じゅごぉぉ─────!!

 熱したフライパンに冷水をかけた時の音を1000倍大げさにしたような、あるいは赤熱する溶岩が海に流れ落ちたときのような、そんな洒落にならない音がアスカ達に迫る。空気が震え、気圧が激しく変化したことでアスカ達の耳に回避不能な高鳴りが起こる。
 ただの耳鳴りではない、魔法の溶岩の熱によって発生したそれは、実際に魔法で空気を振動、膨張させたのと同じようにアスカ達に苦痛を与えた。

「くっ」
「逃げないと…あいたたた」

 頭と耳を押さえてよろよろと2人は後退する。
 もちろん、迫るのは音だけでなく、音の源である溶岩も一緒だ。飲まれれば骨も残さず乾いた音と一筋の煙を残して蒸発すること間違いなしだ。もちろん、アスカとマユミは2人揃って回れ右。
 羽が無事ならアスカは飛んで逃げたのだろうが、先の激戦の名残で今の彼女の翼は長時間の飛行に耐えられそうにない。見るも無惨な破れ傘と言った有様だ。誰かもう1人を持って一緒に飛ぶなど到底不可能だろう。見捨てるならば何とかなったかも知れないが。
 今のアスカには、そんなことをしてまで生き延びようとする考えはない。決して認めないだろうが、彼女にとってマユミは我が身を犠牲にしても助けたいと考える…友達、家族なのだから。
 やむなく、遅い遅い───、100mに20秒はかかりそうなくらいに足の遅いマユミの手を掴んで、小石を蹴散らし突っ走る。

「マユミのお馬鹿! 限度って物を知らないのあんたは!? まったく、信じらんない!!」

 手を繋いでることが照れくさいのか、全力疾走をしつつ同じく隣を併走するマユミを口汚く罵るアスカ。本当に不器用な生き方しかできない。素直に助けてあげることができないらしい。素直になれない悪魔というのは何かと不便だ。
 その言葉にマユミはいっそう体を小さく縮めながら、怯えた目をしてアスカを見返した。怯えて親とはぐれた子犬のようにフルフル震えながらも、キュッと唇を噛み締めるあたり、彼女なりに納得いかない物があるらしい。

「そんな、言いがかり…(ごにょごにょ)」
「マユミのくせに言い訳する気!?」

 背中に感じる熱気が洒落にならない状態になったためか、それとも言い返されたことが気に入らなかったのか、アスカは目を見開いて睨んだ。その目は確かにこう言っていた。『マユミのくせに生意気よ!』

「ご、ごめんなさい」

 途端に尻尾を足の間に挟んだ犬みたいな顔をしてマユミは押し黙る。珍しく(彼女にしては)強気でアスカに言い返したのだが結局駄目だった。根が気弱な彼女はやっぱりアスカが怖くて仕方がないのだ。いつもいつも、それではいけないと彼女は考えているのだけれど。ちょっぴり目の端に涙を浮かべつつ謝ってしまう。

(う゛っ)

 思わぬマユミの行動にアスカは予想外に動揺した。今現在自分がどういう状況か忘れてしまうくらいに。
 なんだかその表情が彼女の良く知っている…良く知りたい誰かに似ており、ついでに自分が凄く嫌な奴な気がして今度はアスカが詰まってしまった。シンジのように多少なりとも反抗の気配を出せばまだ気持ちは落ち着くのだが、マユミは徹底的に受けに廻る。どうにもやりにくくて仕方がない。
(このアスカ様がいつもの調子を全然出せないとわ)

 内心苦虫を噛みつぶしつつ、適当な言葉が思い浮かばないアスカはむっつりした顔をする。

(アスカさん怒ってる。……怖い)
(ああ、もう。シンジに似ていてやりにくいったらないわ)

 マユミはアスカに苦手意識を持っているが、アスカはアスカでマユミに苦手意識を持っていた。何というか上目使いの所とか、癖の全くない長い髪の毛とか、眼鏡とかとても虐めてやりたくなるのだが、そう思っていじめればちょっと小突いた程度で泣いてしまい、話が思ってもいない方向に進んでしまう───。まさにマユミはそう言う少女だ。

 いじめなきゃ良いのに。

 とかなんとか、今考えるのとは違うことを考えている彼女達の目の前に、譲り合いの心とか何とか、そう言った心が欠片もあるワケのない、やたらと硬くてでかい石壁が激しく自己主張していた。


「…行き止まり!?」
「広いと言っても屋内ですからね」

 急ブレーキをかけつつ激突寸前で回れ右をする。
 止まりきれずわずかに背中を壁に押しつけて、アスカは慌てながら、マユミはなんだか茶飲み話のようにのんきな調子で答えつつ後ろを振り返った。そして同時に口をつぐんだ。

「なによ、これ…?」
「溶岩です」

 真っ赤に焼けた溶岩が身長よりも高いところから2人を見下ろしていた。適当に固めたゼリーのように粘っこい溶岩が周囲を取り囲んでいく。前は勿論、右も左も逃げ場はない。とりあえず、そう言うことを聞いてるんじゃないとアスカはマユミの頭をはたくことを忘れなかった。

(痛い…理不尽だわ…)

 そう思うがここで口を開いたらまた話がややこしくなるのでマユミは口をつぐんだ。

「前も右も左も溶岩!? 後は壁! どうしろっていうのよ!?」

 打開策を求めてアスカはじろりとマユミを見るが、彼女が肩をすくめる仕草から見て、テレポートとか空中浮遊とかいった類の緊急脱出魔法を使う余裕もないらしい。つまり、魔力の尽きた2人にはどうにもこうにも対処のしようがないと言うことだ。
 かなり死の匂いが濃厚になった。

(こんなところでこの私が!? それも自分の魔法で自爆!?
 いや───!! ママに笑われちゃう───!!)

 笑われる程度ですむのか。それはそれでとても羨ましい気がする。
 厳密に言えば死ぬわけではないから、焦っているようでアスカはまだ余裕があると言える。この世界の身体が壊れても、元の世界に魂が強制送還されるだけだからだ。
 それに対してマユミはと言うと…。

(あー、そう言えば緊急避難の本に溶岩に囲まれたときの対処法があったわね。
 たしか、神に祈りを捧げて静かに目を閉じて100数える。気がついたときは天国でしょう……ってダメじゃない。
 えーっとえーっとこう言うときは落ち着い、つい、つい、つい、つえて、落ち着いて目を閉じて100数えてって落ち着きなさいって言ってるでしょ、落ち着いて考えて諦めて)

 錯乱していた。




 ジュオオオオォォォォッ




 埃や小さい石が融けてガスを発生させる音が不気味に響く。すでに普通の人間なら倒れてしまうくらいのガスが周囲に充満している。やたら粘性が高い溶岩だから、猛烈な勢いと言っても数十秒は余裕があるだろう。だが確実にマユミ達を呑み込む。そしてシンジ達も。この手の魔法は魔力の供給を止めても、しばらく効果が ─── この場合、溶岩の噴出 ─── が続く。2人が死んだからと言って、溶岩がいきなり消滅したりはしない。
 覚悟を決めたのかギャグに逃げられないと悟ったからか、妙に醒めた目をしながらアスカはその場にあぐらをかいて座り込んだ。目を数回瞬きさせ、ガスの所為で涙がにじむ目を軽く押さえる。

「…はっ、遂にシンジとはできなかったなぁ。あ〜あ。異性との嬉し恥ずかし初体験ってのにちょっとはドキドキしてたのに(痛いのはやだけど)」
「こんな時にアスカさん何を言ってるんです! まだ、死ぬと決まったワケじゃ」
「私は死なないわよ。地獄に帰るだけ。でもあんたやシンジは助からないでしょ。
 まあ、シンジはともかくアンデッドのあんたは地獄に来るかもね。そん時は助けてあげるわ」
「そんなぁ諦めないでよ。私、こんな所で死にたくなんかない〜」
「あんたもう死んでるじゃない」
「ですけど、ですけどぉ」

 ちょっと困った。
 ぎゅっと抱きつかれて泣かれるとは思わなかった。

 困った顔をしながらも、本当に泣きじゃくってしがみつくマユミの頭をぽんぽんとアスカは優しく撫でるというか叩く。「ふえ?」と涙でぐしょぐしょになった顔でマユミはアスカの顔を見る。以前、シンジがしてくれたことと感じがよく似ていたから。
 身長が20cmくらい違うため、座っていてもマユミがアスカの顔を真下から見上げる形になっていた。本当に困って、真っ直ぐに彼女の視線を受け止めてあげられないので、アスカは頭を掻いて目を逸らす。なんだかとても照れくさい。顔を赤く染めながら、言葉にできない不思議な気持ちで心が満たされるのを感じてアスカはふぅとため息をついた。

「泣き虫ねぇ、あんたって。あんたらしいって言えばあんたらしいけど。
 …でも、そんなに泣いてたら、ツキまで逃げちゃうわよ」
「え?」
「なんて言うかさ。なんか上手くいきそうな気がするのよ。根拠無いけど」
「…そんな、奇跡みたいなこと」

 くすっとアスカは笑う。
 長い年月を生きたとは言え、外の世界を全然知らないマユミには分からないのだろう。自分のようには。
 物語というものはあっけなく終わることもある。だが、彼女達の物語は始まったばかりなのだ。
 ここで終わるはずがない。いや、終わってたまるか。


「よく起こる物なのよ。
 奇跡ってのはね」






 溶岩の壁の向こうから声が聞こえる───
 とてつもない轟音を制し、静かだけれど真っ直ぐに真の通った声が。

『…新しい世界を前に古き世界に歌を捧ぐ。未来は何の限りを尽くすのか。過去は何を語るのか。現在は生まれて消えて』

 感情を感じさせないためどこか素っ気ない。
 冷たくて暖かい声。

『…新しい世界に夢見る力を。星さえも変えることの出来ない運命の果てに』

 同時に鉄琴によく似た澄んだ金属音(?)が声に重なるように音の世界を支配する。
 重なるように横笛にも似た鋭い音が大気を貫いていく。

「今私はあなたに出会った。迷った奇跡の果てに」

 アスカとマユミが良く知っている家族の声が旋律を奏でる。
 古語で語られる力ある言葉が空間を引き裂いていく。
 そしてそれは来た。
 小さな雪の精霊の楽団が奏でる召還楽曲の中、渦巻く冷気を身に纏って歌っていたレイは閉じていた目を見開いた。


『グレイプニールに囚われし滅びの司(つかさ)、今ひととき解放せん。
 古の契約に基づき、古き血の末裔、綾波レイの名において命ず!
 出よ、フェンリル!!』












Monster! Monster!

第26話『アートオブウォー』

かいた人:しあえが





「誰にも2人を止められない」



【アオオォ───ン!!】





 狼に似た…だが遙かに巨大な遠吠えが響いた瞬間、アスカ達の眼前に迫っていた溶岩がかき消えた。いや、より正確に語れば溶岩が溶岩でなくなった。
 遠吠えに続いて白銀の光が瞬き、唐突に眼前に迫っていた溶岩の動きが止まった。同時に溶鉱炉のように肌を刺す高熱が、一瞬で針を刺すような冷気へと転じる。想像を絶する冷気が周囲の世界を氷点下に変えたのだ。室内に存在した物全て、生者と死者、無機物有機物一切の例外なく。
 真っ赤に燃えていた溶岩の表面が一瞬のうちに黒く変わり、内部と外側との膨張率の違いから砕け散った。だが床に欠片が散乱することはない。それよりも早く凍り付いてしまったから。

 水蒸気が凍り付いた粒 ─── ダイアモンドダスト ─── が舞い散る中、呆然とした顔をするマユミに向かってアスカはウインクする。

「特にいい女にはね」

 遂に自重に耐えきれなくなり溶岩───、いや元溶岩だった岩塊が砕け散り、2人の視線の先には空中に消え行く30m以上ありそうな巨大な灰色狼と、いつもと変わらぬ無表情な顔(実は結構感情豊かな)のレイがニコリともせず立っていた。
 生きていてもいなくてもどうでも良いと言いたげな顔のまま、2人の姿を確認するとレイは瓦礫の山を注意深く下りる。そして平らな地面に足をつけると同時に、少し申し訳なさそうに首を傾げた。

「ごめんなさい。少し手間取ったわ」
「今頃になってお目覚め? あんたらしいわね」

 無意味に胸を張ったアスカの皮肉に耳も貸さず目も向けず、レイは岩山を踏み分けてすたすたとマユミに歩み寄り───、
 目をウルウルとさせながらがばっと抱きついた。アスカは徹頭徹尾無視。
 マユミの胸の膨らみにスリスリと頭を擦り付けつつ、母犬に再会した子犬のように激しく甘える。

「マユミちゃん、大丈夫だった? ごめんなさい、一生懸命頑張ったけど、石化しちゃったからどうしようもなかったの。それがようやくドレスの力で解除されて、気がついたら目の前が溶岩だらけで、マユミちゃんが危ないのが目に入って大慌てでフェンリルを召還してラグナレク・ハウリングを使ってもらったの。大急ぎだったからとにかく疲れたけど、マユミちゃんが無事だったからとても良かったの。嬉しいの」
「…ありがと、綾波さん」
「ううん、マユミちゃんが無事ならそれで良いの」
「私は無視かあんたわ」

 アスカのツッコミにレイは本当に疲れた目を向ける。スッと別人のように鋭くなった目を向けるとぽつりと呟いた。

「いたの?」
「…わかってたけどむかつくわあんた」
「そう、良かったわね」

 それっきり無視。ただ猫が甘えるようにマユミにしがみついて甘える。本当に猫みたいだ。マタタビの粉がマユミの全身についてるみたいに、レイは体を擦り付けるようにマユミに甘える。甘えまくる。スンスンスンスン鼻を鳴らして甘えまくる。マユミの身体の柔らかさを確かめるようにモニモニと揉んだり抱きしめたり。シンジが見ていたら歯噛みしそうなくらいに甘える。

「マユミちゃんマユミちゃんマユミちゃん…」
「あん、ちょっと綾波さ…んっ」

 ギチッと音をたててアスカは奥歯を噛み締めた。ちょっと羨ましい…じゃなくて。
 無視されて本当に殺してやろうかと思うくらいむかつくが、助けてもらった手前あまり強く出られない。でも終生のライバルであるレイを相手に引き下がるのもしゃくだ。しかし…。
 どうにもこうにも押すべき引くべきか判断が付かず困ってしまうアスカだった。

(まあ、良いわ)

 しかしそこはアスカだ。
 頭の切り替えは早い。すぐに気を取り直すと、周囲のことを確認するために煙と水蒸気が充満する室内を見渡した。部屋の中央から溢れ出た溶岩がそこら中に流れ込んだ為、見るも無惨な有様だ。それ以前の戦いの痕跡も見逃せないだろう。トドメにレイの大魔法だ。壁が柱の役割も果たしているようだが、いつ崩れ落ちるかわかったものではない。

(爆発系の魔法一つで…この部屋は崩壊するかも知れないわね)

 幸いレイの魔法が冷却系だったおかげで、最悪の事態は免れたが…。少しやりすぎたかとアスカは不安にかられる。レイはマユミに甘えることに、マユミは甘えるレイに困ってしまって気が回らないようだが、果たしてシンジは無事だろうか?

(マユミはテレポートさせてたみたいだけど…)

 だがあれだけの激戦だ。巻き込まれていてもおかしくない。一応、戦いに巻き込まれないようにヒカリが攻撃すると同時に、マユミに命じて部屋の奥の奥に短距離テレポートさせたが…。ヒカリはこれでもかと光線系の魔法を使っていた。名は体を表すと言わんばかりの光線魔法の乱舞だった。ありとあらゆる魔法の中で最も直進性の高いのが光学系魔法だ。一つ二つくらいシンジの居るところにまで飛んでいてもおかしくない。

(まあ、マユミにとくにおかしいところもないから、あいつは多分無事でしょうね)

 結魂してるマユミに変化がない。つまりシンジは無事。アスカはそう判断した。実際、シンジが居るはずの場所はかろうじて溶岩が達していない。
 無事と判断してアスカはとりあえず肩の力を抜く。

(問題はジャージと眼鏡なのよね)

 最後に確認したとき、トウジは意識を失って倒れており、ケンスケに至っては石化していた。助ける義理はないが仮にもシンジの友達だし助けないと色々マズイだろう。友達とは思っていないが、いなければいないでそれはそれで寂しい…と思う。

(でもあいつらまでテレポートはさせてないのよね)

 内心、ヤバイかもと思いつつトウジが居たはずの場所を見る。
 溶岩は達していない。

 よっしゃ!

 内心でガッツポーズ。だが、アスカは体の方ではガッツポーズをできなかった。なぜなら、トウジがいたであろう箇所にトウジの姿は見えず、でっかいガレキと言うより岩塊が筋肉兄貴のポージングのように自己主張していたからだ。
 さーっと音をたててアスカの顔色が悪くなった。無数の縦線が顔一面を覆うところからもアスカの焦りが伺えるだろう。

「はい?」

 間抜けな声を漏らし、手入れの行き届いた柳眉をしかめる。それで現実が変わるんなら世の中楽だ。当然自体はかわりゃしねぇ。
 恐る恐るマユミ達を振り返る。まだ甘えて甘えられてる。
 何してる貴様らと思いつつ、つとめて冷静にアスカは口を開く。ちょっとこめかみの血管がヒクヒク動いたりする。

「マユミ、レイ。ジャージが大ピンチかも」
「ええっ!?」
「ジャージ? 誰それ?」

 レイの気の抜けた言葉の直後、マユミの顔が影で覆われた。目だけ光って洒落にならないほど怖い。

「…あ゛や゛な゛み゛さんっ!」
「ひぃっ!? ま、マユミちゃんなんで怒るの?」

 マユミが、冗談を言って良いときといけないときがあるんです!
 と、レイを怒ってるのをよそにアスカは駆け出した。マユミはレイの言葉を冗談と思ったようだがたぶんレイは本気だ。

 ま、それはともかく。

 焦りという珍しい感情に戸惑いつつ、アスカは走る。
 正直なところ、レイ同様ジャージもといトウジが生きていようと死んでいようと関係ないはずなのに、彼女は気が焦って気が焦って仕方がない。もし死んでいたら…そう思うといても立ってもいられない。勿論、異性としてトウジのことが気になったからとかではない。トウジが死んだとき、シンジがどうなるか…容易に分かる。故にアスカは焦った。
 きっとシンジは激しく落ち込む。自分の所為だと自己嫌悪に陥いるだろう。最悪、壊れてしまう。そうなったら彼女の目的は果たせない。それ以前にそんなシンジの姿は見たくない。

(死んでんじゃないわよ、ジャージ。死んでたら殺してやる)

 固まった溶岩を飛び越える途中、アスカは溶岩から突き出たケンスケらしい石像の腕を確認したがあっさり無視した。生身だったらご臨終間違い無しだが、石化してるから多分大丈夫だろうし。根拠無いけどそう決めつける。ちなみに、大丈夫じゃない。

(大丈夫よ。ああいうのは殺したって死なないものだし)

 ガレキに取り付くと、アスカは右手一本でガレキの撤去を始めた。アスカの拳が唸りをあげるたびに岩塊が砕け、粉塵が舞う。アスカは『見つめるもの』との戦いで左手を無くしてなければ、魔力が残っていればとイライラしながらガレキをどけていく。やりづらさにもどかしく感じながら1トンはありそうな岩塊を転がし、砕いていく。
 はっきり言って、魔力を使い果たしたマユミや、表情を変えることすら面倒くさがるレイは手助けにはほとんどならない。と言うか手伝うのは当然だが、できる範囲でちまちまと小さい石を動かす程度では却って邪魔だ。
 自分の方に駆けてくるマユミをジロッと睨み付けると、アスカは声を荒げて命令した。

「邪魔よあんたら。手伝わなくても良いから、周りに気を付けてなさい」
「周りに…ですか?」
「アレで倒せなかったとは思いたくないけど…。
 まだあのメデューサが死んだのを確認したワケじゃないのよ」
「そう…ですね。わかりました」

 恐る恐る部屋の中央にそびえる固まった溶岩の柱をマユミは見た。レイも遅れてそれを見る。彼女はヒカリがそれに呑み込まれる所を見たわけではないが、概ね理解はしているようだ。恐らく、石になりながらも多少は意識があったのだろう。さすがは精霊の女王スノーホワイトだ。
 ともあれマユミは考えた。如何にヒカリが強敵だったとは言え、2人がかりの合体魔法で倒せなかったとは思えない。思えないが…。
 だが確かにアスカの言うとおりだろう。備えは何ごとであれ必要だ。ヒカリは尋常でない力を持った魔物だった。自分達に匹敵、あるいは凌駕するほどの実力を持っていることは間違いない。

(アスカさんの言うとおり万が一と言うこともあるわ…)

 素早くマユミも決断する。だが今の自分ではアスカの要求に応えるには力不足だ。
 魔力を回復させる必要がある。

(とは言ってもここで魔力を回復させるといっても…。私は人間みたいに休憩すれば魔力が回復するワケじゃないし…)

 アンデッドである彼女は、魔力を回復させるためには他から…つまりは他の生物から吸収するという形でなければ回復させることが出来ないのだ。




(そうだわ、シンジさん…)

 何ごとか閃いたのか、知ったらアスカさんが怒る、と言うか拗ねるだろうなと思いつつ、レイに見張りを頼んで溶岩を踏み分けながらマユミはいずこかへと向かう。

「マユミちゃん、どこ行くの?」
「ちょっとそこまで」
「わかったの」





 そして十数分後。レイが岩柱を見張り続け、アスカがどうにかこうにか大きなガレキを撤去し終わり、床が見えるようになったとき。

「なっ!?」

 思わずアスカは息を飲んだ。思ってもいなかった光景に意識が一瞬断ち切れる。

「なによ…これ」

 ガレキに埋もれていたトウジが彼女の網膜に映る。
 左足の膝から先をパン生地のように押しつぶされ、右手を肩から切断され、腹部に石柱が突き刺さったトウジが。溢れた血が水たまりのように床を深紅に染め、それは今も刻一刻と広がっている。
 一歩、二歩、よろめくようにアスカは後退する。
 ひゅうひゅうとかすれるように息を吸い込み、刹那───、

「鈴原!」

 アスカの口から悲鳴のような叫び声が漏れた。

「マユミ早く来て! このままだと鈴原が! 鈴原が!!」















 少し時間をさかのぼる。
 マユミはなんとか瓦礫を踏み分け、シンジが意識を失って倒れているところに到達した。

「…シンジさん?」

 返事はないが無事なようだ。
 幸い、先の戦いの流れ弾などが当たることもなく、また火山性の毒ガスを吸うとかいったこともなかったようで、深くゆっくりとした呼吸を繰り返していた。
 寝顔に少し鼓動の高鳴りを感じて頬を赤らめる。今まで何度も見たことのある寝顔なのに。
 ドキドキと心臓を高鳴らせながらそっとシンジの傍らに膝をつき、手をシンジの額へと伸ばす。

「ん…」

 指に伝わる体温、呼吸、鼓動。いずれも健常そのものだ。一体何があったのかわからないが、シンジの生命活動に異常はないらしい。だが、仮にも『見つめるもの』と戦ったらしいのに異常がないなどと信じて良いのだろうか。如何に夜のシンジが超人的とは言え、しばしマユミは逡巡する。

(でも、このままここでお見合いしてるわけにも)

 今また魔物の襲撃なりなんなりがあったら助からないかも知れない。レイはまだ余裕が多少有るようだが、自分とアスカは空っ欠だ。今の自分では簡単な明かりの魔法も使うことが出来ないだろう。

(やっぱり…しないわけには…いかないですよね)

 やはり、多少はシンジに協力してもらわないといけない。気絶した人間から力を無許可で力を貰うのは、彼女としてはかなり気が咎めることだが…。

「ごめんなさい、ちょっと力を分けてもらいますね」

 シンジの額に触れさせた人差し指から暖かい生命力が流れ込んでくる。激しい運動をしたあと、体を休めることで酸欠が収まっていくような…形容しがたい充足感がマユミの体を包み込んでいく。かなり力をセーブしてあるが、これこそ無機王の特殊能力の一つであるエナジードレイン(生命吸収)だ。要は接触した相手の生命力を奪い取るわけだが、これはアスカ達、サキュバス(インキュバス)が精神力を、レイ達スノーホワイトが体力を奪う能力と根本的に同じである。
 本来なら相手を殺してしまえるほどの吸収を行えるが、さすがに今回はそこまでの威力はない。

「んんっ…流れ込んでくる」

 徐々に回復していく魔力に、マユミは目を潤ませて満足そうに熱い吐息をもらした。ただ、なんともまどろっこしい。かなり力を押さえて少しずつ吸収しているからだが、元が巨大なマユミの魔力が満杯になるまでには相当時間がかかりそうだ。

(もうちょっと勢い良くしても大丈夫かな)

 少し勢いを強める。…見た感じ、シンジはまるで疲労した様子がない。

(量…増えましたよね?)

 マユミは首を傾げて考える。生命吸収を行うたび事なのだがなにか間違えたのだろうか、と。
 さすがに相当量を吸収したはずだ。少なくとも、普通の人間なら布団に入るなり泥のように眠ってしまうくらいの力を吸収した。過労が溜まっていたり、病弱な人間なら死んでいてもおかしくない。だが、少し探りを入れたところシンジの生命力が多少なりとも減った様子はない。涸れぬ泉のように生命力が満ちている。
 閨の時と一緒だ。
 全ての無機王がそうではないだろうが彼女は性行為を行うと、自らの意志に関係なく強制的に性行為の相手の生命力を奪ってしまう。しまうのだが常人なら塵になるくらいの力を放ってもシンジは変わらず、いや益々元気になっていく。で、例によって彼女はシンジに気絶させられて、いつもその考察は途中で打ち切られてしまう。マユミならずとも、原因が気にかかろうという物だ。

(…シンジさんって人間じゃないのかな?)

 さすがにのんきな彼女でも思うところはある。
 アスカやレイは多少なりとも正体を知ってるようだが教えてくれない。ただ結魂してるマユミに対して『知らないんだ〜』と優越感を誇るのみ。ちょっと悔しい。シンジに面と向かってたずねてみようと考えたこともあるが、シンジは自分が人間じゃないかも知れないなんて考えたこともないだろう。
 ユイにい至っては論外だ。尤も、ユイは人間ではないだろうと薄々感じてはいるけれど。少なくとも普通の人間では決してあり得ない。となれば、その息子であるシンジも…。
 そうだとすると問題は正体と力の源なのだが…。

(関係ないか、そんなの)

 あっさりマユミは考えることをやめた。
 いずれにしろ、自分は、アスカ達は人間ではないのだ。
 お似合いだ。
 しかも、自分もアスカも、レイも生命吸収系の魔物だ。生きていくためには生贄となる暖かい後を持った存在が必要不可欠だ。無限(?)に力を供給してくれるシンジはこれ以上ないくらい自分達の夫とするのに相応しい存在だと言える。
 自分はとても運が良い。マユミはそう思った。

(あとはもうちょっと頼りがいがあったら良いんだけど…)

 それは欲張りすぎ。


 ともあれ、マユミはもうちょっと勢いを強く、つまりは手加減無しで生命吸収を行っても大丈夫だろうと考えた。今の調子では日が暮れてしまうかも知れない。それくらい彼女の魔力総量は多いのだ。

「やっぱり…でも恥ずかしいな」

 小さく呟き少し頬を染めながら、なんとかシンジの肩を掴み上半身を起こして自分の胸に頭を預けるように抱きしめる。
 意識のない人間というものは案外重くてちょっと苦労したが、どうにかシンジの顔を間近で覗き込める体勢にはなった。顔にかかるシンジの鼻息がこそばゆい。もう何十回、何百回と行ったにもかかわらず未だに恥ずかしいのか、頬を朱に染めながらマユミはゆっくりと唇を近づけていく。唇と唇が触れる寸前そっとマユミは目を閉じる。

「んん…」

 闇の中、唇に伝わる暖かい感触、そして勢い良く流れ込む生命の力。
 そしてシンジの温もりだけが今彼女の感じている世界の全てだった。

(これなら、すぐにもアスカさんの所に…ひゃん!?)

 びくびくっとマユミの体が震えた。
 突然胸を何かに揉まれ、言いようのない感覚がマユミの全身を貫いた。

(な、なになに!?)

 彼女は驚き慌てて体を仰け反らせようとした。だが、なぜか体が動かない。正確に言えばいつの間にか背中と腰に手がまわされていて身動きがとれない。

(ん───!? 一体、何がって…)

 ようやく目を開けて確認することに気が回ったマユミは目を見開き、そして喜びと恐怖が半々に混ざった、なんとも複雑な表情を浮かべた。

(し、シンジさん。  あの、その。目が覚めたのは良いけど、なんでそんな私を抱きしめて?  いえ、抱きしめてくれるのは嬉しいんですけど、その、なんで体をそんなまさぐぅ───っ!?)

 再び電撃のようなめくるめく衝撃がマユミの全身を走って彼女の細胞をその一欠片に至るまで痺れさせた。余韻で微かに震え、マユミはすっかり抵抗する力を失ってしまう。

「や、やだ………だ、駄目です。こんな時に、こんな所でなんて…」

 そう言いつつも、唇を半開きにして全身を弛緩させたマユミは抵抗する素振りも見せない。正しくは、抵抗することができない。
 身動きのできない…まな板の上の鯛状態のマユミにゆっくりとシンジの魔の手が伸びる。
 さながら網にからめ取られた獲物の蝶に向かう蜘蛛のように。


「ああぅ」

 ごそごそと何かを引きずるような音が聞こえ、遅れて悲鳴のようなマユミの声が暗がりから聞こえた。


















 そして再び時は戻り。


「鈴原!」


 アスカのせっぱ詰まった声がシンジとマユミ、2人の耳に飛び込んできた。
 それを合図に夢うつつとしていたマユミの表情に生気が戻る。トロンとしていた目に光が戻り、同じく真面目な目をしたシンジとお互いに見つめ合う。

 お互い、非常に心残りだが…。

「シンジさん!」
「行こう、何かあったんだ!」

 心と理性を総動員して立ち上がると、ちらりと自分とシンジの裸体を一瞥し、マユミは一言何事か呟いた。

「大気よ、ここに集いて我が身を包む布となれ」

 途端にマユミが頭上に掲げた指先から漆黒の闇があふれ、まるで帯のように彼女の全身を包みこむ。そして闇が晴れた一瞬のうちに彼女はほとんど全裸という目の毒な格好から、顔と手首以外が黒で統一されたシルクに似た材質のドレスに包まれ、足には編み上げのブーツが、頭には妙に大きな鍔広のとんがり帽…古典的な魔女の帽子が乗っかっていた。元着ていた服が消滅したのか、それとも闇に包まれた一瞬の間に着直したのかは定かではない。
 次いでシンジに向かって軽く手を振ると、同じく闇がシンジの全身を包み込み、晴れた後には黒いピッタリとした衣服…東方の国に住むという暗殺集団『忍者』が着るような黒装束に身を包んだシンジが立っていた。自分には使うことができない魔法…その力のほどにため息をつきつつ、シンジは軽くマユミに向かってうなずいた。

「急ごう」

 何でできてる服なのか色々気になることはあるが、今はそれよりもトウジの方が気にかかる。
 2人は勢いよく───マユミはすんごく足が遅いのでシンジに引っ張ってもらいながら───アスカ達に向かって駆け出していた。











「マユミ、早く来て! このままだと鈴原が! 鈴原が!!」

 どうしていいかわからない。
 アスカにしては珍しく、パニックに陥りおろおろしながらアスカは身を捩った。何もないとわかってるのに首を左右に振り、なにかないかと無為にな事を繰り返す。
 アスカは滅多にないことだが、自分の無力さと無知に自己嫌悪に陥っていた。こんなときどうすればいいかわからない。血を止めなければと思うが、自分の手より大きな傷が、1つだけでなく2つも3つもトウジの体にある。彼の体に突き刺さった岩塊を引き抜こうかとも思ったが、却ってトウジの体を傷つけそうで(事実だ。引き抜いたら一気に血が吹き出て彼は即死してしまうだろう)それもできない。
 できることはせめて少しでもと、トウジの足に髪の毛を一本抜いて巻き、血が出るのを止めようとすることくらい。

(どうして、どうして私は…!)

 敵を傷つける方法は五万と知っているが、人を助ける方法は知らないのだろう。








「アスカさん!」
「マユミ! …それにシンジ!
 鈴原が、鈴原が死にそうなのよ!
 一体今まで何してたのよ!? 呼んだらすぐに来なさいよ! グズッ!」

 数十分にも思える長い時間…実際にはほんの1分ほどのちに現れたマユミ達の姿に、アスカは膝が笑いそうになるのを必死に堪えた。本当は今にも気絶しそうだ。そこにシンジ達が姿を見せ、ホッとしたことでなおさら腰が砕けそうになる。
 目の前で人が、それも知人というより友達と言っていい存在が死ぬかもしれない。それはアスカにとって初めての経験だ。そんな人間が地獄に、あそこに行くかも知れないという可能性は、悪魔とはいえアスカが貧血を起こしそうなほどに錯乱させる。
 アスカが混乱しているのを見て取り、安静化の呪文を唱えながらマユミがそっとパタパタと羽根を羽ばたかせて喚くアスカに近寄った。アスカの肩を掴み、自分のそれとはまるで違う青い目をのぞき込みながらそっと呟く。

「アスカさん、落ち着いて。
 %#《£οЫ▼………静まれ、荒れし心よ。沈静化(サニティ)」
「うるさいわね! いつもあんたはそうよ! 自分は何でも知ってるって感じの顔してお高く止まって!
 知ってんのよ、私はあんたの過…去……」

 マユミの言葉に、意味もなく腹を立てて罵声を浴びせかけようとしたアスカの動きが止まった。自分の顔を見上げながら肩を掴むマユミの手が熱く、それともひんやりと冷たく感じられる。女の子の手は柔らかい。それが妙に気持ちが良かった。
 意識できるのは彼女の手の感触だけ…。

「……あ、私」
「落ち着きました?」

 少し寂しそうに、でも春のそよ風のような微笑みを向けるマユミの顔を見て、アスカの意識は急速に覚醒した。
 頭を締め付け、目の前に赤い幕を作っていた興奮はマユミが手を離したときには、嘘のように消え去っていた。いつになく澄み切った自分の精神にアスカは言葉を失う。興奮していたとはいえ、自分は何を言おうとしていたのか。
 まざまざと醜い現実を突きつけられて情けない思いに捕らわれる。もっとも、その自己嫌悪もまだ残っていた沈静化の魔法の効果ですぐに消え去ったが。

「マユミ…その」

 自分が興奮していたことを、それをマユミが魔法で解決したことを悟ってアスカは珍しく素直に礼を言う。いや、言おうとした。だが喉元まで出かけた言葉が出てこない。口を開きかける、喉元まで声が出る。だがやはりアスカの口からそれ以上何も出てこなかった。すまなさそうに、肩身狭そうにアスカは俯いた。

(どうして私って)

 素直になれないんだろう?
 そして短気なのだろう。勢いに任せて、マユミが誰にも、特にシンジには絶対に知られたくないだろう事を口走りそうになるなんて。本当に申し訳ない気持ちで一杯だ。

 これでは、マユミ達とした約束…シンジに抱かれるのは素直になったとき。来るのだろうか、そんな日が。
 ともかく約束…と言うより誓約が果たされるのはいつの日になることか。

「2人とも、言い争ってるヒマはないよ」

 焦れたシンジの言葉に、まだ表情は強ばっていたが、すぐにマユミはトウジの傍らに膝をつき、アスカもまたその隣に膝をつく。まずはよく傷口を調べなければいけない。時間を稼ぐため、冷却系の魔法を使って限定的に傷口を凍らせて出血を減らす処置をする。これで傷を調べている間に失血死という事態は避けられるはずだ。
 レイほど巧みではないが、マユミは冷却系の魔法を幾つも知っている。

「霜の檻よ、汝が務めを果たせ。氷結の鎧よ彼の身を守れ。
 氷凍膜」

 だくだくと血を流していたトウジの傷が一瞬で凍り付き、白く霜を浮かせた。霜焼けが出来るがそれは仕方ないだろう。
 少し余裕ができた。マユミには医学の心得があるわけではないが、ピラミッドに閉じこめられている間、彼女には時間と暇は一杯あった。だから父の残した…亡骸と共に埋葬された色んな本を読んだ。ためになる本、魔法書、異国の書物から化粧の仕方、冶金学といったこと、さらには人をおちょくる50の方法とかいった本まであった。
 …その中に、ミイラ、ゾンビの作り方(アンデッドの作り方)という本があった。だからある程度人体の構造についてはわかっているつもりだ。
 しかし…。
 専門の魔法書はあっても、専門の医学書はなかった。正確に言えば無いではなかったが、非常にお粗末な内容だった。マユミにできるのは精々が応急処置くらいだ。しかしながらトウジの傷は応急処置の範囲を超えている。
 アスカは言うに及ばず、シンジやレイもまた応急処置くらいしかできない。
 今頼れるのは、再生蟲といささかアレな手段だがマユミの治療魔法のみ。

 期待を込めた目でシンジとアスカはマユミを見る。
 だが運命は残酷だ。あるいは嫉妬深い運命の女神は、女難の相があるシンジが、ひいては彼の周り全てが気に入らないのかも知れない。
 マユミは口惜しそうに顔を上げ、次いで目を伏せ、力無く首を振った。

「…ごめんなさい」
「そんな!」
「マユミさん、だって君は再生蟲とかいうのを」

 泣きそうな顔をしてマユミはかぶりを振る。

「ダメなんです。再生蟲はこういう大きすぎる傷や、切断されたり潰れたりした傷の治療には…使え、ないんです」
「じゃあ、トウジは! トウジは助からないの!?
 ここで、こんなところで死んじゃうって言うのかよ!?」

 肩を掴み、ガクガクと首が前後するくらい勢いよくシンジはマユミを揺さぶった。痛いほどにシンジの指が肩に食い込み、脳震盪を起こしそうなくらいに首を揺さぶられても、マユミはされるがままだ。苦しいが、泣きたいほどに苦しいがまともにシンジの目を見なくてもすむ。だったらそっちの方が良い。彼女の態度と空気ににじみ出るような悲しみと切なさ、そして濡れた瞳が全てを雄弁に物語っていた。

「ダメ……なんです。私じゃ、私では鈴原さんを助けられないんです」
「そんなのってないよ! そんなのって…。
 アオイちゃんに、トウジの妹に、なんて、なんて言えば良いんだよぉ」

 ひどく自分勝手にも聞こえるシンジの声が響いた。だが、決してシンジが自分のことしか考えないでそう言ったわけではない。後に残された者の悲しみ。父を失った彼は、痛いほどそれが分かる。ほとんど記憶にも残っていないが、それでも父親がいなくなったと母から告げられたときの、ぽっかりとした空虚感は寂寥とした風を彼の心の中に吹かせた。
 だからこそトウジの家族がどんなに悲しむかもよくわかる。わかるからこそ喉をついて出た叫びだった。

「ちくしょう!」

 唐突に思いっきり、石の床を殴りつける。
 驚かされた猫みたいにアスカ達は体を硬直させる。

 ガン!ガン!

 皮が剥け、血が滲むことも構わずシンジは床を叩く。痛みを感じないのか何度も何度も。マユミが止めようと手を伸ばすが、それを乱暴に振り払うとトウジと同じ苦しみをせめてわずかでもその身に受けようとするように、よりいっそう勢いを増して床を叩き続ける。骨が砕ける音が響いて血が飛び散り、シンジは涙で顔をぐしゃぐしゃにするが痛くて泣いているのではない。ただ自分の無力さと、初めて味わう死という喪失が悲しかった。心が痛かった。悲しさと悔しさで死にそうだった。



「碇君、マユミちゃん、アスカ…」

 さすがに気になったのか、見張りを続けながらも心配そうにレイが3人を見ている。シンジとマユミが泣いているから、今すぐにでも駆け寄りたいとモジモジしていた。しかしながら、約束したからと不安そうな表情は隠さないまま、その場を動かずじっとヒカリを呑み込み固まった溶岩柱に注意を向ける。
 涙を必死に堪え、自分ではどうにも出来なくともアスカ達ならきっと何とかしてくれると信じて。





「やめて下さい! 手が、手が砕けてしまいます!」
「砕ければ良いんだ! こんな腕、友達を助けることもできない、こんな役に立たない腕なんて!」
「お願いだから、やめて下さい! それ以上は、本当に…」

 張り裂けそうな心の痛みを感じるのか、肩を震わせ、マユミは泣き声を上げてシンジにしがみついた。モーション途中だったシンジに振り回され、小柄な彼女は肩から床に叩きつけられるが、それでも手は離さない。

「ぎゃぅっ!」
「や、山岸さん!?」

 驚き、動きを止めたシンジに彼女は濡れた瞳を向ける。
 血に染まった彼の腕を胸に抱えたまま、震えながら言葉を続けた。

「やめて…お願い…」
「あんたが手を砕いても。鈴原が助かるワケじゃないわよ」
「山…マユミさん、アスカ」

 シンジはマユミを、そして自分を諫めるアスカを見つめた。自分にしがみつき、マユミは声を殺して泣いている。アスカは鉄のように張り詰めた表情で、じっと自分を見下ろしている。

(ぼ、僕は…)

 どうして自分みたいな奴に、そんなに構うんだろう?
 不思議で仕方がない。マユミだけではない。アスカも、レイもそうだ。母親絡みのことかと思ったこともある。つまり、下世話な言い方をすれば財産が目当てではないかと。だが、今のマユミとアスカを見てまだ同じ事を想像できるだろうか?
 できるはすがない。できるとしたら、そいつの目は節穴だ。くり抜いてガラス玉を詰めた方がよっぽどよく見えるだろう。

 ともかく、まだマユミはぐずっていたがとりあえずシンジは落ち着いた。
 アスカは固まったシンジ、泣いているマユミ、瀕死のトウジと視線を彷徨わせていたが、やおらマユミに視線を固定すると、何かを確かめるように、ゆっくり、はっきりとある予想を口にする。

「鈴原の怪我、あんたにはどうしようもないのね?」
「…はい」
「誰にも助けられないの?」

 少し考え込む。

「いいえ、高い徳の神官、中でも治療術に長けた方ならあるいは…」
「つまり、治療法術が使える奴なら、助けられる可能性があるって事なのね?」

 マユミの顔がにとまどいが浮かび………すぐにまた暗くなった。
 アスカの言いたいことはわかる。だがそれは希望的観測でしかない。

「そう……だと思います。上級以上の、重傷治癒以上の法術、魔法が使える方なら。でも、それだけの徳がある方なんて。魔法文化が今以上に発達していた数千年前だって、数えるほどしかいなかったんですよ。私の知ってる限りじゃ、第三新東京市ぐらい大きい街にだっていないんです」
「そうね。でも徳の高い、つまり高レベルの神官がいれば、鈴原…ジャージは助かるのよね?」

 アスカの言葉から、マユミはある考えを思いつき…まさかと思いながらもゆっくりとうなずいた。

(まさか、まさかアスカさんは…)

 マユミとアスカの入り交じった視線に気がつき、シンジはその視線が指し示す先を見る。
 そこには、レイに見張られる溶岩柱が漆黒の影を周囲に投げかけていた。
 直接現場を見たわけではないが、見たわけではないが…。
 シンジにはそこに容易ならざる者が、恐らくマユミ達がこれほどまでに疲弊した原因となった者が封じ込まれていることを悟った。そして彼女なら、トウジを助けられるかも知れないことを。

「あのメデューサ。ヒカリだったかしら。彼女なら鈴原を助けられるんじゃないの?」

 やっぱり。
 自分の予想が当たったのに、それが全然嬉しくない。顔を暗くして声を失うマユミにアスカはなおも言葉を続ける。

「迷ってるヒマはないわ。まさか鈴原を石化させて、いつか徳の高い神官に出会うのを待ってるわけにはいかないのよ」

 いつまで時間がかかるかわからないと言うのが一番の理由だが、一度石化させたら、その状態で肉体の状態が記憶されてしまう可能性がある。五体満足ならともかく、手足が切断された状態の彼を石化させて、いつか現れる救いの御手を待つわけにはいかない。
 それに、彼が助かったとき、彼の家族が一人もいないなどと言うことになったら…。

(とは言うものの、あの娘も生きているかどうかわからないけれどね)

 そう言外に滲ませつつ、アスカは改めて溶岩柱を見た。ヒカリと名乗ったメデューサが生きているかどうかはわからないが、生きていたとしても重傷は間違いない。仮に生きていても、早く助けないと今生きていても次の瞬間には死んでいるかも知れない。アスカの言葉どおり、迷ってるヒマはなかった。

「わかり…ました」

 軽くうなずくと、マユミもまた溶岩柱に目を向ける。
 重傷のトウジを助けるために、これまた重傷で生きているかどうかもわからない、トウジが重傷を負う原因となった少女を、敵を助けないといけないとは…。正直、納得のいかない部分がある。この入り交じった状況を言い表す、都合のいい諺はない物だろうか。

 卵が先か鶏が先か。
 泥棒を捕まえてから縄をつくる。
 元の木阿弥、水の泡…どれも違う。

 呉越同舟と本末転倒がもっとも近いかと思われるが、いずれにしろ、そんなことを考える余裕はない。
 運命の悪戯を呪わしく思いつつ、マユミは覚悟を決めた。

「どうして…こうなるのかしら?」
「…こんなものでしょ。私達は」



 ピシリ

 不安そうにアスカに視線を向けるレイの背後にて。溶岩柱の一角に、小さな、だが間違いようのない亀裂が生まれた。
 はたしてそれは───?





続く








初出2002/12/08 更新2004/12/26

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