「ん…」

 一筋の光さえない闇の中、彼は目を見開いた。
 白目の部分も赤い、血塗られた宝石のような瞳が瞬く。すべてをのみこみそうな闇の中、それは燃えさかる松明のように赤く光る。純粋なる悪意を道化師の気まぐれで覆った悪の臭いが充満していく。

「僕の支配から逃れた? 彼女には特に念入りに処置を施してきたというのに」

 ぶつぶつと独り言なのか、誰かに問いかけているのか小さく彼は呟く。
 余人にはわからないが、彼の言葉は相当に衝撃的な言葉だったのだろう。一斉に空気が揺れた。

 ぎゃあぎゃあ、みゃあみゃあ、きちきち、てけり・りりりりり…。

 闇に紛れて姿は見えないが、そこかしこにひしめく闇の生物達が驚き、ざわめく。夏の夜空のように闇の中で幾つも光が瞬いた。
 彼らのいらつくようなざわめきを委細気にせず、彼はなおも言葉を続ける。
 独り言と言うより、それは説明に近いものなのかも知れない。事情を知らない連中にいくらかでも情報を与えるための。

「いかに強力な存在だったとしても…例え首から上を何かが吹き飛ばし、その後再生したとしても。
 僕より遙かに力の劣る彼女が呪縛から逃れられるとは思えないね。不可解だよ」

 できるとすれば、誰かが呪縛の元を取り除いたからだ。しかし、一体誰が?
 声音、口調、抑揚、すべてに変化はないが周囲の存在達は主人が怒っていることを悟った。それ以上に、完全な支配下に置かれながら、主人の支配から逃れた存在がいたことに驚きを隠せなかった。


「マスターの支配から…逃れる?」
「吸血鬼の宝石を体内に仕込まれた者が? あり得ない」
「こけかきぃきぃ」
「あり得るとしたらマスター以上の力を持つか、あるいは、別に何者かが」

 しばし赤き瞳の持ち主は考え込み…やがて、気の抜けるような静かな口調で言葉を紡ぎ出す。

「確かめないといけないね。でも、僕は間もなく始まるゼーレ12神将会議に出席しないといけないのさ。ままならないね」

 そういうもんだよ、人生とは。
 かすかに瞳が揺れる。肩でもすくめたのだろうか。

「誰かが代わりに調べに行ってもらえると、僕嬉しいな」

 そして口元しかわからないが、背筋がゾクリとするような笑みを浮かべた。男でも女でも、まともに見たら胸が怪しく高鳴り、心臓が飛び出しそうな素敵な笑み。骨が膨れ、肉と皮を突き破ってくるような錯覚さえも感じる。

 謎の影が前髪を指先で弄ぶ。闇に赤い光が二つ、瞬いた。

 直後、一斉に挙手の嵐が巻き起こる。
 はいはいはーい! と、直前までの雰囲気をぶちこわし、新入生の初めての授業みたいで騒がしいったらない。

「はーい! 私が!」
「いや、俺が!」
「自分が!」
「この私が! そして勝利の暁には、私をデルザー軍団の…」
「けけけけけけけけけけけけけけっ!」
「ピポピポ、ピピピピッ」
「退け雑魚ども! タブリス様、是非私めをををををぉ!?


 まだ秘密の名前を口走った馬鹿があげる、『あれー』と奈落の底に落ちていくような悲鳴が聞こえたが、瞳の主は勿論、それ以外の連中もそろって無視した。たとえバレバレであっても、言ってはいけないことはあるのだから。
 するすると天井に巻き戻っていくロープを後目に、瞳の主はやがて考えがまとまったのか、面白そうに瞬きをした。『君に決めた』とかそんな感じで視線が影の一つを射抜く。

「じゃあ、今回はあなたに行ってもらおうかな。
 漆黒の翼のお爺さんに」

 彼の言葉を合図に、全身黒タイツ…みたいに見える照明係がゴキブリのような密やかさと素早さで…ってよくよく確認すると本当にゴキブリ人間だった。
 ともかく、触覚を揺らしながら彼らは部屋の一角に走り、下からのアングルで目映い光を1人の人物に照射した。不健康な青い光に顔を染め、乾いた血のような赤い僧服に身を包んだ老人が闇の中に浮かび上がる。死人のように色の悪い顔が、その所為でますます不気味に見える。

『出番ですな』

 服の裾をこそりとも揺らさず、静かに仲間達をかき分けながら瞳の主の前に進み出る。
 せっかくの指名だというのに、にこりともせず、微動だにしない。

『仰せのままに』

 ひざまずき、頭を垂れるその瞬間にも彼の表情は微塵も変わらない。
 対照的に赤き瞳の主はクスリと笑うと、お楽しみを目の前にした子供みたく頷いた。

 ユーモアの欠片もないのはつまらないが…それは別として全く頼もしい限りだ。
 すくなくとも、あの筋肉馬鹿よりは1億倍ましだ。

「途中までは門を使うとして…多少の距離はあるけど、あなたの翼ならほんの数時間で双子島にたどり着くよね?」

 返事はない。
 …瞳の主が顔を上げたときには、既に老人の姿はその場から消えていた。はじめからそこにいなかったとでも言うように。闇の残り香が静かに漂っていた。

「全く頼もしい。でも、もう少し会話の機微を楽しむってこともしてほしかったかな。せっかちな人だよ」




























Monster! Monster!

第30話『CARMINE

かいた人:しあえが











 結局、シンジが動けるようになったのは、少し遅い朝食をみんなが片づけた後だった。ピクリとも動かなかった状態から突然ひょっこりと頭を上げた彼を、清潔な白いナプキンで口の端を拭いつつ、アスカは蟻でも見るような目をする。いや、蟻の方がまだましな視線かも。

「頑丈ねぇ」
「…頑丈とか言う前に助けてよ」

(シンジが目を覚ましたから、このベーコンは食べたらまずいだろうなぁ。
 でも…美味しそう…体重…いや、しかし…)

 シンジの言葉を無視し、なんてことをベーコンエッグを見ながらアスカは考えたりする。もっとも、すっかり冷えてしまって白く油が固まっていて、そんなに食欲をそそりそうではなかったけれど。でもちゃんと作ったベーコンは味わい深く冷えてもおいしいし…迷う。

(食い意地はった奴って思われるのもね。私のイメージもあるし)

 大丈夫、みんな本当の君を知ってるから。
 特にシンジとマユミはレイの口からあること無いこと色々吹き込まれてるし。



 もっとも彼女の心配は杞憂かもしれない。朝から食欲旺盛なアスカに比べ、当のシンジは食欲があまりありそうにはなかった。
 病み上がりと言うこともあるが、マユミから手渡された軟膏の材料を聞いた瞬間、一気に食欲が失せてしまったからだ。

 鋭い刃先で不注意な獲物の足を切り裂く剣輪草の実と、美しさとは裏腹に死刑囚の死体に根づく銀鈴草の根、ヒトニグサ、砂漠のピラニアの異名を持つ砂ナメクジの内蔵、鎧騎士をも食い殺す兎の耳、驚異的な再生能力と幻影投射能力で知られる虹蛭、ゴブリン鬼の肝臓、ヒドラの髄液、不死身トカゲの脳下垂体を大鍋一杯の海水で煮込み、穴トロールの大腿骨の柄杓で回復呪文を唱えながら七日七晩混ぜる。

 …毒じゃないのか?

 そういえば、彼女がこの薬だけじゃなく、他にも色々作っていたときは色んな意味で凄かった。凄い臭いのする液体が入った大鍋を、楽しそうに鼻歌を歌いながらかき混ぜたりとかしていて。

『うーべいとーぎいりるいりちちちくー、れやきへぬべんかほー♪
 うがふなぐるー、きりぐりるいりりりちわー♪』


 意味は分からない。わからないほうが良いと思う。



(うー。思い出しちゃったよ)

 たとえ効果をマユミが保証したとしても、あまりいい気持ちはしなかった。
 でも遠慮した瞬間、目の前でマユミが泣きそうな顔をして、途端にイヤと言えなくなるのがこの情けない主人公なわけで。
 パタパタと尻尾を振ってじゃれついてくる犬みたいな目をするマユミに困った目をしつつ、濃い緑色をした軟膏をすくい取る。30年間忘れ去られた、肥溜め式便所みたいな刺激臭に涙が出てきた。背筋にじっとりと冷たい汗が浮かぶ。

「塗ってあげますよ。遠慮しなくても…」
「いや、それぐらい自分でできるから」

 小首を傾げて言うマユミに、「うん」と頷きそうになったが、他人にこれを塗られる…のはさすがにかなり覚悟がいるので静かに首を振る。不意打ちの感触を想像しただけでまた汗がたっぷりと出た。

「…そうですか」
「あんた材料聞いてよくそんな薬塗ることができるわね」
「効果があるならそれで良いよ(誰の所為で怪我したと思ってるんだろ)」

 薬のぬめっとした感触に複雑な顔をしつつ、シンジは横目でアスカを睨み付けた。

「なによ」
「…ごめんなさい」

 睨み付けた瞬間、狂犬のような目をしたアスカに睨まれた。
 【おまえを殺す】と言わんばかりにすさまじい目で。直前まで来ていた普通の衣服、質素な色合いのブラウスとスカートが一瞬で焼け落ち、いつもの彼女の衣装…露出の多い革製のボンデージ…が彼女の肢体を包み、その迫力を数倍増しにしてしまう。
 なぜかマユミが体を小さくしてシンジの後ろに逃げ込んだ。

「つまんない男」

 シンジにも言い分はあるだろうが、どちらかと言えばアスカの方こそもっとたくさん言いたいことがある。軟弱とか、軟弱とか、軟弱とか、軟弱とか、ケダモノとか、軟弱とか、軟弱とか、受けとか。
 レイの焼き餅から来る八つ当たりで、危うく18禁の展開になるところだったのだし、その主原因であるシンジから恨まれるのは甚だ筋違いだ。そうゆうつもりで睨み付けたのだが…。

(軟弱もの)

 かえってその弱々しい態度に歯痒いものを感じてしまう。なんというか、わかりやすい娘ッ子だ。
 昨日ハルマゲドンなみの勇気を振り絞ってせっかく…なのに、その相手がこれでは彼女ならずとも渋りを覚えるだろう。表面上の意見はともかく、好きな相手には逞しくなってほしいのだ。まかり間違って自分より強くなられてもそれはそれで頭に来るのだけれど。


(本当に軟弱な奴。
 でも……所詮、受けのシンジに強いところなんて期待する方がおかしいか)

 …昨晩はケダモノと言う言葉がこれ以上ないくらいはまっていたが。思い出しただけで腰とあととある部分が痛いようなうずくような。
 それより今は朝食の余韻に浸っていたい。

 鶏卵の目玉焼きと山羊のチーズ、厚く切ってカリカリに焼いたベーコン、山羊乳、ライ麦のパン、素朴だが実に自然な味わいの朝食だった。肉が少ないのが物足りない気もするが、急な来客だったのだし、あまり贅沢を言うわけにはいかない。
 マユミやレイも満足しているようだ。雨上がりの虹を見ているように健やかな顔をしている。トウジだけアスカ同様に肉が少ないことが不満そうだったが。ケンスケ? ああ、いた。

 …またこんな扱いなのかよ。アスカの目つきから今回の自分の役割を思い知らされ、人知れずケンスケは泣いた。

 藤製の椅子の背もたれにおもいっきり寄りかかり、大きく伸びをしながらアスカは天井を眺める。大きくカーブを描いた白亜の天井は、所々に黒い染みが見える。染み…正しくは海鳥の巣だ。
 灯台よろしく、開け放しの窓を出入りして住み着いたのだろう。
 巣とドーム天井の至る所にある天窓とを行き来する小さな生き物、海燕の姿が確認できた。黒い翼の飛空者は忙しなく鳴き喚く雛のために、せっせと餌を運んでいる。どんな生き物であっても、親が子を思う気持ちにかわりはないのだろう。ごく一部を除いて。



『アスカちゃーん♪』



 そのごく一部に凄く心当たりがあるのは忘れていたい。
 てか忘れさせてほしい。

 じっと目で天井を舞う燕を追う。

 アスカは鳥という生き物が好きだ。その自由に空を飛び回る姿が。
 自分とは大違いの空の支配者達…。
 このままずっと鳥を眺めていたかった。でも…。

(それはともかく…これからどうするかな)

 彼女個人としては、いやマユミやレイもとっとと家に帰りたいという気持ちで一杯だ。ヒカリ ─── 強敵でもある新たなる友 ─── と出会ってすぐに帰るというのも忙しなく、性急にも思えるが今回はとにかくシンジを家に連れ帰るべきだろう。
 ユイがよこした手紙には、何があっても少なくとも一人は家に残っていろと会ったのだから。理由は分からないが、ユイにはなにがしかの考えと事情があると言うことだ。

「あああ、なんで今になってこんなことを思いだしたんだか」

 夏休み最終日に、宿題が残っていたことを思い出したような心境だった。
 誰が空き巣や強盗に入るんだか…と、マユミが残したトラップや守護者の数々を思い出して嘆息する。一方、今考えるとユイはそう言う空き巣の心配をして手紙に書いたのではないような気もする。いずれにしても、今の状況はユイの意向に激しく背いている。
 舌なめずりしながらお仕置きを行うユイの姿が目に浮かぶ。

(お仕置き…ってことになるのかしら。やっぱり)

 確かに、全員で追いかけたのは考えが足らなかったかもしれない。
 少なくとも、レイくらいは留守番に残しておくべきだったか。しかし、レイがいなかったら、恐らく彼女たちはヒカリと相打ちになっていただろう。
 理由はともかく、このことで執拗な追求をされる…んだろうなぁ。















「だからといって、なんで私達、また迷宮に入り込んでるのかしら?
 ほらマユミ、答えなさい」
「…誘ったのは洞木さんですけど、承知したのはアスカさんですよ」
「あんた達、反対しなかったじゃない。ってあら、なんかいる」

 確かにカビ臭い通路の奥の暗がりで何かが動いている。何十mも離れているのに漂ってくる肉が腐る臭いに、露骨にヒカリは顔をしかめて鼻をつまんだ。閉鎖空間特有の臭いも閉口モノだが、この臭いはそれに輪をかけた悪臭だ。元が蛇の化身である彼女は、鼻が敏感なのだ。

「トロールね。行水って習慣がないって言うけど…。不潔だわ」

 たるんで皺だらけの薄緑色の肌に黄色やピンク色をした黴をこびり付かせた、悪臭を垂れ流す巨人が目を濁った黄色に光らせている。
 彼らは目ではなく、嗅覚でヒカリ達を捕らえると、だぶついた腹やたるんだ腕の肉を揺らしながら一斉に駆けだした。

【……くいもん…目…いない。こわいもの…ない。おれ、くう。あさめし】

 首を切っても生き返ると言われるほどの生命力を誇る…かつては神にも匹敵した巨人族の末裔、トロール。今はその力はほとんど失われたが、それでも並の人間10人分にも匹敵する力を持つ恐るべき存在だ。しかもそのトロールが1ダース。

 完全武装の一個中隊に匹敵するその戦力が、地響きをあげてヒカリ達に迫る。鉄塊を打ち付けた棍棒が、岩の固まりが血を欲する。

 ただ彼女達相手では明らかに力不足だった。
 ヒカリと同じように鼻をつまんだまま、ちょんちょんとレイはマユミの肘をつつく。

「マユミちゃん、仕事」
「わたしですか」

 夜会にでも着ていくような黒いドレスの裾を翻しつつ、隣をうかがうマユミ。飾りのない水色のワンピースを着たレイは不思議そうな目をしてマユミを見つめた。

 自分でなくても…とマユミは思う。
 ヒカリなんて魔力を使うまでもなく、一睨みするだけでまとめて石像にしてしまえるはずなのに。ああ、見るのも嫌なんですね。納得しました。それはそれで色んなボルテージが上がりそうですけど。

 嘆息すると、マユミは視線をトロールの群に向けた。

「…わかりました。せっかくだからとっておきを使ってみます。
 血のように紅い夕焼けの下、私は歌う。悲しい現実を見据え、いざ立ち前に進むために!
 今高らかに戦いの歌を!
 角持つ黒き獣を迎え撃つために、立ち向かうために! 悲しみを力に変えて!
 夕日を背に、そして人は獣をうち倒す!
 捕らわれた獣の魂よ、今盟約に従い汝が責を成せ。嘆きの咆吼を轟かせ!
 …黒王砲(ブラックキング・キャノン)

 言ってることとやってることは大違い。
 『ぶじゃあ』と物凄い音をさせて花咲く紅い花が薄汚れた石壁を彩った。

「…これは違う。違うと思う」
「確かに冒険しとる気はせえへんな」
「まぁな。ドラゴン相手だって勝てそうなメンツだし」

 新しくできた通路…もとい、壁の穴に視線を向けつつシンジ達はそう思う。
 たぶん、この後もこんな感じなんだろう。







 実際そんな感じだった。







 アスカがことさら胸を誇示するように背筋を伸ばして拳を突き上げる。握りしめた拳から、手品のように橙色の炎が噴き上がり、数メートルの高さで噴き上がる炎の中から奇怪なものが幾体も転がり出た。

「出よ、火精(デヴリン)!」

 炎で作られた小人は、老人のような顔をゆがませてゴブリンとコボルトの群の中に飛び込んでいく。
 魔法に対する対抗手段を持たないゴブリン達が、消し炭と変わるのも時間の問題だ。
 泣き叫び、ある者は命乞いをするがアスカは決して容赦をしない。彼女は悪魔なのだから。





「大地を走るゲオザークよ。盟約に従いこの地に集い、我が敵を蹴散らせ」

 レイの召還に応え、地面を割って巨大な背鰭が姿を現した。まるで堅い大地と石が形を持たない水であるかのように、それは地面を泳ぐ。目を見開くシンジ達の目の前で、それは跳ね上がり、一瞬空気中にその姿をさらした。

「さめ…?」

 まさしくそれは大地を泳ぐ顎。鮫神サンダールに並び恐れられる、魔獣ゲオザーク。
 それは驚き、戸惑うヒドラの胴体めがけて一直線に突き進んでいく。

『『『『ぐぎゃぁぁぁ───!』』』』

 4つ頭のヒドラの口から一斉に断末魔の悲鳴が響いた。







 ヒカリの瞬きをしない瞳が金色の輝きを放つ。
 一瞬で喧噪はやんだ。
 商人の娘のような平凡な格好をした彼女の眼前には、あまりにも場違いな、躍動感溢れるミノカンパス(ミノス島の馬頭巨人)の石像が立っていた。そして石像になっても運動エネルギーが消えて無くなったわけではない。そのままの勢いを保ったまま、石像は地面に倒れ込み、粉々に砕け散った。






「わしらいらん奴みたいやな」
「言うな、頼むから」
「絶対、喧嘩できないよ。命の危機だ」
「結婚せんでも、ユイさんの息子って時点で命の危機やないか」
「だよな」






 なんてことを、わいわいがちゃがちゃ言い合いながら、7人は先に進む。

 頭上をふらふら飛ぶ魔法の光…レイの召還した人魂『ウィル・オ・ウィスプ』と、マユミの作った『永遠の光(コンティニュアル・ライト)』で視界は良好だ。

「それで、この遺跡には何が収められていたの?」

 先頭を歩くヒカリのすぐ後ろに続くアスカが尋ねた。ヒカリを除く全員の耳がぴくりと動いた。
 それは気になって仕方がないことだ。当初、この遺跡はすでに探索されつくし、何もないと聞いていた。それなのに、いつの頃からかヒカリ達が住み着き、さらに別の誰かは見つめるもののような強力な魔物を番人として置いていた。
 なにも残っていない廃墟にすることだろうか?

 肩越しに振り返るヒカリの瞳が魔法の光を受けて、きゅう…っと縦に瞳孔を狭めた。さながら獲物に狙いを付けた蛇のように。

「ここまであなた達を案内してきたわけだし…秘密にする理由もないわね」

 見つめるものがいた部屋からさらに奥。
 ダミーである宝物に気を取られ、大抵の人間は奥の壁の秘密通路に気がつかない。
 その秘密の部屋に隠されたもの…。

「実は私もよく知らないのよ。お母さんは、お姉ちゃんには話したみたいだけど私には何も言わなかったわ。でも、古代文明の遺産が眠っているって、お姉ちゃんは言ってた」
「古代文明の遺産…!」

 ごくりと唾を飲み込み、ケンスケがうなる。
 ヒカリの曖昧な言葉に心臓が高鳴り、興奮という名の成分が血液に乗って体中を駆け回る。やはりこう来なくては冒険とは言えない。

「それも、迂闊な人間の手に渡ったら、世界を滅ぼす一因になるかもしれない…らしいわ」
「世界を! 超文明! 遺産! ロストテクノロジー! 兵器!? 燃えるぜ!」
「……古代文明、ってどの文明のことなんでしょうか?」

 この人怖い。と目があさっての方向を見だすケンスケからヒカリは距離を取りつつ、マユミの質問に答える。

「帝国よ。女神の誕生と死による大崩壊以後、初めて生まれた唯一の全世界を統一した。
 機械と呼ばれる鋼の生き物が世界を動かしていた、別名『鋼鉄文明』…って説明するまでもなかったかしら」

 静かにマユミは頷いた。その口は堅く閉ざされていたが、その目は驚きで大きく見開かれている。ふと横目でアスカ達を見ると、彼女たちも驚いているようだった。無理もない…とヒカリは思う。半ば伝説と化した、超超古代文明…マユミの生きていた時代よりも遙かに過去の世界なのだから。

「2万年前に発生し、1万2千年前に滅んだ文明…その遺産が、まだ残っていたなんて。
 お父さんの国だって三千年前なのに、桁が違うんですね。
 聞いたことはあったけど、その遺跡を直に見るのは、さすがに初めてです」

 世間一般で古代文明と言うマユミの時代より、さらに一万年近く過去に滅んだ文明だ。今では、伝説と言うより物語や神話のように語られている。ただし、一部の人間達はその古代文明が本当に存在したことを知っている。彼らが言うには、ほぼ全ての地域で共通した言語が使われていることが、その証拠…らしい。ただ別の学者はそれ以前にあった出来事、女神の死の寸前、全ての人の心が通じ合ったからだと主張しているが。

 さすがに眉唾を感じたのか、戸惑いながらアスカが質問を続ける。

「ヒカリ、それは間違いないの? 」
「ええ。お姉ちゃんの言葉を信じるなら。この奥には、まだ生きている機械が封じられてるって話よ。それも、彼らを使役する資格のある存在が来るその日まで」
「資格って…なに?」
「それはわからないわ。ただ、その時が来れば分かるらしいけど」

 そしてヒカリは意味ありげにアスカを、マユミを、レイを見つめる。アスカ達は複雑な表情を浮かべる。一方、分かってないけど分かったような顔をして頷くシンジ達には「これが当然の反応よね」とヒカリは苦笑する。

「…ヒカリは私達が、私達の誰かがその資格のある人だって、そう考えたのね」
「そうゆうこと。実のところ、私はほとんど信じていなかったんだけど、ほら、私の血を吸った吸血鬼、あんなのが本当に来たとなると少しは信じる気にもなるわ」
「何者なのかしらね? いずれにしろ、答えはもうすぐ分かるわね」
「そうね。あら、見えてきたわ」

 ヒカリ達の目の前に、巨大な両開きの扉が無言の威圧感を伴って姿を現した。
 先に見つめるものと戦った時はシンジのこともあって素通りしたが、今こうして見てみるといかにも何かありそうな、熟成されたワインのような存在感を醸し出していた。

「この奥よ。正しくは、この部屋の奥」
「この部屋には何があったの?」
「金銀財宝の類があったらしいけど」

 そう答えつつ、床から天井までと同じ高さのある石の扉に手を置く。片方だけで軽く数百キロ、あるいは1トン以上の重さがあるだろう。トウジが何か言いかけて手を伸ばしたが、ヒカリは苦もなく扉を押し開けていた。

「はい?」
「あら? 鈴原、どうかした?」
「いえ、別にどうもしていません」
「そう。じゃ、この奥よみんな」

 急に馬鹿丁寧になって口調が普通になったトウジに苦笑しつつ、シンジ達もヒカリの後に続いて扉をくぐる。二人の姿を見てると、なんとも微笑ましい気分になってくる。上手くいったとしても…きっと、尻に敷かれるだろうな。そんな風に未来が想像できて。


 部屋の中は、扉の大きさに比べると意外なほどに狭かった。
 とは言っても、ちょっとした大広間くらいの大きさがあったのだが。

「なにもないね」
「せやな。…見ろ、あそこに箱がころがっとるで」
「宝箱だな」

 部屋の奥、一段高くなった場所に金属部分がすっかりと錆びた箱が転がっていた。側に膝をつき、ケンスケが子細に調べるが、空気以外の何物も中に入っている様子はない。
 わかってはいたが、落胆の表情を浮かべる三人。

「これが、ダミーの宝箱だったんだね」
「そうよ。でもダミーと言っても、それなりに価値のある物が入っていたわ。魔法の剣、呪文の書かれた巻物数本、金銀財宝」

 ヒカリがシンジの言葉に応え、横を通り過ぎる。一同に見つめられながら、ヒカリは細かいヒビのある岩壁に何かを探すように目を凝らす。

「ほんの数ヶ月前に開けたばかりだから、間違いないはずなんだけど…あった」

 やがて何か捜し物を見つけたのか、にっこりと笑みを浮かべる。彼女の目は、壁のひび割れの奥に見える、小さな金属の板を見つめている。

「それ?」
「そうよ。これが秘密の扉を開けるためのスイッチよ」

 アスカの問いに頷き、ヒカリは金属のプレートに人差し指を押しつけ、カチリと音がするまで押し込んだ。
 半呼吸ほどの間をおき、どこか遠くで何か大きく思い物が動く音が聞こえてくる。不安そうにレイがシンジの側に身を寄せ、アスカとマユミ、シンジ達は油断無く周囲を見回した。
 しなやかな首を巡らせながら、ヒカリは警戒するシンジ達に苦笑する。

「大丈夫よ。水車が海流の力で回転を始めたのよ」
「水車?」
「水車の回転でなんだっけ…電気とか言う小さな雷の力を発生させるんだって。見てて、魔法みたいに扉が開くから」

 太鼓判を押すようなヒカリの言葉だが、さすがにまだつき合いの浅いアスカ達は完全に信じ切れずに灰色の壁を見つめた。ヒカリの言葉を信じるなら、この継ぎ目一つない石壁に扉ができるらしい。それも魔法を使わずにだ。ヒカリの言葉を疑うわけではないが、魔法を使わず、という部分を信じ切れないマユミはかなり警戒した目をしている。魔法使いの彼女ならではの反応だろうが、そうだとするとこれからさぞ気苦労が多いことだろう。

 ドワーフより古い技術者集団の技がこの奥には満ちているのだから。



 変化は唐突だった。

「本当に…開いた。嘘、魔力関知に反応がなかったのに。それに、動体反応も…。魔法でも仕掛けでもないなんて、こんなことって」
「なるほど、これが超古代文明の技術って奴なのね」

 マユミの驚きを楽しむようにアスカは軽口を叩く。人間もやるじゃない。そんな風に言ってるようにも見えた。
 突然、壁の一角に虚無が現れた。幅5m、高さ8mほどの部分が綺麗さっぱりなくなった。そして亡者の魂を呼び込む地獄の顎ように、ぽっかりと虚ろな闇が広がっていた。
 得意げにヒカリは一同の顔を見渡す。アスカは強がり、マユミは戸惑いを覚えた顔をしている。レイは…いつもと変わらない。彼女にとっては、扉が魔法で開こうが手仕事で開こうが、はたまた遺失技術で開こうがどうでも良いことなのだろう。自分の手柄ではないのだが、ちょっとは驚いて欲しい気もする。

 視線をアスカ達よりもっと横に向ける。シンジ達の反応を見るためだが、シンジ達の表情は予想よりも驚いていない、しごく平凡な顔をしていた。明らかに重大さが分かっていない。レイとは違う意味でつまらない反応かもしれない。
 俯いたことで額にかかった前髪を払いのけ、ヒカリは一同を促した。促しつつ、皆の覚悟のほどを確かめるように目を細める。ある意味、これはシンジ達…は入る気満々だから良いとして。これはアスカ達が本当に自分を信じ切れるかどうかの試金石だ。
 アスカ達の知らない技術で開いた扉に加え、闇の通路からは明らかに危険な、卵を守る毒蛇じみた臭いが漂ってきている。ヒカリが彼女たちをはめるつもりなのだとしたら…。その危険はまだ残っている。マユミは本当に彼女の洗脳を解いたのか。仮に解けたとしても、魔物であるヒカリは本当に信用がおけるのか。

「行くの? それとも引き返す? 例えば、みんなが入った後に扉が閉じて、二度と開かない…なんて事があるかもしれないわよ。そこまで私のことを、会ったばかりの私のことをみんなは信用できるのかしら」

 不思議そうにシンジ達はヒカリとアスカ達を交互に見つめている。よく分かっていないが、ヒカリの言葉からヒカリがなにかを試していることだけは感じ取れた。どうも自分達は確かめるまでもないと思われているらしいことも。
 さもありなん。どうしようもないくらいに彼らはお人好しだ。しかも好奇心が強い。扉を開けただけで、よく考えずに入り込んでしまうだろう。
 しかし、アスカ達は…。ある意味、これはヒカリにとって賭だ。友達と言える普通の知り合いができるか、あるいはもっと上の、この島に縛られる自分を解き放ち、親友と呼べる存在ができるか…。

「ヒカリ」
「洞木さん」

 アスカとマユミが同時に応える。
 張りつめた目をしたヒカリは緊張していたが、ある意味落ち着いてもいた。彼女はアスカ達を、ひいては彼女たちを信じた自分をまた、誰よりも信じていたから。

「何を今更。
 行くわ、ヒカリ。あなたのことを私は信じた。結果だまされても私は後悔なんてしないわ」
「私もです。なんて言うか…洞木さんとは、ずいぶんと昔からの知り合いだったような気もします。前世が本当にあるのだとしたら、きっとそこでの私も今みたいにおどおどして、内気で、あまりお話をしなかったかもしれませんけど。でも、不思議ですね。洞木さんが嘘をつくはずがないって、そう思うんです」

 そしてアスカ達はヒカリの思いに応えた。アスカの手がヒカリの肩に置かれ、すぐ側でマユミが静かに目を閉じ、ゆっくりと頷く。ヒカリも彼女たちの応えるように少し頭を垂れた。なんとなくレイは拍手。
 よくわかんないけどシンジ達は感涙にむせびないた。

「よーわからんけど、ええ話や。感動や!」
「売れるぞ…。乙女達の友情物語。個人的欲求を言わせて貰えば、そこはかとない女の子同士のスキンシップをもっと、ほげっ!」
「うううっ、なんだか涙が溢れて止まらないよ。女の子達の友情…なのかな。
 って、綾波?」



 約1名を殴り飛ばし、そろそろ話を進めないと色々問題がある、と言わんばかりに肩をすくめてレイは淡々と呟く。

「そろそろ話を進めても良いかしら?」
「あ、はい、どうぞ」

 マユミやアスカは嫌いじゃないが、考え込んで行動の遅い所があるのが玉に瑕だと思う。しかし、何事も自分みたいに性急に最短距離で進むだけだとつまらないのかもしれない。とも思う。何事もバランスが肝心なのだ。だとしたら自分達はどうなんだろう。ヒカリが仲間に加わるとして…それでもまだバランスが悪い気がする。あと1人、レイ以上に考え無しに突撃するような行動力の固まりが必要かもしれない。

 しかし、今は時間こそが一番大事だと思う。
 入り口への第一歩を踏み出し、レイは振り返って皆に目配せをした。覚悟を決めるようにごしごしと目をこすってシンジは頷く。



「行きましょう。地下世界(アンダーワールド)へ」














 迷宮への入り口の前に、老人は一人で立っていた。
 死者の指先のように冷たい空気が吹きだしてくる入り口の闇を見据えながら、彼は確認するように何度も頷いた。胸の前で両手を会わせ、フェルト地のローブが不気味に揺れる。その様子は、まるで人喰いの化け物鳥が羽を休めているようにも感じられた。

「………………人の臭いがする。他にいくつか。強い魔の臭いがする。私に近い魔の臭いが。
 だが問題ではない。
 甘美なる人の肉の味を愉しむとしよう。堪能なる魔の血を味わうとしよう」

 もし、その場にいる者がいるとしたら、彼はきっと耳と目を疑っただろう。老人は唐突に姿を消した。瞬きした次の瞬間にはその場にいなくなっている。まさにそんな感じで姿が消えていた。
 そして、この島にはいないはずのカラスの鳴き声がギャアギャアと、けたたましく聞こえた。


















 長い長い階段を一同は静かに降りていく。段差は普通の人間サイズなので歩くのが困難と言うことはないが、なにより幅が広く途中に踊り場のような部分もないため転ばないように殊更意識をしなければならなかった。
 そんなに大変なら、壁に手をつきながら降りればいい…と思うところだが、そう言うわけには行かない理由が彼らにはあった。
 シンジの混沌とした濃密な闇を通して壁を見つめる目には、隠しようもない恐怖が見え隠れしている。
 壁に幾つも埋め込まれた、小さなガラスの丸窓。ヒカリが言うには、その小さなガラス窓から凄まじい勢いで光線の雨が迸ったという。しかし、今それは全て永遠の沈黙に凍り付いている。その仕掛け ── 古代文明の防御装置 ── が沈黙している理由こそ、シンジ達が壁に近寄りたくない真の理由だった。
 刃の嵐で攻め刻んだように、壁の一面に刻まれた醜い傷跡が否応なく近寄ることを拒絶する。ゴクリと、シンジは何度目になるか分からない唾を飲み込んだ。

(いったい、何をどうしたら、こんな傷をつけることができるんだ?)

 鈍い頭痛にシンジは額を押さえる。実感があまりわかなかった…ヒカリの言う恐るべき力を持った吸血鬼。その力の片鱗を感じ取ることができる。

「…大丈夫だと思うけど少し偵察してくるわ。後からゆっくり来て」
「いってらっしゃい」
「気を付けてください」

 そう言うとアスカは翼を広げて闇の中に飛んでいった。ぱたぱたと手を振ってるレイの横でシンジは難しい顔をする。多少うるさく感じるところはあっても、自信家のアスカが側からいなくなってシンジは改めて不安に襲われる。

(こんなことができる存在も求めた遺産か。一体どんなものなんだろう。武器かな…噂に聞く光の剣とか機人とかだろうか。それとも魔法の道具かな。空飛ぶ船とか、音を記録する魔法管。
 いや、それよりなにより、仮に僕たちがそれを手に入れられたとして、扱うことができるのかな)

 そこまで考えたところでシンジの思考は唐突に中断した。
 左腕の肘を誰かにつかまれている。ヒカリが寄り添うようにして立っていた。黒い瞳が探るようにシンジの顔を見つめる。


「…な、なに?」
「別に大したことじゃないわ。アスカがいると聞き難かったことを、聞いてみたいと思ったのよ」
「聞き難かったこと? 一体」
「もうちょっと小さい声で喋って。山岸さんや綾波さんにもあまり聞かれたくないのよ。だって、あなた達の関係についてですからね」

 ヒカリは悪戯好きの妖精のように笑う。ちらりとマユミ達に目を向けると、マユミは甘えてくるレイに気を取られていて、ヒカリの行動に気づいていないようだ。トウジは多少気にしているようだが、敢えてどうこう干渉するつもりはないらしい。

「僕たちの関係って言われても」
「…下まで行くのに結構時間かかるのよ。良いでしょ」

 ほのかに香るヒカリの良い匂いにシンジはむらむらした物を感じる。身体の一部が堅くなるのを押さえつつ、マユミは言うに及ばず、昨日アスカとあんな関係になっておいて我ながら節操がないなと思う。それはともかく、シンジの冷静な部分は剣呑な物をヒカリの態度から感じている。シンジはヒカリの目と視線を微妙にそらしながら怪訝そうな顔をした。

「何を聞きたいのさ。僕たちの関係って、昨日アスカ達が話したんでしょ。一緒に住んでる、家族…だよ」
「そうね。アスカはすごく意地っ張りみたいだったから、そうとは認めなかったけど。一緒の家に住んでる家族なんでしょうね。それは分かるのよ。でも私が分からないのは、なんで極めて強力な魔物であるあの人達が、平凡な人間であるあなたと一緒にいるかが分からないの。
 理由をあなたの口から聞きたいのよ」
「理由と言われても、僕だって分からないよ。マユミさんは、死にかけたのを僕が助けたとき、色々あって結婚したからだけど。綾波は…、彼女が言うには母さんが決めた僕の許嫁だって」
「アスカは?」

 少しきつくヒカリは問いただす。声は優しげだが執拗だった。顔は笑って心は張りつめて。女ってホント怖い…。
 内心で『ヒィィ!』と悲鳴を上げ、シンジは乾いた唇を湿らせながら言葉を続けた。

「アスカは…よくわからない。アスカは河で釣り上げたんだ。溺死者かと思ったんだけど、生きていて、いきなり起きあがってさ。そして『あんたが碇シンジなの!?』とか怒ったりわめいたり。気がついたらいつの間にか僕の家に居着いて」
「釣り上げた…って、アスカ淫魔でしょ。あなたが地獄から召還したとかじゃないの?
 確かに、彼女は普通に召還されたんじゃないみたいだけど。でも、それにしたってあなたの言ってること支離滅裂よ。わけわかんないわ」
「うん、僕もよくわかんない。綾波と知り合いみたいだから、その昔の友達を訪ねてきたのかな…と思ったんだけど。でも、母さんからの手紙を持ってたし、それだけじゃないのかもしれない」
「じゃあ、あなた素性がよく分からないまま一緒に暮らしてるの!? 相手は人間の生命力を奪い取る悪魔なのよ!
 …そりゃ、あんな人だけど」

 目線をそらしたヒカリが何を言いかけたのかちょっと興味わいたが。それは言わぬが花。
 なんだ、アスカさんのことよく分かってるんですね。と常人の数倍の聴力があるマユミは小さく笑った。

「どうしたの?」
「いえ、文字通り余計な心配だったなって、そう思ったんです」
「そうね。いずれにしろ、碇君のことが好きじゃない彼女には分からないと思う」
「聞こえてたんですか?」
「もち」
「そういえばスノーホワイトは聴覚が優れて…。それはともかく綾波さん、階段の上であまり抱きつかないでほしいんですけど。ちょ、ちょっと…あんっ」

 後ろで羨ましいことを始めてるマユミ達をよそにヒカリのシンジに対する質問は続く。

「本当に僕にはよく分からないんだ。僕のことを、その、多少は好意でも持ってるのかなって思ったんだけど、でもことある毎に否定するようなこと言うし。本当は僕のこと嫌いなんじゃないのかって、思うこともあるんだ。だって、すれ違うときちょっと髪の毛を触っただけで大げさに悲鳴を上げるし」
「……わかってないの?」
「なにが?」

 キョトンとした顔をするシンジに、ヒカリは思わず膝が砕けそうになる。階段の上で砕けたら下まで転がり落ちていくので寸前でこらえる。

(やだ、この人天然だわ。確かにある意味アスカにはお似合いかもしれないけど、でもこんなの、こんなのアスカのためにならないわ。不潔よ)

 シンジと対照的に、厳しい顔をしてヒカリはシンジに詰め寄る。怒りが抑制を上回って、周囲にどう見えるかと言ったことにも気が回らない。

「死にかけた無機王を助けて結魂。親の決めたスノーホワイトの許嫁。そして理由がよく分からないけど、家に居着いた淫魔。それがどんな重大事かあなたわかってるの?」
「そんな重大なことなの?」

 ぶちっ。

 って音が確かに聞こえた。

「ふ、不潔! 不潔、不潔よ!!
 一度に三人の女の子をたぶらかしておいて、それを当たり前みたいに受け止めて! あなたの気持ちはどうなってるのよ!?」
「き、気持ちって…なんのこと? それにたぶらかすって、僕はそんな」

 今度はぶちぶちぶちって音がした。ヒカリの左右のお下げが重力を無視してゆっくりと持ち上がり、蛇が鎌首もたげるようにシンジに迫る。

「普通は好きな人ってのは一人だけでしょ!?」
「そ、そうなの!?」

 っておい。などとつっこまれてる間にもヒカリの妄想はヒートアップ。

「きっと毎晩毎晩アスカ達を弄んでるのね! アスカ達の間をふらふら行ったり来たりして!! アスカ達に無理矢理大人の階段上らせてるのね! そしてそれを当たり前に感じるようにみんなを洗脳したのね!
 ふ〜け〜つ〜よほぉぉおおお〜〜〜〜っ!

「ご、誤か…」

 誤解じゃあないと思う。
 細部は多少違うけど概ね当たってるし。
 そうこうしてる間にヒカリの妄想と鼻息と絶叫はジェットジェットヒートアップ♪
 シンジの襟首をつかみ、前後左右にガクガク揺すって喉も裂けよと叫びまくる。

「まさか、私も狙ってるの!? だ、だめよ、私にはもう心に決めた人が!
 でも、あなたはそんな私の言葉も聞かないで、無理矢理私を手込めにするのね! ああ、可哀想な私。ハラリと散った椿の花びらがよりいっそう私の哀れさを引き立たせるのよ。
 でも悪夢は終わらない。ベッドの中、あなたの欲望の残滓を身体にこびりつかせた私に、あなたは好色な目を向けるの。そして煙草のヤニで黄色くなった歯を剥き出しにしながら、いやらしい笑みを浮かべるのよ! 不潔よ、ああ、なんて不潔なの!! そ、そんなことしないでっ」
「あぅあぅあぅ、ちょっと、首を」
『俺から離れられなくしてやろう』そう言いながらあなたは再び私を組み伏せるの。『もう、いやぁ』そう呟く私の目を無理矢理のぞき込みながら、あなたは粘つく唾液を飲ませるように濃厚なキスをしてくる…そして、たるんだお腹を揺らしながらのしかかって、あいたっ!?」

 いきなり頭をはたかれ、ようやくヒカリは現世に復帰した。
 文字通り、夢から醒めた目をしながら周囲を見渡す。
 横には困ったと怒ったを半々に混ぜた顔をしているマユミとレイが、反対側にはどこに持っていたのか、巨大なハリセンを肩に担いだアスカが呆れ顔をして立っていた。後ろには女には分からない理由で真っ直ぐ立てなくなったトウジとケンスケがうずくまり、目の前には首を揺すられて意識を無くしたシンジが、どっかのさらわれたお姫様みたいに倒れていた。

「あら?」
「あら…じゃないわよ。何してるのよ?」
「え、えっと、アスカ早かったわね」
「そうじゃないでしょ。全く」

 怒りを抑えるように深い息を吐き出し、アスカはシンジの側にひざまずく。首の手を当て、脈を確認する。元気に流れる脈にホッとする。ま、こんなことで死ぬわけはないのだけど。

「だいたい、さっきの叫び声で分かってるつもりだけど」

 本当は怒鳴りつけてやりたい気持ちもあったが、ヒカリが自分のことを思ってシンジに詰め寄っていたことは分かっている。確かに、他人から見たら異常極まりない関係なのだから。恋敵同士が仲良く一つ屋根の下に暮らしてるってのは。

「あ、アスカ。私、そのあなた達のことよく分かってなくて、もし、あなたが不本意なんだったらと、そう思って。いつの間にか妄想とない交ぜに。
 …ごめんなさい」
「あなたの気持ちは分からないでもないけど…理由なんて、私にも分からないわ。それに、私達の関係は、言葉にできるような物じゃないのよ。騙されてるわけでも、妙な趣味って訳でもないわ。
 他はともかくだけどさ。私はシンジの事を好きな訳じゃないの。利用したいだけよ。確かに、こいつを利用してやろうって意外にも、その。
 そもそも、シンジが私の奴隷だって事をとっとと自覚してくれれば」

 最後の言葉に情念を込めつつ、ヒカリの、次いでマユミとレイの顔を一瞥する。表情を変えないまま、二人の気配が一変した。

「うふふふふふ、アスカさんったら。まだ素直になれないんですか?」
「…寝言は寝て言って」
「ほぉ〜?」

 引きつった顔で睨み合う三人と迸る色違いのオーラに、ヒカリはガクガク震えながら反射的に同じように怯えるトウジにしがみつき、相手のいないケンスケは『またこんな扱いかよ』と愚痴りつつ頭を抱えてうずくまった。

「「「うふふふふ、ふっふふふふふふぅ!」」」


「出よガンダー! 出よ翼竜アロン!」
「イカロス・マジックアロー! 続いてなんだか久しぶりの烈火球!!」
「惣流アスカとの盟約に従い、大地の底より来たれ溶岩の化身!
 アーマー・オブ・ギール!」






「こ、これであの人達は普通なの!?」
「せや。自分のしたことは藪蛇って奴やな。こいつらはこれで普通なんや」
「ふ、ふけ…つなのかしら? あ、碇君巻き込まれてる。あーもうわかんない」















「ついたかな。ってあれ、なんだ」

 どれくらい無言でいたか、何段降りたか分からないが、今彼らは階段の終着点にたどり着いていた。数分、あるいは数十分ぶりに漏らす自分の声が思いの外大きく響く。予想していたものとはあまりにもかけ離れた光景にシンジは呼吸を忘れた。

「こ、これは」

 腐った果物が破裂したような姿をさらけ出す、巨大なユーツ綱の扉が目の前にあった。通路を遮断するという使命を無惨に乱された無機物の死骸。
 不気味にねじくれた大穴を開けている扉に、アスカはトロールの悪癖に対して向けるような嫌悪を隠そうともせず呟いた。シンジの横を通り過ぎたマユミが、溶けて床に溜まった扉の残骸に人差し指を這わせながら考え込む。

「なに、これは…熱? それとも酸? なにかで溶かされてるの?」
「これは、ただの熱でも酸でもありません。どちらかと言えば、錆…に似ています」
「錆? 錆でこんな風に溶けたみたいになるの?」

 レイの質問に、少し言葉を考える。床に溜まったボロボロに腐食した金属の欠片を指先でつまむ。それは砂のように粉々に砕け散り、マユミの指先に黒ずんだ汚れを残した。

「一般には知られてませんが、金属が錆びるとき熱が発生するんです。どうやったかは分かりませんけど、この扉は急激に錆びさせられ、その時発生した熱が複合要因になって、こんな風に溶け爆ぜたんだと思います」
「錆を起こさせる魔法があるって聞いたけど、それとは違うのかしら?」
「少なくとも、私の知っている錆の魔法はここまで強烈な効果を持ちません。そもそも、ユーツ綱はその分子組成上、極めて錆難いんです。それなのに、これは」

 ヒカリが顔を病人のように青ざめさせたまま、肯定するように呟いた。

「あの吸血鬼は、私をここまで案内させたから、私はその扉を開けた時を見ていたわ。ええ、山岸さんが言うようにそれは、たぶん、錆だと思うわ。ただ、魔法でも何でもなかった。
 あいつは、あの吸血鬼はただ左腕で扉の表面を触っただけだった。ただ、数分間扉を触ってるだけで、扉は…ボロボロに溶けて崩れてしまったわ」
「それで、この奥に、その君の言う古代文明の遺産があるの?」

 奥をのぞき込むシンジの声に、ヒカリは首を振る。

「私、この扉の奥に入ったこと無いから…。でも、あの吸血鬼は扉を開けることができなかったってそう言ってたわ。まだ奥に扉か何かがあるのよ」
「そうですね、確かに何か…石板みたいなのが見えます」

 闇を見通す魔眼の力を解放し、瞳を薄赤く光らせたマユミが呟いた。彼女の目にはだだっ広い室内の奥まった場所に、墓石のようにぽつねんと立つ石板を捕らえていた。
 右手を軽く前方に振り、魔法の光を室内に移動させる。同じく、レイもまたウィスプを扉の奥に移動させた。
 続いて素早く密やかな動きでケンスケが扉の穴から室内に滑り込み、プログレッシブナイフを構えたシンジが室内に入る。

「…何もいないな」
「そうだね。わかってたけど」
「わかってた?」
「うん、何も気配がしなかったから。生き物のも、そうでない物のも」

 少し気になる部分もあるが、ケンスケは何も言わなかった。それよりももっと気になる物にゆっくりと近づく。まるで円形競技場のような形をした異様に広い室内を横切りながら、ケンスケは部屋の中央に歩み寄る。

「石板…か? それとも石柱か」

 直径60mはありそうな室内に、それだけ場違いな石の鏡。真っ黒で染み一つ、傷一つないその表面には、うっすらとケンスケの顔が写っていた。ふらふらと腕が上がり、吸い込まれそうな表面に触れる寸前、その手が押さえられた。マニキュアの塗られた長い爪を持つ腕が、アスカが厳しい顔をしてその手首を押さえていた。

「あんた程度は迂闊に触らない方が良いわよ。何があるか知れた物じゃないんだから」
「あ、ああ。すまない」

 一歩下がり、アスカ達に場所を空けるケンスケ。アスカの物言いが少々癪にさわるが、どう見ても魔法の産物らしい石板が相手では自分は手も足も出ない。それに逆らう気力も体力もない。しかし、石板の前でアスカは驚きの声を漏らした。

「魔力を…感じない。なにこれ?」
「ホントね。私も魔力を感じない。マユミちゃんは?」
「私もです。魔力だけじゃありません、それ以外の反応、制作者の残存思念の類、生命反応の残滓、どれも感じられません。洞木さん、その、吸血鬼はこれに何をしていたか分かりますか?」
「さあ…。私は結局中に入らなかったし、遠目で見ていただけだったから。ただ、その、こんな事言ってたわ。『わかっていたけど、僕じゃ触っても無理か』って」
「触っても…ですか」

 恐る恐る石板の表面を見つめる。自分の顔が写っている。なんだかそのまま吸い込まれてしまいそうな、そんな錯覚をマユミは感じた。それは食い入るように見つめているアスカやレイ、シンジもなのだろう。

「アスカさん、私やってみます」
「やるって、その触るの?」
「そのつもりです。大丈夫、事前に色々防御魔法を唱えておきます。…そもそも、触ったからって即何かが起こるって決まったわけじゃないです。大丈夫、こう見えても私結構頑丈なんです」

 アスカがそれ以上何かを言う前に、マユミは一息吸い込んで手の平を石板の表面に押し当てた。指先だけでも良かったかな、と一瞬後悔するがすぐに彼女の意識は石板の変化に奪われる。
 石板全体が薄緑色の光に包まれ、すぐに消えた。そして石板に何かミミズがのたくったような模様 ── 文字 ── らしきものが浮かび上がった。
 反射的にマユミは後ろに飛び下がり、勢い余ってシンジにぶつかり、顔を真っ赤にして呟く。

「文字…だけど、これ、古代語? よ、読めない。あうう、解読魔法を用意してくれば良かった」
「マユミちゃんでも読めないの? 本の虫のマユミちゃんが。意外」
「アスカはどう?」

 シンジに言われるまでもなく、アスカは左から右に書かれてるらしい文字を子細に眺め、それから胸を張って言った。

「とりあえず第1期帝国文字ってのはわかるけど、これ通常使われる文字というか文章じゃないわ。説明しにくいけど、必要な部分だけを抽出して組み合わせた、決まり切った定型文って言えるかしら」

 伊達にマユミよりも長い年月を生きたわけじゃない。読めない文字があったことで屈辱のマユミにもの凄い優越感を感じ、プチふんぞり返って偉そうなアスカ。

「直訳すると…、
 ”間違い、構成管理者が丸太入ってない。正しい構成管理者が丸太入ってください”
 なのかしら?」
「はぁ? アスカ、それなんのこと? 丸太って意味わかんないよ」
「私に言わないでよ。私だって、何のことだかよく分からないんだから。だいたい、なんで人間はそんなにコロコロ言葉を変えるのよ」
「僕に言われても…。それに今はあらかた統一されてるよ」

 めまいを覚え、こめかみを押さえてアスカは呻いた。噛み合ってない会話に予想以上に疲れてしまった。手を投げやりに振っていなすと、マユミに目を向ける。まだ顔を赤くしているが、今は落ち着いたようだ。

「それで大丈夫だった?」
「あ、はい。ちょっと暖かくなったくらいです。アスカさんの言葉を広義解釈して考えると、資格のある人が触ると扉か何かが…開くんだと思います」
「んで、マユミはその資格がある人間じゃなかった…と。んじゃ、次レイ行きなさいよ」
「私? わかったわ」

 躊躇いもせず、手の平をレイは触れさせる。

「なにも、起きないわね」

 表情を変えないまま自分の手の平を見つめるレイを押しのけ、アスカが石板の前に立った。石板に新しい文字が現れているが、それはマユミの時に出たのと同じ文章だ。実は内心、アスカは自分ならなんとかできるのではないかと、そんな期待があった。ヒカリに聞いた『御子を宿す者』という言葉、それが意味するだろう事がわからないほどアスカは初ではない。

(昨日…だもんね。こう言うときのお約束って奴? でもね、さすがにまだ欲しくはないんだけど、でも一気にアドバンテージを取るためには)

 一瞬、道具のように考えていた自分にゾッとしたがあくまでまだ仮定の話なのだからと、どうにか立ち直る。

「どうかしたんですか?」
「なんにも」

 見透かされたような気がして鼓動が止まった。マユミに限らずレイもシンジも時々、奇妙に鋭いところがある。いや、自分は口にしないだけで、思った以上に態度に現してしまうだけなのかも知れない。

「次は私ね。あ、ヒカリは試さないの?」
「私は、その、たぶん無理だと思うから(経験もないし)」

 もしかしたらマユミがそうかも、と懸念していたがそれも無事回避された今、彼女に恐れるものは何もない。
 少し激しさを増した鼓動を押さえつつ、すっと手を伸ばす。急な変化にも対応できるように軽くつま先立ち。手が触れる瞬間アスカは目を閉じた。まるで注射を恐れる幼子のように。

 ほんのりと暖かい熱を手の平に感じる。かすかに振動のような物を感じた気がした。きっと資格ある者であるアスカを認識し、仕掛けが動き出しているのだろう。仕組みがさっぱり分からないのは少々癪に触るが、いずれ調べようと思った。
 青い瞳を輝かせながらアスカは得意げにマユミ達に振り返る。
 自信と優越感に満ちあふれた目でレイを、それからマユミ、そしてシンジ達を見る。ふっふーんと無駄に胸反らせてふんぞり返り。

 さあ、讃えなさい感謝なさい。

「………あれ?」

 しかし。

「…ダメだったみたいね」
「あなた達ならもしかしたら…って思ったんだけど」
「やり方が違うのかも知れません。もう少し調べてみたらいいのではないでしょうか」

 石板には何も変化がなかった。レイやマユミと同じく、資格がない云々という文字が表面に浮かび上がるのみ。その場で固まる。幸い、みんなは偉そうにふんぞり返っていたことは、それとなく受け流してくれたが恥ずかしいのに変わりはない。
 いや、かえって反らされたことが負担だ。たちまち顔をレイの瞳に負けないくらいに紅潮させ、石板に拳を叩きつけた。

「うぐっ…!」

 瞬間、思ってもいなかった衝撃が体中を震わせアスカは息をすることを忘れた。
 これが玄武岩など、普通の石だったら粉々に砕けてしまったかも知れない。だが、石板は見た目以上の頑丈さでもってアスカの拳を受け止めた。

「アスカ、叩いたらダメだよ。壊れたらどうするのさ」

 アスカの様子に多少怪訝な目をしながらも、シンジが側によって肩に手を乗せる。素肌に直に触れる手袋の錨がちくりと白い肌に食い込む。実際に刺さってるわけではないが、シンジに触られても反射的に腰砕けの声を漏らさない程度には痛い。直前のしくじりもあり、露骨にアスカは顔をしかめる。

「わかってるわよ。ってそれはともかく」
「なに?」
「いつまで触ってるのよ!」

 反射的にシンジの手を払いのけ、照れ隠しをするようにその胸をついた。

「うわっ」
「シンジさん」
「…碇君!」

 普段ならそれくらいでよろめく事なんて無い。いや、よろけても盛大にバランスを崩すと言うことはない。だが、アスカの力が些か強かったこともあり、シンジは僅かによろけた。そして、かすかに髪の毛が石板の表面をかする。




「え、なに、何がどうなって…」



 ───ズクン。

 空気が重く───固まる。
 どこか遠い空間から響いてくるような唸りが室内に満ちる。アスカが、レイが、マユミが、そしてヒカリとトウジ達もまたその変化を感じ取り、緑色の柔らかい光に包まれていくシンジの姿を喋ることもできず見つめていた。

「ひ、僕触ってない、触ってないよ!」

 シンジの目の前の光景が水の中に垂らした油のように奇妙に渦を巻いていく。初めて見るアスカの驚愕に満ちた顔がぐにゃぐにゃと歪む。口に手を当てて悲鳴を上げかけているマユミの目が大きく見開かれる。反射的に飛び出し、のばされたレイの手が引き延ばされた粘土のように細く細く渦を巻いていく。

「なんだよこれ!? おかしいよ、なんだよ!?」

 石板の表面に先ほどまでのアスカ達の時とは違う文章が浮かび上がり、逆向きの滝のように次々と文字が上に流れていく。
 同時に、アスカにしか理解できない超古代語でアナウンスが室内に、いや遺跡全体に響き渡る。

【使用者確認。資格者の存在を確認しました。直ちに主構成室に資格者を転送します。
 また、確認の際、限定使用者の存在も確認しました。限定使用者は待機用・副構成室までの入室を許可します】

 まるで、奈落の底に落ち込んでいくようだ。手を伸ばすアスカ達の顔がどんどん遠くになっていき、対照的にかろうじてシンジの腕を掴んだアスカの腕だけは普通に見える。異様に引き延ばされた腕がまるで漫画みたいだ。
 そんな風にシンジは感じたが、それを実感する間もなく虹色の通路の奥底に落ちていく。
 いや、墜ちていくのか…。

「シンジぃ───!」
「アスカさん、シンジさん!」
「みんな!」

 緑の光に包まれたシンジを引き留めるようにアスカは飛びつき、そのアスカにマユミが、レイが飛びつく。だが光の浸食は容赦なくアスカを覆い、続いてマユミ、レイもカビの浸食のように全身を覆い尽くしていく。

「みんな…!」


 目を開けていられないほどの強い光にトウジ達は手で顔を覆うが、頭蓋骨をすら貫き通すような強い光にうずくまる。もう何も分からない。シンジの声が、アスカ達の懸命な悲鳴が聞こえたような気がする。

「なんや何が起こったんや!? シンジは、惣流達は!?」
「アスカ、アスカ!? 碇君!?」
「うわぁぁ、うわぁあっ!?」


 そして、三人が涙の滲み痛む目を開けたときには、そこにはもう誰もいなかった。ただ、1万年以上の長きに渡る沈黙からついに解放された石板が、いや古代文明の遺産が蜂が唸るようにぶんぶんと低い音を響かせていた。そして表面には緑色の文字が幾つも幾つも流れ踊る。
 最初に正気付いたのはトウジだった。

「どこにいったんや? シンジは? 惣流に綾波は? マユミの姉さんは?
 そや、あんたならなんか分かるんやないんか!?」
「あ、ああ…。わからない、わからないわよ。こんな、こんな事になるなんて分からなかった。知らなかった。ただ、何か遺物の何かが出てくるとかそんな風に考えていたのよ。あんな風に、光って消えるなんて、そんな…」
「あんたはこんな風になるなんて知らなかった言うんやな!」
「知らなかったわよぉ! こんなの…」

 痣が残るほどに肩を掴まれ、苦痛にヒカリは悲鳴を上げる。だがトウジはヒカリの狼狽えようや悲鳴にひるむない。親兄弟とでも戦えるような真剣な目でヒカリを睨みながら、荒々しく言葉を続けた。

「ホンマか!? シンジ達をなんかの生け贄にしたんやないやろな!?」
「酷い、酷いよ…。確かに私は誰かにこの遺跡をどうにかして欲しいとは思ってたけど、でも誰かを犠牲にしてまでなんて、そんなこと考えてないよ…。痛い、離して…」

 まだ納得できていなかったが、トウジは静かにヒカリの肩を掴んでいた手を離した。急に力を込めたことで強ばっていた指先がかすかに痛む。しかし、そんな痛みに気を取られることなく、泣きじゃくるヒカリの顔を、いよいよ文字の奔流の激しさを増す石板にトウジは目を向ける。

「シンジ、無事か。…こんなことでおまえがどうにかなるなんて、ワシは信じとらんからな」
「ごめんなさい、ごめんなさい。知らなかったの、本当に知らなかったのよ、ひくっ」

 そこでようやく涙で顔をくしゃくしゃにしたヒカリに気づいたのか、戸惑った顔をしてトウジは後ろ頭を掻く。勢いに任せて怒鳴りつけてしまったが、もしかしたら自分は最低の行為をしたのかも知れない。
 父親や妹に言われた男が決してしてはいけないと言われた最低の行為 ── 女の子を泣かせる ── をしてしまった。

「すまん。いや、本当にすまない(こう言うときは、普通の言葉やないとあかんのやろか?)」
「う、ううっ。アスカ、綾波さん、山岸さん…。碇君、ごめんなさい…。知らなかったの、知らなかったの」

 こういう状況は本当に苦手だ。幸い(?)妹という身近な女性の知り合いがいたから、妹の友達とも多少のつき合いがあったから、ヒカリのように泣きじゃくったり癇癪を起こしたりした時の女性を落ち着かせる方法は知っていた。

『どんな女性もいちころやで♪』

 あの悪戯っぽい笑みとウインクはなんだったんだろう?
 いちころってどうゆう意味だ?



 という疑念はあるが、トウジは些かの躊躇や戸惑いもなくそれを実行した。少なくとも、女性に関しては妹の方がよく知っているはずだから。

「ひっく、えぐぅ、ふぅっ…。アスカ、あす…!?」
「頼むから、泣きやんでくれんか」

 涙で濡れたヒカリの頬が堅い物に押し当てられる。反射的に身をよじるが、肩を抱き引き寄せる腕はしっかりと彼女を抱きしめて離さない。

「え、え、ええっ!? あ、鈴原…」
「あーその。落ち着いたか?」

 ええ、それは確かに落ち着きました。しゃっくりも止まりましたし。でも違う意味で全然落ち着かないんですけど。

 と真っ赤になった顔一面に、鈍感には見えない文字で書いて戸惑うヒカリ。心臓は激しく高鳴り、トウジの顔を見上げる顔は沸騰しそうなほどに熱を持っていた。だからかえってトウジが着ている金属鎧の胸当ての冷たさは心地良いくらい。自分からぴったりと寄り添うように頬を押し当てたりするヒカリ。

「お、おち、おちおちおち…っ! お、落ち着い、た…わ」
「そか。ならすまんけど、あんたに知恵を絞ってもらわんといかんのや。ワシもケンスケも、こう言うことには全く知識がないんや。どうすればいいのか、なにをせにゃならんのか。あんたに考えてもらわんと」
「はう、あう、わ。わかったわ」



 ケッ。と少し離れたところでケンスケが毒づいた。丁度椅子みたいになっている段差に腰掛け、即席の周囲の目を気にしないカップルに呆れ返る。

 おまえもかっ!

 と親友のはずのトウジの裏切りに血涙を流したり、アレは幻なんだ、と見なかったことにしたかったが、未だに離れることもなくくっついたままの二人の姿は痛いほど執拗に現実を突きつけてくれる。

「結局、おまえもかよ」

 あーあー、と遠くを見ながらケンスケはまた大きくため息を吐く。渋る一方、友人の春に対し素直に祝福してやりたいという気持ちもある。ただ、今の状況も忘れていちゃつく友人の姿を見てるとそんな気持ちもなくなりそうだが。

(まあいいさ。おまえもシンジも、ごく普通の恋愛を楽しみな。俺は至高の恋愛を追求するからな。ふっ、その時のことを思うと…ときめくぜ)

 トウジ達の姿もかき消す、脳裏の幼女の姿にケンスケはにやつく。間違いなく、トウジを『兄貴』と呼ぶ類の妄想に浸っているに違いない。




(シンジの心配もせず、アオイちゃんの事を考える俺が薄情だって思うか? 確かにそうかも。でも、考えても見ろよ。シンジだけじゃない、惣流も綾波も、山岸も一緒なんだぜ? ドラゴンにだって勝てるさ。それにさ…なんとなく、シンジには心配しなくても良いんじゃないかって、そんな気もするんだよな)



 誰に対して言い訳しているのか ── 自分自身への言い訳かもしれない ── そんなことを考えていたケンスケは、ふと脳天から股間まで針で刺し貫かれたような寒気を感じ、反射的に入り口に目を向けた。
 赤い血塗られた僧衣を纏った顔色の悪い老人が、じっといちゃいちゃするトウジ達を、正しくは彼らの背後で不気味に唸る石板をにらみつけていた。

『突然遺跡全体が生き返ったときは何事かと思ったが…。そうか、主が動かせなかった遺跡を甦らせることができたか』

 興味深い。そう言うように彼は石板を見つめた。
 彼の全身から立ち上る、毒ガスのような危険な臭いはケンスケの全身を凍り付かせる。見つめるものを向こうに回したときも恐怖は感じたが、だがこの恐怖と戦慄は、見つめるものを遙かに上回っている。


「まずい、誰かわからんがやばい臭いがぷんぷんする!
 トウジ、洞木!」
「なによもう…えっ!?
 だ、誰なの!?
 私が気配にも気づかないなんて!」
「何者や!?」

 武器を構え、露骨に敵対的な行動をするトウジ達を表情を変えないまま見下ろし、老人は薄い唇を引きつらせる。本来なら名乗る必要も感じない。だが、なぜか彼は答えた。主の支配から逃れたという大罪を犯した不遜な者とその協力者を断罪する、恐るべき執行者の名を。





『闇を舞う翼。テラーマクロ』





続く








初出2003/07/27 更新2004/12/26

[BACK] [INDEX] [NEXT]