさまらんのだ!』


 砂の密度を薄くして数倍の大きさになると、威嚇するようにカースは口を開けて目玉のない眼窩で青年を睨み付けた。しかし青年は怯みもせず、つまらない手品を見せられた観客のように淡々と言い返す。
 彼がカースを恐れている様子は…微塵もない。

「恩返しをするのは、人として当然のことだと思うけどね」
『ごちゃごちゃとワケのわからんことを!
 貴様から食い殺してやるわ!!』


 直後、目の前で人型から砂の竜巻へと姿を変えたマミーキングに、青年はやりきれないようにため息を吐いた。長い封印で気が立っているのは分かるが、話をすることもなく、いきなり襲いかかってくるとは、全く好意に値しない。そう言うように。
 青年は肩をすくめると、背後で呆然と自分達を見ているオシリスを肩越しに振り返った。

「ままならないものだね、人生というものは」
『人生も何も…後!後!』
「コントかい? コントは良いねぇ。
 人類が生み出した文化の極みだよ。それにしても、予想通りとは言え面倒だね」

 オシリスが思わず警告の声をあげるが青年は芝居がかった動きで、肩をすくめるだけだった。その間に、竜巻は青年の背後に迫る。竜巻の表面に、うっすらと人の顔のような物が浮かび、そして邪悪な笑みを浮かべた。

『我が血肉と…げぶっ!?』







〜 お詫び 〜

ここで青年の謎の一端をかいま見ることが出来る戦いが繰り広げられるのですが、
盛大なネタ晴れを起こす可能性があるため、申し訳ありませんが全てカットします。

ご了承下さい。
なお、
出番を削られた青年が抗議の叫びをあげるかも知れませんが、
徹底的に無視の方向でお願いします。


「ええっ!?
 僕の出番は無しなのか!」



というわけで、戦闘シーンを全面カット。


「ノォ───!
 やり直しを要求する───!!!」











 数分後。

『ごめんなさい、すみません。私が悪かったです。
 申し訳ありません。部下にして下さい…』

 なぜか土下座をして青年に謝る人型をした砂の固まりと、

「もう諦めるのかい。久しぶりの出番なのに、もう退場だなんて…。
 僕の運命は悲しみにつづられている…」

 今回の出番がこれで終わったことに、悲しそうにしている青年の姿があった。あと、腰を抜かして座り込んでいるオシリスの姿も。













 一方その頃、アスカは深い谷の間を東に向かっていた。オシリス達が教えた谷間は程なく見つかり、アスカは疑うことなく谷に沿ってどころか、谷の中を歩いていた。これなら絶対に迷わないと、得意そうに独り言を言っていたが、はてさてどうなる事やら。勘の良い御仁には、いきなりオチが見えたのではないかという気がするし。

(それにしても…さっき一瞬感じた妖気は何だったのかしら)

 言うまでもなく、妖気とは謎の青年とカースの戦いの余波だ。
 確信があったわけではないがアスカは思う。身震いするような、だがどこかで感じたことがある、懐かしい気配だった気がする。

(……あまり関わり合いになりたくないけど、でも、今までのパターンからすると絶対関わり合いになるのよね)

 先のシンジ同様の予感に、アスカは嫌そうに顔をしかめた。彼女の予想は、その後しばらくして現実の物となる。
 ふと、アスカは顔を上げた。遠くで、空気が激しく振動する音…簡単に言うと遠雷が聞こえた気がする。なんで砂漠で雷の音がと、アスカは怪訝な顔をする。一応言っておくが、砂漠にだって雨が降ることはあるし、雷が鳴ることはある。特に雨期と呼ばれる時機には。  しかし、そんなことを知らないアスカは、何ごとだろうと目を凝らして辺りを見回した。瞳孔が猫の瞳のように縦に割れ、同時にカメラのシャッターを絞ったように小さくなる。

(ん〜〜〜、アレは…雲?)

 彼女の背後、つまりは西の方に大きな雨雲が発生していて、激しい稲光を生み出しているのが見えた。雲と地面の間が煙って見えるのは、激しく雨が降っているからだろうか。
 水が、特に濡れることが嫌い…というより、苦手なアスカは犬を目撃した犬嫌いの人間のように顔をしかめて唸る。

「まずぅ。でも、あれだけ離れていれば当面の所問題はないわね」

 近いと言えばかなり近いが、それでも距離にして数キロくらい離れている。雲の進行方向はアスカと同じだが、どちらかと言えば南西方向であるし、それにその気になればアスカは飛べる。心配はいらな…い?
 そう考えていたアスカの意識が、真っ白に染まった。

 ドドドド…

 砂漠の中では、決して聞くことが出来ないと思っていた音が、目の前から聞こえてくる。地面は震動し、空気さえも轟いてアスカの髪の毛を震わせる。それは決して雷の轟きではない。それは大量の水が渦巻き、砕けたときに聞こえる音に似ていた。
 背中の産毛が全部逆立ち、ふつふつと嫌な汗を全身に浮かべながら、アスカは力無く笑う。現実を否定するように。

「まさかね。そんなこと、あるわけが…」

 彼女の予想は滅多に当たらない。当たらないったら。
 でもこう言うときの予測は、嫌になるほど当たる。そんな現実がかなり嫌。

「ここは砂漠…砂漠…水のない砂漠」

 欺瞞…自分を騙している…。
 自分に言い聞かせるように、頭を振って改めて西の方を見たとき、本当に凍り付いたように彼女の体は硬直していた。今まで自分が歩いてきた方から、怒濤の勢いで水が自分の方に迫ってきている。それも尋常な速度ではない。自分の飛行速度を遙かに上回る速度だ。

「こ、ここは谷間とかじゃなくて!?」

 そう、普通の谷とか地割れなどではなく、雨期の時だけ水が流れる河だった。現実の世界でも、毎年突然発生した鉄砲水で溺れる砂漠の人間はたくさんいるのだ。
 慌て、戸惑った彼女は翼を広げる暇もなかった。あっても飛んで逃げる暇もなかった。
 なぜって、津波の速さは彼女の飛行速度より速かったから。

「わぁ〜〜〜〜〜」

 どっかの盗賊三代目みたいな間抜けな声をあげ、アスカの体は波に呑み込まれてしまった。叩きつけられた波で顔を真っ赤にし、そのままくるくると波間を木の葉のようにもみくちゃにされながら、東へ東へと押し流されていくアスカ。
 こうなるともうどうしようもない。
 強い力を持つアスカだが、全身を水に浸されると、その超能力はほとんど発揮できなくなるのだ。溺れるわけではないが、空気から遮断され、炎が燃えることが困難な状況になると、彼女は力を発揮することが出来ない。こうなると今の彼女は、見た目以下の能力しか発揮できない。

「きゃ〜た〜し〜け〜て〜」

 しかし、荒れ狂う河にはアスカを助けてくれそうな親切な生き物はいない。止まることも出来ず、くるくるとバレリーナのように回転しながら川下へと流されていく。
 そしていつのまにやら流れに流れて、どこかの断崖から直下の河に滝と一緒にダイビング。

「きょおおお〜〜〜〜〜!?
 …おぱぁっ!?

 ビチャーン!と聞いてるだけでお腹がムズムズするような音が、滝の音も聾して対岸にまで響いた。聞く者は誰もいないけれど。ただ、驚いたカワウソが慌てながら水に飛び込んだ。
 そして、川面にお腹から激突し、その痛みのあまりの激しさに、彼女の意識はそこで途切れた。
 目を除虫菊のようにグルグル回し、ぐったりとしたアスカはそのまま河口に向かって流されていく。
 怪我の功名と言うべきか。その河こそ、アヌビス達に言われた大河、ナース河。
 しかし、身動きしなくなったアスカはその事実に気付くこともなく…気付いても喜びはしなかっただろうけど…土左衛門のように流されていった。











〜 三日後 〜

 桟橋から足をブラブラとさせながら、トウジは退屈極まりないのか虚ろな目で浮きを見ていた。先ほどから、水面に浮かぶ木製の浮きはピクリともしない。つまり、まったく当たりがない。

「釣れんな…」

 相槌を打ちながら、その隣で釣り竿を持っていたケンスケが呟く。彼もどうしようもない退屈に、息をするのも面倒なのか虚ろな眼差しで、上流から運ばれた肥沃な養分で濁った水面と、赤と黄色という目立つ色に塗られた浮きを見つめるのだった。

「ああ。1時間以上釣り糸垂らして、一匹も釣れないとはな」

 右手で竿を持ち、左手で大きな麦わら帽子をかぶり直す。その動作で日差しが眼鏡に当たらなくなり、目がすっかり隠れて何を考えてるのか分からなくなったことが恐ろしい。腹いせに毒でもまいてやろうか…などと考えていたりして。もっとも、大抵そんなことをしたら、直後怒り狂った巨大なワニか魚に呑み込まれるオチが待っているので、考えるだけだろうけれど。
 対岸から吹いてくる涼しい風が脇をくすぐるけど、全然気が晴れない。

「誰だよ。馬鹿でも釣れるなんて言ったのは」

 ケンスケのさらに隣に座っていたシンジが、いつになく険悪な目でケンスケを睨む。
 当初のケンスケの言葉を信じれば、釣れ釣れうはうはの釣り日和になるはずだったのだが。つまり…自分達は馬鹿以下と言うことなのか。と、ますます気が滅入ることを考えるあたり、さすがはシンジと言うべきか。
 しかし、彼がそう思うことも、ある意味無理はないかも知れない。
 なぜって、釣りが下手な人間の定番の言い訳である『魚がいない』、『ポイントが悪い』、『時間が悪い』という意見は、すぐ横で魚籠から魚が溢れそうなくらい釣り上げた、レイとマユミ、アオイが全身全霊で否定していたからだ。
 魚はいる。それはもうたくさん。
 河が尋常でなく広くて深いため、全体的な平均生息密度は少なくなるだろうけれど。










 少し時間は遡る。
 良い機会だからと、シンジ達は揃ってナース河の下流に足を運んでいた。数日前から計画を立てた、魚釣りを兼ねたピクニックだ。ついでと言うか、こっちがメインだが、色々あって延ばし延ばしになっていたレイの歓迎会も兼ねていた。
 参加するのはレイ、シンジ、マユミ、あとトウジとアオイ兄妹、そしてケンスケだ。

「私、初めてだから、全然釣れないかも知れません」
「私も初めて…?
 昔、魚じゃないのを釣ろうとした気がする…よくわからない。
 でも、命令なら釣るわ」

 そう言って恥ずかしそうに、それでいて初めての体験に興味深そうにして、ピクニック用の動きやすい半袖のブラウスと、生地が薄いスカートを履いた2人は微笑みを浮かべた。マユミは控えめに、レイはシンジとマユミにしかわからないくらい小さく。
 2人の格好は、薄緑と水色の色違いなだけで揃いの服だったから、まるで本当の姉妹みたいで。
 ああもう、可愛いったらない。初めて見る釣り竿を、おっかなビックリ受け取る姿も可愛らしい。
 そんなタイプの違う美女2人が自分のお嫁さんだって言うんだから、これはもう、男なら涙を流して喜ぶ状況だね。

 自然…シンジであっても良いところを見せようと発憤する。
 男とは、言わなくても良いことを言ってしまうものなのだ。
 竹の竿を手に取り、胸を反らしながら人が変わったように強がりを言うシンジ。

「大丈夫だよ。僕は釣り得意だから」

 しかも間の悪いことに、シンジの強がりに突っ込みを入れるスタンスであるはずの関西人も、妹に良いところを見せようと、自分も素人同然のくせに大風呂敷を広げる。

「兄ちゃん、あんじょう頼むで」
「よっしゃ! 鯨釣り上げたる!」

 いや、それはさすがに無理だろう。

「当分、飯のおかずは魚だけだな」

 勿論、第三新東京市の悪夢ことラヴウォリアー・相田ケンスケも猛追だ。彼の目標が、彼を見ていない事実なんてこの際関係ない。いと哀れ…。


 んで、あったり前だが全員大嘘。
 釣りの初心者ではないが、決して得意とは言えないのだ。そもそも、この三人が忍耐が必要な釣りが得意なわけない。まだ銛持って獲った方がましだ。
 この時点で既にオチは見えていたが、舞い上がった三馬鹿トリオは気付かない。雀の千口…言い得て妙ではある。









 太公望にでもなったような三馬鹿とは対照的に、女性陣は凄かった。
 餌の羽虫だけシンジに取り付けてもらい、釣り糸を垂らした初心者3人組は、釣って釣って釣りまくる。初心者というのは、嘘なんじゃないかと人の良いシンジでさえ疑いたくなるほど釣りまくる。この河の魚は全部雄かと疑うくらいは良いかもしれない。
 それはもう、何かに取り憑かれたんじゃないかと思うくらいに。

「あ…きゃあ、跳ねてる跳ねてる!
 取って、取って下さい!」

 跳ねる魚を怖がってるのか、それとも可哀想に思って触れないのか、腕をめいっぱい伸ばして焦るマユミ。

「マユミちゃんさすがなの。…あ、またきたの。
 あうぅ。また特徴のない魚なの。棘とかヒレとかコブがついてないの。つまらないの」
「…れーちゃん、外道釣りたがるのは間違っとる思うんやけど」
「そう? よくわからない」

 マユミの狂態を横目に、淡々と良く肥った銀色の魚を釣り上げるレイとアオイ。
 たちまち溢れ帰る三人の魚籠。ぎっしり詰め込まれて、口から尻尾をのぞかせて痙攣なんかしている有様だ。

 あげくに今彼女達は、昼食のために皿や料理の準備をしている。さすがに、陰々滅々としたシンジ達の横で、魚を釣り続けるなんて鉄の心臓を持ってないととても出来ない相談だ。
 そんな彼女達の気遣いが、また切々と心にしみる。痛くて痛くて仕方ない。涙が出そう。
 横目で魚が一杯の魚籠を見るたびにブルーになる。

(はあ…使えないなぁ。僕って)

 シンジは思う。どうしてこう自分はダメなんだろう、と。
 多少は前向きになったとは思う。以前より成長しているとは思う。けれども、マユミやレイと並んで引けを取らない男に近づいたと言えるのだろうか。その差は、今彼の目の前に広がるナース河と同じかそれ以上に大きく、なおかつシンジが成長するのと同じく、マユミ達だって成長しているのだから。

(本当に…なんで僕なんだろう)

 こんな暗い、すぐに落ち込む人間を、2人は好きだと言って必要としてくれる。優しくしてくれる。その理由が彼には分からない。信じられない。単に好きだから、助けてくれたから…では不安で仕方ないのだろう。
 以前の彼なら考えるはずもなかった感情、独占欲と言うべき感情は、幸せだからこそ彼を落ち込ませる。
 チクリチクリと胸が痛む。

(僕には絶対的に誇れるものは何もない。僕じゃないといけない、僕でないとできない事なんて無い)

 だから、いつかマユミ達は自分を必要としなくなり、自分の元から去る日が来るのではないか。普段は意識しないが、こんな風に自分で自分が嫌になったとき、彼が考えるのはいつもこの事だった。
 自分の元から去った2人が、嬉々としながら他の男の腕に抱かれる。その妄想の光景は更に過激に、後ろ向きに進化していき…。

(何を考えてるんだ僕は!)

 ぎゅっと、竹竿が軋むほどに強く握りしめ、シンジは親の仇でも見るような目をして動かない浮きを睨んだ。

(そんなの、絶対に嫌だ。でも、今の僕じゃ…ダメだ。そんなこと言う資格なんて無い。何もできない卑怯者だから)

 たかがピクニックの釣りでそこまで落ち込めるのは、ある意味他の誰にも真似できない才能かも知れない。当然、そう指摘されたところでシンジは嬉しくないだろうけど。そしてシンジの思考は、いつもと同じ結論へと導かれていく。

(はやく大人になりたい…。2人を幸せに出来るような大人に)

 今の自分が、三十前後の年齢なら、こうも迷うことはなかったんじゃないかとシンジは思う。彼女達より見た目だけでも大人なら、横に並んでも見劣りすることはなかいんじゃないか。少なくとも肉体も精神も今よりずっと成長しているはずだから。

(…馬鹿だな、僕。そうじゃないのに、問題はそんな事じゃないのに)

 ますますアンニュイなため息をはふーんと吐きつつ、シンジは何気なく竿を引いた。
「ううっ!?」

 思わぬ重さにシンジは呻き声を漏らした。竿が折れそうなほどにしなり、竿を握るシンジの腕に力瘤が浮かぶ。驚いたトウジとケンスケが、自分達の竿をおいてシンジのそばに寄った。事あらば、手助けできるように。

「なんや、どうしたシンジ!?」
「大物がかかったのか!?」
「わかんない! いきなり物凄く重くなったんだ!」

 一体何がかかったのだろう。
 この河には、とても巨大な魚がいる。体長2mを越えるナマズやウナギ、ワニのような顎を持った古代魚の一種、大蛇のような怪魚、魚だけでなくワニやイルカ、果てはそのいずれでもない生物もいる。人を食べる生物だって当然いるのだ。
 幾ら人里が近い岸辺と言っても、ふらりとそれら危険生物や大物が針に掛かることがあってもおかしくない。

「とにかく、手伝うで!」
「俺もだ!」

 興奮しながら、シンジの左右から竿に腕をそえるトウジ達。麗しい友情と男気に、端から見てたら感動しそうだが、当のシンジは冷めた表情をしていた。
 正確に言えば、『何言ってんだこの馬鹿』って顔をしていた。

「手伝うって…竹竿に糸を結びつけただけの小さな釣り竿なんだよ。何を手伝うってのさ」
「……ガーゼで汗拭こか?」
「解説するか?」
「いらないよ、どっちも。そもそも、これ魚じゃないよ」

 途端に、つまらなそうにだらけるトウジ達。まあ、彼らもよっぽど暇だったと言うことなのだが。

「全然引っ張らないし、ただ重いだけだよ。水草か何かを引っかけたのかな」
「なんやつまらん」
「どうせ釣るんなら地球か死体でも釣れよな」

 勝手なことを言ってる2人を無視し、糸を切らないように、ゆっくりゆっくり糸をたぐり寄せる。魚は釣れなかったが、話のオチにはなったなと、シンジは奇妙にサッパリした表情を浮かべた。
 料理するため魚を取りに来たマユミ達もなぜか隣に座り、最後の獲物が何かを、色んな意味で興味深そうに見守る。

 そして…。

「うっ?」
「あれって…え、うそ?」

 何かは浮かび上がる。

「え、えええっ!?」
「なんやそれ───!!!」
「シンジ、冗談を本気にするなよぉ!!」

 水面に広がる、赤みがかった金髪。とどのつまり、うつぶせで浮かぶピクリとも動かない人間一体。どっから見ても溺死体。
 パニックに陥り、口々に意味不明の言葉を叫ぶシンジ達をよそに、ただ1人冷静なレイはぽつりと漏らした。

「…凄い大物ね」

 その言葉を合図に、緊張は崩れ去る。

「うわぁぁぁ!? なんだよそれ、なんだよ! おかしいよ!」
「仏さんや、土左衛門や──! ひぃぃ供養するから成仏してくれぇ!!」
「嫌や───! ウチこんなオチは嫌や───!!」
「俺はなにも見てない。なにも見てないぞぉ!
 シンジ、ここはなにも見なかったことにして糸を切ることを勧める!」

 さりげに外道なことを言うケンスケに、一瞬固まるシンジ達。無理もあるまい。しかし、ある意味最も人間らしい言葉ではある。

「そ、それはいくらなんでも酷いと思うんだけど」
「じゃあお前はアレを引き上げて、余計な騒動を背負い込むというのか!!
 もし調査官が好色な奴で、姉さんや綾波に目を付けて無理難題を言い出したらどうする!?
 あるいは、男色家でお前に目を付けたら!!」

 喩えが極端すぎ。と突っ込むべき奴は今はまだこの場にいない。
 ともあれ、パニックに陥いっていたシンジは、容易にその光景を想像してしまう。特に男色家だったらという情景を。





「止めて…止めてよ。僕、男だよ…」
「ふぅん、きこえんなぁ!」





 後の穴、大ピンチ!
 …何を想像した何を。

「い、いやだよ! そんなの!」
「そうだろう、ならここはなにも見なかったことにするのが最善だ!
 悪魔になれシンジ!!」

 そんなケンスケ達をよそに、溺死体は頭を上げた。不機嫌そうな眼が、無表情で知りあいに手を振るレイを、びっくりしているマユミを睨み付ける。遅れて伸ばされた手が桟橋の桁をつかみ、それを手がかり足がかりに溺死体は桟橋の上にはい上がろうとする。…言うまでもなく、その正体は水も滴るいい女…を通り越して濡れ鼠の惣流アスカである。

 レイが乗り移ったような無表情のまま、アスカはいまもワケの分からないことを言い合うシンジ達の横にスックと立つと、


「いい加減にしろ貴様ら!!!!」



 と、空気が震えるような大声で怒鳴りつけるのだった。



「うわぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
「生き返った───!!!」
「ゾンビ───! ゾンビぃ────!!!」
「違うわよ!あんな腐れた魔物と一緒にするんじゃないわ!
 聞きなさいよ人の話を!」
「逃げ───!! 脳味噌食われるで───!!」
「僕、馬鹿だから美味しくないよ!
 始終変なこと考えてるケンスケの方が美味しいって、絶対!」
「さりげなくケンカ売ってるのかシンジはっ!!」
「脳味噌なんか食べるわけないでしょ!!!
 だから人の話聞けって言ってるじゃない!!」
「妹だけは堪忍や────!!」


 もっと凄い有様になったシンジ達を横目に、珍しくレイは疲れたようにため息をついた。
 来るんではないかと、考えてはいたがまさかここまで早いとは思っていなかった。そして、ここまで騒動を巻き起こしながら姿を現すとは…まったく予想を裏切ってくれる。
 ある意味、彼女らしい登場の仕方ではあったが。一生忘れられない出会いであることは間違いあるまい。

「彼女…人間じゃ…ないですよね? 一体、何がどうなってるの?」

 さすがに一目でアスカが人間ではないことを見破り、だからこそ混乱しているマユミを同情する。彼女みたいな性格でアスカとつき合うことが、とてつもない苦労であることを知っていたからだ。
 ぽんぽんと、いたわるように戸惑うマユミの肩を叩きながら、レイは囁くように言った。

「平穏な日…。今日がそう呼ばれた最後の日になったの」
「え? あの、それどういう意味です…?」
「ガッツなの」
「あの〜凄く気になるんですけど」



 このあとあったことはとても文章にできそうにない。
 ただ言えることは一つ。いや、二つか。
 ピクニックは終わった。
 そして、新しい住人が第三新東京市に、碇家に住み着くことになった。
 喧噪をまき散らす、灼熱の炎が、争乱の嵐が。


 そして話は次回に続く。
 たとえ混乱しきっていたとしても、それが世界の選択だから。
 良かれ悪しかれ。







第3部

『蒼い月夜に踊る悪魔』












初出2002/06/03 更新2004/11/23

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