物語の2日前。
 始まりを告げるにしては、空は恐ろしいほどに暗い。しかし、海の奥底のように神秘的な、ダークブルーの美しさで世界が包まれている時間だ。ある意味、彼らに相応しい時間と言えよう。
 早起きの鶏たちもまだ眠りについており、夜番の民兵達もどこかぼんやりと任務に当たっている。そんな、眠りの神の一柱『バオーン』が支配する時間に、こそこそと人目を気にするように移動する、数人の人影があった。平均より背が高いのが一つ、平均と同じ身長が一つ、平均より小柄な影が一つ。見事に三つ揃っている。だが彼らは盗賊…ではない。そう見られたとしても、文句の言いようのない行動と姿ではあるが。
 そろって服の上から黒いマントを纏い、しかもフードまで被って目以外の部分を完全に覆い隠していたのだから。蛇のように執念深く、猫のように猜疑心の強い警備兵につかまったら、言い訳の甲斐なく牢屋に直行だろう。そして、彼らの抗議が聞き入られる可能性は限りなく低い…。それぐらい、彼らの格好は怪しかった。

 三人の人影は、本職の盗賊と見まがうばかりの密やかさで通りを抜け、せこせこと広場を横切り、町を囲む城壁の隙間…その裏門の近くまで来た。夜が明けるまでは表門は開かないが、裏門は夜明け前…午前4時くらいから開く。となると、気の早い旅人は裏門に集うのは至極当然の成り行きだ。一番早い砂馬車の時刻だから。
 薄暗い松明の明かりの中に砂馬車の存在を建物の影から確認すると、三人は注意深く周囲を ─── 頭上さえも ─── 見渡し、誰もいないことを確認する。その目は竜を目前にした戦士のように真剣で、些かの油断も見られない。

「いるか…?」
「尾けられてる気配はないよ」
「ならええが。いずれにしろ、油断は禁物や」

 もそもそと飼い葉代わりのサボテンを貪る砂牛を見ながら、三人はようやくそこで息をついた。しかし、ため息をつきつつも、微塵も油断はしていない。もし尾けられていたとしたら、このタイミングで、頭の上から声がかけられるはずだから…しかし、誰も声を掛ける様子はない。

「こないな…」
「こないね」
「大丈夫そうやな」

 誰もいない。
 自分達以外で動く者と言えば、遠く、松明の光を付けなければいけない程度の暗さの中、馬車の御者達が異様に広い蹄を持つ八本足の砂牛 ─── 現実には牛よりトカゲに近い甲皮動物 ─── に馬具を付け、馬車に連結している。それぐらいのものだった。
 そこにようやく安心したのか、三人は堂々と近寄る。御者達は当然気付き、松明の光と視線を向けた。そして驚きの声を漏らす。

「なんだ、鈴原さん家のトウジじゃないか。それに相田さんのまに…げふげふ…の一人息子のケンスケ、そして……碇さんの息子さん。
 こんな時間にいったい何のようだい?」

 意外と言えば意外だが、さすがに広い街とは言え、冒険の旅を成功させた彼らはそこそこ顔を知られているらしい。
 ちょっと照れながらも、三人は大きな音をたてるなと言うように手を振りながら、御者を制する。

「いや、そんなに驚かなくても」
「せやせや。別にワシら、人目を忍んで、馬車に乗って旧都まで行きたいわけやないで。
 や、行きたいのはホンマやけど。決して魔女3人+1から隠れてるとかそう言うワケや…」
「トウジ、いらない事言うなよな。それにみんなのこと魔女とか言うなよ。怒るよ、僕。だいたい、一人は君の妹じゃないか。
 …あ、おじさん気にしないで下さい」

 いらん事言いそうになるトウジの口を塞ぎ、シンジは同情を買うようにちょっと肩をすくめた。のんびりした顔立ちのせいで、あまり、成功してるとは言い難いが。

「馬車に乗りたいってのはわかった。けど、しかしなんでまたこんな時間に」

 本気で彼は驚いた。
 別に人…つまりは客が来ることには驚かないが、シンジ達が来ることは驚きだった。もちろん、彼らが馬車をあまり利用しないと言うこともあるが、別にこんな朝早くでなくとも馬車はあるのだ。この時間の馬車を使うのは、よほど急ぎの用があるか、あるいは人目を避けたいときぐらい。
 つまり、理由有りの客…。

(ああ、そうか)

 そこまで考えて彼は納得した。彼の家はシンジの家から遠いところにあるが、噂は充分すぎるほど伝わってくる。
 いずれも良い噂でないことは言うまでもない。

「そうかそうか。保たなくなったか。まったく、その年で打ち止めになるとは情けない。
 だからといって逃げ出すのはおじさん感心しないな。
 ん、それとも息抜きかい?」

 勝手に勘違いして納得し、浅黒いひげ面に満面の笑みを浮かべてうんうんうなずくシュッテンマイヤーさん(46)既婚。人の良い顔の裏で、おかんと言うよりおばんになろうかとしている自分の妻と、シンジの嫁さんとを比べて若いって良いなぁと思ってること確実である。

「保たないって…そうじゃなくて」
「わかってるわかってる。何も言うな。確かに、若いと言っても一度に三人はきついよな。まあ、俺も体験したことはないけど、きついってのは本当らしいし」

 思いっきり誤解されてるのはシンジにだってわかったが、何を言っても聞かず、勝手に自己完結するのがこの年代の親父の特徴である。父親が居なくても、シンジにはその事は分かっていた。だから言うだけ無駄と悟った彼は何も言わなかった。
 部分的には間違いではなかったのだし。
 息抜きというのは正しい。ただ、彼が想像している類の息抜きではなかったけれど。

 いまだ何か夢想して彼なりの人生哲学を語るおっさんを無視し、シンジ達を額をつき合わせてうんざりした顔をする。

「どうしよう。マイヤーさん絶対噂にしちゃうよ。恥ずかしい…。
 それより僕達がどこに行ったか、マユミさん達にばれちゃうよ」
「どのみちもう数時間もしたら絶対ばれるで。マユミの姉さん、朝の6時には起きるんやろ。なんちゅうか、姉さん普段はとろいのにシンジ絡みのことは異様に鋭いからのぉ」
「むぅ、もうばれてるかもな。あの鋭さは…」
「うん…」
「いずれにしろ、朝には書き置きを見つけて大騒ぎだ。
 でも準備も必要だし、惣流と綾波がいるからそうすぐには行動をおこせんはずだ」

 ぼそぼそと虫の羽音のような小声で、第三者にはまったく意味不明の会話をする三人。
 しかしながら、口調、内容、三人の旅支度から判断してシンジ達はどこかに出かける、それもマユミ達には内緒でと言うことはわかった。

「しかし、それも大目に見て1日、2日ぐらいしか余裕はないはずだ。すぐに後を追って来るぞ」
「来るかなぁ…。1週間くらいで帰るって書いてるんだよ。それでも追ってくると思う?」
「センセ、ワシらは遺跡探検…冒険に行くんやで。それがどういうことかわかっとるんか?」

 そう、彼らが赴かんとする場所とは北の海 ─── 地球の地中海に当たる場所 ─── にある小島だ。そこにあるという古代文明の遺跡の探索に赴くのだ。当たり前だが、危険で、命の保証など微塵もない。
 先の冒険で、充分に財産を成したはずの彼らだ。今更、家族の反対を押し切って、それがダメならと隠れて冒険の旅に出る必要はない…はずだ。
 シンジはマユミ達から、トウジは妹から反対されている。ケンスケは放任主義の父親の所為か、特に誰にも反対されてはいない。ケンスケはともかく、なぜ彼らは危険に身をさらすのか。
 冒険、その甘美で危険な臭いに満ちた火薬のような行動に、三人はすっかり虜になっていた。紙一重で怪物の牙を、爪を避けるスリル。すれ違い様、抜き打つ刃の光と手応え…。そして苦難の果てに手にする、宝という甘露の味。
 もちろん、前回マユミが居なかったら死んでいたことは忘れたわけではない。しかし、それでも一度覚えた宝物を手に入れた瞬間の感動、開放感、達成感が忘れられない。骨の髄まで、油のように染み込んでいる。危険な美酒は、完全に彼らを虜にしていた。
 三人は麻薬よりも危険な冒険の中毒だ。この渇きを癒すには、死ぬかイヤになるまで冒険を繰り返すしかないだろう。

「トウジの言いたいことはわかるよ。でも、僕達が行くのはもう何度も冒険者が中に入って色々調べ尽くしたと言われる所だろ?
 確かに遠くだし、外国の遺跡だけど、もうそんな危険はないんじゃないかな」

 シンジは少々疑問に思った。確かに面と向かって『行く』と言ったら反対されようが、それでも既に出かけてしまった自分の後を追いかけたりするだろうか? それも調査されつくし、ゴブリン一匹居ないと言われる遺跡に行くだけのことに。確かに、冒険は冒険だが、リハビリを兼ねて極めて簡単な冒険を旅行がてらしよう…そういう計画なのだが。少々壮大なお使いみたいなものだ。

(世間知らずのマユミさんや綾波ならともかく、アスカなら僕達が行こうとしてるところが、どんなに子供だましなところか知ってると思うんだけど…)

 遠回しにマユミが僕のことを信頼してないって言うのかな、と疑問を投げかけているところがシンジらしい。もちろん、認識の甘いシンジの言葉に、三人の魔女達により、シンジ以上に苦労をしているトウジ達は激しく反応した。シンジだけならともかく、とばっちりは彼らにも来ることは確実なので必死だ。なにしろ、彼女達は平気で死なない程度の攻撃をしてくる。

「来るに決まってる。俺達は古代遺跡にお宝探しに行くんだぞ。たしかに簡単なクエストだ。
 だが、どんな危険があるかわからない。下手したら死ぬかも知れない。
 …絶対追ってくるに決まっている!! 惣流まで居るんだ、確実に追ってくる!」

 あのトラブルメーカーが居るんだ!!

 彼らの鼻息が荒いのには理由がある。アスカと出会ってから、負傷して空を飛ぶ率が格段に跳ね上がっているからだ。

「せや。なんちゅーかセンセは頼りのう見えるからなぁ。マユミの姉さんも綾波も惣流も心配するに決まっとる」

 もちろん、シンジ以外の2人は冒険が問題ではなく、マユミ達をほったらかしにして出かけることこそが問題なことはわかっている。かといって、アスカ達と一緒に冒険などしようものなら、まったく苦労することなく、知恵を絞って罠や障害を乗り越えるところを力業で切り抜けられて、面白くも何ともないことは間違いない。そんなことで冒険を成功させても、成長に結びつかないことは、ゾンビの脳味噌で考えたって分かることだ。
 一方、頼りないと言われたシンジは憮然とした顔をしながらトウジ達を睨む。

「そんなに僕頼りない? 一応、目録は貰ったんだよ」
「んなこと言うなら、ワシはサシでオーガーに勝てるようになったで。今は重戦士やで」
「俺も色々スキルを身につけて、そこそこ名の知れた探検家…の卵になったと思うぞ」

 言うだけ言うと、2人はじっとシンジを見つめた。まだ文句があるか?
 そんな目で。
 もちろん、気の弱いシンジに言い返せるはずがない。コクコクと張り子の虎のように頷き返す。

「わ、わかったよ。僕はまだ未熟だよ。
 …あ、馬車が」

 シンジの間抜け声に釣られて見てみれば、出立の準備が終わった砂牛16頭立ての、バス並の大きさがある馬車が動き出そうとしていた。意外に薄情、マイヤーさん(46)。

「うお、いつの間に!」
「わああああ、ちょっと待ってくれー! 俺達も乗るからー!」











 シンジ達の叫び声が聞こえなくなり、数十分後。  青く透き通る空の中心を駆け抜け、焼け付くような白い朝日が、街を、そこに生きる人間達を照らす。その光は朝日だというのに厳しく、容赦がない。少し緯度が高くなったところでは、優しく母のように生命をはぐくむ光だというのに、この世界の光は厳しすぎた。
 まるで、試してでもいるかのように。
 あるいは頑張れと我が子を励ます母親のように。
 それとも、罪人を鞭打つように。

 そのいずれが正解かどうかはわからないが、正解だとしても親の心子知らず。の諺通り、結局人間達は知ることはない。
 だから、常々生きることに疲れた人々は自らに問う。

 なぜ、なんのために。
 どうして私達は生きているのだろう、と。
 苦痛としか思えないような環境で。外敵に怯え、仲間である人間に怯え。死を恐れ、生きることに疲れて。生きることに何の意味がある?
 なんのために?
 人が生きる意味は? 存在する意味は?
 世界は何故あるのか。

 もちろん、答えはない。ありはしない。もっともらしい、言い訳は幾つもあるけれど。
 曰く、理想のため、世界のため、愛する人のため、信仰のため、後世のため、歴史に名を残すため、神になるため、己のため、エトセトラエトセトラ。詭弁ともこじつけとも人は言う。生まれ落ちたときから死に向かって生き続けることにかわりはない。
 結局、意味なんて無いんだろう。



 本当の答えは分からない。
 神にだって分からないだろう。いや、悪意に満ちた神なら…。



 ただ、一つ。
 誰が言ったか知らないけれど、万人が押し黙るもっともらしい言葉があった。

「で?」

 その言葉を聞くと、喩えどんなに長い演説をぶっている人間でも、言葉を失わずにはいられない。これほど短く、かつ雄弁な言葉があるだろうか。
 続けて、ごちゃごちゃつまらないことを気にしてないで、今日の食い扶持をしっかり稼げと言われれば誰だってそんな疑問は消えて無くなる。

 明日でなく、今日を生きるため、また足掻く。それが人間だ。
















 と、いささか哲学的な命題をぶちあげといてなんだが、お話は唐突に、ちゃらんぽらんと始まるのだった。










Monster! Monster!

第21話『シティコネクション』

かいた人:しあえが








 シンジ達が街を出て2日後、第三新東京市。
 閑静な住宅が建ち並ぶ……とは言っても先の大騒動の所為で、どこか雑然とした雰囲気の残る貴族街。いまだ街には傷跡が残り、住居のあてが出来てない人間達が、広場や公園でキャンプ生活を送っている。一部、景観が壊れると彼らを追い出そうとした貴族のグループもあったが、明日は我が身。なぜか彼らの家は崩壊し、今は知りあいの家に身を寄せているとか。結局、困ってる人を見捨てられないお人好しが多く、その厚意に甘え続けるのを潔しとしない人間達の集まりだから、いずれは元の状態に戻るだろう。
 それはともかく、喧噪からほど遠い、奥まった一角にある屋敷にて。
 目に見えない結界を張られた豪奢な屋敷の中。その一室、いわゆるリビングに当たる部屋にその女性はいた。

 暑そうに眉根に皺を寄せながら、一人の、少女から女へと変わる年齢の女性が、ぐでぇっと擬音が聞こえそうな格好でだらけていた。なんか暑さで熔けてタレたみたいに、全身を弛緩させ、少しサイズの大きいタンクトップのシャツと短パンをはいただけの姿で、はしたなくも寝ッ転がっていた。なかなか刺激的な格好なのだが、当の少女の様子が様子だけに見る影もない。
 形の良い、すらりと長い足はうっすらと汗を浮かべて机の上に乗せられ、無防備な衣服に包まれた上半身を、東方の高級綿が詰められたビーンバックチェアーに沈めている。長く伸びた金の髪の毛も、心なしか茹ですぎたうどんの麺みたいになっていた。両手も汗を浮かべて死人みたいにぐったりしてる。ソファーの革が張り付いて、見ているだけで気持ちが悪くなりそうだ。なんとなくだが、彼女の様子は丸頭のビーグル犬を飼ってる少年がくつろいでる姿に、そこはかとなく似ていた。

「あっついわね〜」

 彼女の言葉を聞くまでもなく、全身に汗がほんのりと浮き上がっているから、本当に暑いことが見て取れる。少し歩いて、隣の隣の部屋に行けば、常に気温と湿度が快適に保たれているのだが。だが暑い暑いと言うだけで彼女はタオルで汗を拭くとか、水風呂にはいるとか、泳ぎに行くとか、どうにか涼を取る手段に訴える様子はない。彼女の顔にはこう書いてあった。

『なんで暑いのよ。誰か何とかしなさいよ』

 とどのつまり、自分でどうにかしようとする気全くなし。
 ブチブチを文句を言いながら、彼女は脇に置いてあるグラスに手を伸ばすが、十数分前まで氷を入れられ、そこはかとなく冷えていたレモネードはすっかり温くなっていた。人肌よりほんのり暖かい。不機嫌に唸りながらも一口飲むが、やっぱりやたらと甘く温くなってるだけで美味しくない。甘過ぎ、喉に絡む。まずい。うぇ。
 炭酸もぬけ、喉に引っ掛かるような液体の感触に、少女は眉をひそめ、吐きそうな顔をした。かえって不快指数が増大していく。

「あ〜もう、むかつくわねぇ。こんな飲めない物をつくるなんて何考えてるのかしら?」

 忌々しげにクッションに頭をあずけながら少女は言う。
 どうも暑さに対する苛立ちが、暑さからレムネードをつくった相手に向かってるらしい。ちょっと嬉しそうだ。そんなに敵を作りたかったのか。
 それはまあ、確かに季節や気温が相手では、苛立ちをぶつけると言ってもどうにもうまく行かないだろう。だが相手が明確な形を持っているなら別だ。論理的思考は得意だが、抽象的な物事を考えることが苦手らしい。

「マユミッ!」

 彼女…アスカは獲物(遊び相手)を見つけた犬みたいに耳を立てて尻尾を振りながら、レモネードをつくった相手の名前を叫んだ。余談だが、彼女の脳の中ではマユミではなく、生け贄、おもちゃと文字変換されている。

「……は、は〜い」

 しばらくして、隣か、もう一つ隣の部屋から少し間延びした声が聞こえ、遅れてぱたぱたとスリッパの音をさせながら一人の少女が顔を見せた。
 アスカと同じく長い髪だが、癖が無く真っ直ぐに伸びた髪の色は見ていると吸い込まれそうになるくらいの黒だ。特徴的な髪の色の多いこの世界において、何とも特徴のない色ではある。
 代わりに彼女は『私は気が弱い文芸少女です』と全身で主張していたため、ある意味非常に特徴的とも、テンプレートで形を書いたような少女だとも言えた。しかもなんかお約束みたいに、濃い青色のエプロンドレスとフリルの前掛けをつけ、頭にはフリルカチューシャ───要するにメイド服を着ていたし。

「あ、あのどうかしましたか?」

 『アスカさん』と続けようとしたが、どうにも語尾が尻すぼみになってしまった。これが戦いならこの時点で勝負はついただろう。何というかパーフェクトである。
 パーフェクト以外に言い表せない、予想を上回るマユミの仕草に、アスカは心の中で舌なめずりをした。きっと最高の獲物の存在に狂喜乱舞しているに違いない。どうにもいじめっ子な性格である。
 もっともマユミも標準装備である眼鏡からもいじめて光線を出しまくりだから、気持ちは分からないでもないが。いや、やっぱわかりたくない。
 とにかく、『獲物がいたぜ』とどっかの12人組の魔物みたいな事を考えながら、アスカは外面イライラ内心ニコニコと声を荒げた。

「どうかしたじゃないわよ!」

 言いながらレモネードがおいてある机を掌でばしっと叩く。
 思いの外音が大きく、エプロンの裾を掴んでモジモジしていたマユミの体がビクッと硬直した。数瞬後、しっかりしなきゃ、しっかりしなきゃと心の奥で呟きながら、おずおずと身を縮め、メガネの奥から上目遣いでアスカを見るマユミ。

「あ、あの……、なにがどうかしたんですか?」

 わけがわからないながらも、どうにもアスカには逆らえないマユミは、おどおどといじめて光線を当社比400%増しで放出する。その仕草と表情に、アスカは身悶えしそうに心の中で小躍りする。感情の高ぶりを隠しきれず、尻尾の先を犬みたいにパタパタ振りまくり。

(うあああ、あんた最高よ! 最高のオモチャよ、マユミ!!)

 かろうじて表情を厳しく凍らせたまま、アスカはマユミを睨み付けた。コップを右手に持つと、ずいっとマユミの目前に突き付ける。

「温いわ。温いのよ」
「え?」
「レモネードが温いのよ!」

 それはまあ、つくったのは30分も前ですから。

 まさかそんな事で怒鳴られているとは思ってもいなかったので、マユミは呆れながらもやっぱり逆らえない。もじもじと前掛けの裾を揉みながら、言いかけた言葉を呑み込んで、じっと上目遣いにアスカを見つめた。

「あ…。でもずっと放置しておけば、気温が気温ですし温くなるのも仕方ないのでは…」
「そう言う正論を聞きたい訳じゃないの。まったく、あんたちゃんと考えてるの?」
「な、なにをですか?」

 ふっとアスカは鼻で笑う。
 最初の顔合わせ以来、どうにも敵意剥き出しになるシンジとかだったら『それなら自分でやればいいじゃないか』と一言正論を言い返すので、口喧嘩になる。しかし、マユミはそう言うことすら言わない。徹底的に受け身なことしか言わないのだ。嫌われることがイヤなのか、とにかく逆らわない性格だった。それは相手がシンジでなくても変わらない。
 尤も、そう言うタイプは徹底的に追いつめると、凄い反撃をしたりするから程々が大事だ。そう思いながらも、それはそれで物足りなくも思うアスカだったりする。一度、生死を賭けた戦いをしてみたいと思うこともある。
 それはともかく。
 アスカはフッと鼻で笑ったあと、肩をすくめてマユミの態度を嘲った。

「あんたはこの家の人間でしょ!」
「は、はい…」
「私は!?」

 アスカの言葉に、マユミはきょとんとした顔をする。アスカが何を言いたいのかわからない。なんとなく、よその家にあずけられた猫の自己主張かなとは思ったけど、賢明に口には出さなかった。

「え…アスカさんはアスカさんです」
「そうじゃなくて!
 私はこの家の、碇家における何かって聞いてるのよ!?」

 物わかりの悪いマユミのちょっとイライラする。そんな説明で何が分かるのかという気もするが、アスカにはそれこそが気に入らない。
 天上天下アスカ様。
 人、それをわがまま、自己中心的とか言う。
 許容範囲内のわがままなら、とってもとっても可愛い。時々限界越えるけど。

 話がそれたが、マユミは眼鏡の奥の目をパチパチさせながら、恐る恐る返事をした。間違っていたらどうしようと、手に汗を浮かべながら。

「この家の、私達の家族の一人です」
「え…?」
「どうしたんですか?」

 驚いた顔をして黙り込んだアスカに、マユミはビクビクしながらも怪訝な目を向ける。
 怒鳴られる、殴られるのではとアスカの行動にじっと意識を向けながら。
 アスカはアスカで、マユミの言葉に思考が停止していた。

(マユミ…って)

 予想した答えとは違っていた。違っていたけど……、なんだかとっても嬉しい。嗜虐的な感情が無くなり、替わって胸の奥が、眠る子猫を見ているみたいにじんわりと暖かくなるのを感じる。今まで我を張って生きてきて、レイしか友達…か?
 ともかく、本当に気心の知れる友達と言える相手が居なかった。上手く言えないけれど、親友になれる人が目の前にいるのかも知れない。そう思えてなんだか嬉しい。色々、親にも相談できないことを話し合える相手が見つかったのかもしれない。
 でも顔が、涙腺が緩みそうになるのを堪え、意地っ張りなアスカは首を振った。素直になれば、友達になれるのにと後悔しながら。

「違うわ!(うううっ、私のバカバカ)」
「えっ?」

 あぐらをかいて椅子に座り直すと、アスカはマユミの目を睨み付けた。勢い鋭くなったアスカの眼差しに、あっと言う間もなくマユミは目を逸らす。本に気の弱い娘ッ子じゃて。

「私の狙いは確かにシンジよ。だけど、あんた達みたいに結婚したいとか言う訳じゃないわ。
 私が大悪魔になるために、どうしてもシンジの凸凹が必要だからここにいるのよ!
 つまり、私はあなた達の仲間じゃ、家族じゃないって事よ!
 地獄には家が、帰るところがあるんだからね(なんで私ってこうなのよ〜?)」
「でも、ユイさんの手紙には、アスカさんのことを新しい家族だって。そのこと、アスカさんも否定しなかったじゃないですか」

 反論されたことでムッとしつつ、くだらないことを覚えてるな〜、と言う顔でアスカはマユミの顔を睨んだ。先ほどのことも忘れて、マユミのくせに生意気だって顔をする。
 いつの間にかアスカの荷物に紛れ込んでいたユイの手紙には、アスカが隠そうと必死になって結局見透かされてることが事細かに書かれていた。甘えんぼなところとか、マザコンなところとか、威張ってるけどレイしか友達が居ないこととか、異様に敏感なこととあろうことか弱点まで。

 いくらなんでも照れくさいからって、ユイの言葉を否定できるわけないでしょっ。
 後が怖い。痺れるほど。


「あの時は遂うっかりそう言ったのよ。
 まあ、要するに私が何を言いたいかと言うと、私は悪魔で、この家のお客なの!」
「はあ(洒落? つまんない)」
「まだわかんない? 鈍い子ね(その顔は知ってるわ。さりげなく失礼なこと考えてる顔ね。)」

 鈍いと言われてさすがのマユミもムッとするが、事実なのでこの場は黙っている。と言うより、今はアスカに言いたいことを全部言わせてしまえとか考えていた。

「だからお客が不機嫌にならないように気をつかえって言ってるのよ!
 アンダスタン!?」
「は、はあ」
「じゃ、そう言うわけで冷えたレモネードをつぎ直してね♪」
「は、はい」

 結局、それだけを言いたいが為に自分を呼びつけたんですね。

 と、マユミは言いたかったがやっぱり言えなかった。
 なんか怒鳴られそうで、それがとにかく怖くて。天敵という言葉があるが、仲良くしたいというアスカの思いとは裏腹に、性格的な点から見て、マユミにとっての天敵はまさにアスカだろう。真実はアスカどころじゃない、天敵と呼べる存在はいるのだけれど。そして、生涯の宿敵と言うべき存在も。だが、今はそれを語るべき時ではない。

 ため息をつきつつ、マユミはグラスを手に取った。言いたいことを言い終わって、おへその辺りを掻いて漫画を読んでるアスカに、『そんな蛙の干物みたいな格好で寝てるとはしたないですよ』とか言おうと思ったが、言っても聞きはしないのでやめた。誰か彼女に意見を言える人が、ただ言うだけでなく従わせられる人がいるのだろうか。逆に、完璧な私は肥るなんて事無いのよ! と油の切れた車みたいに喚くだろう。
 事実、アスカが家に住み着いて1ヶ月。暴飲暴食にも関わらず、そのプロポーションが崩れる気配は微塵も見られない。どうしてこう自堕落な生活をしているのに、あんなにスタイル良いんだろうと、世の中の理不尽を呪うマユミであった。

 えてして世の中そう言うもんだ。

 実際の所はマユミ達の目のないところで努力してるんだが。
 ユイさんがいきなり帰ってきてくれないかな〜と、他力本願でちっとばかり陰険なことをマユミが考えながら、台所に引き返そうとしたその時。


「エレドータスボルト!」


 素っ気ない、だが怒りに燃えた声が室内に響き、一筋の紫電がアスカめがけて空を走った。紫電は空を走る間に、固まり捻れ、亀に酷似した形へ変化する。

「ほへっ?」

 逆立つ産毛に気付き、アスカが振り返った時はもう遅かった。
 甲長60cmくらいの雷の亀が、ピンセットのように尖った口を開けてアスカの鼻の頭に食らいつき、刹那。


シビビビビビビビビビビッ!



「ひぎゃあああああっっ!!!!」



 碇家の窓ガラスが、閃光と爆音と共に、内側からの衝撃で砕け散った。

 轟音と閃光の中、高電圧と高熱に全身を黒こげにしながら、アスカはどこか牧歌的に悲鳴をあげつづける。もちろん、骨まで透けてレントゲン写真のようになることは忘れない。髪の毛はくるくるとカールし、頭のてっぺんからは一筋の煙が立ち上る。ギャグじゃなかったら、アスカが悪魔じゃなかったら確実に死んでいる。
 死なんかったけど、結構ダメージが大きいのか全身を痙攣させ、スリッパで潰れない程度に叩かれたゴキブリのようにひくひく蠢く。放電のショックで倒れることも出来ず、アスカはフラフラと夢遊病者のように体を震わせる。

「ひゃうううっ」

 そして髪の毛が焦げた嫌な臭いと煙を立ち上らせながら、アスカは前のめりに焦げた床の上に倒れ込んだ。
 受け身も取らず、顔面から…。
 その時聞こえた鈍い音に、マユミは思わず身を竦ませる。

「……死んだ?」

 そんなアスカを見下ろすように、喩えるなら涼風のような少女が静かに側に歩み寄る。そして少女は、まだ小さい放電を全身に纏わせながら、汚物でも見るようにアスカを見下ろす。氷のような、極北の吹雪のように冷たい瞳。触れる物は全てが凍り付きそうな瞳だ。
 と、その冷徹な表情がフニャッと音をたてて崩れた。
 アスカからマユミに顔を向ける、わずか1秒にも満たない間に劇的な変化を遂げる。
 そして、数メートルの距離を一気に駆け抜け、まるでマユミを守るようにその細腰に抱きつき、甘えた声を上げる…青い髪の少女、綾波レイ。甘えたと言っても、『お姉さまぁ』とかではなく、『お姉ちゃ〜ん』って感じなので注意。

「大丈夫?もう安心なの。悪い悪魔はやっつけたから」
「あ、綾波さん。いくらなんでもそんないきなり雷撃なんて…」

 助けて貰って(?)ありがたいが、どうせ後始末するのは自分なので、結局困りながらマユミはゴロゴロと猫みたいに甘える少女、レイに目を向けた。抱きついたレイの方が背が高いため、どうにも姿勢が悪くて落ち着かないが、どうにかきつい目をすることが出来たようだ。
 結局困るのは私なんですよ、と思いつつもキラキラした瞳を向けるレイに強くは出られない。最近、本当の妹のように思えて可愛くて仕方ない。でも怒るときは怒らないといけない。マユミの決意と戸惑いも知らず、レイは言葉を続ける。

「大丈夫、手加減はしたもの。マユミちゃんとお揃いの雷撃魔法だもの。だからばっちりなの」
「そう言うことを言ってるんじゃなくて」
「それにお仕置きするのは雷撃って決まってるもの。それが世界のお約束なの」

 なんかギリギリなことを言うレイに冷や汗を流しつつ、はふーとため息をつきながらマユミはアスカに目を向ける。生きてはいるようだが、このあとどうなるか、まるで実際に目で見たようにリアルに想像できて、マユミは半泣きになった。本当に胃がキリキリと…。
 涙を堪えるマユミとは対照的に、レイは夏のヒマワリみたいに嬉しそうにマユミの胸の間に頭をあずけて、目を細めながら頬を擦りつけた。中腰にならないといけないため、ヤッパリ落ち着かないようだがこの感触には代え難い。エプロンと上着越しとはいえ、柔らかいマユミの胸の谷間に沈むようにレイの頭が挟み込まれる。暖かくて感触が気持ちよくて、この甘え方はレイのお気に入りなのである。できれば替わって貰いたい光景だ。

「お礼は今日の晩ご飯にアイスクリームを作ってほしいの。できれば東方名産の果物、ミカンをつかってほしいの。ジャージのお父さんのお土産のミカン。美味しそうなの。でも皮は苦かったの。皮は美味しくないの」

 そりゃ、食べる部分じゃないから。
 すっかりとアスカのことを忘れているレイだったが、マユミはぐったりしていたアスカの四肢に力が甦ったことに気がついた。やはり、雷撃魔法の一撃くらいでは死ななかったか。
 時間が止まってくれたら…。だがマユミは限定的に時間の流れを遅くする魔法しか知らない。つまり、止まらない。

「うう、しくしく。またお掃除やり直しだわ」
「掃除じゃなくて今日の晩ご飯は?」

 そう言ってる間に、アスカの背中から蝙蝠に酷似した羽が飛び出るように生えてきた。蝙蝠と違うのは爪が一つではなく、3本生えていることか。そして、まるで青銅のように薄青い光沢を帯びていることだろう。
 やる気満々なその姿に、マユミは涙を堪えるように右手で目頭をおおう。

「それから一緒にねんねしてほしいの。マユミちゃんと一緒にねんねなの。碇君がいないのは寂しいけど、マユミちゃんを独占できてそれはそれで嬉しいの。でも一番は碇君を挟んで三人一緒。
 それはとてもとても嬉しいことなの」

 ほとんど炭になっていたが、かろうじて残っていたアスカのシャツと短パンが一瞬で燃え尽き、一瞬裸体が浮かび上がるも、代わりに彼女の体を革でできた服? つーか下着つーか、まあ水着同然の服がアスカの体を包んだ。そしてにょろっと蛇のように逆又の尾がアスカのお尻から伸びる。

「どうしたの、マユミちゃん?」

 どうしたのじゃないですよ。
 泣きながらそう言おうとしたマユミだったが諦めた。もう手遅れ。

 投げやりに向けた視線の先では1人の悪魔が、ガチガチと長く伸びた爪をならしながらレイを睨み付けていた。

(あ〜アスカさん、殺る気充分…。なんだか私も一緒に睨んでる?)

 脅えながらも、冷静に観察する自分がちょっと嫌。
 翼に続き、アスカはオリックスのように真っ直ぐ伸びた角まで生やし、仁王立ちでレイとマユミに射抜くような視線をぶつける。たおやかだった指先からは剃刀のような爪が伸び、足の筋が引きつってパッと見、人間の足と言うより山羊か馬などの蹄を持った、逆関節の生き物の足みたいに見える。
 目が白目部分まで真っ青に輝き、口元が耳までさけ、上顎の犬歯が長く伸び、ぞわぞわと髪の毛が生物のように波打った。


「レイ〜〜〜〜」


 地獄の底から響くような声を放ち、アスカは自分の雷撃をぶち当てた少女に、物質的な質量すら持った憎悪をぶつけた。一瞬、レイとマユミ達の周囲を包む球形の結界が浮かび上がり、直後彼女達の周囲にあった花瓶や調度類が倒れ、ひび割れ、砕け散る。先の雷撃で生き残っていた陶器類はこれで完全に全滅した。過度の瘴気と殺気、敵意は物理的な破壊力さえ持つ。弱い人間なら、その場にいただけで心臓停止は免れない。とても淫魔とは思えない邪気だ。実際の所、第6階梯位の実力があるのではないかとマユミは思う。

 アスカの長く伸びた犬歯から滴った唾液が、床に汚いシミをつくる。

「うぉらぁ、レイ! こっち向きなさいよ!」

 常人なら気死するような憎悪の中、レイは不機嫌そうにアスカに向き直った。心の底から煩わしそうに。

「もう起きたの?」
『もう起きたの?』…じゃない! あんた私を殺すつもりだったわね!!」
「手加減はしたわ」
「そういう問題じゃなーい!」

 しゃー!と蛇みたいな呼吸音をあげて威嚇しながら、アスカは長く爪の伸びた指先をレイに向けた。

「炎の子ら、我が手に集え!」

 魔力が指先に集中し、たちまちの内に深紅の炎の塊が生まれる。ただの火炎系の魔法ではない。マユミの魔法、レイの精霊魔法とも違う系統に属する暗黒魔法。アスカはその中でも特に炎の扱いに秀でている。
 その力は、ハイハイをしていた赤子の頃から、岩をも溶かすと呼ばれたほどだ!
 事実、今アスカの指先に灯る炎は、見た目こそまだ小さいが、その気になれば人を欠片も残さず焼き尽くす。炎に、熱に弱いレイなど滴も残らず蒸発してしまう!
 だが、レイはレイでそれを無表情に見ていた。ふっと口元が、シンジかユイでもないとわからない程度につり上がる。

「馬鹿の一つ覚え」

 やおら瞳をいっそう赤く輝かせてマユミから体を離すと、中腰になって身構えてぶつぶつと何かを呟き始めた。彼女の呟きに呼応するように、アスカの周囲以外の空間の温度が急激に下がり、夏の砂漠では見ることが出来ないはずの…霜が降り始める。屋内なのに。
 自分の黒髪を白く彩る霜を払うことなく、トドメを刺されていく調度類に、後の始末を想像してマユミは本気で泣いた。
 彼女をよそに、アスカとレイの戦いはさらに次の局面へと移る。

「昔っから私はあんたのことが気に入らなかったわ。いつかケリをつける日が来るって思ってたけど、まさかこんなに早いとはね」
「そう、良かったわね。
 私はあなたの事なんて、気にしたこともなかったわ。必要なかったもの」
「くっ…!!」

 言葉の端々で取るに足らない相手だと言われ、プライドの高いアスカは怒りにこめかみをひくつかせた。プライドの高いアスカに、今のレイの言葉は禁句に等しい。

(レイのくせにレイのくせにレイのくせにぃっ!!!!!)

 炎の球を掴むと、野球選手のように足を爪先まで伸ばして頭より高く蹴り上げ、右手を大きく後に振りかぶる。

「死ね人形娘ッ!!」


「私は人形じゃない」

 レイもレイでシンジとユイ以外には見分けのつかない怒りの表情を浮かべると、右手をアスカに向けた。手の平には魔力で光る虹色の文字が浮かび上がり、それを中心に小さな小さな銀の粒が渦を巻き始める。

 涙を滝のように流しつつ、マユミの顔がやな感じの土気色になり、笑ってるみたいに引きつった。
 余人にはわからないが、魔法の知識に深いマユミには2人が投じようとしている魔法の正体が分かる。とりあえず、後始末とかそんなレベルを超越した魔法と言うことはよ〜くわかった。
 どっちも1ブロックが消滅するのに充分な破壊力。

 鉄をも蒸発させる高熱の火球を生み出す、暗黒魔法『フレイムバースト オブ アーストロン』

 そして万物を凍てつかせ、なおかつ粉々にうち砕く『極北の星(ポーラースター)の召還』

 この家だけでなく、周囲壊滅間違いなし。
 止めたい。何がなんでも止めたい。だが、何か一言でも発すれば、それが戦い開始の合図となる。故にマユミは一歩も動けず、声も出せない。西部劇のにらみ合いのような緊張した空間。
 まるで時間が止まったように三人の動きが固まり、静かに時間だけが過ぎていく。1分、2分、3分…。もちろん、いつかはこの均衡は崩れる。




 そしてその時は来た。かろうじて壁に掛かっていた、柱時計が遂に床に落ちた。

 アスカが叫ぶ。

「死ねぇっ!」

 レイが鼻の先で笑う。

「それはあなたの方」



 2人の手から放たれた青い珠と赤い珠は、唸りをあげて空を裂き、お互いを討ち滅ぼそうとその破壊の力を解き放った。赤と青、二種類の光が交互に瞬き、室内を眩く染める。なぜかマユミの脳裏に『ピカァ〜』とかいう、どっかの電気ネズミみたいな可愛らしい声が聞こえたような聞こえなかったような。


 とにかく。
 会心の一撃に、2人を互いに勝利を確信した笑みを浮かべた。相手の実力は熟知しているが、結界も張らずにこれを受ければ死は免れない。この戦いは魔力の高い方が、一方的に勝つ!
 そしてアスカ達は、自分の方が強いと信じて疑わない。

 だが、

「もらった……あれ?」
「くすっ……え?」


 三人の見守る先…2つの球は丁度2人の真ん中の空間で激突し、奇怪な紫色の流動する球へと姿を変じていた。まるで油を閉じこめた球のように、ぐるぐると紫色をした光が流動し続ける。さすがのマユミも、それが何を意味しているのかわからない。どこかで聞いたことがあるようなないような。

「マユミ、なによアレ!?」
「わ、わかりませ〜ん」
「…綺麗」

 三人が見守る中、どういうわけか爆発も爆縮も起こさずに、たき火に水をかけた時のような音をたてながら、一つになった魔法の珠は消滅した。結界を張り、身をすくめながら呆気にとられた顔をするマユミ達。

 これは非常に珍しいがまったく起こり得ない現象ではない。少し前の話でも、ユイとキョウコの戦いで同じ事が起こったのを、読者諸氏は覚えているだろうか。まったく正反対の特徴を持った魔法がぶつかり合ったとき、その魔力量が極めて等しい場合、周囲に何の影響をもたらさずに消滅してしまうことがある。あたかも酸とアルカリが互いに中和し合うが如く。
 もちろん、滅多に起こり得ることではない。

「よくわかんないけど…!」

 事の経緯はよく分からないが、どっちの技も無効になったことを悟ったアスカは素早く飛び下がると、真っ白になった机の上に飛び乗った。ピンヒールと言うほど尖ってないが、それでもブーツの踵の先端が机に傷を付け、マユミの顔色を悪くさせる。勿体ないとか言う考えでなく、それをネタにユイになんて言われるだろうと憂鬱になる。よくわからないけどわからないなりに、ユイが自分をなんか粘つく視線で見ることに、背筋を寒くすることが間々あるマユミだった。

 マユミの葛藤はひとまず置いといて話をアスカに戻す。アスカは数段高くなった位置からレイを見下ろし、闇を切り裂く稲光のような視線を向けた。

「先手必勝!
 レッドキラーブーメラン!!」


 アスカが名前を呼んだレッドキラーとは、地獄でも名の知れた悪魔竜のことである。普通の竜とは異なり、その両手の先に指はなく、かわりに三日月形をした刃がついている。その恐るべき刃に切れない物はない…とも言われる力を秘めた魔竜だ。
 アスカは胸元で両腕を交差させ、何事か呟き始める。と彼女の手の中に目視できるほど濃く空気が集まり始めた。

「シャッ!」

 アスカがかけ声と共に組んでいた腕を振った瞬間、レイの背後の壁がX型に切り裂かれ、自重を支えきれず崩れ落ちた。反射的にしゃがみ込んだマユミにしがみついていたから、レイは一緒になってかわすことができたが、そうでなかったら…。少し身の凍る思いにレイは体を震わせる。崩れ落ちた壁の隙間から見える、驚いた顔をしている町内の皆様の顔が全てを物語っている。
 岩をも両断する非常に強力な鎌鼬により、切られたことにも気付かず、痛みを感じないまま内蔵をぶちまけて緩慢とした死を迎えたことだろう。

「ちっ、かわしたか」

 理論上、音速を超えているはずの技をかわされ、アスカは舌打ちをする。もちろん、その場合はマユミも巻き添えだが都合良く無視。
 余談だけど、今の彼女の目にはマユミは映っていない。
 ただ敵を映すのみ。

 そしてそれはレイもまた…。

「今度はこっちの番。イカルスマジックミサイル!

 マユミにしがみついたまま(盾にしたまま)、レイは真っ直ぐに伸ばした右手の指先をアスカに向ける。一言レイが何かを呟くと、たちまちの内に指先に光り輝く矢が10本以上生まれ、アスカに向かってはなたれた。

キュキュキュッ!!

 空気を切り裂く甲高い音が室内に響き、魔力の固まりである魔法の矢は、現実の矢にはあり得ない不可解な軌跡を描きながら、その全てがアスカめがけて飛来する。決して外れることのない魔法の矢だ。
 しかもマユミがレイに教えた遺失魔法だ。通常の魔法の矢と異なり、その威力は竜の骨で作ったコンポジットボウ並の威力がある。つまり、人間の胸板程度容易く打ち抜く。それは見た目が人間同然のアスカとて例外ではない。このままアスカは針鼠のようになってしまうのだろうか?

「はっ! 甘いわね!」

 そうはならなかった。
 アスカが背筋を伸ばし、踵を打ち合わせて音を鳴らすと、背中の蝙蝠羽が大きく、まるで絨毯のように広がった。蝙蝠羽はマントのように全身に巻きつく。そこに無数の矢が飛来する!

パキパキパキパキパキィン!!

 ガラスが砕けるような音をたて、魔法の矢はことごとくが砕け散った。
 必殺の一撃となるはずの矢と言えど、鋼鉄の固さと皮革の柔軟さをもつアスカの翼には通用しない。そう、身を守るときは万能の盾となり、攻撃時には全てを切り裂く刃と化す悪魔の翼をアスカは持っている。たとえ淫魔としては落ちこぼれだったとしても、アスカは戦いに関してまで落ちこぼれていたわけではない。

「なっ!? そんな羽があるなんて、汚いわ」
「ぃやかましい! あんただって周囲を低温化する特殊能力使ってるでしょうがっ!
 私が自前の羽を使って何が悪いのよ!
 ともかく、その程度じゃ私の羽に傷一つつけられないわよ!」

 全ての矢をはじき飛ばした後、アスカはその全身をあらわにする。指を立てつつちょっと得意そう。なにしろ、レイに驚いた顔をさせることが出来たのだ。得意になるなと言っても、それは無理という者だろう。必勝を期すため…と言うと聞こえが良いが、魂の力を得てから使えるようになったレイも知らなかった特殊能力だから、知らないのも当然と言えば当然だが。
 アスカの微妙に歪んだ瞳…。つり上がった口元…。

(…ムカッ。なの)

 それがレイを刺激した。冷静で無感情無感動と言われる彼女だが、その本質はめんどくさがりなだけ。表情変えるのも面倒とは、何とも筋金入りである。とは言うもの、レイも人並みに怒るときはきちんと怒る。ひくひくっとこめかみ辺りがひくつき、ほっぺたを膨らませて、レイはむにゃむにゃと呟きつつ新たな精霊を召還し始める。アスカも、暗黒の力を解放し、それを媒介に破壊の力を作り出す。





 先に行動に移ったのは、今度はレイだった。

「集いて来たれ我が僕。光の魔法陣が描きし召還門、天堂の光に導かれて…」

 レイの背後の床に、光で描かれた複雑な魔法陣が浮かび上がる。レイは視線をアスカに固定したまま、高く掲げていた右手を振り下ろした。

「出よ、赤き王の下僕!」

 その瞬間、魔法陣の中心から、真っ白な毛で覆われたがっしりとした巨人が姿を現した。安定していないのか、わずかに背後の光景が透けて凍り付いた表情のマユミが見える。その巨人、正しくは雪巨人は眠たそうの顔のままレイの前に進み出ると、丸太のような腕を振り上げた。はれぼったいたらこ唇から『う〜』と眠たそうな声が漏れる。

「ギガスの鉄槌なの!」

 一瞬の間をおき、巨人の拳が地面に叩きつけられた!
 瞬間、雪巨人ギガスは仕事を終えたからか姿を消すが、とんでもない置き土産をその場に残していった。彼が拳を叩きつけたところから、地面を割って巨大な氷柱が幾本も幾本も飛び出し、轟音を轟かせながらアスカに襲いかかったのだ。
 地面から突き出た白銀の牙がアスカに迫る。
 本来なら空を飛べる彼女にはなんて事のない攻撃だが、今居る場所は屋内。飛んで避けることはできない。
 絶体絶命の状況下に関わらず、アスカは不敵に笑うと人差し指を標注に突き付けた。

「なんの!!
 火神アグニ! 生け贄の松明で燃えさかる炎をここに顕現させよ!
 ボイリングメタル!!

 串刺し寸前、アスカの手から鉄をも沸き立たせる超高熱の熱球が現れた。アスカの言葉通り、鉄をも沸き立たせる熱球は、氷柱を瞬時に溶かし、それだけですませず水蒸気爆発を起こさせながら消滅した。
 爆風で髪を乱しながらも、アスカはニヤリと笑う。こんどはこっちの番だ。

「暗黒空間に封ぜられた不死竜サラマンドラ!
 大地の蛇神『キョウコ・ツェッペリン』の娘、アスカラングレーが請い願う!
 不死の炎の鎧を遣わせたまえ!」

 直後、激しく大地が揺れた。
 地震…?
 マユミとレイが怪訝に思う間もなく、突然地面が唸り、巨大な地割れがリビングを引き裂いた。

「なに!? アスカ…以前より技が増えてる」
「あったり前よ!
 男子でなくとも、女子も三日顔を合わせなければ大きく変わってるわ!
 今の私をかつての私と思わない事ね!
 デモンズ・フレイム・アーマー!」
「り、リビングが…」

 アスカが身構えた瞬間、地面から翼のない竜の姿をした炎が噴き出した。箒のように角が生えた、恐竜に似た体型の炎の竜は、空で身悶えするように身を捩ると、一端粉々になった後アスカの全身にまとわりつく!
 ほとんど裸同然だったアスカの体を、赤いゴムのような質感を持った衣装が、素肌に張り付くようにして包み込む。

「ダブル・バニシングフィスト!」

 両手を中腰にし、アスカは腰を落として構えた。両の拳が燃え上がり、全身を炎で包み込んだアスカは、弾丸のような勢いでレイに飛びかかる。
 誰が見ても、炎の破壊力+肉体による物理的な破壊力の前には、華奢なレイの体が耐えられるとは思えない。レイも重々その事は承知しているはずなのだが、彼女の顔には余裕の笑みが浮かんでいた。

 素早く両手を動かし、魔力の残像で空中に召還陣を描く!
 そして空気を鳴らしながら、二度三度と形を変えて複雑な印を結ぶとレイは叫んだ。

「大怪球グローバー! その力を解き放て!」

 その声を合図に一瞬の閃光の直後、レイの眼前に球体に目玉と、煙突のような角を6本生やした金属の不可思議な物体があらわれた。見た目は粗大ゴミのようにしか見えないが、この状況下で呼び出された以上、それはただの金属の固まりのはずがない。その事を証明するように、グローバーと呼ばれた金属の精霊は、ふよふよとクラゲのように空中を漂っていたが、やおら目を見開くと目前に迫る炎に包まれたアスカを睨み付けた。
 グローバーの瞳が、不気味に光る。

「なっ!?」

 アスカが驚愕の声を漏らすが無理もない。その物体、大怪球グローバーが目を見開いただけで、地上に姿を現した地獄の釜の火が消え去ってしまったのだから。呆然としながら火が消えた両手を、そして役目を果たして消え去るグローバーを見送るアスカ。
 彼女の呆然とした表情に、今度はレイの顔に得意げな笑みが浮かぶ。

「無駄な攻撃を繰り返すと良いわ。何度でも跳ね返し、そして逆にあなたを叩き伏せてあげる」
「くっ、いい気になるんじゃないわよ! 他力本願の精霊使いが!」
「聞き捨てならない。訂正して。下賤な悪魔風情が何を言ってるの」

 とは言うものの、実際の所、レイもアスカもマユミも、形は違っても結局ファンタズマルフォースと呼ばれる超自然的な力を利用していることには変わりない。利用している物がマナ、精霊、暗黒力(ダークフォース、シャドーフォース)、神霊力(ホーリー)と呼ばれていても、元々は同じだ。

 ともあれレイの言葉に、アスカの顔が深紅に染まった。下賤な悪魔風情…アスカの逆鱗に触れる言葉だったようだ。ぎり、ぎりっと奥歯を音がするほど噛み鳴らして、レイを殺さんばかりに目をして睨み付ける。今までも、凄まじい視線をしていたが、今の彼女の視線は、スポーツで激高したとか、一時的に血が上ったときのような激情に駆られていない。底冷えするような殺気を纏っていた。

「私ならともかく、ママを、パパを侮辱する気!?
 絶対許さない!」
「許さなきゃどうするつもりなの?」

 すぅっと息を吸い、一拍おくとアスカは声を張り上げた。心の底から怒りに震えて。
 実の娘でない彼女を、実の娘同然に愛し慈しんでくれた父。実の娘とは言え、悪魔へと身を転じるきっかけとなった仇敵とも言える相手との間に生まれた自分を、やはり心の底から愛してくれた母親。その2人を貶す者は、たとえユイであろうとアスカは許さない。許すわけにはいかない。

「その顔を二度と見なくていいように、あんたの妹もまとめて焼き殺す!」

 アスカの怒りに、さすがに言いすぎたかと思ったレイだったが、彼女の言葉に考えを改めた。アスカが両親の侮辱に耐えられないのと同様、レイもまた唯一の肉親であるリナを傷つけようとする者は決して許さない。
 文字通り、氷のように固まった顔で、淡々と血も凍る恐ろしい言葉を漏らした。

「あなたにはできないわ。私が塵も残さず消滅させるもの」



ガッ!




 同時に2人は飛び出し、再び2人の力が激突した。

「フレッシュ・オクスタン!(炎の槍)」
「出よ氷竜スノーゴン! 氷の息吹で敵の腕を防げ!」
『ゴォォアアアアアッッ!』

「ぬぁああああ────ッ!」
「ふっ」





 ぶつかり合う魔力は稲妻のように荒れ狂い、2人の飛ばす火球が、吹雪が、召還された使い魔達が破壊の嵐を吹き散らす。人間なら消し炭も残らないような魔力を、2人は強力な障壁で防ぎ、弾き、幻影に隠れてかわす。

 2人の常軌を逸した戦いは全くの互角。

 だがだからこそ、どちらの攻撃もお互いに決定的なダメージを与えられない。
 レイの額に汗が流れ、アスカの口元から余裕の笑みが消える。



(くっ、人形娘のくせにやるじゃない!)


(甘えんぼのくせに…ここまで戦えるなんて)



 悪口では合ったがお互いを認め、ふっと軽く笑った。今、2人は実の親子や、兄弟よりも、深い絆で結ばれていた。ヒロインとは、熱い拳で語り合うものなのかも知れない。勘弁して欲しいが。
 …考えてみれば2人は長いつき合いだ。
 まだ小さい、2人が4歳くらいの時、初めて顔を合わせた。

「誰…?」
「あんたこちょ」



 その後も、ちょくちょく2人は交流を続けた。マブダチでいることを誓った2人。永遠の友情と思っていた。あの日、あんな事さえ…ユイがおやつのドーナツを奇数個渡すと言うことさえしなければ!

 言葉にはしなかったが、2人の意志が交錯し、混じり合った。


次の一撃で決着を付けよう。



 胸元で構えられたアスカの両手の間に、白く光輝く火球が生まれ、レイの頭上に掲げられた両手の間に氷でできた毬のような物が浮かび上がる。残る力の全てをそそぎ込まれた、それは正に彼女達の最大最強の技。

「最大の敬意を表して、地獄に送ってやるわ、レイ!
 心配しないで、そんなに悪い所じゃないわよ!

 最大奥義の一つ! サクシュウムストリーム!」

「地獄に帰るのはあなたよ!
 フローズンボール オブ ゴアゴンゴン!!」




ばしゅー

 2人の極大の力が激突する、まさにその時。
 風船から空気が抜けるような音をたてて、アスカの持っていた火球が、レイの頭上に集中していた冷気がかき消えた。同時に、空間に出来た隙間に周囲に空気が雪崩れ込んで、風を起こして室内の空気を激しく動かす。
 髪の毛を乱されることにも構わず、レイとアスカは驚いた顔をして周囲を見渡した。
 永久化された魔法のアイテムをも元に戻しかねない、非常に強力な魔法解除の術がかけられたのだ。
 だが、2人の魔力をかき消せると言うことは、少なくとも2人に匹敵するだけの力を持つ者が居ると言うこと。

 一体誰が!?

 とアスカとレイは顔を見合わせるが、見合わせるまでもなく答えは分かった。
 ゴゴゴゴッとか、ズッギャ──ンとか、擬音が本当に聞こえそうな威圧感を纏わせたマユミが、レイの背後にいたから。服の端々とかが焦げて、髪の一部に氷がくっついてる所なんか洒落になってない感じだ。顔が何故か影になって、赤く光る目だけ見える。
 何と言うか『うあっ』と声に出るくらい、今の状況はヤバイ。
 戦いの流れ弾で屋根もクソもなくなっていたから、逃げようと翼を広げたアスカだったが、いつの間にか両足は蜘蛛の糸のような物でしっかりと固定されていた。マユミがウェブ(蜘蛛の網)の魔法を使ったのだろう。

 しかし、一体いつの間に!?

 魔法を唱えた気配も何も感じなかったのに。なによりアスカ達に魔力の行使を禁じているのに、自分は魔法を使うことができるとは…。普段の実力3倍増しになるくらい怒り狂っているだけとも言う。
 レイはどうなってるだろうと目を向けるが…腰を抜かして座り込んでいた。顔は真っ青。逃げ場無し。

「あうあうあうあう」
「な、なによマユミ。なんか文句でもあるの?」

 あうあう言って腰を抜かしてるレイと違い、マユミのくせにとアスカはまだ強がる余裕があったが…。

 ばきっ

「おごっ」

 フライパンで頭を殴りつけられて無言になった。
 つーか足が動かないんで前衛的な踊りを踊っているみたいに、頭を抱えて上半身を振りまくっていた。もちろん、にゅおおおおおっ! とか、ふんぬぅううっ! などと美女があげるにしては聞き苦しい悲鳴をあげていたが、五月蠅いとばかりにマユミの追い打ちが二度、三度。

バキ 「げっ!」
メキ 「ごがっ!」
グチョ 「あがっ!」

 で、フライパンが謎の液体を滴らせる鉄塊にかわり、アスカが静かになったのを確認した後、マユミは笑いのない、ガラス玉のような目をしてレイの顔をのぞき込んだ。ヒィィと悲鳴にならない声を漏らして、レイは身を竦ませる。

「なに考えてるんです?」
「ち、違うの。マユミちゃん、これには理由があるの」

 すげー説得力のないセリフ。
 言っててレイもそう思ったが、それでも言わずにはいられなかった。無駄に違いなくても、横で暖かい液体を耳から出して、遂にピクリとも動かなくなったアスカを見れば、誰だって必死になる。

 だが、いや当然…マユミは聞く耳持っていなかった。
 微妙に笑みを浮かべ、レイの口元を指で撫でさすりながら、地獄の底から聞こえてくるような軋り声で、無情なことを告げる。

「後片づけ…」
「はい?」
「きちんとして下さいね。2人ともきちんと」

 や。めんどくさい。

 条件反射でそう言おうとしたレイ。だが、かろうじてその言葉を呑み込んだ。今マユミに逆らったら命が危険だ。
 今のマユミは笑っているが、目がつり上がっている。垂れ目のはずなのに、アーモンドみたいに目がつり上がっている。あと一押しで本性を晒し出すかも知れない。
 つまり、もんのすごく怒っているという事。年齢のことを言われたミサトよりナオコより怒っていること明白だ。今のレイは、アスカとの死闘の直後で弱っている。彼我戦力差は竹槍と戦車くらいだろうか。それでなくともマユミはレイにとっての天敵だというのに。

「後かたづけ? 私が?」
「そうです。アスカさんと」
「なんでアスカと…すぐ掃除するの」

 またまた条件反射で嫌な顔をしそうになったが、寸前にレイの背筋が凍った。
 マユミの瞳の色が、自分と同じく赤くなっている。つまり、本性を本当に現しだしているということ。
 このままうだうだ言ってたら、どんなお仕置きをされるか分からない。最悪、シンジのために大事に守っていた初めてを、マユミに奪われるかも。正しくはマユミの使い魔にだけど。それはそれで絵としてはいいかも知れないけど、やっぱりマズイ。本末転倒。

「わ、わかったの。すぐするの。だから怒らないで欲しいの」
「うふふふ」

 これなら恫喝されたりした方がまだましだ。
 漫画みたいな涙を流しながらレイは思った。
 どうせ明日になったら忘れるのだけど、それは言わぬが花。




 アスカを起こそうと、なぜか頭に蹴りを叩き込んで完全にとどめを刺したレイを見ながら、マユミは胃に痛みが走るのを感じていた。ズクズクと鈍痛が胃を中心に全身を駆けめぐる。ついでに脂っこい物を食べた時みたいに、吐き気まで感じる。ぬるま湯を飲んだら、吐き戻してしまいそうだ。

(はぅぅぅ。どーして私がこんな苦労を)

 まさかアンデッドである自分が、神経性の胃炎になるとは思ってもいなかった。もっとも、手の掛かりすぎる子供みたいなアスカとレイが同居人として加わったのだから、マユミみたいな性格では、当然と言えば当然の帰結と言えよう。

(うううっ、もう嫌。ユイお義母様はなにか用事ができたのかまだ帰ってこないし、シンジさんはシンジさんで…)

 呻きながら愛しいけど、少し頼りないシンジのことを考える。


 ここで冒頭部分に話が続くわけだが、アスカ、レイ、マユミの板挟みに耐えられなくなったのか、書き置き残してトウジ達と一緒に冒険の旅に出てしまったシンジ。

 毎晩、毎晩…いつも未遂で終わるアスカの夜這いと、それに伴う大騒動。
 シンジでなくとも、逃げ出したいと思うこと間違いなし。
 美人三人と同居して、何を贅沢なというかも知れないけれど、三人が互いに牽制しあってる所為で、じつはアスカが来襲して以来、シンジは何もできなくなって一人寝床を暖める日々。



 アスカの夜這いとその後、そしてアスカとレイの喧嘩につき合いきれない気持ちは分からなくもないが、逃げただけとも言う。と言うか逃げた以外に表現しようが無い。
 仮にも結婚した奥さんと、二人目の奥さん、そして愛人志願(?)の女性を放って逃げるとはなんとも情けない。結魂のとき、絶対守ると言った言葉が何とも白々しく思えてならないマユミだった。




(シンジさん、シンジさん、シンジさん…寂しい。私を一人にしないで…)

 妻の仕事は家を守ること。とか古めかしい事を考えて落ち着こうとするマユミだったが、ふつふつとわき上がる怒りと寂しさは止められない。結構ストレスも、フラストレーションも溜まっているようだ。
 鬱屈とした表情で膝を抱えてぶつぶつぶつぶつ。

「シンジさんは北の海に冒険とか言って楽しいバカンス。誘ってくれても、良いのに…。
 恥ずかしいけど、シンジさんが望むなら、水着だって大胆なのを…」

 って何を考えてますか。
 一応、シンジ達を弁護すると遊びに行ったわけじゃなく、本当に冒険に行ってるのだ。決してマユミがしてる最悪の予想、浮気をしに行ってるわけじゃない。

「まさか、冒険とか言って真実は北の金髪碧眼の女性相手に、う、う、浮気するつもりなのでは」

 言った直後頭をぷるぷる振って自分の言葉を否定する。掃除の手を休めて自分を見ているレイ達の視線にも気付かず、彼女の想像、もとい妄想はエスカレートしていく。

「まさか。でも、シンジさん格好良いから、ううん。信じるのよ、マユミ。
 シンジさんは私を助けるため、結魂することを即断したような人じゃない。私のこと裏切ったりしないわ。
 でも、シンジさんもお、男だし。もしかしたら鈴原君とか相田君がたぶらかすかも…でも」






「素直じゃないわね、あの子。シンジの後を追いたいなら追えばいいのに。私達や家のこととか考えずに」

 完全に掃除の手を休めて、レイとアスカは奇妙な無表情な顔をしてマユミを見ていた。妄想するマユミに、呆れるアスカの横で彼女の言葉に頷きながらも、レイは冷たい目をしていた。曰く、あなたが素直じゃないとか言うな、と。

「あなたにだけは言われたくないと思う。
 それはそうと、準備しましょう。たぶん、マユミちゃんも我慢の限界だと思うから」
「普段大人しいのが切れると大変だしね」
「そう、良かったわね」
「なにが!?」

 君たちがちょっとは彼女の手伝いをすればすむ問題なんだけどね。
 もちろん、そう言った事実は36個ある巨大な心の棚の一番奥。ちなみにユイは72個の心の棚を持っている。ナオコは108個。









 30分後。

「戸締まり良し、火の元の確認良し、防衛魔法機械の設置良し。これだけ準備すればいいかしら」

 門の所から我が家を見ながら、いつものメイド服ではない黒い飾りのないワンピースを着たマユミは、誰に言うでもなく呟いた。
 彼女の横で、外に行くからと普段の露出度が高い服ではなく、長袖の白い上着を着、厚手の布のズボンをはいたアスカが呆れたような目をして、マユミの横顔を睨む。珍しく、アスカの言葉を肯定するように、舞踏会の時にでも着るような水色のドレスを着たレイがコクコクと数回頷く。

「あんた侵入者をハンバーグにする気?」
「やりすぎだと思うの」

 見た目は何も変わってないが、きっと物凄い仕掛けを用意してるのだろう。
 つつーとマユミのこめかみを汗が流れるが、彼女をそれを無視してアスカ達の方に半分睨むように細めた目を向ける。

「だったらアスカさん達がしてくれても良いじゃないですか!」
「「いや(よ)、めんどくさい」」

 てなやり取りの直後。
 碇家の敷地内から天に昇る3本の光があった。その光は真っ直ぐ天に向かって伸びると、そのまま北の空へと消えていった。
 光を見ていた街の住人達は、何ごとかと驚き、騒ぎながらも、原因が碇家にあるらしいと分かると、また何ごともない顔をして元の日常に戻っていった。慣れすぎである。









続く






初出2002/06/23 更新2004/12/26

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