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真
Monster! Monster! 第27話『夢幻の心臓』
かいた人:しあえが
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黒髪の少女がせかせかと小走りで進む。彼女が広間を横切ることでふわりと空気が動き、髪がなびいて果物の匂いが周囲に広がった。洗髪に使ってると言う、彼女謹製の桃から作った洗髪剤の香りだ。その香りがシンジの鼻腔を刺激した。こんな時だからか、その香りがもたらす精神の安寧に救われるように彼は思った。 依然、腹の奥が捻れたように痛みを感じ続けているのだけれど。 「じゃあ、できる限りの応急処置をしておきますね」 シンジに横顔をまじまじと見つめられてちょっと照れながらも、迷うことなく意識を失ったトウジの頭を抱えてマユミは言った。それにしても顔が赤い。見つめられているからだけではないようだ。 (はうう、そんな風にじろじろ見ないで欲しい…。気になって仕方ないです) マユミが照れた理由がわかり、こんな時にも関わらずシンジはちょっと嫉妬する。彼女が顔を赤らめなければ特に意識はしなかったかも知れないけれど、気付いてしまった今は何故かやるせない。きっとあの膝は僕のだとか思ってるのだろう。 「再生蟲でも使うの?」 シンジ達の、端から見ていたら背中が痒くなりそうなやり取りを、心底面白くなさそうに見ていたアスカがそこで口を開いた。 頭の後で手を組んで、気怠げに壁により掛かりながら。 スタイル良いなぁ…と余計なことを考えつつ、すぐにマユミは首を振ってアスカの言葉を否定した。 「使いませんよ…ってなんでそんな残念そうな顔してるんですか?」 なんでアスカ達が残念そうな顔をしてるのか知りたいような知りたくないような。気のせいか使え使えと目で促されてるような気分がする。マユミは、見ていてあまり気持ちの良い光景ではないと思うのだけれども。 「あのですね、アレは基本的に元気な人にしか使えないんです。今の鈴原さんみたいに半死半生だと、再生蟲は傷を治すどころか彼の肉体を食べて卵を産み付けるんです」 とりあえず、使え使えと無言の圧力を加えるアスカの目にいたたまれなくなったから、使わない理由を言うマユミであった。しかしながら、ちょっと洒落にならないことを言ったような気がする。いや、ちょっとどころではない。 現にアスカ達の様子を見ればわかる。マユミが言い終えたときには、シンジもアスカも顔色を無くして口を手で押さえて俯いていた。 噂に聞く再生蟲の蠢く感覚にトウジがのたうつ様を見てみたい…などと悪魔らしい邪悪なことを考えていたアスカであったが、リアルに想像できるトウジの運命にさすがの彼女も呼吸を忘れていたくらいだ。 「砂の中に浅く埋められた毛虫が這い出してくる感じが一番似てるかも知れませんね」 『こう、ご飯粒みたいに小さいのが…』と口で言いつつ手を大げさに動かす。そんなマユミの仕草に可愛いなと思いつつ、言ってる内容はベクトルがまったく異なっていて冗談にもならない。なまじ本が好き、つまりはよく本を読んでいて表現力が発達したマユミである。その語り口、喩え、情景描写どれも凄まじい。目を閉じていたってその具体的な説明だけで鳥肌が立ち、背中がゾクゾクする。 二度と虫を触れなくなるかも知れない…。 「昔、刑罰の一種として考案されたこともあるそうです。 凄く重い刑罰だったから、あまりに惨いから、ついに一度も行われなかったそうですけど」 目がウットリしてるように見えるのは気のせいであって欲しい。 (山岸…じゃない、マユミさん勘弁して。もしかしてそれが素なの?) 見た目は虫も触れない深窓の令嬢然としてるのに、結構ワイルドな娘さんかも知れない。 ふと朝食を思い出したシンジが隣を見れば、面白がっていたはずのアスカの顔には無数の縦線がかかっていた。今にも朝ご飯を吐き出しそうな顔というか。先ほどからかなりマズイ状況だったが、どうやらマユミの話だけで限界を突破したらしい。本当に悪魔とは思えない娘だ。どっちかというと、アスカの方がどこぞの令嬢みたいに柔弱な精神をしてるのかも。 ふと、お互いの視線に気がつき、見つめ合うシンジとアスカ。 ((うっ)) せっかくのアスカが期待したシチュエーションだというのに、揃って顔を背けると手で口を押さえてうずくまってしまった。 ダメ、まだ話は終わってません。とばかりに『1週間もしたら成虫が一斉に皮膚を食い破って、虫入りチューブを絞ったみたいに…』とか気付いてるのか気付いてないのか、とんでもないことをマユミはしれっと言い放つ。 「それでですね、ぷくっと膨れた皮膚からウニの棘みたいに四方八方…」 「ストップ! ストォーップ! もうそれ以上言うんじゃないわ! 言ったら泣かす!」 「きゃん! なんだかわかりませんけどわかりましたぁ!」 跳ね起きるなり目を血走らせて飛びかかったアスカにマユミは瞬間的に口をつぐんだ。 いきなりどうしたんだろう? と、疑問で一杯だったがシンジの目を見て彼女はまた自分がやりすぎたことを悟った。シンジの青白くなった顔と恨みがましい目がしみじみと心に痛い。正直そんな目で見て欲しくはないがマユミは項垂れた。 (口下手なのに…どうして私って何かを語り出すとこうなるんだろう…) 以前、まだ彼女が人間だったときも同じ事をした事を思い出す。まだお姫様として蝶よ花よと育てられていた頃。理解のある父親と妹に甘い兄のおかげでかなりのびのびと育った少女時代。 のびのびと育てられすぎた少女時代。 (今のシンジさん達の目…あの時のお兄ちゃんやお父さんにそっくり) よりにもよって食事中に、兄と父に蠍の観察記録を話した。しばらく2人はエビや蟹の類が食べられなくなっていた。 (あうう、視線が痛い…。あ、それより早くきちんと処置しないと) アスカの視線とシンジの顔に尻尾を丸めた犬みたいにビクビクしながら、マユミはトウジの傷口を水筒の水で洗い、清潔なガーゼで汚れを拭き、凝固した血を除去していく。血の臭いの中で黙々と。 それが済むと、血がこぼれる傷口周辺にカニの泡のような物を塗りつけた。たちまち白い泡は血と混ざり合い、ピンク色の泡になってマユミの手にまとわりついていく。委細構わず彼女は作業を続ける。見てるだけで気分が悪くなる傷口に丁寧に丁寧に薬を塗っていく。 先のマユミの話の余韻が残るシンジはムカムカする気持ちを抑えきれず我知らず目を背けてしまった。 (ううっ、どうしてマユミさん平気なんだろ…) 気持ち悪くないのかと思ったが、マユミは顔色一つ変えていない。少々困った部分ではあるけれど、こういう状況で的確に作業ができるのなら、それはそれで必要なことなんだろう。シンジはそう思った いざ自分が大怪我したとき、なにをどうすることもできずにパニックに陥られるよりはずっと良い。シンジは素直に感心した。 一方、それがアスカにはなんだか気に入らない。まだ自分はシンジが好きなわけではないから、シンジにどう思われようと知った事じゃない、マユミに対するシンジの気持ちがどうなろうと関係ないと思ってるからなのだが…まっこと素直になれない娘である。彼女が正直になれるのは一体いつの事やら。 ともかく、彼女はこういう時に動転しないマユミを頼もしいと思う反面、可愛げがないと思うのだ。よく平気で血塗れの傷なんて触れるなとも思う。少なくとも、自分には絶対に無理だ。触ったが最後、一気に気分を悪くして嘔吐してしまうだろう。 戦闘で敵の臓物を引き出すとかは平気なのに…。 人の、いや悪魔の精神も複雑怪奇であると言うことか。 (どういう神経してるのかしら。…うわ、骨が露出してるのに平気で。あああ、ゴミが混ざった血の固まりも丁寧に剥がしてる) それが単なる自分にできないことをできる彼女に対する嫉妬なのか、それとも別の感情が起因してのことなのかアスカには見当がつかない。ついたところで何をどうするというモノではないのだけれど。 数分後、まだ岩は刺さったままで手足は千切れたままだが、トウジの傷口に白い軟膏を塗り終わると、マユミは上体を起こして額に浮いた汗を服の裾でふき取りながらため息をついた。 「大気よ、汝は青き世界より祝福される。その身を広げろ果てしなく。広げ広げて滴とかせ。 フロストアッシュ」 呪文の詠唱が終わると同時に、マユミの掌からキラキラと輝く灰のような物がこぼれていく。それはトウジの傷口に触れると、音もなく軟膏ごと傷口を凍り付かせた。 「…終わったの?」 「終わりました。これで十数分は保つはずです。あの、シンジさんここはお願いできますか?」 「うん、わかった」 頷き、マユミに替わってトウジの横に膝をつくと、シンジは2人が見ている方に目を向けた。そこには岩柱が威風堂々とそびえ立ち、そのすぐ横で、柱に比べたら人形のように小さいレイがこっちの方をちらちらと見つめている。不安そうだ。 (アレを…マユミさんとアスカが) アスカの言葉を信じれば、そうなる。 正直シンジは驚きを隠せない。周囲に残る破壊の跡。そしてその中心に雄々しくそびえ立つ巨大な岩塊。 アスカとマユミが協力したと言っても、あそこまで巨大な物をつくることができるとは。しかもアレこと溶岩柱は周囲を黒こげにし、そこかしこに溜まってる溶岩の一部でしかないのだ。今更ながらアスカ達の神にも───少なくともシンジから見れば───匹敵する力に身震いがする。 絶対に夫婦喧嘩はできねぇ!! 命が危険だ。冗談でなく。 マユミの襟を猫を持つみたいに掴み、翼を広げるとアスカは空中に飛び出した。瓦礫を一回蹴って勢いをつけると、すぅ〜いと風に舞う紙飛行機のように柱の所にまで優雅に飛行し、そして猫のように軽やかに着地する。アスカはとたとたとそばに寄ってきたレイに目配せすると柱に目を向けた。 「さあ、さっさと壊しましょ」 「そうね、急がないと助かるものも助からないわ」 「あうう〜放して〜」 ちなみにまだ猫みたいにマユミを持ってたりする。 じたばた地に着かない足を振って暴れて、こんな時のも関わらずなんだかとっても可愛いかも知れない。 マユミはかなり迷惑そうと言うか、もっとまともな運び方をして欲しいと眼で訴えかけているけれど。気付いているはずだが、アスカは軽く肩をすくめると無視した。マユミが歩いてくるのを待ってたら凄い時間がかかって仕方がないのだし。 「ううぅ〜。私猫じゃないのに」 「そうね、どっちか言うと犬か亀よね」 「亀じゃないわ! 亀なんて言わないで!」 「はいはい、わかったわかった。そろそろおふざけも終わりにしましょ」 充分に近づいてからマユミをおろし、肩をすくめると電光のようにアスカは言った。欠片もおふざけが見られない彼女の言葉に、レイ、マユミ共に頷く。これから行おうとしていることは、僅かばかりのミスも許されない作業なのだから。 「元は溶岩だったと言っても、今は岩だからマユミのアニメートロック(岩石操作)で操られるわよね?」 「できるはずです」 マユミの言葉に満足げにアスカは頷いた。『できるはずです』という部分が少々気にさわるが、マユミのような性格の人間が言う『できるはずです』は『できる』と言ってると判断して間違いではないだろう。何ごとも自信が無くて、失敗したときの逃げ場を残すからこういう言いようになるだけだ。 それがアスカにはわからない。 (なんで失敗するなんて考えるのかしらね?) 悪い考えは悪いことを本当に引き寄せるだけだとアスカは思う。魔法が存在しない世界ならともかく、アスカ達のいる世界ではある意味本当のことだ。なのにどうしてマユミは悪いことを考えるのか。 (それより、解放したとき鬼が出るか蛇が出るか。…マユミの癖がうつったのかな) 益体もないことを考えた自分を叱咤し、アスカは素早く頭の中で今度起こることをシミュレートして最もベストの手段を考えた。 手段、配置、対策。 こういった実践的で素早い判断を要することや綿密な作戦立案は受け身のマユミ、レイの得意とする分野ではない。激し易いためリーダー向きな性格とは言えないが、活動的なアスカの仕事だと言える。彼女の本領発揮だ。 「レイがマユミをブースト。私はバックアップよ。万が一、あのメデューサが生きていてまだ戦う意志があったときのね」 それ以上は言わなくてもわかった。 仲が悪いようなでいて…実際良いとは言えない。 とにかく、結構長い間一つ屋根の下で暮らしてきた3人はお互いの考えてることはよくわかる。マユミ然り、レイ然り、アスカ然りだ。 マユミは深呼吸し、アスカは軽いステップで僅かに後方に下がり、レイも一転の曇りも見られない眼差しで黒ずんだ岩塊を見上げる。 戦いにならないことを祈りつつ、でもやっぱりもしそうなったらどうしようとか考えながら、マユミは魔法を使うべく意識を集中させる。 (偉大なるアルス・マグナ[魔法使いの神]よ、神秘なる力の指針を…) 少し瞳が虚ろになり、ぶつぶつと口が動いて魔法の言葉を紡ぎだしていく。 ほぼ同時に手品のようにどこからともなく奇妙な絵が描かれたカードを取り出し、無造作に目の前にばらまいていく。なんらかの力が働いているのだろう、それらのカードは規則正しく彼女の眼前に六芒星の形になるように並び、各々が異なった魔法の光を放った。続いてマユミの握り合わされていた手の隙間から、キラキラと光る煙が立ち上る。…触媒としたオニクス(黒瑪瑙)の粉末が反応し、不可思議な力を放出しながら現実の世界から消え去っていった。魔法という非現実が現実となる見返りとして。 普段なら何ごとか呪文を唱えて、魔法を発動させるというイメージなのだが今回は少々異なる。元々、マユミは言霊を使った魔法より、カードに魔力を込めたり、鍋で怪しげな物を煮て魔法の薬を作るといった儀式魔法の方が得意だ。のんびりした性格の彼女によくあってるし、手間はかかるが言霊による魔法より確実に発動してより強力な術を使うことができる。努力すれば確実にそれに見合った結果を返してくれる…。 (余計なことを考えてはダメ…意識を集中して…心に力を) 大地…地脈に根ざした魔法はマユミの得意とするところは言え、元がアスカと協力して作った魔法の溶岩である。確実に操作するためには充分に魔力をふりしぼらなければならない。 (大地は奏でる私のために。私は歌う。大地と共に) 魔法が現実を浸食し、物理法則を、常識をうち砕いていく。ありえない現実をイメージしていくこと、空想…あるいは妄想こそが魔法の本質であると言って良い。人一倍夢見がちな彼女は、まさに魔法を操るために生まれたと言って過言ではない。岩が自分の意のままに動くことを考え、自分の願いを聞き届けてくれることを願い魔力を集束させていく。余人なら、力無い者ならただの想像で終わる。だが、マユミの絶対的な意志力は現実と想像の境目を曖昧にしていく。魔法の力が全身を血のように駆けめぐる時独特の忘我状態に、マユミは目を閉じて意識を岩柱にだけ向けた。 「大地よ、目覚めよ」 それは時間にして僅か数秒ほどの、とても無防備な瞬間。 (なに?) 全身を淡く発光させるマユミを見ていたアスカは、その常人離れした聴力で何かを引っ掻くような、カリカリという小さな音を聞いた。 ネズミか何かが壁を囓る音によく似ていた。だが、それはそんなありふれたものではなく、恐ろしい予感に襲われたアスカを総毛立たせる音だった。驚いた顔でレイの方を見るが、レイはマユミを鼻歌でも歌いそうな感じで見ている。次いでマユミに目を向けると先に述べたように完全に忘我状態に陥っていた。 2人とも完全に無防備だ。 (まずい…!) 予知などではなく、経験から身につけたアスカの第六感が痛いほど激しく彼女に警告する。総毛立たせながらアスカは叫んだ。 「二人共逃げて!」 「え?」 「………」 レイはアスカの声に反応して反射的に背中を丸めて後方に飛び下がったが、精神を集中していたマユミはその場を動かない。顔を青くして飛び出したアスカの手がマユミの肩に掛かったその瞬間。 白刃が閃き、マユミの体が痙攣したように震えた。 「ま、マユミッ!!」 サクッと竹を割るような軽い音に続いて、ごぼごぼと湯が泡立つような音がする。ビシャッと僅かに粘つく水音をたて、床に赤い水たまりが生じた。水たまりの大きさが広がっていくのに比例して、眼鏡の奥のマユミの目からゆっくりと光が失われていく。 岩柱の表面を突き破って飛び出した10本の刃が、小柄なマユミの全身を貫いていた。 「…ぁっ」 苦痛に目を見開き、喉を刺し貫いた刃に目を向けた後、マユミの口から鮮血混じりの吐息がこぼれた。ぶるぶると体が震えたがそれも一瞬のことだった。ぶるっと大きく痙攣した後、マユミはその場に崩折れた。糸の切れた人形のようにがくりと膝から力が抜け、頭、喉、胸、肩、腹部と全身の急所を貫く刃にもたれかかるように体重をあずける。そのため、剃刀のように鋭い刃は彼女の重みにより、なおもマユミの体を切り裂いていく。 「マユミちゃん!」 「レイ、凍らせて!」 「わかったわ! ウーの子供達よ、契約に基づき現れなさい!」 悲鳴をあげながらもレイはアスカの言葉に従い、刃に向けて小さな雪の精霊『ウー』の子供を取り憑かせた。毛むくじゃらの猿の子供のような精霊がレイの手の平の上に実体化し、彼女の号令一過素早く刃に飛びかかっていく。 【ウー!】 刃に触れると同時にウーの子供は鳴き声を残して消え去った。だが置き土産のようにウーが取り憑いた刃の一部は凍り付き、霜が表面を覆い尽くしていた。すかさずアスカの炎を纏った拳が、急激な温度変化で軋みをあげる凍り付いた刃に叩きつけられる。 カキィーン! 強烈な温度変化に晒され、あっけなく刃は砕け散った。澄んだ音が響き、マユミを刺し貫く10の刃は輝く塵のように周囲の空気に四散する。刃が砕けると同時にマユミの体は解放されるが、意識のない彼女は全身から血を流し、膝から前のめりに床に倒れ込んだ。 眼鏡が遠くに飛び、慌てて駆け寄るレイがそれを踏み割るが、マユミは冷たい床に顔をつけたままピクリともしない。血の気を失い、全身を鮮血で染めた彼女は生きているとはとても思えない顔色となっていた。 「マユミさん!」 アスカの地獄耳に背後で叫ぶシンジの声が聞こえる。彼にも今の惨劇が見えたのだ。すぐにも駆け寄ってくるだろう事は馬鹿にだってわかる。だからこそ、アスカは心を鬼にして叫んだ。今シンジが来たとしても、足手まといにしかならないのだから。 「馬鹿! あんたはそこで鈴原を見てなさい! 今来たって何の役にも立たないわよ!」 「でも!」 「足手まといだってのよ! 邪魔だっての! レイ、マユミをお願い!」 「…あなたは?」 だがアスカはレイの言葉に応えなかった。ただじっと岩塊の隙間から伸びた刃を、その奥にいる刃の主に鋭い鷹のように目を向ける。岩の透き間から、なにか得体の知れない何かが冷たい瞳で睨んでいる…。 突き出ていた刃が唐突に引っ込み、岩塊が震えた。 唇を舐め、髪の毛を僅かに逆立たせながらアスカは猫のように腰を落とし、臨戦態勢をとった。 「まさか生きてるとはね!それどころかまぁだ戦えるなんて!」 アスカの叫びを合図に岩塊に無数の小さな亀裂が生まれ、表面を走っていく。岩塊はまるで雛が生まれる寸前の卵のようにヒビが入り、同時に小刻みに、時に大きく揺れはじめる。 蜘蛛の巣のような亀裂は徐々に広がり、互いに繋がりあって大きくなっていく。そして! ゴガァッ! 天地がぶつかったように岩塊は砕け散り、砕け散ったあとの粉塵の中から巨大な魔物が姿を現した。 粉塵の雲を巻き、血の雨や憎悪の雷を呼ぶ龍神のような姿がかいま見える。 アスカは息を飲んだ。 (信じられない!) 本当に信じられない。アスカ達が使った合体魔法、マグマライザーは2000℃にも達する超高熱の溶岩が全てを焼き尽くす魔法だ。それをまともにくらい、あまつさえその中に閉じこめられてもなお生きているとは。さらにマユミを無力化し、自力でその封印をうち破り外に飛び出すとは! 本当に不死身の化け物なのか? アスカは我知らず震えた。 (…震えてる…私が…) 恐怖に? いや、違う。 「ふ、ふふふふふっ」 喜びにだ。 本気で戦える強敵の存在に、アスカは歓喜に身を震わせていた。ユイやキョウコのように戦っても勝てない相手との戦いとも違う。レイのように一線を越えて戦うことのできない相手とも違う。本当の意味で戦うことができる相手の存在。彼女がある意味シンジ以上に必要としていた存在だ。 こんなとき、こんな状況だというのに、アスカは喜びに震えていた。 そう、普段の姿からはとても信じられないが、戦いを愛し、破壊を好む彼女はやはり悪魔の一員に相応しい。 「くっくっく…。やってやろうじゃないの!」 「きぃ〜〜〜〜!!!」 アスカの気合いに答えるように、ヒカリもまた怪物同然の叫びをあげた。苦痛に喘いでいるのだ。 のたうつ緑の蛇体は先端部分が焦げて完全に炭化してしまい、さらに至る所が焼けこげている。本体部分 ─── 人間の上半身 ─── は火傷に全体を赤く腫れ上がらせ、肩や背中、胸などの皮が融けてめくれ上がっている。さらに背中の翼は煤けて所々骨が露出し、破れ傘のような有様だ。だが、彼女は今だ戦う意志を失っていなかった。 鈍く金色に光る瞳はアスカを、倒れたマユミとそれを解放するレイを憎悪をまき散らしながら睨み付け、バキバキと真鍮の牙を噛み鳴らす。ボロボロになろうとその翼は激しく羽ばたいていた。 普通ならとても動ける、いや生きているのが信じられないような傷だ。 「…殺してやるわ」 だが、ヒカリは激しい怒りもあらわにその身をのたうたせていた。あれだけの大技を喰らったにも関わらず、ヒカリはまだ戦う力を充分に残しているのだ。それとも、命もいらない覚悟なのだろうか。 「化け物め!」 「よくも、よくもやってくれたわね〜〜〜!!!」 岩刳れをはじき飛ばし、這いずった後に体液をナメクジの粘液のように残しながらヒカリはアスカの眼前に迫った。縦に割れた金色の瞳孔がアスカを睨み、左右のお下げを特大の蛇に変えてメデューサの本性を完膚無きまでに現した姿で。 (うわっ…凄い憎悪。今の私の状態で果たして勝てるかどうか…) その体躯はアスカ達の数倍にも達する。 一瞬の気のゆるみも許せない強敵だ。背後で驚いているシンジの声が鬱陶しいと感じるほどの。 「なんだよ、なんだよあれ!? なんであんなのがいるのさ!?」 「五月蠅い馬鹿シンジ! メデューサくらいでおたつくんじゃないわ!!」 「だってだって、蛇の太さは80cmくらいありそうだし、蛇の部分(の長さ)だけで10mはあるじゃないか!」 アスカは言うものの、シンジが驚き慌てるのも無理はない。 自分より遙かにでかい怪物が、ほんの10mほど離れたところにいる。それも途中に遮蔽物の類が全くない状態なのだ。動物園で動物を見るのとは根本的に異なっている。 マユミ達と顔つき合わせて同居してると言ってもさすがに驚くだろう。 「キシャ〜〜〜!」 そのシンジの賞賛のようにも取れる声に煤けた口元を歪めながら、ヒカリは両手の指を鈎爪のように曲げた。同時にニュッと剃刀の鋭さをもった爪が長く伸びる。光を吸い込んでしまったように白く輝く爪だ。 見ただけでドキドキするほどの鋭さを持るその爪を見て、アスカはマユミを膾切りにした刃の正体を悟った。 あの爪だ。 まず間違いない。 ただ鋭いだけでなく恐ろしい力を秘めている。非常に剣呑な武器と言って過言ではない。ノーライフクィーンであるマユミを傷つけることができるのだ。つまり魔法の武器と同じ効果を持っている。これは悪魔であっても傷つくと言うことでもある。尤も半人前の悪魔であるアスカは普通の武器による攻撃でも傷つくのだが。ともあれ、先のマユミの状態から鑑みるに、恐らく+2相当の魔法の武器と同じくらいの効果があるだろう。 「うっふふふ、痛い痛い。体中痛い。はあはあ…。よ、容赦はしないわよ。私の尻尾をこんがり焼いて、おまけにどっかのコギャルかどっかのウサギみたいに全身を赤剥けに焼いてくれたあなたは、特に念入りに切り刻んであげるわ」 「悪趣味」 「ふふふふふふふ。強がりも…そのくらいにしたら。 さっきのノーライフクィーンと違って…あなたは…魔力の補給を…して…ないでしょう? それで…満足に、戦えるのかしら?」 そう言ってふふっと、傷つき汚れていなければ花の精のように無垢で美しい笑みをヒカリは浮かべる。 一瞬その笑みの純粋さに見惚れながらも、アスカは冷静に物事を把握しているヒカリの観察眼に舌を巻いていた。確かにヒカリの言うとおり、魔力を回復させていないアスカの総戦闘能力は20%以下になっていると言って過言ではない。先の見つめるものとの戦いで左腕を失い、なおかつ先ほどのヒカリとの戦いで翼を潰している。確かに満足に戦える状態とは言えない。 だが、そこまで理解してなおアスカの目は光を失っていない。 ヒカリと同じ、いやそれ以上にアスカは戦士なのだ。 「満足に戦えないのは、あなたもじゃないの?」 アスカはにやりと悪魔らしく口元を歪め、尻尾の先端を向けて彼女から見たヒカリの状態を指摘する。 動揺するのはヒカリの番だった。かぶっていた冷静という名前の仮面が剥ぎ取られ、かわって困惑という名前の仮面がヒカリの顔を覆う。メデューサという種族柄、強い立場から弱い存在を見下ろすことに慣れている彼女には、アスカのように決して自信を失わない相手は理解できず、畏怖を感じるのだ。その動揺は声にもはっきりあらわれた。震え、自信が感じられない先細りの声がヒカリの喉から絞り出された。 「な、何を根拠に!?」 その変化を見て、アスカの疑惑は確信に変わった。最初の予想どおり、やはりヒカリは不死身の化け物などではないのだ。 さらに彼女はヒカリは最初の予想ほど体力を残しておらず、なおかつ彼女は口で言うほど戦いが得意でないことを見て取っていた。考えてもみれば当然だ。こんな絶海の孤島に住んでいるのだから。明らかにヒカリは戦いの経験が不足している。だから、決して動揺を見せてはいけないところで動揺を見せてしまう。 「根拠はあなたの体よ!」 指さされ、思わずヒカリは自分の全身を上から下まで見下ろす。一瞬、たとえ生き残っても火傷の痕が残るのではないかと、悲痛な思いにが心に浮かぶ。それはともかく、一体何を言われているのか理解できない。 「なにを…一体?」 「わからないのかしら? あの魔法、私とマユミの合体魔法『マグマライザー』をくらって生きてることが根拠だと言ってるのよ!」 「!!」 そう、あの大魔法を浴びて無傷でいられたら、それこそ正に不死身…少なくともアスカ達の手に負える相手ではない。ユイとかナオコとか、元素竜とかがそれに当たるだろう。だが、目前のヒカリは無事ではあるが、重傷とも言える手傷を負っている。 「つまり、あんたはあの溶岩に耐えるため、通常考えられないほどの耐熱防御障壁、耐火呪文を張り巡らせたということ! そして同時に治療魔法を何度も何度もかけ続けた! 違うかしら?」 「…くっ」 「なんとかそれで命だけは助かったみたいだけど、魔力を全て使い尽くしたみたいね」 ギリギリと歯を噛み締めながらヒカリはアスカを睨んだ。石になるのはまっぴらなのでぷいと目を逸らし、アスカの横顔は薄く笑みを浮かべる。そんな小技に引っ掛かるものかと言わんばかりに。 「違うというのなら、何でも良いから回復魔法を使ってみたら? 素人見だけど、そのままだとあなた遠からず死ぬことになるわよ。 どうしたの? 掛けないの? 掛けないんじゃなくて、掛けられないんでしょ!」 「だったらどうだって言うのよ!」 言い負かされたヒカリは永遠にアスカを黙らせてやろうと口を大きく開き、頭髪の蛇もまた舌を出し、威嚇の毒息を吐きながら一斉にアスカに向かって飛びかかった。ふんと鼻で笑うと、アスカは軽く右手の手首を振った。すっと手首にはまっていた腕輪がアスカの手の平に滑り込む。それを強くと握りしめながらアスカはヒカリの頭上に跳んだ。 「まだ五分と五分だってことよ! メギンギョルズ・ブレードフォーム!」 アスカの呼びかけに答え、腕の中の腕輪が炎を噴き出しながら融けていく。炎の中で揺らぎながら、その形を大きく変貌させる。 輪が溶け合ってインゴットのような形になり、それが徐々に薄く、長くなっていく。 わずか数秒後には、微細で美しい紋様を浮かべていた腕輪は、刃に炎を纏った一振りの剣となってアスカの手の中で刀身を眩く輝かせていた。 その剣こそ全てを焼き尽くすと言われた炎の魔剣『ソード オブ スルト』 かつてとある雷神がハンマーを扱うときの手袋として使い、後にアスカの母、キョウコが賭の代償に奪い取った魔法の道具だ! さらに炎の巨人の王を騙くらかして、世界を焼き尽くす炎の木の枝を封入して作り直させた。そして世界をも滅ぼしかねない力を秘めた魔道具は、今アスカに受け継がれている。 なんてことするんだキョウコさん! 「行くわよー!」 「キシャ───!」 図星を疲れて頭に血が上ったからかヒカリは瞳のない白目で奇声を上げる。完全に魔物としての本性をさらけ出すヒカリにアスカは果敢に挑んでいく。武器は一振りの魔剣のみ。空間に軌跡を残す魔剣を振りながら、アスカは心の中でシンジとトウジに謝った。 (ごめん、シンジ。こいつ倒さないといけない…! ごめん、鈴原。あんたのこと助けられない…!) ここまで重傷を負ってもまだ戦うことを止めない相手だ。恐らく、命尽きるまで戦い続けるだろう。そして決死の覚悟を決めた者を相手には手加減はできない。 「アスカ…」 アスカとヒカリの戦いを見て、自分の無力さに打ちのめされたシンジは呆然と呟くことしかできない。かつてここまで自分の無力さを悔しく思ったことはない。トウジは死にかけ、ケンスケは石と化し、マユミもまた倒れている。そしてアスカとレイは戦っているのに。 自分は何もできない。 悔しかった。何もできない自分が無性に悲しかった。 アスカに来るなと言われ、それに納得してしまって動けなくなった自分が嫌で嫌で仕方なかった。 (強く、強くなりたい。もっともっと僕が強ければ…。 力が欲しい!好きな人を助けられるだけの力が…!) そしてこの時の思いが、彼にとある決心をさせ、それを実行に移させるきっかけとなる。だが、今はそれを語るときではない。 そして…。 アスカ達が戦いを繰り広げるところから少し離れたところでも物語は進んでいる。 そこにはまだ血の滲む喉を押さえ、レイに肩を貸してもらってどうにか立ち上がろうとするマユミの姿があった。全身を朱に染め、白い頬に乾いた血の痕が痛々しい。 どうにか意識を取り戻した彼女は、じっと剣を振るうアスカを、爪を振りかざすヒカリを見つめている。 (だめ、アスカさん。戦ったら、戦ったら鈴原さんを助けられない) なんとか伝えたいが、喉を貫かれた所為で声を出すことが出来ない。つまり、魔法を使うこともできない。マユミはこんなにも歯がゆく感じたことは久しぶりだった。最後にここまで歯がゆく感じたのは、ゼラチナスキューブに襲われたシンジ達を助けたとき以来だろう。 本当ならどうにかできるのに、それができない状況に陥る。シンジとはまた違うが、似たような状況にマユミは悔しさとやりきれなさを感じる。 わずかに涙の浮かぶ目をじっと2人に向けたまま、マユミはきつく歯を噛み締めた。 (なんとか伝えないと。そして戦いをやめさせないと!) 腱を切断された所為で動かなくなった手足に力を込め、レイにすがりながら一歩一歩アスカ達に近づいていく。 ポタ、ポタ、ポタ…。 その度に彼女の体から絞ったように血液が溢れ、床に赤い染みをつくっていく。ドレスが汚れることにも気付かず、レイはマユミを止めようとその体にしがみついた。 「無理しちゃ駄目。死んじゃうわ」 (それでも伝えないと…。彼女は、彼女の意志で戦ってるんじゃないの!) アンデッドとしての目でヒカリを見て気がついたことがある。実物を見るのは初めてだが、マユミはそれが何かはっきりと悟っていた。遠視用の眼鏡がない所為でかえって遠くの物が見えた事が幸いした。 彼女の目が捉えたヒカリの首筋に残る今だ血の滲む傷痕。まるで錆びた釘で刺したような傷が、ヒカリの首に並んで2つあった。勘の良い者なら、それが何かすぐに分かる。 (あれは、あれはまぎれもなく吸血鬼の口づけ) 吸血鬼に血を吸われた者は、吸血鬼の意のままに行動する奴隷となると言う。ヒカリもまた、当人がそうと気がつくことなく吸血鬼の奴隷とされているのだろう。彼女の様な魔物の血を吸うのだから、その直前相当のやり取りがあったはずだ。だが血を吸われたことにより、戦ったことも血を吸われたことも甘美な想い出に感じているだろう。 そして恐らく、命を賭しても侵入者を排除しろと命令を受けている。本人は命令されたなんて気がつくこともなく、ただ血を吸った相手が喜ぶだろうと盲目的に行動してるにすぎない。 (でも、まだ私ならなんとかできる。あの人を正気に戻せる! アスカさん、気付いて!) 「かふっ」 興奮したせいか口から血の固まりを吐き出し、マユミは体を振るわせて咳き込んだ。しばらくレイに背中をさすられながらえづいていたが、どうにか落ち着くと彼女は横で心配そうに自分を見つめるレイに視線を向けた。 当分声を出すことはできない。だが、なんとしてもアスカに伝えなければ。 (綾波さん、お願い) 数秒間じっと見つめ合っていたが、やがてレイはこくんと小さく頷いた。そして名残惜しそうにマユミの肩から手を離すと、踵を返してアスカ達の方へ駆けていった。コロボックルみたいなたどたどしい口調で喋る雰囲気でない、氷のように固い決心を秘めた瞳で。 岩に寄りかかろうとして果たせず、その場に力無く倒れ込みながらも、マユミはじっとレイの背中を見続けていた。 (綾波さん。あなたとアスカさんだけが頼りなの。頑張って!) マユミの願いを受け、レイはいつになく真剣な表情でヒカリ達の所へと駆けた。激しい戦いを繰り広げるアスカの少し後、ヒカリから数m離れたところで止まると、一度マユミとシンジに向かって振り返り、軽く頷く。 (あなたの願い、確かに受け取ったわ) チラッとレイが地面を一瞥した瞬間、どういう理由か氷の線が四方八方に走り始め、奇妙な紋様を描いていく。その精密微細な紋様は美しいと言うより、複雑すぎて見ていると目眩がしそうだ。その魔法陣にレイの指先からこぼれた鮮血が降りかかる。 きちんと魔法陣を描き、生贄を用意した本格的な召還術。一瞬呼び出して能力を使って貰うといった呪文のような使い方ではない。本当の意味での召還を行うつもりなのだ。 氷の魔法陣を書き終わると、レイは両手を広げ高らかと宣言する。 「出よ!我が最強の契約獣、 南極魔獣レイ……あいた」 すかさずそこに全身から血を滴らせたマユミが駆け寄ってきて、どこからともなく取りだした紙を折って曲げて作る──、ハリセンで頭をはたいた。スパーンといい音が響き、一瞬室内の全ての者の動きが止まる。 レイも、シンジも、アスカも、そして…ヒカリも。 「痛いの」 なんで叩くの? と疑問を満面に浮かべ、叩かれた頭を押さえて恨みがましい目で背後に立つマユミを見るレイ。直後、傷口が開いて洒落にならない状態になってるマユミの姿に体を引きつらせて息を飲んだ。 なんというか、『み〜た〜な〜』とか言いながら真夏の怪談に出てきそうな様相だった。 「ひっ」 ぺたりと後ろ手をついて床に尻餅をつき、あうあう言いながら後ずさりする。なんてーか四谷怪談とかに出てくる幽霊とか化け猫映画の化け猫みたいな有様だし、無理ないかもしれんけど。納得できないが幽霊が怖いレイであった。 「ま、マユミちゃん怖いの」 ブルブル震え、知らず知らずに半歩ほど後退する。立ち上がって逃げたいがどうにも腰に力が入らない。 「な゛に゛か゛ん゛が゜え゛て゛る゛の゛!? かはっ!」 まだ喉の傷が癒えず、ガラガラとうがいでもしているようなしゃがれ声でマユミはレイを怒鳴りつけた。そして咳き込み、血の固まりを吐き出す。つつーと口から血が垂れて猟奇的な光景であるし、彼女らしくない行動でもあるが、それくらい焦り、驚いたってことだろう。 半身を折って咳き込むマユミの体を支えながら、レイはなんで怒られてるのかわからないと言うように顔をしかめた。あと、血を吐くほど無理をして欲しくないのか泣きそうだ。 「なにって、マユミちゃんが言うように、あのメデューサを私の最強の下僕でえいってするつもり…違うの?」 「せ゛ん゛せ゛ん゛ち゛か゛い゛ま゛す゛」 「違うの?」 これ以上喋るのは色々辛いので、大きくはっきりとマユミは頷き返した。当然困惑した顔をするレイ。ちょっと悲しそうなのはマユミの言いたいことがわからなかったからか。 「…どうすれば、良いの?」 こんな時にも関わらず上目使いで自分を見るレイの姿を、なんだか可愛いとか妹みたいとか思いつつ、マユミは胸元に手を突っ込むと、分厚い台帳みたいなメモ帳を取りだした。喋るのは辛いから筆談するつもりなのだ。 それにしてもいったいどこに入っていたんだか。学生が使う国語辞典くらいの大きさのメモ帳だというのに。まじまじと見ていたがさっぱり分からない。妙なところが気になるレイだった。 (きっとあのおっきな胸の中なの) 確かに入っていてもおかしくないくらいの大きさだが、それは違うと思う。 ともあれ、髪の毛を一本引き抜き…なにかの魔法なのかそれを筆にすると、サラサラとその台帳に何ごとかを書き付け、辛いのかしゃがみ込んでマユミはレイに渡す。綺麗な字と思いながらレイはじっとそれに目を通した。 (…………?) 2回目を通すとレイは顔を上げた。内容はわかったが、マユミが何を考えてるのかがちょっとわからない。何をどうしたいのだろう? なぜこんな面倒なことをしないといけないのか? 疑問符を浮かべた顔をして、レイはマユミの顔をのぞき込む。もうちょっと顔を寄せたらキスできそうなくらいに間近で。 「殺しちゃ駄目なの?」 どこかシンジやユイに似てるレイの顔を至近距離から見て、マユミはなぜだか赤面してしまった。レイの言ってる内容は洒落にならないと思うけれど。本当にどういう育てられ方をしたんだろ? ただでさえ血が少なくなってるのに、一カ所に集中させたりするからちょっと気が遠くなったが、かろうじて意識を保つとマユミはコクンと頷き返した。 「わかったの。動きを止めればいいのね?」 またマユミは頷き返す。正直、それだけでも相当に辛いようだ。 「手足を切るとかじゃなくて、寒さで動けなくするのね。わかったわ」 それだけ言うとレイはマユミから離れた。面倒くさいことをするんだなと思う反面、少し人の心の機微がわかったような気がする。 (殺すのは良くないこと…) 冷静にこれからのことを考えてみる。 ヒカリを殺してはいけない、なぜならトウジを助けられなくなるから。 正直、最初はトウジとかがどうなろうと余り関係ないと思った。それは今もあまり変わらないかも知れない。 だが、マユミに言うとおりシンジが嘆き悲しむことは予想できた。どうしてか? いなくなるから、会えなくなるから、可哀想だから。自分で自分のために流す涙なのかも知れないけれど、それはとてもとても悲しいことだから。翻って、自分も悲しいから。 トウジのいない世界。 それはレイにとっても少々味気ない世界かも知れない。 トウジは友達だから。 (マユミちゃんの言いたいことはわかった。彼女を、あのメデューサを殺さないで無力化する) 結果は違うが、過程はさっきと同じだ。少し無駄になった魔力を勿体ないと思いつつ、再びレイは魔法陣を描き、召還呪文を唱え始める。 「出よ!我が最強の契約獣、 南極魔獣レイキュバス!!」 力ある言葉が発せられた直後、魔法陣が虹色に輝き、その光の中に巨大な甲殻類の姿が実体化していく。朧気な影のようだった姿が徐々に現実の固さと重さを持っていき、ついには完全に実体化した。喩えて言うなら、直立歩行した巨大な甲殻類…。 海に住む魔物としては最大級の存在の一体。 極地ガニ『レイキュバス』、別名クラーケンクラブ。 今にも大暴れをしそうな恐ろしげな外見だが、見た目とは裏腹に姿を現したレイキュバスは何をするでもなく、じっとその場に立ちつくしてレイからの命令を待っている。時々物説いたげに突き出た眼柄を動かしてレイの様子をうかがうその姿は、ちょっと可愛いかも知れない。懐かれたくはないが。 さすがに魔力をほぼ使い果たしたのか真っ青な顔をしつつ、それでも気力をふりしぼるとレイはレイキュバスの突き出た眼柄をジロッと睨んだ。驚いたのか眼柄を引っ込める。 「…あの女の子の動きを殺さないで止めて。 押さえ込んで周囲に冷気をまき散らすの」 わかったとでも言うように軽くレイキュバスは頷くと、エビの尻尾に酷似した尻尾をばさばさっと数回動かした。 【キキィィ───!!】 どうやって出してるのかわからないが、レイキュバスは一声雄叫びをあげる。声帯があるようには見えないが本当にどうやって鳴いているのか。 床から頭まで6mは有りそうな巨体を揺らし、レイキュバスはザリガニのハサミのような腕を騎士が槍を構えるときのように持ち上げて、アスカと激しく戦うヒカリに向かって突撃を開始した。その傲然たる勢いと騒音に、さすがのアスカもヒカリも戦いの手を休めて視線を向け、 「げっ!レイのヤツ、私ごと押しつぶす気!?」 「ちょ、ちょっとなによあのおっきなカニは!? それともエビなの!?」 同時に引きつった顔をすると大慌てでその進路上から飛び退いた。結果誰も居ない場所に向かってレイキュバスは突進することになる。このまま壁に激突してしまうのか? 【キィ!】 いや、そうはならなかった。レイキュバスも伊達に綾波レイ最強の下僕の名を冠してはいない。大きな主脚とは別の、横腹から無数に生えた小さな副脚を素早く床に突き立て、突撃の勢いを殺さないまま、飛び退いたアスカの方向へと進路を変えた。でかい図体に似合わぬ小技を持っているとは、なかなかの実力者だ。赤く光った眼柄がなんだかとっても得意そう。 ってアスカ? そう、アスカ。 【キィ─オォ!!】 がっちりばっちり、レイキュバスは微塵の迷いもなくアスカめがけて突撃する。 たまったもんじゃないのはアスカである。 今の疲れ切った状態でこんな大物、しかも仲間の使い魔に襲われるなど笑い話だ。勿論、アスカ以外にとって。慌てて逃げようとするが、慌てた所為で床の割れ目につまずき、転んでしまったアスカは悲鳴をあげる。彼女らしくなく、あるいは彼女らしく『きゃー』と。酢豆腐は一口、女の子の悲鳴はキャーに限る。 「きゃー!?」 「ち、違うの! そっちじゃないの!」 アスカの悲鳴の直後、慌ててレイはレイキュバスの背中に声を掛けた。まさかまっすぐアスカに向かうとは予想もしなかった。いや、心のどっかではそうなることを期待してたかもしれんけど。 「違うの、違うの。いかにも悪役だけど、あっちじゃなくてそっち。そっちに突撃なの」 「ってレイ、誰が悪役よ誰が!?」 【キュッ?】 再び床に服脚を突き立てて急ブレーキを掛ける。そして360°以上フレキシブルに動く眼柄を動かしてヒカリを確認し、今度こそレイキュバスはヒカリに進路を変えた。 「ちょ、ちょっとー!?私に来られても困るわよぉ!」 困るだろうなぁ。 巨大なエビガニのお化け、レイキュバスは今度こそ間違いなく突っ込んでくるのだし。激突すればただではすむまい。ゴーレムの体当たり以上の破壊力がありそうだ。本性をさらけ出したヒカリは確かに巨大だが、さすがに目前のレイキュバスには負ける。なにしろ、レイキュバスは某国の探検家に甲羅の上で軍隊が演習できると言われたこともある巨大生物なのだ。 「えぇ──い!」 ならばとヒカリは十ある全ての指先をレイキュバスに向ける。刹那、一斉にその爪は長く伸び、レイキュバスの全身に突き立てられた。恐らく急所だろうと思われる目と目の間、腕の付け根、胴体の中心部分などに。マユミの体を膾切りにした魔力を帯びた魔爪だ。さしものレイキュバスも驚いたように眼柄を動かし、気を抜かれたようにその足が止まった。 (殺った!) 絶対の自信と共に爪を突き立てたヒカリの口元がニヤリと笑う。 が、直後その笑いは朝から夜へと変わるように、ひきつれた物へと変わった。 「抜けない!?」 愕然とした表情でヒカリは指を動かすが、爪と繋がった指はビクとも動かず、下手に動いたら爪が根こそぎはがれそうな痛みが彼女を襲った。確かに甲羅の表面には突き刺さったようだが、奥にまでは文字通り歯が立っていない。 そうこうする内にレイキュバスはハサミを持ち上げると、無造作に爪を鋏む。無骨で巨大なハサミからは想像もつかない丁寧さで一本一本丁寧に爪を掴み、まるでセンベイでも割るみたいに爪を切っていく。そして全ての爪を切ると軽く身震いをした。何でもなかったかのように刺さっていた爪が抜け、地面に乾いた音をたてて転がった。 (どういう甲羅をしてるんだろう?) レイ以外の全員が思わず考えてしまう頑丈さだ。ヒカリの爪は、鋼鉄の板でも切り裂くというのに。 まったくの痛痒を感じていないのか、キュルルと満足げにレイキュバスは鳴き声を上げると再び突撃を開始した。 「えっと、えっと石化! 石化しなさいよ!」 ヒカリは慌てふためき、目の色を変えてレイキュバスを睨むが、どこを見てるかわからない複眼だからか、それとももとから石みたいな体をしてるからか、レイキュバスに石になるような気配は微塵もない。 「石化しないなんて、そんなの不潔よ! 不潔だわ!」 なにが。 石化したら清潔なんだろうか。 それはともかく、爪も石化も通用しなかったことにヒカリは軽い恐慌状態に陥った。 (もう〜〜!! こんな時に魔力を使い果たしてるだなんてぇ!!) そう、魔力があったら先ほどアスカ達に使おうと考えていたクァンタンストリームでもって、一撃の元にレイキュバスをその強固な甲羅ごと粉砕してしまったことだろう。事実、ヒカリの奥義とも言うべき光学系法術なら、レイキュバスの甲羅を打ち抜くことは可能だ。 ヒカリにとっては残念ながら、今の彼女は使うに使えないが。 「だったらこれは───」 ならばとヒカリは尾を持ち上げると一度大きく後方に引く。直後、弓弦から放たれる矢のように勢い良く目前のレイキュバスへと叩きつけた。鞭のようにしなる、大木の太さを持った尾の一撃がレイキュバスの左半身に叩きつけられる! ズゴン 轟音と共に迷宮が揺れた。 さすがにレイキュバスの動きが止まった。虹色の尾がめり込んだ自分の左肩、脇腹にちらりと眼柄を向け、直後口から紫色の体液混じりの泡を吐き出す。 【ぎゅ、ぎゅぶぶぶぶぶぶぶぶぶっ】 「どう!?」 苦痛に身もだえ、体液をまき散らすレイキュバス。体力自慢の魔物 ─── オーガーやブラックハート(オークとトロールの混血種)であっても即死するような一撃だ。 だが、驚異的な防御力だけでなく、驚異的な生命力を持ち合わせているレイキュバスは再度突撃を開始した。最初はゆっくりだったが、すぐに機関車並の勢いとなって。 一歩一歩走るたびに口から泡が、われた甲羅の隙間から体液が出るが気にしない。事実、彼(?)にとってこの程度は痛手の内に入らないのだ。左腕はしばらく使い物にならないかも知れないが。 しかしやっぱり彼は気にしない。邪魔なようなら引きちぎるまでだ。 爬虫類や両生類の生命力は確かに人間なんかに比べたら凄まじい。だが、体を文字通りパーツのように扱える節足動物の生命力はそれを上回る。頭が無くなったから死ぬのではなく、頭…つまり口が無くなって物を食べられなくなるから死ぬ。そう言う生物だ。 「なんで動けるのよ!?」 確かに先の尾の一撃は多少のダメージを与えたようだが、痛いのはヒカリも同様だった。それでなくとも痛いというのに、レイキュバスの甲羅には至る所にとげが生えている。果たして、本当に痛い目にあったのはヒカリなのかレイキュバスなのか。 (どうする!? もう一度尾で? それとも逃げる?) 逡巡するヒカリであったが、考える前に行動するべきだった。 なぜならレイキュバスは目の前にいたのだから。 【ギュオォォォン】 前も述べたが蛇身のヒカリは素早く動く、正しくは移動することが苦手だ。場所が砂漠や沼ならば横這い蛇のように高速移動もできようが、今いるところは荒れた石畳の迷宮内部だ。人が走る以上の速度で移動することなど、とてもできた話ではない。 で、 「きゃぁぁぁぁ!?」 手で顔を覆い、上半身を仰け反らせたヒカリの腹部に硬い物がぶつかった。真っ向からレイキュバスに体当たりされ、ヒカリは胴体をがっちりとハサミで捕らえられたのだ。腹部の衝撃と嘔吐感に顔をしかめながらもヒカリはか細い手でレイキュバスの頭を叩き、身を捩ってじたばた暴れるが、レイキュバスは彼女の抵抗をどこ吹く風と受け流す。事実、煉瓦を砕けるとは言え、ヒカリの一撃程度では鋼鉄の弾丸だって弾いてしまうレイキュバスには些かの損傷を与えることは出来ない。 「くっ、放しなさいよ!」 【キュルルッ!】 レイキュバスはよりしっかり押さえつけようと副脚を伸ばし、ヒカリの胴体に絡みつけた。 それだけではない。 突然、レイキュバスの腹部の甲羅が内側からこじ開けられるように開いた。一瞬、そこから大量のレイキュバスの卵か幼生でも飛び出すのかとヒカリやアスカは怖気をあげたが、実際起こったことはある意味彼女達の予想を超えていた。 闇の中から魔法の光の元へ ──── ぬらついた無数の触手が飛び出した。 「しょ、触手ー!?」 アスカの驚きの声が響く。 レイキュバスの腹部から飛び出したのは、卵や幼生ではなく、頭足類 ─── それもイカ ─── に酷似した無数の吸盤に覆われた灰色の触手だった。腹部の闇の中に、まん丸とした巨大な目が光る。 「え? お腹の中に、別の生き物が…いる?」 正にその通り。腹部から灰色をした胴部分だけで5〜6mはありそうな甲イカに似た生物が姿を現した。器用に短い触手を足のように動かし、長い触手を踊ってるように空中で振りながら。 レイキュバスの腹部には、極地イカ(クラーケンスクイッド)の亜種であるゲゾラが寄生しているのだ。普段はレイキュバスの体液を吸い、完全に依存しているが事あらばレイキュバスの命令に従い、行動を開始する共生相手として。 【キュル】 【ウジュー】 「会話? まさか、でも…ってきゃあっ!?」 突然触手が蠢き、あっと言う間にヒカリに絡みついた。 前も後もがっちりと捕らえられるヒカリ。うんうん、なんだかいやらしいぞ。なんと言っても彼女は上半身だけ見れば裸の美女なわけで。髪は蛇だけど。 そんでもって、そのままもきもきと蠢く足つーか手というか。 ヒカリの顔が恐怖に引きつった。もしかしたら、さわさわと羽で撫でるようななんとも形容できない感覚がお腹の辺りから走るのかも知れないが、あいにく今のヒカリは全身大火傷状態で羽で撫でられただけでも苦痛に感じてしまう。当然、ごつごつとした甲羅が押しつけられているヒカリは苦痛に喘いだ。 「ひ、ひぐっ! あう、いたっ! や、やだっ!」 涙目になってヒカリはレイキュバスの頭をなおも叩く。弱点のように見える眼柄、口部、触覚などを重点的に。さらにゲゾラの触手に爪を立てる。だがそれでなくとも大きさが違うレイキュバスは眼柄を引っ込めただけでまったく動じない。ゲゾラに至ってはなにかされたことに気がついているのかいないのか。 「あうう、不潔よ! こんなこんなことって! ふああ、たすけ、誰か助けて!」 一瞬、ヒカリの脳裏に浮かぶのは、数ヶ月前に出会った銀髪の青年。 もちろん、都合良くその青年が姿を現し、ヒカリを助けてくれるなんて虫のいい願望でしかない。そもそも、たとえその青年がこの場にいたとしても、彼女を助けただろうか? 「助けてタブリス様!」 (助けるはずがないわ! ああ、わかってるのに! 頭ではわかってるのに!) 心の奥底、本当のヒカリの心ははっきり断じる。あの青年が助けるわけがない…と。そもそも助けられたくない。いくら美男子であっても、その青年は彼女が最も嫌うタイプだったのだから。そして彼が自分にしたことと言えば…。 本当はアスカ達と敵対することをやめたい。だが、体は引きずられるように暴れ、戦うことをやめようとしない。自分で自分の体が自由にできないもどかしさに、ヒカリは心の中で泣いた。 (どうして、どうしてこんなことに…!) 今でも思い返せる。 その青年が闇を纏い、無数の蝙蝠や眷属をひきつれてこの島に、ヒカリの目の前に姿を現して行ったことと言えば…! 全力で立ち向かうヒカリを腕一本でいなし、闇の檻で囲って完全に無力化した。そして青年はヒカリの哀願を綺麗に無視し、勿体ぶった動きで彼女を抱き寄せ…細首に牙を埋めた。 背筋がゾクゾクとする性的絶頂にも似た甘美な苦痛、血を吸われる力が抜けていく感覚、替わりに何かが体の中に入ってくるおぞましい感覚。 その時からヒカリはヒカリでなくなった。 本当のヒカリはなりをひそめ、心の奥底の牢獄に閉じこめられた状態で操り人形の人格が好き勝手するのを眺め続けている。その青年が言った、『御子を宿した存在』が来たとき、それを排除するために。 本来なら資格を持った存在が来たとき、迷宮の奥へと案内することこそが彼女の先祖から受け継いだ仕事だったはずなのに。 「ぐぅ…!」 締め付ける力に抵抗したせいか、ヒカリの口から熱い液体…血が溢れた。魔力という魔力を振り絞ったことで内蔵に負担がかかり、出血したのかも知れない。 (っもう、駄目。戦えないわ。でも、この体は…!) なんとか魔力を補充し、神聖力でもって傷を癒さない限りあと数分でヒカリは死んでしまうだろう。つまり、今の彼女は意識があるだけでも奇跡的な状態だ。 だが、体は変わらず暴れ続ける。レイキュバスが困惑するほどに。棘だらけのレイキュバスの甲羅に尾を巻き付け、ギリギリと万力のように締め付け始めた。わが身を省みない攻撃に、レイキュバスの口から苦しげに泡が漏れる。 「死ぬ気なの?」 そのわが身を省みないヒカリに、アスカは戦慄の呟きを漏らした。 「おやりなさい」 遂にレイは命令を発した。 押さえ込めば充分かと思ったが、ヒカリの抵抗は依然やまない。最終手段に踏み切ったのだ。レイキュバスの眼柄がレイに確認するようにちらりと揺れた。 【ぶぅわぁぁぁぁぁ】 直後、レイキュバスの口、甲羅の隙間、関節の継ぎ目からドライアイスの煙のような物が一斉に周囲にまき散らされた。同時にゲゾラの目が光り、ヒカリに絡みついていた触手の表面に霜が浮かぶ。 「!?」 狂気の光を目に浮かべていたヒカリも、さすがに困惑したのか動きが緩んだ。白い煙はまとわりつくようにヒカリの周囲に集まり、ヒカリの裸体をキラキラと輝かせる。わずかに遅れて火傷の苦痛に引きつる全身を身を切るような冷たさが襲った。 「か、かはっ! この冷気は!?」 液体窒素とまでは言わないが、氷点下の状態で初めて液体となるレイキュバスの体液。そして周囲の熱を吸収して締め付けた対象物を氷点下の冷たさで凍り付かせるゲゾラの触手。どちらも触れたただけで相手を凍らせることができる。無論、ヒカリだって例外ではない。いや、それでなくとも寒さに弱い彼女だ。その効果は如何ばかりか。 「あ、ああ…寒い、寒いわ。太陽よ、光よ、私に力を…」 祈りの言葉も中途半端になっていく。 動きが億劫になる。吐く息は真っ白で、ただ目を開けていることがそれだけで苦痛だった。手に力が入らなくなり、巻き付けた胴体から感覚が消えていく。髪の毛の蛇は鱗に霜を浮かべて一足先にだらんと垂れ下がり、完全に意識を失ってしまった。蛇の部分より耐性のある人間部分はなおも足掻くが、氷柱まで垂れ下がりだした時点で勝負は決した。 スタッと着地音も軽やかに、影がレイキュバスの頭の上に立つ。 マユミを抱えたアスカである。 もはや目だけしか動かなくなったヒカリは、憎悪に燃えた瞳を2人に向ける。 「き…き………よくも、私を…」 心配そうにアスカはマユミに問い掛けた。 「マユミ、本当に大丈夫なの?」 「…はい。今、彼女を解放してあげます」 もう回復したのか、小声ではあったがいつもと変わらない澄んだ声でマユミはそう言った。まだ完全回復にはほど遠いが、さすがは無機王の再生能力と言うべきか。 マユミの手が白く霜を張り付けたヒカリの首筋、そこだけまだ熱い血を滴らせる傷痕へと伸びる。 (な、なにするの!?) (黙ってなさい!やっと、やっと私は解放されるの) 目だけ動かし、表のヒカリの意志は激しい拒絶を瞳に込めてマユミを睨み付ける。だが、マユミはその奥、つまり本当のヒカリの意志のメッセージを受け取ったように躊躇も戸惑いもなく、白い細指をヒカリの首筋の傷口へと埋めた。さながら別の生き物になったかのようにマユミの指が潜り込んでいく。自分の指先が凍り付いていくが、マユミは委細構わず指を埋めていく。 「ぎ、ぎぃぃぃぃ!!!」 苦痛に凍り付いた体を軋ませ、目を裏返しにしながらヒカリは悲鳴をあげる。傷口からは鮮血がこぼれるが、かまわずマユミは指を動かし、傷口を抉るようにしながら何かを探し求める。 「あうううぅぅぅぅ!!! きぃああああっ!! ひぃぃ────!!!!」 「うう、見てらんない」 間近で悲鳴を聞かされ、気分が悪くなったのかアスカは口を押さえて俯く。仕方がないこととは言え、よくマユミはこう言うことができるなと思いながら。 (もう少し、もう少しだから…頑張って) 本当のことを言うならば、マユミだって平気ではない。耳元で聞かされる怨嗟と哀願の悲鳴、手から背骨を通って脳に伝わる肉の感覚。決して慣れる感覚ではない。 正直なところ、マユミは今にも卒倒して吐きそうだ。貧血を起こす寸前の感覚が、また彼女の心を責めさいなむ。 黙々とマユミはヒカリの傷口を抉って何かを捜す。トウジの傷を手当したときのように、顔は平気なようでいて、心はそうしなければいけないからと鬼にして。 指を第2関節ほど潜らせたとき、なにか硬い物がマユミの指に触れた。骨ではない。もっと硬く、すべすべとしている。 (あった!) 意識をそれに集中させ、ごく限定的な範囲にのみ影響するテレキネシスを併用しながら、ゆっくり、ゆっくりとそれをヒカリの傷から引き抜いていく。血管や神経を傷つけないように、丁寧に丁寧にゆっくりゆっくり。ヒカリが暴れることも考慮に入れながら…。 そして永遠とも思える数分が過ぎ、ついに魔法の光の中に輝く2つの結晶が姿を現した。 「やったわ、取れた」 「ひぃぃぃ……ふぅ」 同時にヒカリは意識を失ったのか瞼を閉じて大人しくなり、レイキュバスに寄りかかるようにして意識を失った。ヒカリが動かなくなったのを確認した後、アスカはおずおずとマユミの手の中で光る結晶を見つめた。 「それが…?」 マユミはコクンと頷き厳しい顔をして、掌中の結晶をじっと見つめる。 ヒカリの血に濡れた橙色の結晶体。水晶の結晶のような形をしており、ガラスのように透き通っている。注意深く見ないと色ガラスか何かと勘違いしてしまいそうだ。 だがこれこそがヒカリを凶暴な狂戦士(バーサーカー)へと変えていた元凶だ。 「吸血鬼の宝石…か」 「宝石なんて良い物じゃないんですけどね」 「しかし、たったこれっぽっちの量で人間…ってメデューサだけど、あそこまでかわるものかしら?」 「それはわかりません。元々強烈な性格だったのかも知れませんし、あるいはそれだけ血を吸った吸血鬼が強力だったのか」 吸血鬼の唾液の極少量が犠牲者の体内にはいると、抗体反応を起こしてこのように結晶化する。そして血を吸われた人間が血を吸った人間に異常なまでのカリスマを感じ、意のままに行動するようにさせる。血を吸われる…つまりは体内に残る結晶の量が増えるたびにその度合は高まっていき、ついには自殺しろと言われても喜びながら窓から飛び降りるくらい平気で行わせる。そして最終的には、血が体内から一定量以上減ったとき、結晶が一定量以上になったとき、結晶はかわりに溶けて血管の中を流れるようになる。その時、犠牲者は吸血鬼の意のままに動く食屍鬼(グール)になるという。 ぶるっと身震いすると、アスカは改めて結晶に目を向けた。人間ならともかく、メデューサを意のままに操るほどの吸血鬼。しかもマユミが言うには血を吸ったのはたったの一回だろうとのこと。それであそこまで身を捨てた攻撃を行わせるとは…。喩え性格があったとしても。 「できれば遭いたくないわね」 「そうですね。並の吸血鬼ではなさそうです」 それが願望に過ぎないことは、言ったアスカも、マユミもわかっていた。 きっと、遠からぬ未来に彼女達はその吸血鬼と顔を合わせることになるだろう。 「一応、彼女は正気に戻ると思います」 「正気…ね。まともな性格であることを祈るわ」 冷気をアスカの炎熱魔法で追い払い、程良く暖まった室内にて。 シンジ達の荷物の中にあった毛布が地面に敷かれ、その上に全裸のヒカリが横たわっている。その横にはマユミが膝をつき、アスカが厳しい顔をして立っている。ちなみにシンジは「見ちゃ駄目」と三人が三人ともに言われ、レイの監督の元、ツルハシ片手にケンスケの掘り出し作業をさせられている。 作業をする彼の背中を見た感じ、すっごい心の残りがありそうな感じではあるが。 シンジのそんな態度と様子にむっとしつつも、人間体となったヒカリの体の隅々まで、マユミは手に持ったブリキ缶の中身を塗りつけていく。真っ白で片栗粉を混ぜた水のようなとろみを持った液体だ。ちょっとアスカが狙ってる物に見えないこともない。もちろん、そんなわけなく、マユミが言うには火傷に良く効く薬らしい。 胸やお腹、手足などすぐ目に付くところは言うに及ばず、髪の毛に染み込ませるように頭皮、耳の裏、足の指の間にも丁寧に薬を塗りつけていく。どっかの料理店みたいな細かさだが、それくらい全身くまなく大火傷だったのだから、当然と言えば当然か。 少々硬そうだが形の良い乳房に始まり、つんと尖った乳首、なだらかなお腹、ふっくらした安産形の腰回り、健康的な太股まで濡れてテラテラ光り、我知らずごくりとアスカは唾を飲む。本人が好む好まないに関わらず、淫魔である彼女は他者の裸 ─── 異性同性問わず ─── にはやたらと興奮してしまう。 誤魔化すようにヒカリの体から目を逸らし、ブリキ缶に蓋をするマユミに話しかける。 「ねぇ、その火傷の薬ってどれくらいで効果を出すの?」 「ほんの数分で効き始めて、1度の火傷が2、3分、2度で15分、3度でも90分くらいです。これで完治は無理ですが、少なくともほっといたら死ぬって事はなくなると思います。 えへへ、実はこれ兄が私に作ってくれたんです」 「え?」 「じつは、私の兄が、火傷してむずかる私のために、ずっと昔…」 「そ、そんな薬使って大丈夫なの!?」 遠い目をして言うマユミにアスカはちょっと驚く。マユミに兄がいたと言うことも驚きだが、一体いつの時代の薬なのかともの凄く不安だ。 アスカの疑問にすぐ気がついたのか、マユミは苦笑しつつ手を振った。 「あ、違いますよ。いくらなんでもそんな。 製法を覚えていて、後で私が作り直した物です」 「なんだ、驚かせないでよ」 とか言いつつアスカは肩をすくめた。どこかわざとらしい臭さを持った動作だが、戦いが終わったことを感じさせる仕草であった。心の底からホッとする。そんな仕草だ。 (やれやれ。こんな会話にホッとするなん…て?) その時、アスカの目はちょっといや〜んな物を目撃してしまった。アスカの方を見ているマユミは気がついていないようだ。しかし、これは問いたださないわけにはいくまい。 ごくりと唾を飲み込むと、アスカは恐る恐る尋ねた。目はヒカリに固定したまま。 「ねぇ、マユミ」 「はい」 「この薬の原料って何?」 「…色々ありますけど、主原料は泥スライムです。でも、それがなにか?」 ちょっと固まる。 事も無げに言うが、泥…すらいむぅ? なるほど、それならこの現象も納得…するわけない。 「あんた…そんなもんが混じった薬をこいつの全身に塗りつけたの!?」 「え、それがいけませんか?」 なにもわかってないマユミの言葉に、アスカは全てを悟った。たぶん、マユミのした火傷というのは指先にちょっととか、そう言う状態だったのだ。そしてすぐに洗い流したのだろう。だから、彼女が何も知らなかったこともある意味無理はなく、彼女を責めるのは筋違いかも知れない。いや、ある意味そんな薬だからこそ、死んでいてもおかしくない彼女を助けることができるのだろう。 でも。 「いけないもなにも…。動いてるわよ、その薬」 「え゛?」 確かに動いていた。ヒカリの裸体を包み込むようにざわざわと。 目の錯覚かもと自分を誤魔化しつつ、ふところから予備の眼鏡を出すと、レンズにヒビの入った今の眼鏡と取り替える。やっぱりなんか動いていた。 そしてそれに合わせて意識の無いはずのヒカリは顔を紅潮させ、体を弓なりに反らせて「はあ、はあ」と荒い息をもらしている。時々体がビクビクッと痙攣してる所なんか理由を考えたらいけないぞ。少年よ、感じるんだ。 「あ、ああ…。はあっ!あ、ひっ、くぁぁ!」 足の付け根の間や胸の双丘に薬、改め薬スライムが特に集まってるの気のせいだろうか。スライムは乾燥に弱いから水分の多いところに集まるって言うけれども、それと関係しているのだろうか。あきらかに薬スライムと質感の違う水音までしてるのは何故だろう? 「えっとぉ…」 カラクリ仕掛けのようにつっかえつっかえ首を回し、ヒカリを、次いでアスカの顔を見る。なんて言うか、ヤバイって感じだよね。とりあえず、兄(加持)に会えたら軽く殺す♪ 「………この薬、今後使わないことにします」 「今更遅いんじゃない?」 火傷なのかそれとも別の理由か、ピンク色に紅潮した肌を震わせながら、ヒカリはそれから数分間甘く、熱い声を上げ続けるのだった。 「もう、もう駄目! ああ、そんな所ぉ! い、いやぁぁぁぁ!」 「知らないわよ、私」 「実は怒ってたのね、マユミちゃん。怖いの」 「アスカさ〜ん、そんな目で見ないで下さい〜。綾波さんもそんなこと言わないで〜」 「…声だけなんて生殺しだよ。誰か僕に優しくしてよ。…いてっ」 馬鹿。 そう呟き、誰かが投げた石がシンジの頭に命中した。 続く 初出2002/12/08 更新2004/12/26
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