「お前たちが俺のことをどう思っているか、よーっくわかった」
「やだなぁ、ケンスケ。僕たち友達じゃないか」
「せやせや。友達やろ」
「都合の悪いときだけ友達言うな!」

 背中を向け、胡坐をかいて座り込むケンスケに、シンジ達はそんな説得力のないことを言うので精一杯だった。尤も、当人たちも自分たちの言葉に説得力がないことは、火トカゲが水を嫌っているという事実と同じくらいに承知してはいたのだが。確かに石化を解除し、怪我も治した。だが石化していたにも関わらず、自分が忘れられていたことを漠然と予想していたとまでは思ってもいなかった。さすがは経験者。

(しつこい…と言うより、執念深いんよねケンスケは)

 しかも彼の引っ掛けに乗ってしまうシンジもシンジで情けないと言える。



『友情って…なんだろうなシンジ!』
『ええっ、気づいてたの!?』
『…って本当に忘れてたのかお前らー!!』




 何回引っ掛かれば気が済むんだろう。たぶん粗忽なところは一生治らないだろう。
 それはともかく、シンジは、鳥の獣人みたいにキシャーキシャーとわめくケンスケを横目に考える。仮に自分達がケンスケと同じ立場だったとする…説得…無理、だめ。

(無理だ。僕だって怒る)

 説得できるはずがなかった。
 まだゴブリンやオーク鬼の集団と戦うほうが楽だ。今なら1人で20人以上のオーク鬼を相手にしたって良い。今なら自分ならきっと勝てるし。
 すぐに頭を振ってシンジは考えを改めた。妙な現実逃避をしている暇はないのだから。説得しないわけにはいかない。
 だからシンジは、困った困ったと全身で言いながら言葉を続けた。

「そんな…。都合の悪いときだからこそ友達を強調するんじゃないか」
「余計悪いわい!」

 こめかみに血管を浮き上がらせてケンスケは叫んだ。石化解除直後なのにまったくもって元気だ。微妙に人間離れした生命力の持ち主なだけはある。まあ、喩え病み上がりといっても彼が珍妙な格好で石になったのを忘れて放置していたのだから、彼が渋るのも無理はない。
 しかし、だからと言っていつまでもむくれている訳にもいかない。本来なら見つめるものの食事になっていたのだから、助けてもらったことに関しては礼を言うべきだ。それは彼にもよくわかっている。だから、平謝りに謝るシンジたちを肩越しにちらりと見て、深く大きなため息をひとつ。
 友達をやめることは簡単だけど、そう簡単に縁を切れるほど浅い付き合いをしていたわけじゃないし。それに、シンジと縁を切ると言うことはトウジとも縁を切るということに、何よりアオイとの接点が激減する。その趣味ゆえに女性にもてない彼に、肉親以外で親しげに接してくる女性だ。もう二度とないかもしれない、少なくともこの世界では。
 なによりアオイは赤いランセルが似合いそうな幼女だ。しかもエルフの血を引いている。つまり、長期間幼女のまま。人間である彼が大人になっても幼女のままだ。金髪のちっちゃい女の子だ。広いストライクゾーンを誇る彼の趣味一直線で素敵過ぎる。



(ここで友情を終わらせる…アオイちゃんとの接点が減る。それはいやだ)



 自分に正直な男、相田ケンスケ。後に第三新東京市の悪夢と呼ばれることになる男。

「…まあいいさ。助けてくれたのは事実だし、だからなんとかこうして無事にいることができるんだからな」
「ケンスケ!」
「わかってくれたんか」
「でもそれとこれとは別だからな!」

 まだわだかまりはあるようだけど、打算ずくではあるけれど、気持ちの切り替えが早いのはさすがだった。この辺りは魔物の闊歩する世界に生きる人間らしい。種族の敵がいる世界で、同族同士で争うのは馬鹿げているというわけだ。

 なんだかんだ言って仲が良いわね。

 退屈そうに横で見ていたアスカ達はそう思った。ただ、しばらく見ていたところ、ケンスケが怒っているのは、シンジよりも微妙にトウジに対してなのが気になったけれど。血管の浮き上がったケンスケの目は、奥に憎悪の炎を燃え上がらせながらトウジを、そしてその横で…心配そうにトウジのすぐ横に立つヒカリを見ていた。トウジの二の腕を、ぎゅっとしがみつく様につかむヒカリの指…。彼女の気持ちはシンジとトウジ以外なら誰でもわかる。
 決して当人達は認めないだろう、少なくとも今はまだ。でも。
 喩えヒカリがケンスケの趣味から外れていたとしても………ギリリッとケンスケの奥歯が鳴った。

(…トウジですら!!)

 男の友情なんてこんなもんだ。













Monster! Monster!

第29話『遊兎伝』

かいた人:しあえが









 話はまとまったのかな?

 成り行きを見守っていたヒカリは、恐る恐ると言った感じでトウジ達に目を向ける。恋する乙女の微妙な視線は主にトウジに注がれる。何というかわかりやすすぎです彼女。
 しかしながら、トウジはすぐ横に立つヒカリの熱視線に気づかず、共通語と比べて奇妙な訛りのあるカンサイ語でシンジ達と話をし続けている。さっきまでのギスギスした雰囲気が嘘のようだ。
 命を助けたのにその恩も忘れてトウジ達に敵意をむき出しにするケンスケを、一時は敵を見るような目で見たけれど、どうも彼らの間ではこれが普通のことらしい。喧嘩したり激しく議論したかと思えば、次の瞬間には笑いあっている。羨ましいとは思わなかった。ただ困惑した。

(男の人って…やっぱりよくわからないわ)

 それともこれはトウジ達だけなんだろうか。父親の記憶があればもう少しわかったかもしれないけれど。不安げに、彼女の跳ねた前髪が揺れる。こういう時、色々とアドバイスをしてくれた姉はいない。自分で考えるしかない。

(喧嘩じゃないなら…安心していても良いってことなのかしら?)

 横目でアスカ達を見ると、まったく心配している様子は見られない。レイは無関心なだけかもしれないが、アスカとマユミは気楽に、そしてどこか楽しげに、肩を叩き合って今頃無事を喜ぶシンジたちを見ている。

 アスカもマユミも、話半分に聞いただけだが外の世界、つまりは人間世界に来てまだ日が浅いらしい。要するに、彼女達もまた、完全にシンジ達を理解しているとは言えないのだろう。だから半ば劇でも見るみたいに彼らのやることを見ているのだ。
 あまり助けになりそうになかった。


(この人たちもよくわからないわ)

 わからないと言えばアスカたちもそうだ。
 一見人間に見えるけど、正体は魔物なのだから。

 腕を組み、意味もなくモデルのような立ちポーズをしている…アスカ。
 燃え盛る炎で熔かされたような黄金の髪の毛が目に眩しい。瑠璃でできているように深く青い瞳が自分を見るたびに、自分とは住む世界の違う高貴で近寄りがたいものを感じる。同時に憧れも。肌は肌理細やかで、背が高くてまるで芸術画か黄金率というタイトルの彫刻が動き出したのではないかと思うくらいにスタイルが良い。自分が男だったら、きっと惚れていたと思う。だが女である彼女は憧れに似た感情を持つ。ほんの一欠けらでも良いから、彼女の美しさを持つことができたら…と。
 きっとドレスアップして社交界の場に出席したら、誰も彼女をほってはおかないだろう。

(惣流さんにはきっと黄色か、赤いドレスが良く似合うわね。髪は結い上げてティアラで飾って…。そしてそんな彼女を誰も無視できないわ。美女を見慣れた諸国の王子様だって)

 そして彼女の正体を知っても、男たちは無視できない。死が目前に迫ったとしても。

 女である自分ですらそうなのだから…。
 彼女の、アスカの正体は淫魔…地獄の奥底で蠢く悪魔の一員。
 本来なら地上に姿を現すどころか、地上に肉体を持って現れるなどあるはずがない。どんな事情があるのか…。それを想像し、ヒカリはゴクリと唾を飲み込んだ。そんな大した事情じゃあないんだけれども。

 ただ、露出狂もかくやと言う位に肌を露出させた衣装は困惑した。隠れているのは乳房の下半分と、腰の周囲くらいでしかない。しかもやたらヒールの高い黒革のブーツを履いてるし、まるで女王様と呼ばれる仕事に従事している人みたいだ。でもその手の格好は、もう少し育ってからするべきだとヒカリは思う。

(この辺の趣味はわからないわね)

 自分のことを棚に上げてヒカリはそう思った。


(そして一見まともそうに見えてこの人も)

 視線を感じたのか、『?』と疑問符を顔に浮かべ、不安そうにマユミはきょろきょろと首をめぐらせた。右手の指を口元に当て、なおかつ左手を右手に添えてこれ以上ないくらい不安そう。縁のない眼鏡の下の瞳は不安そうに瞬き、キューンキューンと鼻を鳴らす声が聞こえたような聞こえないような。
 そのおどおどした態度が、本当に犬、それも母犬から引き離された直後の子犬みたいにヒカリには思えた。

(い、いぢめたい)

 いぢめちゃダメです。
 うずうずしてしまう自分に信じられないものを感じつつ、ヒカリはマユミの頭の先からつま先まで舐める様にじっくりと見た。
 アスカとは対照的に、露出しているのは顔だけと言って良いくらいきっちりとしている。彼女の身を包むのは、黒炭よりも黒い、彼女の髪の毛と同じくらい黒いローブ。影に潜めば何も見えなくなるくらいに黒い。しかしただ黒いのではなく、微妙に輝きを持っているように見える。闇の中に彼女が立ったら、どんな風に見えるのだろう。そして体にぴったりとしたその服の上から、足元まである黒いマントをまとって、傍目から見たら森の奥の一軒家で魔法の薬(ポーション)を作っている魔女そのものだ。いや、事実彼女は広い意味で言えば魔法を操る女、魔女なんだけど。それにしてもそれだけきっちりと身を固めているのに、それでもまだ不安そうだ。今もヒカリの視線が気になるのかもじもじとしている。

(惣流さんとは対照的ね)

 恥ずかしがり屋なんだろう。もしかしたら、ほかに潔癖症なところと視線恐怖症に似たものを持っているのかもしれない。

(無理ないかもしれないけど)

 おとなしい性格だから余計に衆目を集めてしまうのだろう。しかも一見スレンダーに見えるマユミだが、その服の下にはアスカも唇を噛むような、出る所は出て引っ込む所は引っ込んでいる素晴らしいプロポーションであることをヒカリは知っている。
 そんな内気な文学少女に見えるマユミだが、その正体は魔物の一種、無機王(ノーライフキング)だと言うのだから世の中わからない。普通なら昼でも闇に包まれた秘密の研究所で、密かに、静やかに、邪悪な魔法の研究を続けている。永遠の夜を呼ぶ研究であったり、死を超えた生への尽きせぬ研究であったり。
 吸血鬼以上に冷徹で、無慈悲で、強力な魔物のはずなのに。

(こうしてみると心配性で臆病な女の子以外の何者でもないわね)

 そんな彼女がこうしてこの場にいる理由を想像することもできないヒカリだった。


(なにより、彼女はいったい何者なの?)

「綾波さん、眠いんですか?」
「…そうなの? そうかもしれない」

 赤い瞳と青みがかった銀髪の美少女、綾波レイ。雪を織り上げたような白いドレスを身に纏った、雪原に咲いた一輪の花。神秘的とか、幻想的なという言葉は彼女のためにあるんだろうとヒカリは思う。ただ黙って立っているだけでも、人は心と魂を奪われ、凍てついた様にその場に立ち尽くしてしまうだろう。
 だが、今の彼女は瓦礫の上にドレスが汚れることもかまわず座り込み、眠そうに舟をこいでいる。まるで十に満たない幼子みたいに。座り込んだ彼女の周囲でキラキラと光る霜が不思議な光景だった。

「はい、私に寄りかかって」
「…眠いの」

 マユミが側に寄り、フラフラしているレイの頭を受け止めると、乱雑に刈られた髪の毛が、まるで彼女の意思に同調するように力をなくした。ちょっと困ったと顔で言いながら、マユミはレイの体を優しく抱きとめてやっている。まるで母親か、かつての自分が妹のノゾミにしてあげたのと同じように。少し羨ましいとヒカリは思う。

「柔らかくて気持ちいいの」
「あの〜揉まないでくれます?」
「…ケチ」

(近寄りがたく感じたけど…なんだか見ていて可愛いと言うより変な人ね)

 もう少し可愛いところと雪の結晶のような美しさを見せてほしかったけど、今は横に座ったマユミの胸に頭を預けるようにして、すっかり夢の世界の住人になってしまっていた。そのぷにぷにしたほっぺたを突付きたい衝動に駆られ、ちょっと葛藤するがなんとかヒカリはこらえた。

(彼女はそのまま社交界に登場できるわね)

 もしかしたらもうしているのかも。でも、壁の花になっている可能性が高いかもしれない。
 幼さを残したまま大人になりかけている美少女とでも言うべきか。その雰囲気はアスカのように華やかなそれとは異なり、反って気後れさせてしまう。もう少し大人になったらどんな素敵な女性になるのか。雪のように冷静で、氷河のように雄大で、氷柱の様に凛とした女性になることだろう。

 レイは人間界に住み着いた妖精達の女王『スノーホワイト』とそんなに威張れるほどない胸を張って言ってたけれど、今寝顔を無防備にさらしている姿を見ていると、

(とても信じられないわよ。スノーホワイトって、もっとこう! 上手く説明できないけど、神秘的な!)

 そうだよなぁ。普通、妖精の女王と聞いたら神秘的で近寄りがたいものを感じるもんだ。
 氷雪を友とし、寒さを使役する大自然の権化だとは。もっとこう、近寄りがたいイメージを持っていたのに。これじゃあ、ただの電波少女だ。ガラガラと音を立てて崩れていくイメージにちょっと眩暈がしそう。
 人は、いや魔物も見かけによらないなとヒカリは思う。そういう彼女もまた、一見して左右二つに分けたお下げ髪が特徴的な女の子に見えるけど、その実、正体は顔を見たものを石と化してしまう恐るべき蛇女、メデューサなのだけれど。
 そして魔物であるヒカリがこの絶海の孤島に住んでいる理由は、とある物を守るため。

 そう、彼女の本当の仕事はこれからなのかもしれない。
 静かに、密やかに、茂み(ブッシュ)を這い進む蛇のような動きで、ヒカリはアスカ、トウジ達から距離をとった。あまりにも静かな、空気さえも揺らがせない動きに誰も気がついていない。離れたところから縦に瞳孔の割れた瞳で、ヒカリは覚悟を決めるように唇を舐めた。







 縦に瞳孔が割れた金色の瞳を密かに輝かせ、ヒカリは静かに観察を続ける。

(今更だけど、冷静に考えないといけないわ。そう、冷たい蛇の血のように
 まず…どうしてこの人たちこんな所に?)

 今のアスカたちの姿を見る限りではとてもそうは思えないけれど、本当に封印されている古代文明の遺産を目当てに来たのかもしれない。だとしたら、謎の吸血鬼の支配から解き放ってくれた恩人であるアスカ達であっても、改めて戦わないといけない…のだろうか。

(そこの所が少し曖昧なのよね)

 母親はとある条件を満たす者が来たとき、その時こそ、このしみったれた仕事が終わり好きに生きることができると言っていたけど、その条件が良くわからない。何をもって見分ければ良いのか。その時が来ればわかると言っていたけれど。いくらかでも知っていそうな姉は当の昔に島を飛び出たし。ただ一言、

『…使命なんて知ったことじゃないわ。私は恋に生きるの!
 待っててまだ見ぬ愛しい人』


 指輪に憑かれたハーフリングみたいなことを言って、そして本当に島を出て行った。続いて妹も、

『私は私の旗の下に生きるのよ』

 と、これまたどっかの海賊みたいなことを言って島を出て行った。ご丁寧に屈服させた近所の人魚や半魚人達を従えて。まだ見た目はお子ちゃまの癖に。

(…本気で殺そうかと思ったことが懐かしいわ)

 すくなくとも今度顔を合わせたら、妹のお尻はペンペンしてやる。
 ま、それはそれとして、ヒカリには判断がつかなかった。アスカ達は敵なのか、それともただの旅人なのか? 要するに戦うのと遺産の場に案内する違いがわかっていない。
 これが姉か妹だったら、『惚れた男と戦うなんて馬鹿らしい』とあっさり割り切って遺産の場に案内しただろうに。しかし、根が生真面目なヒカリにはそこまでの踏ん切りがどうしてもつかない。正直、使命の終わりが来るときが待ち遠しいと思う反面、怖くてならない。こんな島に縛られるのは嫌だけど、でも使命が終わったとき、どうやって生きていけば良いのかその見当もつかなかった。この島に住み続けることもできるけど、それは今よりももっと生きている実感がわかない不毛な日々になる。
 その一方でこうも思う。
 この人達のうちの1人が、遺産を受け継ぐべき人なら、この島から出て行くこともできるのに…と。
 誰かに背中を軽く押してもらえれば。きっかけさえあれば。
 ただ、ほんのわずかな勇気が足りない。

(結局、決めるのは私。それはわかってる。でも、でも…)

 思い悩むヒカリを、肩をすくめながらアスカとマユミは見ていた。
 ヒカリがなにを考えているのかお見通しという顔をして。

(不器用な子ね)
(昔の私みたい)
















「さて、漫才も終わりにしよ。そろそろどうするか決めないといけないからさ」
「せやな」
「お前ら、俺は漫才をしていたつもりは…」

 ヒカリが悩んでいる間にも、シンジとトウジ達の会話は続いていた。とどのつまり、これからどうするかと言うことなのだが。
 曰く、進むか戻るか。

「僕はもう帰ってもいいと思うけど」

 疲れを隠そうとせず声に滲ませ、いつもの無気力状態に戻ってシンジは言った。
 死に掛けてしまったし、なによりアスカたちが側にいる以上、命を賭けた冒険に到底なりえない。だから彼らしいあっさりとした意見だった。そもそも彼はあまり乗り気でいた冒険ではなかったのだし。それより、家に帰ってからのアスカとマユミの反応が恐ろしい。
 しかし、彼の意見にトウジとケンスケは反対する。せっかくここまで来たのだから、と。

「シンジ、それは男としてダメダメな意見だぞ。俺達はまだなんの宝も見つけてないんだ!」
「宝って…すでに漁られ尽くして大した物がないんじゃなかったの?」
「それは以前の話だ。見つめるものなんて大物がいたんだ。なにか重大な物が、日の目を見ずに隠されている可能性があるじゃないか!」

 鼻息荒くトウジもうなずく。金銭の執着が薄いといっても、彼らにだってそれなりに欲はある。死にかけたのに何も手に入らないままというの寂しすぎる。金の問題ではなく、魂の問題だ。
 その一方で、せっかく拾った命をすぐに危険にさらすのは好ましくない、とも思う。シンジの言うことも良くわかった。

「どっちの意見も一理あるなぁ。ワシはどっちも賛成できて、反対できん。
 それでどやろ、どっちにしろもう夜やし、一晩ゆっくり休んでから結論を出すってことで」

 くーくーと寝息を立てているレイに目を向けながら、トウジはそう二人を諭した。トウジの視線を目で追い、少し考えてからシンジはうなずいた。可愛い寝顔だなぁ、なんて思ってるなんて微塵も見せない顔をして。
 ケンスケもそれに続いてうなずく。トウジの言うとおり、戻るにしろ、進むにしろ体力が完全に回復していない状況では命取りになる。今彼らに最も必要なのは、休息だ。

「となると、とりあえずキャンプの準備をするか」
「そうだね」
「じゃあワシは火を…」

 慣れた動作でトウジは背嚢から火口箱を取り出し、シンジはまだ無事そうな乾燥食品を自分の背嚢から取り出した。その間にケンスケは鋳鉄製の小鍋を取り出した。一切の無駄がなく、完全にそうと決めた動きだ。
 今日の晩ご飯はウサギ肉のシチューだ。
 つましいながらも楽しい食事、うれしいな。嬉しいなったら。
 しかし、彼らはそれが別の命取りになる可能性に気がついていなかった。普通気づかないか。


「ちょっと待ちなさいよ!」
「へ?」


 そしてシンジの気の抜けた答えは彼女の逆鱗に触れた。
 ひくひくと青いミミズのような血管がこめかみに浮かび、引きつった唇から長く尖った犬歯がのぞく。

 『へ』ですって? この私に向かって『へ』

 滾った溶岩に一滴の水銀を落としたように彼女の心は沸騰した。魔界の河のように、あるいは火竜の息のように。

「冗談じゃないわよ!」

 空間を貫く刃のような怒声に、シンジ達は、そしてマユミ達もビクリと体を竦ませた。
 恐る恐る振り返るが、声の主が誰か目で確認するまでもなかった。
 文字通り怒髪天をつかせた彼女がそこにいた。片手を失っていたとしても、その恐ろしさは微塵も失われていない。いや、たとえ両手両足を失っていたとしても。
 無意識のうちにゴクリと唾を飲み込み、恐る恐るシンジは話しかける。冷たいものを背筋に流しながら。というか勘弁してください。

「えっ…アスカ? いや、その、アスカさん?」

 シンジの気の抜けた言葉に帰ってきたのは厳しい罵声。背が低いと気にしているシンジの身長が、さらに縮んでしまいそうな罵声。物理的な質量さえも持っていそうな重い言葉だ。

(本気で怒ってる。でも何に?)

 彼女の苛立ちと怒りを肌で感じ、シンジは体を震わせた。でもなんでそんなに怒っているかわからない。やっぱり女性は近くて遠い存在だ。誰が言ったか知らないけれど、不思議と心に残る言葉を思いだし、ふとそんなことを考えた。
 そんな事を考え、哀れな子犬みたいに体を震わせるシンジにアスカは言葉を続ける。

「なにが悲しくてこんな所で野宿しないといけないのよ!?」
「いや、一応迷宮の中だから野宿じゃ」
「揚げ足取るな馬鹿シンジ! そういう問題じゃないって言ってるのよ! 風呂もないようなところは野宿と一緒よ!
 そもそも!」
「は、はい」

 思わず正座。石畳の床の上に正座はちょっときつかった。

「私達はあんたを連れ戻すためにここまで来たのよ! そこの所わかってるの!?」

 いやそんなこと言われても。助けてくれって頼んだわけじゃないし。
 そう言いそうになったけど、死にかけたところを助けてくれた(と思っている)シンジは言葉を飲み込んだ。本当に口に出したらどうなったことか。『なら逝って来い!』と叫んで彼女の故郷に案内してくれるかも。つまり、死だ。
 それは困る。まだまだ世の中の楽しいこと、面白いことを知りたいと考えているからなおさらだ。いや、それは勿論アスカも一緒に地獄にいくとかなら、そこはかとなく楽しいかも。でも今はアスカを無駄に刺激しないほうがいいだろう。

「え、えーと」

 シンジが考え込んでる間にも、トウジやケンスケが援護射撃をしてくる。

「いや、ワシらもそれなりに目的があってここまで来たんやが」
「黙れ馬鹿ジャージ」

 トウジを見もしないでそう言った。
 やっぱりワシはいらないジャージなんやろうかと、ショックを受けて固まってるトウジに続き、ケンスケが口を開く。が、

「惣流お前には熱い男のロマンというやつが…」
「ハッ、喋るな変態眼鏡」

 一刀両断に切り捨てた。天上天下唯我独尊アスカ様。
 レイ顔負けの冷たい目を向けもせず、ケンスケでさえ涙目になるような言葉をさらっと言い放つ。

「ひでぇ」
「アスカ、いくら本当のことだからと言ってもストレートすぎるよ」
「シンジ?」
「だからそこで漫才するなって言ってるのよ! 良い、あんた達!?」

 そしてアスカは畳み掛けた。まだ100日に満たない共同生活だけど、彼女はシンジという人間のことをそれなりにわかっているつもりだ。
 曰く、こんな情けない男は初めて。
 そりゃ、ちょっとは良い所も歩けど。ちょっとはね?
 時々しか見せない真面目の顔のときなんて、なんだかすごく胸がドキッとする感じがして、それがなんだか気持ち良い。やるときはやる奴みたいなのよね。問題はやる気をいつも出してくれればってことなんだけれど。もうちょっと鍛えれば…。そうね、買い物のお供くらいなら。ってそうじゃなくて、いや、だから、このアスカ様がそんな、まあ、その。


 まあそのなんだ。彼女は曖昧な言葉では、よほど切羽詰ったときでもない限り、何を言っても都合よく解釈する嫌いがあるということ把握していた。楽な方に楽な方に行こうとする典型的なダメ男だ。
 直接的で、逃げ場のない言葉でないと駄目なのだ。

(要するにこの馬鹿は『味噌汁を飲みたい』とか『洗濯物を洗ってほしい』とか言っても、プロポーズの言葉だと思いもしないってことよ!!)

 なんて言うか、素直になれない彼女の今後の苦労が目に浮かびそうな性格である。
 その一方で暴走したときは暴走したときで道がなくても直進する奴だし。

「で、シンジ! あんたわかってるの!?」
「ぼ、僕!? …えっと、たぶん」
「具体的には?」
「具体的に? え、その、これくらい…かな?」

 本当に自信なさそうに上目遣いにアスカの顔を見ながら、左手の人差し指と親指とで輪を作る。指と指の間隔は1mmくらい。にこっと笑った顔のまま、アスカの頭からブチリと景気のいい音が聞こえたような気がした。これはまた雷が落ちるな。達観としながらシンジは自分の失策を悟る。でもそうなるとわかっていればいたで、奇妙な覚悟のようなものはできているシンジだった。根性無しなのか肝が据わってるのか良くわからない奴である。

「これくらい…かな、ですって?
 ふ〜ん、へ〜そうなんだ。
 そんなの、何もわかってないのと同じじゃないの!
 馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、こうまで馬鹿だったとは思わなかったわ!」
「馬鹿馬鹿ってなんだよ、そんな風に言うことないだろ。馬鹿って言う方が馬鹿なんだよ!」
「シンジのくせに逆らうつもり!?」
「僕はアスカの奴隷じゃないんだ!」
「そういうことは奴隷くらい私に従順になってから言いなさいよ!」


 お互いにギャーギャーわめいて、騒がしいったらない。
 マユミは眉根を押さえてうめきつつ、どうしてこうも仲が悪い…もとい素直になれないのかなと考えていた。ちょっと譲り合えば…。シンジはともかく、アスカももうちょっと言葉を選べば上手く行くのに。たぶん。
 でも、素直になったアスカなんて、アスカじゃないという気もする。

(素直になったアスカさん。こんな感じ?)


 なぜか光さす野原。
 奇妙にはしゃぎながらシンジの胸に飛び込んで首に抱きつき、喜色満面の笑みを浮かべて、

『あーんシンジー♪ 好き好き大好きー!』




 誰だ貴様は。

 素直になったアスカを想像して…ちょっと怖くなった。難しいもんである。それに、素直になられたらなんだかんだ言ってシンジにべったりするだろうし、そうなればなったでマユミとしても面白くない。彼女も彼女で複雑なのだ。







 やがて2人のいい争いが意味のない繰り返しになったころ、すっかりと疲れきった顔をしてヒカリは2人の間に割って入った。
 言いたいだけ言わせてしまえと思って放置したけど、まさかここまで長時間言いあいを続けるとは思わなかった。アスカはともかく、シンジなんて泣きそうになりながらも諦めなかったし。しかも言い合いの最中、的確に帰るにしても魔力を回復させないと無理だろうと真実を突くあたり、物の通りを見る目もある。
 ともあれ、すっかり疲れきったヒカリはアスカの顔をのぞきこむようにして話しかけた。

「あ、あのね、惣流さん」
「なによ!?」

 仲立ちより逆立ちという言葉の意味を実感しつつ、ヒカリは続ける。このままだとここで一晩明かしてしまうかもしれない、それはイヤだ。そう思って。

「その、どっちにしても一晩この島にとどまるのなら、うちに泊まっても良いわよ」
「え?」
「この迷宮の外にあるの。そんなに大きいわけじゃないけど、あなた達全員を泊めるくらいはできるわ」

 実際はちょっとした貴族の城位の大きさがあるが、あえて謙遜した言葉でごまかすヒカリ。特に理由はない。

「ほんと!? あ、そうだ。お風呂は!?」
「お風呂…じゃないけど、温泉ならあるけど…」

 ヒカリの言葉に、アスカはとたんに耳を立てて尻尾を振っている犬みたいに顔を輝かせた。今にもヒカリに飛びついてきそうなくらいに。いや、本当に飛びついた。
 本当に野宿が嫌だったんだなぁ。とその様子にヒカリとマユミ、それにシンジも思わず苦笑して肩をすくめる。なんだかまたひとつ、アスカの内面を垣間見たような気がした。いつもそうなら可愛いのに。レイは眠っていたけれど、とっくに知っているので問題なし。

「いやったーい! 温泉なんて何年も前にハーリーフォックスに遊び行って以来!」

 なにかがアスカの頭に見えたような。角ではない、何か柔毛に包まれた茶色の何かが。
 犬耳の幻影? 我が目が信じられず、思わず目を擦ってしまうシンジ。あとヒカリとマユミ。ついでにトウジとケンスケ。
 でも、まあ風呂は命の洗濯という言葉もあるし、少なくともシンジも風呂、それも温泉は嫌いじゃないので反対する理由は欠片もない。マユミ達も言わずもがなだ。寝ているレイはよくわからないけど嫌いじゃないだろう。風呂が嫌いな女性なんて却下だ却下。

「決まりー!」

 嬉しそうにアスカは言った。

「決まりなんかい。現金な奴やな」

 なんでおまえが仕切るんだという顔をしつつトウジが言う。ケッと吐き捨てるアスカ。

「あんた達だけ野宿でも良いわよ」
「なんでやねん」
「ふん、一生お風呂に縁が無さそうな顔してるくせに」
「…いっぺん自分とは勝負をつける必要がありそうやな」
「ふっ、私に勝てると思ってるのかしら?」

 まただよ。わかっていたけど深くため息をシンジは吐いた。
 どうしてこういつも喧嘩腰になるんだろう? とは思うけど、もういいやどうでもと達観としたあきらめ顔をする。そういう彼もほんのちょっと前まで喧嘩していたことは都合よく忘れている。
 きっと馬が合わないとか、虫が好かないとか、そこまでひどくはないけど、何かというと角つき合わせるのは宿命みたいなものなんだろうなと考えた。自分では、言い合いをすることが精一杯で、ここまで本音をぶつけ合うことはできない。少し羨ましいかもしれない。

(…本音を出すことができなくて、どうしようもない後悔をした気がするから)


 それはそれとして。

「もう二人ともいい加減にしてよ。ほら、綾波も目を覚ましちゃった」

 言われて2人がレイに目を向けると、マユミにもたれ掛かったまま、騒音が不快なのか瞬きを繰り返していた。
 別にレイに気を向ける必要性は感じないアスカだったが、彼女の寝起きの悪さは知っていたので大人しくシンジの言葉に従った。いや、彼女の感覚からすれば、シンジの意見に従ったのではなく、たまたま意見が一致したのだけれど。トウジはまだ言い足り無さそうにしていたが、彼もシンジの言葉に反対しなかった。

「…うるさいの」

 みんなが見守る中、半分しか開いてない目でレイは周囲を見渡す。小さく『うー』と唸り、最初自分がどこにいるのかわかっていない風だったが、直に思い出したのかマユミに抱きついたままぼそりと呟いた。

「朝なの?」
「違いますよ。ただ、これから場所を変えますけど大丈夫ですか?」

 微笑み、マユミは乱れたレイの前髪を撫で付けてやる。
 ますますお母さんぽくなったなぁ、と妙なことをシンジは考える。あと、レイは幼児化が進んでるんじゃなかろうか。

「………よくわからない」
「どうしましょう?」

 まだ眠いのだろう、しがみついたまま動こうとしないレイに、マユミは口では困ったと言いながらも少しも困ってない顔をしてシンジたちに目を向ける。

「どうするもこうするも。ほって行けば良いじゃない」
「アスカ、そういう事いうなよ。綾波、大丈夫?」

 アスカをたしなめつつ、シンジはレイの横にひざまずいてほとんど開いていない目を見つめる。数秒間、沈黙していたレイだったが、ようやく搾り出すように呟いた。

「…眠いの」
「大丈夫じゃ無さそうだね。どうしようか?」

 シンジ個人はマユミやアスカに尋ねたつもりだったのだけれど、最初に答えたのはレイ本人だった。
 まるで待ち受けていたように、小さく、でもその場にいた全員に聞こえるようにはっきりとした声で。

「…おんぶ」


 ぬわんですって!?
 私だってしてもらっていないのに!

 と、(アスカにとっては)衝撃的なことを言うレイ。さては、狙ってやがったな! と歯軋りするがマユミにじーっと見つめられてることに気がついて思わずそっぽを向く。

「そうするしかなさそうですね」
「そうだね。はい、綾波。つかまって」
「うん」

 ショックのあまり奇妙なポーズ、通称イヤーンな格好で固まるアスカをよそに、シンジは躊躇することなくレイに背中を向けて屈みこんだ。名残惜しそうにマユミの体から手を離すと、レイはシンジの首に手を絡めた。そして発育途中の胸を押し付けるようにシンジの背中にしがみつく。表情を変えずに、でもとてつもなく嬉しそうに。
 そして、ニヤリと口元をゆがめ、シンジとマユミから見えないようにしつつ、不気味な笑いをアスカに向けた。

(あの怒畜生!)

 うらやましい。うらやましい。
 おんぶしてもらう事よりも、素直に自分の望むままに行動できるレイがうらやましくて仕方ない。場合が場合でなかったら、悔しさのあまり地面をのた打ち回りそうになるアスカだった。

「くすっ」
「な、なに?」
「親子…いえ、兄妹みたいだなぁって」
「違うの。兄妹なんて。私は碇君のお嫁さんなの。マユミちゃんのいけず」
「あの、綾波。洞木さんがいるんだから、そういう直接的なことはあんまり」
「相変わらずやの、自分ら」
「俺にも台詞をぉ」




 和気藹々としたシンジたちにホッとしたものを感じる一方、固まったアスカに怪訝なものを感じ、ヒカリはおずおずと尋ねた。

(なんなのかしら本当に)

 家に泊めるついでに、彼女達をもう少し見極めようと考えていたのだけれど、いきなり訳がわからなくなってしまった。家族ゲームをやってるかと思えば、自分の顔を見たみたいに固まってる人までいるし。はたして彼女達は盗賊なのか、それとも運命で定められた人なのか。それとも単に考えすぎなだけなのか。考えすぎに3000点。
 少なくとも、悪人ではないとは思うけれど。

「どういう関係なの、あなた達って?」

 言われて我に返ったようにアスカはゆっくりと目だけ動かしてヒカリの顔を見つめ、それから空を見上げて考える。
 改めて人に言われると、とても説明が難しい関係だなと思う。知らない人間から見たらシンジは魔物である自分達がこだわるような奴には決して見えないのだし。そもそも、自分はシンジのことが好きなんだろうか、それとも単に気になっているだけなのか、あるいはユイの息子だと言うことに拘っているだけなのか。
 とっくに答えが出ていることをアスカは考える。素直になれないアスカさん。
 マユミやレイがシンジにべた惚れなのは間違いない。だから彼女達の説明はある意味簡単だけど、さて自分はどうだろう?
 気になっていることは間違いない。恋愛感情に近い何かを持っていることも。それはほかに接した、あるいは知っている男性の中でも父親以外で最もマシな異性だからかもしれない。もっとたくさんのことを知るようになったとき、自分の気持ちはどう変わるのだろう?

(そうよね、今のシンジのままじゃちょっとね…。元は良いんだから、もっと色々努力すれば良いのに)

 願わくば、もっと色々なことを自分が知ったときにも、彼が最もマシな異性であることを。
 って違う違うちーがーうー!
 認めない、認めないわ!!



「もしもし?」
「あ、ごめん。考え込んでた」

 自分でもよくわからないことを、他人の説明できるはずがない。
 だからアスカはこう言った。

「大体あなたが想像してるとおりよ」


 瞬間、ヒカリの顔は真っ赤に染まり、直後両手で顔を隠してイヤイヤするように首を振る。

「ふ、不潔、不潔よあなた達! 不潔だわ!
 男も女も、一度に複数でもお構いなしだなんて!!」


「何を想像したのよ!?」















「こっちよ」

 見つめるものがいた部屋から5分ほど戻った部屋にて、ヒカリは部屋の隅にかがみこんで何かをいじっていた。興味深そうにそれを見守るシンジ達。苔に覆われた石畳に爪をかけ、無造作に引き上げる。それだけで彼女の胴体ほどもある大きな石畳が引き剥がされた。子供くらいの重さのありそうな石畳だ。見た目は普通の人間の女性ではあるけど、やはり彼女は魔物。アスカ達を除いてシンジ達は、改めて納得すると同時に奇妙な身震いを感じる。
 特にトウジは。

「よいしょ」

 小母さん臭い掛け声とともに、ヒカリは石畳の下にあった鉄の取っ手を引いた。ガリガリと何かを引っかく音がし、継ぎ目も見えなかった側面の石壁に、一辺が1mほどの黒い入り口が姿を現していた。まるで巨人の口が開いたみたいにシンジには思えた。それも石でできた大きな巨人。

「へぇ、こんなところに抜け穴があったんだ」

 予め知っていれば、無駄な戦いをしないですんだと思うと…少し悔しい。
 いつ作られたのかわからない、青緑色の石の通路を恐る恐るシンジは覗き込む。最初は何も見えない暗い通路だと思っていたけど、良く目を凝らしてみると、遠くに小さな白い点が見えたような気がした。それから、微かに感じる塩、いや潮の匂い。微かな砂の擦れる音、いや波の音。ふと、目を闇の奥に向けると小さい生き物…フナ虫がたくさん這い回っていた。この通路は海の近くに通じているんだろう。
 砂漠の街では見られない生き物、それはそれで興味深いけれど、それよりも遠くに見える光がシンジの心を打った。

「光だ」

 久しぶりに見た、魔法の物でも、松明の物でもない津々と心に染みる自然の光だった。もうずいぶん長い間、見ていない気がする。
 シンジの言葉にヒカリは何気なく相槌を打とうとしたが、そこでふと気がついた。

(光ね。…ってちょっと待ってよ。今は夜なのよ?)

 森の奥に住む狼や梟でもあるまいし、なんで星や月の明かりを見ることができるんだろう?
 アスカ達は特に何も疑問に思わなかったようだが、ヒカリはそのことが奇妙に気になっていた。

(話半分に聞いていたけど…まさか…ね)

 魔物達の愛(?)を一身に集める彼は、やはり普通の人間ではないのかもしれない。単なる運や偶然でマユミ達との縁ができたのではないかもしれない。だが、ヒカリは敢てそれを口にしなかった。口にしたら無駄に混乱を呼ぶだけの気がしたし、それにアスカ達が気にしていないならそれで良いじゃないかと判断したから。
 雁首並べて穴を覗き込む一同を促し、ヒカリは努めて明るく言った。

「さ、無駄話はそれくらいにして。ここを抜ければ私の家まで直通よ」
















「いやー何これ何これ何ー!?」
「ちょっとアスカ騒がないでよ! ただでさえ狭くて音が反響するんだから」
「いぃいいいいいやああああああっ!! うねうねしてる絡みついてくるー!?」
「あ、アスカさん落ち着いて」
「うるさい…」
「ただの蛸でここまで大騒ぎするとは…」
「美味い生き物やと思うけどなぁ。そない毛嫌いせんでもええやろに」
「もうちょっと行くと潮溜まりがあるけど、そこ…蛸やヒトデの巣よ?」
「ヒィィィィ――――――――!!!」


















「ここが、ヒカリの家…なんだ」

 取り乱した名残か、頭に海草の切れ端が付いているのも気づかないまま、アスカは軽く口笛を鳴らして彼女らしい感嘆の気持ちを表した。それをマユミが甲斐甲斐しく取ってあげながら、同じくマユミも目を見開いて驚きを隠さない。石造りの建築を好み、とかく万を魔法に頼むマウントクリフ王朝の人間では、とても考え付かない建築物が目に映る。喩え総合的に見たら不完全に思えるところがあったとしても、木と岩が融合したようなその建物を、マユミは心の底から美しいと思った。

「綺麗ですね。キラキラ光って。そう思いません、綾波さんって…」
「うふふ、碇君の背中…なの」

 一番驚きそうにないレイは、マイペースにシンジの背中で完全に夢の世界に沈み込んでいた。ヒカリの個人的な考えでは、銀の都と言われるハーリーフォックスの住人だったレイの感想を聞きたかったのだけれど。
 花崗岩を削って作られた大きな大地の城が、一同の目の前に聳え立っていた。一見したところ、普通の岩山にしか見えないけれど、秘密の道をたどってみるべき方向から見れば、それがなにかは誰しにもわかったことだろう。そして驚きに声を失うのだ。今のシンジ達のように。
 レイが寝ていてよかったとアスカは思う。レイは感動したとしても、それを表情に出すようなことはない。ホストであるヒカリがそれを誤解する可能性がある。…その前に、レイは驚く事なんてあるんだろうか? 興味深い考察かも。
 そうこうしている間にも、ヒカリは先頭に立って皆を奥に案内していく。

「ふふふ、ようこそ我が家へ」
「お、おじゃまします」

 トロールの顎の様な岩の門をくぐり、魔法の光でも松明でもない…無数の蛍を集めて閉じ込めたガラス管の放つ光が照らす中を歩いていく。岩のアーチに続き、巨大な樫の木を切り倒して作った一枚板の扉を開けて中に入る。中は普通の邸宅のようになっていると予想していたが、それは良い意味で完全に外れた。

「わっ、面白ーい」

 再びアスカは口笛を鳴らした。
 そこは大広間になっていた。広間の奥、正面に扉と二階に通じる階段があり、左右にはダンスホールかあるいはそれに類する広間に通じる扉がある。それだけなら普通の邸宅建築なのだが、もちろん、ただの大広間ではない。

「家の中に入ったのに、森の中に入ったみたいやな」

 視界一面に緑と白い光が飛び込んでくる。そして耳に心地よい清水のせせらぎ。
 人の手に寄らない何かによって削り、くり貫かれた大広間は、屋内にも関わらず深い森の中のような湿った空気を持っていた。よくよく見れば、床に敷き詰められた緑の絨毯は、水分を芳醇に含んだ苔の絨毯だ。月と星の光を外から取り入れ、そして光を食べる太陽虫(サンワーム)が増幅させて室内を照らし続けている。
 きょろきょろするシンジ達に、少し誇らしいものを感じながら、ヒカリはアスカ達より先に彼らの泊まる部屋を指し示した。左の階段を上り、そのまま左の廊下を進んだ先にある部屋だ。扉と扉の間隔を見て考えられることは、それぞれの部屋がかなりの広さを持っているだろう事。少しシンジは困惑する。

「え、別に僕達、相部屋でも構わないけど」
「良いのよ。使ってない部屋が余ってるんだし」

 正直なところ、あまり迷惑をかけるのもどうかと思うし、なにより分散することに警戒したのだが、ヒカリの目に何かを謀ろうとする気配は感じられない。

(そりゃ、人の気持ちが手に取るようにわかるってわけじゃないけど…)

 ヒカリになら騙されてもいいかな、と女に弱いところを見せつつシンジは無言でうなずいた。ここは素直にヒカリの好意に甘えようと考えながら。それに、個室の方が色々と都合良いところがあるかもしれないし。何を考えているかは激しくなぞだ。



(さて次は)

 ぞろぞろと階段を上ってそれぞれの部屋に消えていくシンジ達を、いや主にトウジを見送った後、ヒカリはゆっくりとアスカたちに振り返った。振り返った先では、レイが踏むたびに5cmくらい沈み込む苔の絨毯を、マユミがガラスの器の中で蠢く甲虫の幼虫に良く似た太陽虫を興味深げに見ていた。そして、アスカはそのいずれも興味なさそうに、気だるげな表情でヒカリに話しかける。

「別に私は相部屋でもよかったのに」
「ふ、不潔」
「シンジとじゃない!」

 本当に? と思ったけどそれは顔に出さず、ヒカリは目でアスカ達を促した。

「それじゃ部屋に案内するわね。でも急なことだからベッドメイクとかしてないけど」
「それくらい構いませんよ。私達でもできますから」

 あまり迷惑をかけるわけにはいかない。ヒカリ自身はお客が泊まる事に奇妙に浮かれて喜んでいるみたいだけれど、そう判断したマユミは早々とヒカリの言葉をさえぎった。ヒカリが男達に聞かなかったのは、そんなことを気にするような輩じゃないと判断したからなのだろう。その判断に間違いはない。

「そう…お客なのに…ごめんなさいね、えっと山岸、あ、碇さん?」
「…山岸でいいですよ。自分でも時々わからなくなることがありますから」

 しかしヒカリは少し寂しそうに見えた。考えてもみれば姉達がいなくなってから、ずっと一人きりで暮らしてきたと言うヒカリだから、他人とのふれあいは何よりも心が沸き立つ、楽しい事なのだろう。喩え面倒なことであっても、誰かのために何かをする…。余計な事をしたかもしれない。少し申し訳なくマユミは思う。
 そんなことを考えてマユミが口をつぐむと、そんな彼女の気持ちがわかったのかヒカリは努めて明るい顔をして言葉を続けた。

「…気にしないでいいわ。家にこうしてお客さんが来る事自体、とても珍しいことなのよ。
 だから、ただ居てくれるだけでも嬉しいのよ」

 そうだろうなとマユミもアスカも思う。
 ヒカリが普通の人間の女性なら、まだしも訪ねて来る人もあるだろうけど、正体がメデューサとあってはそうも行くまい。少し会話しただけだけど、世話好きらしい人みたいでもあるし。そんな人が、ずっと何年も一人きりで、たずねる者も何もない岩の城に…。自分も似たような環境だっただけに、マユミは痛いほどヒカリの気持ちがわかった。

「だから、色々と外の世界の話をしてくれると、私…嬉しいんだけど」
「構わないわよ。それくらい」
「ありがとう、惣流さん」
「ストップ。その呼び方やめて。苗字で呼ぶなんて、あんまりにも他人行儀よ。アスカでいいわ。私もヒカリって呼ぶから」

 でも…ヒカリには自分よりアスカのほうが友達としては向いていると思う。
 自分みたいにあまり喋らない娘は、誰が相手であってもきっと退屈なだけだろうから。だから会話を弾ませるアスカ達を静かにマユミは見つめた。少し羨ましいと思う気持ちもある。先にアスカと知り合いになったのはレイと自分だけど、それよりももっと親密になっているように思えた。

(私にも、そういう人って…できるのかな)

「よろしくね、ヒカリ」
「あ、よろしく…惣流、いえアスカさん」
「違う、ア・ス・カ、よ」

(…もう名前で呼ぶあうんだ。凄いなぁ、アスカさん。
 でも、どうして私、急にこんなこと考えたのかな)

 アスカが生涯の友となるヒカリに出会ったのと同じように、マユミももう間もなく、親友というか腐れ縁の仲になるとある人物と出会うのだけれど、それを漠然と嫌な予感とともに感じ取ったのかもしれない。

(…へんなの)


























 そして場面と時間は変わる。
 荷物を置いてから、およそ15分後。ベッドに倒れ込んでそのまま眠り込みそうになりながらもどうにかこうにか、磁石のようにくっつきあおうとする瞼をこじ開けて。
 アスカ達は、城の地下深く、青白いさざめく光が天井をほのかに光らせる不思議な空洞にいた。

「うわぁ…」

 

 アスカの漏らした感嘆が、木霊しながら四方八方に散っていき、そして溶け込むように消えていく。 胸もなにも隠そうとせず、肩に垢擦りタオルを引っかけたアスカは、鼻歌を歌いながら硫黄の臭い混じりのお湯を頭からかぶる。

 アスカを横目に、糸一本身につけない生まれたままの姿のレイが、興味深そうに、そしておっかなびっくりと、湯気を上げている湯船の一角に近づいていく。そこは掘り抜かれた岩穴から煮えたぎるお湯がこぼれ、ザーザーと激しい水の音と湯気が立ちこめている。

「暑い…違う、熱い」

 むき出しの肩や腕に感じる熱気に、犬に吼えられたみたいに後ろに下がる。
 このぐらいですぐにどうこうなる訳じゃないけど、しかしレイは初めてお湯を浴びた犬みたいに警戒する。

「マユミちゃん、危ないの。熱いの。熔けるかもしれないの」

 独楽鼠のようなレイの言葉と動作に、小さくクスリとマユミは笑う。湯気のせいで曇るため、眼鏡をはずしているからすぐ近くにいるレイの顔が良く見えないのが残念だけど、きっと想像通りかわいい顔をしているのだろう。慌てて、面白がって、それを口実にマユミと少しでも会話したがって。
 いつになくはしゃいでいるけど、それは無理ないかもしれない。はしゃいでいるのは、ある意味自分も同じなのだから。

「すごいですね、洞木さん」
「でしょ。造ったのはお母さんとお父さんだけど、うちの自慢のお風呂よ♪」


 造った…。
 と言うにはいささか荒唐無稽だとマユミは思う。ピラミッドを造った国のお姫様が考えることではないが。
 風呂と言うより湖と言った方がいいような広さを持つ巨大なプールだ。奥はランプの明かりが届かなくて今の彼女の目ではよく見えない。周囲100mは軽くあるだろう。実際、海と繋がっていた地底の潮溜まりを利用し、掘り出した温泉の鉱泉を引き入れ、巨大な温水プールを造ったと言うのが正解なのではないかと思われる。よくよくみれば、壁の隅には化石になったフジツボや、貝殻がくっついたままになっているし、お湯の底に見える板状のものは珊瑚だ。

(環境が整っていたとしても、実際に行動するんだから凄いわ)


 どういうご両親だったのかな?

 知らず知らず、胴体に巻いたバスタオルの端をぎゅっと握りしめながらふと考える。考えてみればメデューサのヒカリの両親だ。父親はともかく、少なくとも母親は自分達と同じく魔物だろう。ラミアか、それともエキドナか。土に属する、それも蛇型の魔物だとは思うけれど、人間の姿をしてるとは限らない、もしかしたらワームの一族かもしれない。

「隙あり。なの」

 そんなことをマユミが考え込んでいたら、背中から抱きつくようにしてレイが擦り寄ってきた。完全に不意をつかれて、無防備のままマユミは抱きつかれてしまう。抱きつかれるのは慣れっこというかいつものことなんだけれど、瞬間、マユミの体全体に緊張と恐怖の混じった震えが走った。胴体に回されたレイの指先が怪しく動き、タオル越しに言葉にできないような怪しい電流が迸る。

「はぅっ!」
「くすくす、マユミちゃんどうしたの?」

 普段から過剰なスキンシップを計るレイだが、今の2人の姿はあまりにも無防備すぎる。ぴったりと密着するように張り付いて手をわきわきと。うにうにと。もにもにと。

「あ…ちょ、ちょっとダメです!」
「お風呂では裸になるものなの」

 邪魔するマユミの抵抗も何のその。無造作に回されたレイの手が、バスタオルで包まれただけのマユミの胸をまるで搗き立ての餅をこねるように揉みしだいた。
 いったい何事でしょうか。

「ひゃん!」
「うふふ…。マユミちゃんお肌すべすべ、柔らかくて気持ちいい」

 鼻にかかった息を漏らし、レイの体に寄りかかるようにしてマユミは倒れそうになる体を必死に支える。いや支えようとする。しかし、どこかの誰かが乗り移ったようなレイの指先は、すっかりマユミを腰砕けにしてしまっていた。ガクガクと腓返りを起こしたように足は震え、とても立っていられない。立とうと足掻けば足掻くほど、よりいっそうレイの体に密着してしまう。

「や、ちょ、だめっ、あっ、綾波さん!」
「アスカも洞木さんも、もちろん私も裸なの。どうしてマユミちゃんだけタオルを巻いてるの?
 それはとてもずるいことなの」

 レイの言葉は、今このとき、この場合にあって絶大なまでの説得力を持っていた。ええ、それはもう。タオルを巻いて湯に浸かるなんて邪道だ。
 そりゃあ確かにお互いの裸をみたことはあるし、一緒にお風呂に入ったことはあるけれど、やっぱり裸を見せるのは恥ずかしいとマユミは思う。特に初対面のヒカリもいるのだし。
 一応マユミに言い訳させれば、湯に浸かるときはタオルをとるつもりだったけど。
 しかし風呂は裸の社交場、タオルを巻いて入るなど許されるべきことではない。特に美女か美少女の場合は。
 もっとやれ。

「そう、マユミちゃんはずるい人なの」
「あっ、あっ、あん」

 くんずほぐれつ絡み合い、そしてもみくちゃになってすっかりずり落ちてしまったタオルだが、マユミは最後の牙城とでも言うように必死に抑える。いまさら裸を見られたから何がどうなるわけではないけれど、今はレイの前に無防備でいることが奇妙に空寒く感じられたのだ。
 火照る体から冷や汗を流し、マユミはレイの執拗な愛撫から逃れようとするが、レイの手足は鋳型に流し込まれて固まった鉄のようにしっかりとマユミの体に絡み付いてくる。

「ええ乳してるの。もっと触らせてんかなの」
「どこの人ですか!?」

(ひぃ、なんだかいつもの綾波さんじゃない〜)

 いつになく強気と言うより容赦のないレイは、マユミの制止の言葉を聞こうとしない。今ではバスタオルはすっかりずり落ちてかろうじて腰のところに引っ掛かっているだけで、形良く大きなマユミの胸はむき出しになっている。そしてその頂点を隠すようにレイの手の平が覆いかぶさり、蜘蛛か何かが這い回るように妖しく蠢いていた。
 レイはまだ湯船に浸かった訳でもないのに、ほのかに顔と体を紅潮させ、見る者の背筋を続々とさせるような笑みを浮かべる。そして手は休むことなく、たわわに実ったマユミの体を愛撫し続ける。
 汗の浮かんだマユミの首筋に舌を這わせ、レイは蕩ける様に呟きをもらした。

「クスクス。素敵…美味しいわ。
 触ってるこっちが気持ち良い…。マユミちゃんとのスキンシップ、それはとてもとても気持ちのいいこと」
「…ひっ、ぃん! やだ、やめてぇ」
「いや、やめない。…だって、マユミちゃんから碇君の匂いがする」
「え、えええぇ!?」

 ビクッと抱きついていたレイが驚くほどに震え、『ヒィィィィ!』と声にならない悲鳴を上げながら、マユミはなんでレイがこうも執拗に、しかもその手の趣味がないはずなのに自分に絡んでくるのかを悟った。決して読者サービスのお色気シーンだからと言うわけではないんですね。

「どうして碇君の匂いがするの?」

 それはシンジといちゃいちゃしたからです。
 でもそんなこと言えません。もっと色々されてしまいます。

(綾波さん勘良過ぎですよぉ)

 マユミの心を読んだように、クスリとレイは淫逸に耽るにふさわしい笑みを浮かべた。
 男も女も、その笑みを見ただけで背筋がゾクゾクとするだろう。だが至近距離で見たマユミは違う意味で背筋がゾクゾクだ。

「うーなんだかとっても悔しいの」
「うええーん、謝りますからぁ」
「なにを謝るの?」
「え、えーとそれは」

 言うにいえない。でもこんなに困ってるんだからやめてくれてもいいのに…とか考えるけどレイにやめる気配はみじんもない。今更ながら、アスカのライバルであると言うことが納得できるとマユミは思った。

「か、堪忍してくだ…はぁっ!…さ…い」
「や」











 係わり合いにならないようにしよう。
 どういう事情なのかいまもってよくわからないけど、冷や汗を流しながらヒカリはレイとマユミから距離をとる。女の子同士のスキンシップというには些か過激で目に毒だ。

「なんなのあなた達?」
「私をあれと一緒にしないでよ」

 今更どの口で言ってんだか、とじろーと冷たい目でアスカを見るが、アスカは頭からお湯をかぶりながら知らない顔をした。ああ、少しぬるいけど気持ちいい。…ヒカリの言いたいことは痛いほどわかるけど無視した。
 でも友達なんでしょ。とヒカリは思う。とりあえず、人の家の風呂で攻撃魔法を使うのはやめてほしい。とめれ。

 ごめん、無理。







「…いい加減にしてください!」
「あう〜」




「…それはともかく、大変でしょ?」

 暴風の魔法で吹き飛ばされて水飛沫と共にプールに落下したレイを意識から閉め出し、ヒカリは彼女本来の優しさを言葉の端々に滲ませながらアスカに言う。

「なにが?」

 シャカシャカ音を立てて髪を洗っているアスカは振り向きもしない。
 少し戸惑い、ためらいながらヒカリは言葉を続ける。

「その腕だと、体洗うのも大変でしょ?」

 彼女の視線は、見つめるものの分子分解光線で消滅したアスカの右腕を、正しくは残った一部を見てそう言った。肘の少し上だけを残し、綺麗に消滅している。
 改めて確かめるまでもなく、残った右手だけで体を、髪を洗うのに一苦労している。
 海草から作ったという緑色の薬液は少々粘りが強く、念入りに濯がないと髪がかなりべとついてしまう。

(…確かにそうね)

「ね? 洗いっこしましょう」
「いいわ、オッケイ」

 アスカは泡だらけの頭を小さくうなずかせた。
 そして、しばらく無言でヒカリはアスカの頭を洗ってあげる。ドワーフの金細工もかくやと言う美しい金髪には、泥と埃、そして魔物の返り血がこびり付いていて、薬液を付けてもなかなか泡立たない。
 まだ傷跡の残る首筋をなで、辛そうに目を閉じてヒカリは言った。

「…ごめんなさい」
「なにがよ?」
「だって、操られていたとはいえ、私と戦わなければこんなに汚れることもなかったでしょう?
 こんな、綺麗な髪の毛なのに…」

 丁寧に泡をお湯で流し、改めて薬液を付けて泡立たせながらヒカリはうっとりとする。自分の黒髪とはまるで違う、初めて見る金髪に憧れと羨望があふれているようだ。髪を梳く指先の動きがそこはかとなく怪しいような。

「…別に気にしなくてもいいわよ。お互い様なんだし。あ、そこそこ」

 ちょうど痒かったところを掻いてもらい気持ちいいと身震いする。やっぱり他人に頭を洗ってもらうのは気持ちいいなぁ。と、そんなことを考えてちょっぴり幸せ気分。

「…目にしみない?」
「大丈夫よ」

 気の利かせ方がなんだかママみたい。と少し感動するアスカ。安上がりな性格である。
 続いて海綿に石鹸を擦り付けて泡立たせ、ヒカリはアスカの背中を擦る。背中、細かい毛が生えた蝙蝠の羽、お尻とアスカの洗い難いだろう部分を念入りに。薄い膜のように彼女の体を包んでいた血と汗の汚れは、たちまちのうちにこそぎとられ、クリームのような泡が彼女の肌を飾っていく。

「うはやあ〜、く、くすぐったい」
「ちょっと子供みたいに暴れないでよ」

 ヒカリが壁に付いていたノズルを回すと、頭上に開いていた岩穴からザーと音を立てて大量のお湯が頭から出てきた。お湯は滝のようにアスカの全身を濡らし、全ての泡が流される。シャワーまであるとは、潔癖性のヒカリの家の風呂らしい。
 髪、体、翼と順繰りに目を向け、全て大丈夫と判断したのかヒカリは大きくうなずいた。

「はい、終わり」

 別に自分の手柄というわけではないけれど、自分が汚れを取った後現れたアスカの肢体は、同性であるヒカリも言葉を失う美しさだ。汚れをぬぐい取られピンク色に火照ったアスカの肌が、艶めかしい色気を醸し出す。豹のようにしなやかなで、無駄な贅肉がみじんもない、しかし女性らしい豊かさと曲線を持つアスカの体は本当に色っぽい。

(違う! 私にその手の趣味はないわ!)

 両手で顔を隠し、いやいやするように首をぶるぶる。

「いた、痛いってば(ど、どうしたって言うのよ)」
「いやんいやん、私不潔!」

 突然のヒカリの行動に怖いものを感じ、アスカは立ってその場から逃げ出した。ヒカリの振り回した髪の毛が首筋や背筋にぶつかって痛痒いったら。そそくさと立ち上がり、どきどきそわそわしながらプールの端まで行ってのぞき込む。
 大きい風呂はただそれだけでどきどきそわそわするものだ。

(お風呂お風呂〜♪)

 綺麗に澄んだ水(お湯?)は滝のように注ぎ込まれ、蝋燭の光で揺らめく。
 かなり離れたところをレイが泳いでいるのが見える。元が海の岩場だっただけあり、レイの泳いでいるあたりは深さが5,6mはありそうだ。知らずに入ったら溺れたかも。

(マユミに風呂のマナーとかさんざん言っといて、自分が泳いでいたら世話ないわね)

 とかなんとか考えながら自分も泳ぐ気だったりするが。どうせレイはマユミに甘えたい口実代わりにマナー云々言い出したに違いない。
 それにヒカリも正体さらして、波を逆巻きながら大海蛇のように泳いで、あまり気にしなくてもいいと思える。鱗に覆われたヒカリの下半身がアーチ状に水から出ては潜り出ては潜りして、なんというかほとんど怪獣映画のような光景だ。

「アスカさんも、綾波さんも、お風呂で潜ったり泳いだりしたらいけませんよ」

 気苦労の耐えないお姉さんみたいな口調でマユミはそう言った。アスカは肩まで湯に浸かり、気怠げな表情でそれに答える。

「…マユミ、あんたねぇ。堅いこと言ってんじゃないの。そんなだとNOWHERE MAN みたいに孤独に震えることになるわよ」
「誰です、それ?」
「知らない」






 お湯の中に住む魚に体をつつかれたり、互いに洗ったり、例によって例のごとくアスカとレイが喧嘩したりして、思い思いに入浴を楽しむこと30分近く。
 さすがに湯だってふやけて、ふと思い出したのは仲間のもう半分。

「あ、そうだ。シンジ達は?」
「お風呂の前に少し様子を伺ってみたけど、相田君と…その、鈴原…くん着替えもしないで眠り込んでいたわ。よっぽど疲れていたのね」

 思い出さなかったらトウジは名字を呼び捨てにしていたな。とレイまで心の中でほくそ笑む。寝顔でも思い出して顔を赤く染めるヒカリを、アスカはトウジのどこが良いんだろうなんて失礼なことを考えたりする。

「シンジさんは?」

 シンジはどうしたのかをマユミが聞くと、ヒカリはふやけて皺の寄った指先を眺めつつ答えた。風呂ってのは基本的に疲労するものだし、あまり長時間入っていると体に悪いのでそろそろ出ようかと考える。

「まだ起きていたけど、とても眠そうだったわ。それにご飯も何もいらないだって。一応、お風呂の場所は教えておいたけど。…そろそろ上がらない?」

 アスカは前を隠そうともせず返事代わりに立ち上がり、濡れないように髪を一纏めに結い上げながらマユミは小さくうなずいた。

「そうですね」
「…わかったわ」












 風呂場に比べれば狭い脱衣所にて、湯だった体を衣服で包みながらヒカリは考える。
 …アスカもマユミもスタイル良いなぁ。

 じゃなくて。

 いや、確かにうらやましいとは思うけど。いや、そうでなく。

(釈然としない部分もあるけど、彼女たち…古代文明遺産をどうこうしようなんて微塵も考えてないわね)

 いや、それ以外の、普通の金銀財宝の類もどうでも良いと考えてるようだ。かなり高位の魔物だし、金銭に頓着しないと言うこともあるだろうけどそれならなんでこの島に来たんだろうか。

(あの子…碇シンジって人を追いかけて…ね)

 そんなに魅力的な人かなと思うのだけれど。嘘をつくならもっと説得力のある嘘をつけばいいのに。と、少し前までなら考えただろう。
 少し前までの自分ならとても信じられないけど、今なら信じられる。アスカ達は本気で彼のことを心配してここまでやってきたのだと言うことを。いや、アスカは顔を真っ赤にして否定したけど。あとマユミは目の届かないところでシンジがいけないことをするんじゃないかと、違う心配もしてたけど。

(ま、私もあの人…鈴原…に、恋…よね。したみたいだから、)

 初めて見た父親以外の、それも(見た目の)年が近い異性だからかもしれない。でもこの胸の動悸は本当だ。寝間着越しに胸を押さえ、ヒカリはほのかに頬を染めながら目を閉じた。
 だから今ならわかるような気がする。

(この人たちは、遺産を狙ってきたわけじゃない)

 戦わなくてもいい…、いやもしかしたら彼女達こそ、御子を宿した遺産を受け継ぐべき存在なのかもしれない。彼女達が来るからこそ、あの吸血鬼がヒカリを襲ったのかもしれない。

(そうね、そう考えればつじつまが合うわ)

 明日、もしシンジ達が迷宮を探検したいと言えば…いや、言わなくとも案内しよう。そして、再深部へ進む手助けをしよう、そう思った。











 そして時が過ぎ…。
 水の流れる音とさざ波が響く風呂場の一角で、小さな呻き声が聞こえる。薄暗がりから聞こえるのは苦痛をこらえる、切ないうめき。

「うぐ、ぐぐぐぅ」

 腕を押さえ、胎児のように体を丸めて呻くのは…アスカ。
 歯を食いしばり、一糸纏わぬ全身に汗を一面に浮かべて、タイルの上を右に左に転がりながら耐え続けている。なにに? と問われれば答えることは一つだけだ。
 アスカが今まで感じたことのないような激しい苦痛。

「くっ、こんなに、こんなに凄い刺激が…」

 切断面が赤い風船のように盛り上がり、腕が再生しようとしている。それは本来なら意識の外に押しやることができる痛みのはずだが、なにぶん初めての経験故に、アスカは痛みをコントロールすることができないでいた。この痛みも、腕が再生する証拠と考えれば多少は気も晴れるのだが、それとこれとはやはり別問題ということ。

(もう、二度と…ご免だわ)

 この経験を生かし、次また手足の再生をすることになっても、今ほど激しい痛みにはならないだろうけど、それでもアスカは二度とこんな大怪我を負わないようにしようと、この場にいない母の名に賭けて堅く誓う。

「う、うぐっ、ああああ」

 そのときアスカの意識は一瞬、途絶えた。
 音を立てて骨が軋み、メリメリと音を立てながら傷口を被う皮膜が内側から裂けていく。裂けた部分から血塗れの細い指が飛び出し、空を掻くように蠢きながらずるりと外に這い出ていく。
 傷口に焼けたナイフを差し入れてかき混ざられるような、そんな激しい苦痛にアスカは堪えることもできず大きな悲鳴を上げる。

「あ、ぎゃああああっ!」

 刹那、右手で口を押さえ、アスカは必死に声を抑えた。

(聞こえちゃう…! あいつらに…)

 マユミやレイに聴かせるわけにはいかない。自分のこんな弱い姿を見られるわけにはいかない。
 だから、喚きたくても叫びたくてもそれは堪えなければ。大きく肩で息をしながら、アスカは激しく疼く鈍痛に意識を向けた。

(痛みなんて、苦痛なんて、ただの肉体の信号よ…! 回線を塞げば、痛みはただの情報でしかなくなるの!
 あれに、ママとユイさんのお仕置きに比べれば、こんな痛みなんて!!)

 痛みとは何かを考えながら、ゆっくり数字を数えていく。母から習った苦痛による混乱から正気を保つための方法だ。
 それで痛みが収まるわけではないけれど、多少は物事を考える余裕が出てくる。

(…今の声、聴かれたでしょうね)

 ここが寝室から遠く離れたところであっても、常人よりもずっと鋭い耳を持つレイとマユミなら。
 いや、そもそも心配する必要はないかもしれない。
 レイもマユミも、アスカのこんなところは既に知っているだろう。アスカの悲鳴を聞いてこの場に来ないのは、彼女が弱い姿を見られることを嫌っている、そのことをよく知っているから。
 薄情者と思うより先に、アスカは2人の気づかいを嬉しく思った。レイは本気で寝入ってるだけかもしれないけど。
 ヒカリが来ないのは、普通の人間程度にしか聞こえないからだろう。

「はあ、ともかく…やっと」

 下水に浮かぶ汚物のように血や皮がこびり付いているが、再生を終えた左手を見ながらアスカは大きく深い息を吐いた。痛みの余韻が全身をしびれさせ、まだ左腕全体が針を刺されたように痛む。

「くっ、あとはベッドに戻るだけ」

 正直、全身を湿らせた汗を流し、左手も洗いたいのだが、そこまで体力、もとい精神力が持ちそうにない。痛みにまで極端に敏感というわけではないが、それでもこの初体験は少々厳しい。
 ベッドに戻るどころかこの場でそのまま眠り込んでしまいそうだ。

(あーやだな、ここまでなの)

 せめてベッドで寝たかった。
 そう思いながら、アスカがゆっくりと青くくすんだ瞳を閉じようとしたその時、

「アスカ?」

 ほんのすぐ後ろ、1mと離れていないところから驚きの混じった声が聞こえた。不安と心配をブレンドした声が。

(嘘!? どうして!?)

 なぜ、こんな時にこんなところで。頭の中に牛乳で作った靄が掛かったように思考が乱れはっきりしない。さて、いったい今まで自分は何をしていたのだろう、そしてこれから何をしようとしていたのだろう?
 それほどに彼女はあわててしまう。彼女が思ってもいなかった人物から、思ってもいなかったとき、思ってもいなかった姿の彼女に声がかけられたから。

「!? え、あ」
「どうしたんだよ、もの凄い大声でって、血塗れ…アスカ、腕が!」
「…シンジ、どうしてここに」

 だぶついた寝間着を着たシンジが、ランタンを片手にアスカの顔をのぞき込んでいる。足音が聞こえなかったのは、裸足だからだろう。しかし、接近に気づかなかったのは悔いが残る。ある意味、マユミ達以上に自分の弱いところを見せたくなかった。
 そのアスカが素直になれない相手こと、シンジはアスカの有様に顔をしかめながら、アスカの側に跪き、肩を抱くようにして上体を支える。そして意識しない、自然な動きでアスカの髪を撫でつけながらそっと呟いた。

「だからあんな大声が聞こえれば、誰だって不思議に思うよ。そう言えばケンスケ達、それにマユミさん…」

 意外に薄情だなと、マユミ達相手に渋っているように聞こえる声でシンジは呟く。
 驚きが醒めたわけではないが、アスカはその言葉を否定するように首を振った。実際、シンジは誤解をしているのだから。

「普通は聞こえないわ。何メートル離れてると思ってるのよ」
「え…?」
「あんたが普通じゃないのよ」
「………」

 どういうことか聞きたかったが、目と顔を背けたアスカは答えようとしない。シンジも気にはなったが、無理してまで聞こうとはしなかった。なぜか、今はまだそのときではない気がして。

「そ、それより。アスカ、その腕…」
「ん、ああ。意外に早かったわ」
「早いって…でも、痛かったんじゃないの?」

 確かに泣き叫ぶほど痛かった。だがアスカはそうは言わず、話を逸らすように首を振った。

「大したことないわよ。それに、痛いのは神経信号の調整が上手くできない最初だけだから。次からはただのデータとして処理できるようになるから痛くはなくなるわ」
「…それはつまり、今は凄く痛かったってこと?」

 なんでこんな時には鋭いかな。

 と、奥歯を強く噛み、顔をしかめてアスカは嘆息した。

「どうでもいいでしょ、そんなこと」
「でも…」
「黙りなさい。それより、馬鹿みたいに私の体を支えてないで、お湯でも汲んできなさいよ」

 なんで? と顔に疑問符を浮かべるシンジをアスカは睨み付け、半ば殴りつけるようにシンジの腕をはねのける。

「血塗れで汗まみれなのよ私は!」
「で?」
「っく! この馬鹿、馬鹿シンジ!
 気を利かせて洗い流すためのお湯を汲んで来いって言ってるのよ!」
「ご、ごめん!」

 慌ててお湯を汲むため、プールに向かって小走りに走るシンジの背中を見ながら、アスカはモヤモヤした怒りにも似た感情を必死に押さえ込む。気の利かなくて情けないシンジを歯がゆく思う反面、心配して来てくれたことを嬉しくも思うのだ。その一方で誰にも見せたくなかった姿を見られたという事実が、彼女の怒りと恥ずかしさをかき立ててもいる。
 とどのつまり、一言で言い表せられないくらい複雑なのだ。

(うーん、気が利かないって怒ったけど、あんな叫び声が聞こえたくらいでわざわざ心配してこんな所まで来るってのは褒めてやっても良いけど、でも私のこんな情けない姿を見たってのは万死に…え?)

 ちょっと待て。と自分に問う。
 今の自分の姿はどんなだっただろう?

 血塗れ…これは良い。
 汗まみれ…これもまあ良い。
 すっかり脱力して立つこともできない…非常にまずい。
 寝間着が濡れると後で困るから全裸だ…やばっ。
 しかも助けに来たシンジの姿にちょっと胸がキュンとしてる…た、助けて。

 逃げないといけない。
 切にそう思う。だが、すっかり力の抜けた体はまるで言うことを聞かない。

(ちょっと、私の体でしょ!? だったら私の言うことを聞きなさいよ!)

 体は普段酷使するアスカの魂に離反したかのようにまるで言うことを聞こうとしない。いろんな意味で大ピンチ。
 そうこうしてる間に、シンジが木の湯桶に湯を満たして戻ってきた。気を利かせろと言われたから、刺激が強くないようにぬるま湯を汲んできている。

(熱いお湯だったらそれを理由に怒鳴りつけて逃げられたかもしれないのに!)

 ザザーッ。

 パニックに陥り、口は開くけど何も言えなくなっているアスカの左腕に、ゆっくりとシンジはお湯をかけた。完全とは言えないが、血と脂肪、皮の残滓が流されていく。ぬるま湯がそこはかとなくこそばゆくて気持ちいい。って、気持ちよくなったらダメなんだってば。

 どうしようどうしよう。
 どきどきばくばくと、シンジに聞こえそうなくらい鼓動が強くなっていく。きっと顔も赤くなっているだろう。今はまだシンジには悟られていないけど、すぐに気づかれる。その時、シンジは、いや自分はどうするだろう。

「触るよ?」

 シンジは湯をかけただけでは取れない汚れを取るため、近くに転がっていた海綿を片手にそう言った。アスカが心配しているようなことは微塵も考えず、純粋に心配だけしながら。

「え、ええっ!? ちょ、シンジ、ダ…めっ」

 アスカの反応が一瞬遅れる。シンジの左腕がアスカの左腕をとらえ、たっぷりと水を含んだ柔らかい海綿がアスカの再生したての左腕に触れる。
 その時、空気が震えた。

「ふぁ、あっ、あああああっ!!」
「あ、アスカ?」
「ひぃっ、んあ、だ、だめぇ放して! 触らないで!」

 何か間違ったことをしたのか、もしかしたら痛かったのだろうか?
 驚き慌てるシンジをよそに、アスカは上体をシンジの胸に預けるようにもたれかけさせ、ぶるぶると瘧にかかったように体をふるわせる。苦痛に襲われたわけではない。
 勿論、まだ鈍痛が去ったわけではなかったが、アスカが声を上げた理由は痛みからではない。

「い、いやぁぁぁ」
「ちょっと、あのゴメン、触ったらダメだったの、その、痛かった? 大丈夫?」

 おどおどと主人に睨まれた飼い犬のように、シンジは自分に抱かれて震えているアスカの顔をのぞき込んだ。反射的に殴られたときのことを考え、哀れなほどに体を小さくして。

「えっ…」

 だがシンジの目に飛び込んできたのは、彼の予想していたものとは全く違う…彼の鼓動が一瞬止まりそうになるもの。
 半開きにし、熱い吐息を漏らす唇。誘うように震え、かすれ声が小さく聞こえる。
 深く静かな湖のような青い瞳は涙を湛えて潤み、蝋燭の光をわずかに反射してキラキラと輝いている。
 上気した肌は寝間着越しにシンジの肌に温もりを伝えてくる。耳を当てなくともアスカの鼓動が聞こえる。マユミが普段見せる子犬にも似た、でもそれとは違う瞳が美しいと素直に思った。

「アスカ…」

 ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込み、シンジはアスカの肩をしっかりと抱き寄せる。アスカが何を考えているかは知らない。でも、彼の理性を押しのけるようにケダモノじみた何かがゆっくりシンジの中で大きくなっていく。考えるのが億劫になっていき、ただ衝動に任せていきたくなる。
 シンジがアスカを引き寄せるのと同時に彼女は首をのけぞらせ、白い首筋を見せつけるようにしながら甘い声を漏らした。

「は、はぁぁぁっ…、だ、だめぇ」
「でも…僕は」

 力を振り絞り、アスカは首を振って拒絶の意を示そうとするが、その動きは小さく、まるで誘うように艶めかしい。彼女自身にも、それが効果を持たないだろうことは容易にわかった。だが、体が言うことを聞いてくれない。本意はどうあれ、焼け付くような熱情に身を任せてしまいたい。

「だ、ダメよ。こんな、こんな…」

 自分にそんな声が出せるとはとても信じられない。それとも、これは本当に自分が喋っているのだろうか? こんな、彼女が毛嫌いする自分で自分を守ることのできない、守ってもらうことを期待している媚びたような声を。現実と虚構の境界が曖昧になったような、ふわふわと空に浮かんでいるような感覚で全身が痺れていく。
 ただこういうだけで精一杯。

「ま、マユミやレイはどうするつもり?」
「…大好きだよ。マユミさんも、綾波も…それから、勿論アスカも」

 一瞬動きを止め、それから乱れたアスカの前髪を撫でつけながら、シンジは静かに言う。その顔は、いつものおどおどした内気な少年のものではなくなっている。かつてマユミに見せた、真剣極まりない顔だ。群を守るため戦うオオカミのように精悍な顔。魔物と戦うときよりずっと真剣な顔になっている。

「確かに、僕はどうしようもない奴かもしれないけど、でも今の気持ちは…」
「だ、ダメよ。だって私、わたしは…」

 1番でないとイヤだ、自分だけを見てほしい、全て自分だけのものにしたい。そう強く思うけど、それが言い出せなかった。この馬鹿、碇シンジは結局誰が誰を選ぶと言うことができない、そう感じた。もしここで強く拒絶すれば、シンジは離れるだろう。でも、そうすると二度と…。

 そう言う奴なんだ。
 最低の男だ。

 優柔不断で、うじうじして、内向的で内省的で、物事にも自分にも自信がない。
 だからいつも寂しがっていて、人と人の絆を恐れる一方で強く求めている。
 仮に全員から一番好きなのは誰なのか強く問われたとしても、きっと答えることはできないだろう。裏を返せば、みんな比べられないくらい好きだと言える。シンジからすれば、今アスカに迫っているのは浮気じゃないのだ。どっちも本気だ。
 アスカから見たら、アスカでなくとも最低の部類に分類される。

(どうしてこんな奴を、こんなに)

「…あんただけは、絶対に…死んでも…いや」

 口ではそう言うけれど、初めて見る、初めて見るはずのシンジの真剣な顔を見た瞬間、記憶の奥底の何かが刺激されて心が揺らぐ。わずかに残っていた抵抗心が、淡雪が溶けるように消え去っていく。

(だめ、いけないわ。私がシンジに、こんなところで、無力に…)

(シンジ、意気地なしが、素直に、やっと、全部が、抱きしめて、キスして…)

 夢遊病者のように頼りない動きで、ゆっくりゆっくりとアスカの腕が動き、シンジの背中に回されてしっかりと彼を抱きしめる。何千年も待って回り道して、ようやく再会したとでも言わんばかりにしっかりと。ゆっくりとシンジの顔が目前に迫るのを、震えながらアスカは待つことしかできない。
 強く抱きしめられたとき、彼女は鼻にかかった溜息をもらす。ずっとずっと長い間待ちこがれていた気がする。喉がわずかに疼いた。
 もう、勝手に動く自分の体のことも、刺激への恐怖もさらけ出された自分自身のことも何も考えられなかった。

「シンジ…(鼻息…こそばゆい。…でも、気持ちいい)」
「キスして、良い…よね」
「私は淫魔なのよ、だからキス一つでも、そのマユミなんかとは比べものにならないくらいに…!」
「じゃあ僕も全力で応えないと失礼かな」
「ええっ!? あの特別に、最初は手加減して」

 シンジのある意味死刑宣告じみた言葉に、おどおど慌てるアスカ。クスリと笑うと、全部わかっているシンジは落ち着かせるようにアスカの髪をなでた。

「大丈夫、優しくするから」
「……絶対よ。絶対だから。痛くしたら…しょうち…しない…あっ」

 小さなつぶやきが漏れた唇は、優しく熱い唇でふさがれた。























 朝が来た。新しい朝が。希望の朝だ。
 眩しい太陽は昨日に続き、島を照らして生物をはぐくむ。
 植物は枝葉を伸ばし、動物たちは昨日の喧噪の恐れを残しつつも、元気に生きるための戦いを開始する。
 その一方、島の小高い丘の上にある城の中では、生き地獄と言うには生ぬるい修羅場が展開されていた。キシキシと軋み音を立てて窓という窓が曇り、水をたっぷりと吸っていたこけがたちまち凍り付き、霜柱が氷の短剣のようにいくつも突き出し、床を真っ白に染めていく。
 そのただ中に彫像のように立ち、赤い瞳をさらに赤くしてレイは言った。


「…ここは海の近く。水の力が特に強い場所。
 私の力が雪山に次いで最大限に増幅される。マユミちゃんであっても、どうにもならないくらいに」
「れ、レイ…。私は素直に…その」

 彼女らしくない怯えと弱気の浮かんだ表情で、慣れない正座をしながらアスカはかろうじてそれだけ言った。しかし、彼女を見下ろすレイの目はいつになく厳しい。冬のツンドラのブリザードのように。とどのつまり臨界一歩手前。

「いやあのさ、私一応、淫魔なわけだし。することしないと存在意義がなくなってこの世界から消滅して魔界に送還されるわけなのよ! 知らない訳じゃないでしょ!?
 …その、勘弁して!」


 してくれないだろうなぁ。
 そこら中が凍り付く気温になっているというのに、全身から滝のように汗を流してアスカはただただ謝罪を繰り返す。普段ならここで喧嘩になるんだけど、今喧嘩したらそれこそどちらかの死以外に決着が付かないことになるだろう。そしてとある理由から魔力が増大した自分であっても、今のレイには決して勝てない。勝てるわけがない。
 こうなったら、まだ理性の残っているアスカがひたすらに謝るしか方法がなかった。

 勿論、アスカは悪いことをしたわけじゃない。彼女が、いや彼女とシンジがしたことを悪いことと言うなら、ほぼ全ての生物は悪いことを行った末に誕生したことになってしまう。でも、ケダモノになったシンジが悪いと言えば一番悪いのだが。
 レイだってそれはわかっている。なにしろ、いずれは彼女もそれをするつもりだったのだし。しかし…。

「…アスカに先を越されたのだけは納得できない。私はファースト、一番のはずなのに」
「その言い方はさすがにムッとするんだけど。そもそもマユミに先越されて」
「…」
「うっ、ちゃんと、素直に…その、シンジには、いや、多少は強がったけど」

 アスカの言いたいことはレイにだってちゃんとわかっている。長いつきあいだし。正直なところ、素直になって顔から険の取れたアスカを彼女なりに祝福してあげたい気持ちだ。と言うか全身全霊で可愛がってあげたいくらいだ。もしもーし?
 でもそれとこれとは別。
 今はこの焼け付くような激情をただ吐き出したかった。

 ゆっくりとレイの口元が引きつり、冷笑…そうとしか言えない笑みが浮かぶ。静かに掲げられた彼女の両腕は空に複雑な文様を描く。殺る気満々だぜ。


「うふ、うふふふ。綾波レイの名において命ず、現れ出でよ大海魔ガイロス!
 その猛きの触手で彼のものを引きずり込め」

「いやぁ―――! いくらなんでも18禁すぎ――!!」
「…良い声で啼いてね」


















「はあっ、どうして、いつも、綾波さんはっ!」

 いやあなたも人のこと言えない。

 ため息と共に止めに行くマユミの背後で手をぱたぱた振るヒカリ。朝もはよからよーやるわ、とすっかり呆れ返っている。まあ、止めるなら早くしてほしい。早く止めないと本気で18禁になっちゃうかもしれないし。
 とりあえず、溜まった鬱憤を吐き出せるだけ吐き出した方がいいとは思う。レイもマユミもアスカも。
 と言うわけでアスカ達3人はほっといて。

(…そもそもの原因は彼よ。…不潔だわ)

 不潔不潔、いやんいやん。
 やたら険悪な目をするヒカリの視線の先にあるのは、かつて碇シンジと呼ばれたもの。ただのもの。今は返事がない、ただの屍のようだ。

「いや、まだ生きとるし」
「…て言うかなんでこんなになっても生きてるんだよ」
「人のこと言えん思うが」
「なんか言ったか、トウジ?」


 焼き餅120%増しのマユミとレイの電撃を浴びたシンジの横で、トウジとケンスケはやっといつものモードになったなぁ、と人ごとみたいな顔をしていた。
 事実、人ごとだし。
 と言うか羨ましいぞこのケダモノめ。





「だ、誰か…僕に優しく…して…よ」

 虫の息のシンジの呟きに、どこかの誰かのつぶやきが聞こえたような気がした。

(それは贅沢な悩みというものだよ。みんな大なり小なり君に優しくしてるさ。
 ただ君がそれにきちんと応えてないからわからないだけだよ。これも君がみんなに愛されてるって証明さ)

(そうなの…?)

(そうだよ。みんな君が大好きだからさ。君は自分が幸せ者だってことを、もっと自覚した方がいいんじゃないかな?)

(そうかなぁ)

(そうとも)

 そう言うことにしとこう。ゆっくり自分が意識を失っていく感覚に浸り、シンジは瞼を閉じた。




続く








初出2003/03/21 更新2004/12/26

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