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真
Monster! Monster! 第31話『ソーサリアン』
かいた人:しあえが
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気がついたときには、シンジの姿はどこにもない。 それは見事なまでに完膚無く、彼の姿は闇の奥。狸に化かされたんだろうか? そんな場違いなことを考えてしまいそうな空虚な思いが心を占める。さて、本当に碇シンジという人間はこの場にいたのだろうか。気のせいだったのではないか。 異様に広い円形の部屋の中にアスカ、マユミ、レイの3人はぽつねんと立っていた。 ひゅる〜。 どこから吹いてるのかわからないが風が寒い。心も体も。 「ここ、どこよ?」 不機嫌に眉をひそめ、アスカは吐き捨てるように言った。何というか現在の状況が気にいらない。自然、八つ当たり気味にマユミを睨んだりしてしまう。 なんでマユミに…とも思うだろうが、いい具合にいじめて光線を出してるんである。いや、それだけでなく、普段言葉にしないのだが、それでもアスカの心の奥底で鬱屈してる感情が渦を巻いていた。シンジと知り合いになったのは自分が先なのに、その私を先おいて結魂するなんてキー。 「あ、あの。その、ごめんなさい。もう一度、試してみます」 「いいわよ別に。同じ事を繰り返したからってなにがどう変わるわけでもないでしょ」 あんまりいじめると癖になっちゃいそうだから、程々でやめておくけど。程々でね? アスカは遠回しに無駄な魔力を使うなとマユミを牽制し、フンと鼻を鳴らした。 まるで何も存在しない暗黒空間のただ中に放り出されてしまったかのようだ。あるいは全てを遮断する箱の中に閉じこめられたのか。 わかったことと言えばこの部屋がお椀をかぶせたような半球形をしていることと、シンジやヒカリ達の消息が全く分かっていないことくらいだ。距離は勿論、方角も何も分からない。 意識を失っていた…つもりはないが、一体あの時なにがどうなったのやら。意識の寸断はほんの数秒だったのか、それとも何日も過ぎ去っているのか…それすらもわからない。空間転移をしたらしいことはわかっているが、その際に時間も飛び越えると言うことは良くあることなのだ。 (面白くない!) 自分の状況がわからないと言う、甚だ不安にさせる環境に苛立ったのか、目をつり上げると、アスカは拳を石板に叩きつけた。一瞬の閃光のように右腕がかき消える。 ズドムッ 刹那、大地に重い物が落下したときのような鈍い音が響いた。 「くそっ。…ったーい!」 僅かに赤くなった手を押さえながら、アスカは苦痛に呻いた。目にも止まらぬ速さで繰り出された拳は容易く跳ね返された。磁器なのか金属なのかそれすらもわからないが、恐るべき強度を持っている。己の拳でヒビ一つ入れられない壁を、世の厄災全ての元凶であるかのように睨み付け、アスカは吐き捨てるように呟いた。 「どういうことなのよっ!?」 「良かった壊れてなくて。って、も、勿論アスカさんの手の方ですよ」 「…空気はよどんでるから、少なくともこの部屋は地上には通じていないわ。でも相当に広い部屋みたいだから、当分窒息の心配とかはなさそうね」 勿論、マユミの言葉もレイの言葉もアスカの望んでいた物とはほど遠い。 マユミは手掛かりの方を心配し、レイはマイペースに部屋の調査を続けていたらしい。こいつら…と、思わず右手に力が入るが今はおいておく。 「それはまた冷静なご意見ですこと。でもそんなことわかったからって、何にもならないわよ!」 「それは考え方の問題。私にはこれでもかなりたくさんのことがわかったと思う」 「例えば!?」 「いろいろ」 「だから!?」 「そう、良かったわね」 こいつ殺してやろうか。そんな目をするアスカ。あたふたと慌てながらマユミは2人の間に割ってはいる。こう言うとき、大人しい性格をしてるってのは損なのかも知れない。さながら水と油の間に割って入る中和剤だ。 「あ、アスカさん。そんな頭ごなしに言わなくても…。それになんにもならないわけじゃないですよ。 …ほとんどなにもわかってないって、少なくとも知ることができましたから」 「ねっ」と拳を握りしめ、自分でも信じてない空元気っぷりでそう言い募るマユミに、アスカは思わず前のめりになる。レイに対して憤る気持ちも失せた。いや、確かにそうかも知れないけれど。基本的に陰気で根暗なくせに、なぜにこうゆう時には奇妙に明るいかな。 (ああ、明るくなったんじゃなくて) 「周りが落ち込んでるんで相対的に明るく見えるだけか」 マユミだって以前に比べれば多少は明るくなってるけど、概ねアスカの予想通りだ。でも図星なだけにマユミの反応は早い。彼女なりに、内気で控え目な性格を多少は前向きにしたいといつも思っているのだから。 「…アスカさん、そんな風に思ってたんですか? あの、私、そんな、暗い…でしょうか」 「ああ、いつの間にか声に出してたか。いやまあ、だいたいあってるでしょ? 違う? あってるって事にしときなさい」 そう言いきられたらマユミは二の句が継げない。自分でも暗いとか内気とか色々自覚があるわけなのだから。しかし、改めてこう事実を告げられるのもショックだ。そんなに暗いかな…シンジさんもこんないじけた女の子より、明るい子の方が好きなのかな。そんな事を考えたりしてじわっと熱い物が目に滲む。 「ふぇ…」 「ああ、こら泣くな。いい年した奴が泣くんじゃない! ってマジに泣くな!」 「冷たいのね。アイスハートと呼んであげる」 「あんたよあんた! 氷の心臓はあんたよ、レイ! ってもう、マユミも泣きやんでよ。…まったくあんたって子はすぐ泣くわね。そんな情けないところはできるだけ治しなさいよ。泣けば周囲が解決してくれる世の中じゃないんだから」 「でも、だって…」 泣き虫ってのはまったくもって面倒くさい。それも大泣きするんでなく、涙を浮かべてシクシクとしゃくりあげるタイプは特にそうだ。だいたい、マユミは見た目がシンジに似てるからシンジを泣かしてるみたいで気分が悪い。しかし、シンジだって泣くときは泣くけどこうもあっさり泣く訳じゃないのに。あれ、そう考えるとシンジはかなり前向きなのかな? いや、まさか。しかし…。とか考えつつ、アスカは石板を睨み付けた。 (そう、話がややこしくなったのも居場所が分からないのも、元はと言えばこいつの所為よ) その青い瞳に傷一つない鏡のように磨き抜かれた石の板が映る。 「あからさまに怪しいから、最後までどうかするのは抵抗があったけど」 さっきのパンチは何ですか? と言いたげなマユミの視線は無視。 アスカ達が転送される直前までいた部屋にあったのと同じ種類の黒い石板だ。モノリスと言っても良い。ただ、幾分大きさが小さいことと、最初から文字が浮かび上がっているところが異なっていた。 飾り気のない文体で、こう書いてある。 【制限使用者の入室最高階。最高階入室の許可は、管理者権限正規使用者のみ】 とどのつまり、『おまえ達はこっから先には入れねーよ。おととい来やがれ。ペッ』 と言ってるわけだ。曲解しすぎかも知れないが。 「まるで私達が場違いな規格品みたいな物言いね」 「そうね。騒がしいだけで、相手の心を理解しようとしないあなたならともかく、私まで弾くのは理解できないわ」 「ほぉ〜?」 「ふっ」 本当に、こんな時にも喧嘩するのは忘れないんですよね。仲が良いんだから。殺伐とした殺気をまき散らすアスカ達と対照的に、マユミは牧歌的な気持ちで2人を見る。まるでじゃれ合う子犬の姉妹を見ているように暖かな目をして。このまま歌でも歌いたい気分だ。下手なつもりはないし、歌を歌うことは好きだけれど、恥ずかしいからそんなことはしない。 ともあれ、どんな時にも元気をなくさず、明るさを忘れないってのは大切なことかも知れない。時と場合によるけど。 と、言うわけでいつものことだけと喧嘩するのはやめてもらおう。 (さーて、何を使おうかしら。あ、アレにしましょう) 喩え悪魔であるアスカや、スノーホワイトであるレイであってもただでは済まない。 マユミ単独の魔力だけでなく、呪符に封じた魔物の力を媒介にする極めて強力な暗黒魔法…。ちょっとばかりはっちゃけてるマユミさん。 (……………………ふぁいなるべ) 色んな意味で危険極まりない言葉を耳にした瞬間、反射的にアスカとレイは右手を伸ばして握手。がっちりとみっちりと雄雌の鋳型のように。みきききっ、と軋み音がする気もするが当面無視。 学習能力がない、どっかの歌が苦手な魔物とは違うのだから。 「とまあ、こんなところで喧嘩してる場合じゃないわ! レイ、協力してシンジを見つけだすわよ!」 「ええ。碇君を助け出して、洞木さん達の所に舞い戻って、そして家に帰るの。そうしなければならないから。 …でも、そうするとなぜ碇君は先に進めたの? どうして?」 レイの口から出た疑問の言葉に、マユミとアスカは互いの目を見る。そう、シンジがいないのか、ではないのだ。自分たちが、シンジの所にいないのだ。 (そう言えば…シンジはここにいないわね。違う…か。 私達が、シンジの所にいないのよ。あいつがこの遺跡を発動させたみたいだったし、シンジの奴、私達以上のなにかを持っていたってこと? なにがしかのことであいつが私以上の物を持っているなんて、認めたくない、納得したくない。だけど…可能性はゼロじゃないわ。シンジはあの人、堕…もといユイおばさまと、けだ…もとい、おじさまの息子なんだから。うぇーアレをお義父様なんて呼ぶのやだなー) (あの石板を発動させたのはアスカさんでも私でも、綾波さんでもない。シンジさんがあの石板に触れたからだった。私達はその時シンジさんに触っていたから、一緒に飛ばされたのかしら?) 自分たちは招かれざる客なのかも知れない。だからこそ、シンジと一緒の場所に行くことは出来なかった…。招かれる資格を持っているかどうか、その判断をするのは、この石板だろうか。 そうだとしたら、この石板をどうにかすることができれば手がかりが得られるのもかも知れない。 いや、そうでなかったとしても、今の彼女達にはそれ以外に手段がない。 「アスカ、単独では無理でも、合わせてみましょう。上手く行くかも知れないから」 「わかってるわ。ありとあらゆる方法を試してやるわよ! 来ることが出来たんなら、戻ることも出来るはず! それよりなにより、馬鹿シンジが先に進めて私が先に進めないなんてあるはずがないわ!」 「その自信の根拠がどこから来るかはわからないけど…。でも、あなたの言うとおりだと思う。じっと、闇の中に座っていたくはない。行動すること、そうすることが正しいことはわかるから。だから、ここでじっとしていたらいけないの」 「いつになく饒舌で、しかも余計なことを言ってるのが気に障るけど、あなたの言う通りよレイ! 久方ぶりの合体魔法をぶちかますわ!!」 黒い石板にアスカは迫る。拳は堅く握りしめ、太々しく目をつり上げる。悪魔を舐めたら、無機物であってもただでは済まないことを教えてやろう…と、実に嬉しそうな顔をして。 石板の表面を流れ踊る文字列が、一瞬おののく人間の顔のような物を浮かび上がらせた…ような気がする。ちらっとアスカは文字の奔流に目を向けるが、その口元に浮かぶ微妙なゆがみはますます凶悪な角度を作るのみ。 「んじゃ、1人ではダメでも2人が力を合わせれば! あ、マユミもいたわね」 「同時に熱して冷やして殴りつける? それとも電流でも流してみるの?」 「こ、壊すことは確定してるんですか? それはいくら何でも飛躍しすぎなのでは?」 2人は意外な顔をしてマユミの顔を振り返り、ジョークをのたまうどこぞの親父みたいに大げさに肩で笑う。 「これだから世間知らずのお嬢様は」 「ナイスぼけ、マユミちゃん。その調子で頑張って欲しいの。でもこの人を小馬鹿にしたモノリスには、大胆なアプローチが必要だと思うの」 「あ、あのー。アスカさん、綾波さん? その手のアプローチは最後の手段じゃないんでしょうか? ほ、ほら、銃は最後の武器とか言いますよね? 壊れたら、その、手掛かりが無くなるかも知れないんですよ。えぇっと、なんでそんなに嬉しそうなんですか? それとも、あの、聞いてます?」 無論、聞いちゃいねぇ。 【天は自らを助ける者を助ける】という超古代どころか、今の人類発生以前から伝わると言われる諺がある。 たしかに、アスカ達の行動は何をすればいいのか思いつかずにオロオロする自分とは対照的だ。自分には到底真似できない行動だが、今の自分たちにはもっとも必要な行動かも知れない。 連絡がないからと、何もしないでその場に現状待機するのではなく、自分から相手の所に突き進むという行動力。ある時は地下に、ある時は空に。 さらに【無法天に通ず】という言葉もある。アスカ達のしていることこそが、正解なのかも知れない。 (でも、これはちょっと違うと思います) なんだかとっても喜々としていて、止めるに止められないけれど。 それに、マユミも内心楽しかった。何というか、こうゆう石板を見てるとムカムカしてくるのだ。前世で何かあったのか、それはわからないけれど。あったとしても、3人は直接知らないはずだし。 危機的状況にあるにもかかわらず、奇妙に余裕のあるアスカ達と異なり…ヒカリ達は絶体絶命と言っても過言ではない状況だった。いや、過去形で語るのは正しくない。今まさに、絶体絶命のピンチに陥っているのだ。 「なんちゅうか、洒落にならないって感じやな」 私のセリフ、とどこかで誰かが呟いた。 赤い法衣の老人の視線が、3人の心と体を恐怖という名のロープで縛り付ける。 あまりにも怪しいその格好でなくとも、友好的とはあまりにも言い難い厳めしい顔をしている。まだ、第三新東京市名物のカミナリ親父(元魔法使い)の方が可愛げがある。 「…セリフを拝借したどっかの誰かはともかくとしてや! なに者や、あんたは?」 「そ、そうだ。動くな! 正体が分からない以上、こうすることは俺達の正当な権利だからな!」 「今更って気がするけど。 それはそうと、鈴原、あの人…人間じゃない」 怯えたヒカリに気を使い背後にかばいつつ、トウジは慣れないながらも両手で持った片手半剣を正眼に構え、ケンスケは磨き抜かれた鏃の銀色も眩しいボウガンを老人の心臓に向ける。磨き抜かれた刃が光る。 徒手空拳である老人は、トウジ達に生殺与奪の権利を握られたようにも見えるが、その余裕の態度は些かも崩さない。引きつるように口元を歪めると、しわがれ声で呟いた。 「ワシが誰か…じゃと? なるほど、先ほど勿体なくも名乗ったのじゃがな。所詮は下賤な人間か。 ならば改めて…愚か者であるおまえ達に教えてやろうぞ」 両目を閉じ、老人は両手を広げて尊大に言いかける。 反射的にケンスケは引き金を引いた。 「私は闇を舞うつば…って、ちょっと待てぇっ!」 彼の心臓があった空間を切り裂き、矢が突き抜ける。間一髪で老人は矢をかわした。 思いの外素早い身のこなしに、ケンスケは下顎を突き出して類人猿のように顔を歪め、露骨に舌打ちした。 「ちっ」 「なんじゃその舌打ちは!? それは!? それ以前に、いきなり矢を撃つとは! こう言うときはおとなしく名乗りを聞くものじゃろうが!」 フッと鼻で笑うと、ケンスケは光を全方位反射させている眼鏡の位置を直した。改めて、この人怖い…と、本能で悟ってトウジの後ろにヒカリは隠れる。賢明な判断である。ただ五十歩百歩という言葉は知っているのか聞きたいところだ。類義語で岡目八目とか。ちょっと違うがあばたもえくぼとか。 そんな裏切り者の親友の姿にまた目頭が熱くなるのを感じながら、ケンスケは言葉を続けた。今の俺輝いてるよな!? 「俺の影が薄くなる」 いや、出番が減ることはあっても、君みたいに濃いのが薄くなることはない。 「…なんかダメだしされたような気がして、そこはかとなくむかつくが! 俺は惣流や綾波と知り合って覚えたことがある! 開眼したと言っても良い!」 「な、なんやケンスケ。一体何を覚えたと、何を悟ったというんや!?」 「先手必勝! やったモン勝ち早い者勝ちってな! あそこまであからさまに怪しい奴が味方な訳がない! こういう状況であんなのが、やたら偉そうに出てきたとしたら、それはまず間違いなく敵だ! 似たようなのに、最後の決戦前に子供が産まれるんだ…とかなんとかしたら起こるお約束とかあるな。 それはともかく! 脇役である俺が目立つためには、もっと脇役っぽいあんたみたいなのに目立たれるわけにはいかないんだ!」 いつになく熱いケンスケの叫びと振りかざす握り拳に、トウジが恐怖に震えた目をして呻く。 「恐ろしい…なんて恐ろしい心理を会得したんやケンスケ。 お前はいずれ世界を取る男なんかもしれんな」 「ふははははは、もっと褒めろ! 讃えろ!」 「ワシが女やったら、ケンスケに惚れとったかもしれん。恐ろしいこっちゃ」 「あ、あなた達の頭の中の方が恐ろしいわよ」 一歩離れたところでヒカリは絞り出すように呟いた。 どうしてこの状況で漫才ができるんだろう…と疑問に思うが、トウジ達はトウジ達なりに、相手を自分達のペースに巻き込もうと必死なのだ。人付き合いが存外少なく、杓子定規に物事を考える傾向がある彼女には分からなかった。 (私が、しっかりしないと…。この二人、頼りにならないわ) 漫才している二人はともかく、怒り狂ってるらしい老人をまともに相手できるのは彼女だけだろう。 漫才を始める前、老人が名乗った名前が脳裏に浮かび上がる。 『テラーマクロ』 それが何を意味しているのか、ヒカリはたまたま知っていた。伊達に長い年月を生きてきたわけではない。彼女は多少、世界の魔物や魔導師に関する知識を有している。 (私の予想通りだとしたら、彼は間違いなくあの吸血鬼の仲間! そして、私に…メデューサに匹敵する力を持った恐るべき魔物だわ) 数百年前、×××という人間の吟遊詩人が、世界を放浪するついでに書き記した世界の魔物、魔獣達の伝記伝聞がある。それは東西南北魑魅怪異録と呼ばれ、不完全なところや想像の部分が多々あるも、人の書いた書物としては随一の正確さだ。とはいえ、人の血液は腎臓で作られている…と書かれていた時代の医学書とレベルは変わらないが。 その書物に短いながらも、とある魔導師のことが記されている。 血塗られた黒き翼。 魔道を極め、邪悪の限りを尽くした闇の魔導師がいた。その絶大なる魔力で死を超越し、人を辞めた。ドグマ教なる宗教を広め、想像を絶する恐るべき悪事を成し、数十年にわたって人々に血の涙を流させた。やがてドグマ帝国を自称し、世界征服を企み…。 彼の者の象徴は鴉。ぬばたまの闇にとけ込む漆黒の翼。 「テラーマクロ、半ば伝説の…黒魔導師!?」 耳ざとくニヤリと老人は口元をゆがめる。 「ほぅ、段取りを無視していきなり攻撃する、美学を欠片も理解しない輩がいるかと思えば、私の力を知っている者もいるか」 説明が省けたからか、それとも相手が恐れを抱いているからか。 調子を取り戻した老人は怒りを抑えてほくそ笑む。 「そうだ。…私はテラーマクロ。猛き黒き翼! ドグマ帝国皇帝!」 さあ恐れるがいい。恐怖に泣きわめき、震える時間を与えてやろう。そう言わんばかりに老人…テラーマクロは両手を広げて目を細めた。たとえ正体は知らずとも、彼の放つ魔力を感じればその力の差が分かるはずだ。 トウジ達からは見えないが、彼の背後に控えるいくつもの影が彼を讃えるように平伏する。心地よい瞬間。背伸びしたお山の大将のような稚拙な考えと、赤い瞳の吸血鬼に笑われているとも知らず、彼はうっとりと未来の王国を脳裏に描いた。 讃えよ、讃えよ、讃えよ。 「…ってなんや? 魔物か? 普通じゃない感じはするんやが、ようわかれへんな。ケンスケ、なんか知っとるか?」 「いや、俺も知らん。いや、待て。なんか聞いたことあるような無いような。んんっ? テラーマクロって、なんかトウジの爺さんに聞いたことがあるような気もするぞ?」 「なんでお爺ぃが?」 「気のせいかな…?」 トウジ達はやっぱりわかっていなかった。 「えーとね、今から500年くらい前に世界征服を企んだ、よくいる黒魔導師の名前よ。そこそこ強かったらしいんだけど、銀色の超戦士がやっつけちゃったっんだって」 さりげなく言葉に本音が混じっていたが、だいたいのことはわかったのか大きくトウジ達は頷いた。要するに、特に意味もなく世界征服をしたがる悪の魔導師だ。ちょっと強力な術を覚えた黒魔導師がかかる麻疹のようなもので、結構よく見かける。普通は自分の実力を途中で悟り、赤面しつつ足を洗うか、世界征服して何をどうしたいのか分からなくなってやめてしまうかだ。 そういえば、第三新東京市にもいたなぁ、火球の呪文を覚えたくらいで舞い上がった奴とかが。 「ああ、三丁目の魔法使いの弟子みたいなもんか」 「炎の矢が使える! とか威張ってたっけなぁ。石投げる方が早いってのに。そういえば、あいつは一昨年正気に返ったんだよな」 そんなモンと一緒にするな! と言わんばかりに、テラーマクロのこめかみにミミズがのたうったような血管が浮かび上がった。 「ここまで馬鹿にされたのは初めて…じゃない。二回目じゃ。 もはや語る言葉はない」 その瞳が目映く光、彼の背後にいくつもの怪しい影がそそり立つ。影の中で様々な色の光が瞬いた。憎悪と怒りに満ち満ちた視線が、トウジ達を刺し貫く。形状し難い怖気でヒカリは身をすくませた。本能的に、なんとも言いようのない恐怖を感じてしまう。まるで、天敵を前にしたときのような…そんな感じに。 「…なんや、怒っとるみたいやな。何が気にいらんかったんやろ」 「怒っていようがいまいが、どっちにしろ俺達を始末する気だろ。よりによって惣流達が一緒でないときに。くそっ、早く帰ってこいよ」 壁に沿って走りながら、自分たちを取り囲む影に油断無く目を向けながらヒカリが寄り添うようにトウジに近寄った。不安そうに、彼の肩に手を乗せる。その手は僅かに震えていた。 「鈴原、相田くん…」 「いいんちょは下がっとれ。ケンスケ、爆弾の火を入れるんや。後先考えんな」 彼の言葉にヒカリは反射的に顔を上げた。何気なく漏れた『いいんちょ』という言葉が激しく心を揺さぶる。トウジは、なぜそんな呼び方をしたんだろう? 聞かれたって、彼にだってわからない。ただ、そうごく当たり前のように口をついて言葉が出たから。 (い、いいんちょ…?) 初めて聞いたはずなのに、それが自分に向けられた物だと言うことがわかる。そして、それが当たり前だったみたいにも…感じる。そう呼ばれることが、嫌じゃない。勿論、彼には優しく抱きしめてもらった上で名前で呼んで欲しいと思うのだけれど、なんだかとても懐かしくて、そう呼ばれることは嫌じゃなかった。 「す、鈴原…?」 言いかけて開いた唇は、火縄から立ち上る目眩のするような火薬の匂いに閉ざされた。ヒカリは戸惑いながらもトウジに目を向ける。しかしトウジは振り返らない。彼の目は真っ直ぐに老人と、彼を取り囲む戦士達を静かに見ている。 ねじくれた白銀の鎧を身に纏った甲冑戦士が剣を掲げた。彼のまたがる白馬の瞳が、燃えさかる石炭のように赤く燃える。人馬共に、その目に浮かぶのは全ての人間に対する、言葉に出来ない憎悪だ。 「テラーマクロ様の命が下った! 突撃せよ!」 槍の穂が煌めき、鉄剣の刃が松明の光の中で血塗られた色に染まる。鋲を打たれた長靴が石畳を穿ち、様々な魔物の口から吹き出る雄叫びが室内に木霊した。 揃いの灰色の皮鎧を纏った下級兵士であるゴブリン、ホブゴブリン、オーク、半オーク、オーガー、混沌のドワーフ達。錆が所々浮いた鎧ががちゃがちゃと騒がしい音をまき散らし、汚れの落ちない崩れた顔が歪む。口からこぼれる噛み煙草、体にこびり付いた残飯がむかつく臭いをまき散らす。ある者は血と人間の肉に対する飢えに涎を流し、ある者(主にオーク達)は女性であるヒカリに対し粘ついた目を向けた。 彼らを統率する漆黒の甲冑を身に纏った混沌の戦士達が一斉に号令する。 『ドグマ兵! 槍、構え!』 混沌の戦士達…。ゴブリン達が兵隊だとすれば、彼らはまさに暗黒の軍勢の幹部、あるいは幹部候補達と言える。一見、黒い全身鎧を纏った戦士のように見えるが、その下の体は様々な混沌の影響で歪み、ねじくれている。牛の頭と足を持つ者、頭部が蜂のそれになっている者、目が飛び出し、両腕が蟹か何かのハサミのようになっている者、燃えさかる炎の剛毛が生えている者までいる。元は人間だったかも知れないが、今はもう、人と呼ぶことは出来ない。 そして彼ら全体を統率する正体も知れぬ恐るべき男、メガール将軍。彼の着た銀色の鎧は、磨かれた鉄でもなければ銀でもない。毒素をふくむ、白骨の鎧だ。 三人を取り囲む軍勢は軽く200人を越える。テラーマクロ自身の私兵のごく一部とは言え、今のトウジ達にとっては圧倒的な数だ。3対200、普通ならとても勝負にならない数字だ。 カラカラに渇いた喉に無理矢理唾を飲み込み、トウジは震えを必死になって押さえ込もうとした。 (落ち着け、ワシ。親父もお爺ぃも口癖のように言うとるやろ。 恐怖を否定するんやない。受け入れるんや。そして問い続けるんや。自分が、何のために戦うのかを) 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。いくらか落ち着いた。 ここで負けるわけには行かない。家では、父が、祖父が、なにより彼が最も愛する妹がその帰りを待っている。そして、今の彼の背中には、か弱い女性がいる。たとえ、本当は彼女の方が圧倒的に強かったとしても…。それでもトウジにとっては戦う理由になる。 (最低でも、いいんちょだけでも守ってやらなあかん。なんとか、シンジ達が戻るまで粘ることが出来れば) 震えが消えたわけではないが、それは恐怖による震えだけではなく、武者震いの割合が多くなった。彼の横でケンスケは次々に火を点けた手投げ弾を投げつけていく。これが最後かも知れないから大盤振る舞いだ。目はあさっての方向を向き、ぐけけけけと魔物のような笑いをあげる姿に、色んな意味で魔物達も恐怖する。 「ぐけ、ぐけけけけっ! 土曜日の実験室〜〜〜! ををををを、をれは、神ぃ!」 悪いことは言わない、早いところ縁を切った方がいいぞトウジ。 奇声に混じって爆風が轟き、剣と槍の穂先が銀月のように煌めく。 仲間を吹き飛ばす爆発にも怯まず、魔物達はトウジ達に突撃する。死を恐れぬ…死よりもっと恐ろしい恐怖に突き動かされ、破鐘のような雄叫びが上がった。四方八方から、雲霞のように魔物達は飛びかかる。既知世界からトウジ達の痕跡を消すために。 魔物達が今まで厳しい戦闘訓練を積んできたのは、まさにこのためだ。主の命令に応え、殺戮を効率的に行うためなのだ。人の肉の味、殺戮の官能、女の柔肌…それこそ彼らの望む物だ。 『殺せ、人間共を殺せ!』 『肉、肉にくニクッ! 数カ月ぶりの人間の肉!』 『お、おおお、女だ! ブギッ! ぶ、ブギギィィ!』 対して、トウジが、ケンスケが冒険者としての辛く厳しい暮らしに敢えて身を投じたのは、こんな命を賭ける馬鹿げたスリルを求めてのこと…なのかもしれない。しかし、それは無謀な死に身を投じることと似て非なる。死にたがりな訳ではない。 生きたいから、生きていることを実感したいから。 なにより、守りたい物が、人がいるから。 キョロキョロと周囲を見回し、かなり困った顔をしてシンジは首を傾げた。 なにもわからない。 自分はどこにいるのか。何が起こったのか。他のみんなはどこでどうしているのか。なぜ、こんな事になったのか。自分が碇シンジであると言うこと以外、何もわかっていないに等しかった。 「ここどこだろ」 鼻をつままれてもわからない暗闇の中、シンジは先細りしていく声で呟いた。孤独でいるのは誰であっても不安を感じるものだ。直前まで最も近しい存在と一緒にいたのだ。心の落差は大きい。それは意外に図太いところがあるシンジでも例外ではない。 「…真っ暗だ。何も見えない。やだよ、こんな所」 暗いと言うことはそれだけで余計なストレスを感じてしまう。迂闊なことに、背嚢の中には松明やランタンの類は入っていない。明かりはマユミ達の魔法に頼っていたし、万が一を考えて用意しておいた松明は全てケンスケが持っている。また、うっかりしたところでミスをしてしまった。二度と同じミスはしないだろうが、それにしても迂闊なところは変わらない。 急激に胃の辺りが痛み、吐き気を伴う不快感にシンジは呻き声を上げた。自己嫌悪、恐怖、孤独、様々な負の感情がせめぎ合う。 「うううぅ。誰か、いないの? 1人は、やだよ」 それでなくとも、最近の彼は孤独であると言うことがほとんどなくなっていた。家にいるときはいつも誰かが、アスカかレイかマユミが側にいた。積極的に話しかけてきたり、遊べとベタベタしてきたりすることもあれば、何も言わないで隣り合って座るだけだったりもしたが、とにかくいつも誰かが側にいた。 最近は影を潜めていた…とかく独り言を言う癖が顔を出したが、そんなことも気がつかない。 「マユミさん、アスカ、綾波…」 期待を込めないかすれ声で闇に向かって呼びかけるが、何も返事はなかった。 丁度そのころ、アスカ達は全く別の場所でシンジを探していたのだが、それはまた別の話。 「一緒に、どこかに飛ばされたと思ったけど…僕だけ別の場所に飛ばされたのか。それとも、このどこかに綾波達はいるのかな」 ではそう言うが、同じ部屋に彼女達がいるとは思っていない。ケンスケ達に言われてから自分でも気になっている…やたら鋭い聴覚には、自分以外の何者も動く気配を感じない。 「…なにも、聞こえないな。アスカは1キロ離れたところにいたって気がつくくらい騒がしいし目立つはずだから、いたらきっと気がつくよな」 くんっ、と鼻をすするように空気を吸い込む。 それぞれ異なる、香水のような三人の香りはしない。ラベンダーのようなアスカ、桃の花のようなマユミ、緑深い森のようなレイ。いずれも匂いはない。かすかに自分の衣服に付いた残り香を感じるくらいだ。あと、僅かに刺激を感じる油…地中から湧き立つ燃える水のような匂いを感じた。 「……なんだろ? 機械油の臭い、かな。でも、錆みたいな臭いもするし、よくわからないな。トウジの家の工房にちょっと似てるかも。 あれ、何か見えてきた」 数回瞬きを繰り返し、シンジは周囲の光景の急激な変化に戸惑う。何も見えないと思っていたが、本当はどこからか僅かながら光が入ってきているのだろう。薄緑色に周囲の壁や床が染まり、ぼんやりと浮かんで見えた。 今シンジがいるのはさほど広くない、直径2Mくらいの円形の部屋のようだ。樹脂を固めたような正体不明の建材で出来ている。軽く拳で壁を叩くが、僅かばかりに響かない音がしただけだった。つまり、奥までみっしりと詰まっていて空洞などはない…ということになる。 自分が入ってきた扉のようなものは見えないが、目の前に人1人が通れるくらいの大きさの通路が続いているのがわかった。 「趣味悪いな、緑色の光だなんて」 不安を誤魔化すようにぶつぶつと呟き、シンジは闇の中を歩き始めた。 おそるおそる、手探りをするように。 たいしてシンジは歩く必要がなかった。 「え?」 踏み出した足には何も感じない。ボールを蹴り損ねたときのような、妙に寒々しい感覚がまとわりつく。そして浮遊感。目の前の光景が、上にスライドしていく。 「ええっ!?」 下腹が締め付けられるような感覚、耳の横や頬など顔全体が引きつり、たよりない空気を引っ掻くように手足がじたばたと振り回された。何も感じない。何も手に触れない。 隼が飛ぶときのような風の轟く音。 妙に甲高くて女の子のような声 ――― 自分の悲鳴 ――― が聞こえる。 「うわぁぁぁぁっ!?」 落ちていく。墜ちていく。 それとも、堕ちていくのか。どこまでもどこまでも、くるくると空中で回転しながら、シンジの体は落ちていく。 いつしかシンジは意識を失っていた。 だから彼は気づかない。 落下の途中、突然落下速度が遅くなったことに。バサッとなにか布をはためいたような音がしたと思った瞬間、激しい衝撃が彼を襲った。走ってる途中で突然止められたように、力の入らない首がガクガクと揺さぶられるが、明らかに彼の体は落ちるという感じではなくなっていた。 突然太陽が生まれたように光で満たされた縦穴の中を、翼を広げたアホウドリのように、軽やかに彼の体は空を滑る。羽が舞い落ちるようなゆっくりとした速度で。 「……………」 ゆっくりと地面に近づくシンジを、じっと見つめる瞳がある。 一筋の光さえも射さない闇の中で、無機的な目が、松明よりも、太陽のような明るい輝きを見つめる。いや、それは本当に目なのだろうか。無機的で、自らの力で橙色に光り輝くそれは。さながら色ガラスの反対側からランプで照らしたような色合いをしている。 瞬かず、ただ点滅をするその目は、安定したのかやがて灯ったままになった。周囲で響く振動も、同じく安定した一定のリズムを奏でる。 ブゥーン…ブゥーン… 【遂に、その時が…1万2千と飛んで57年目にして、遂に】 ガチャリ、ガチャリと、鎧武者が歩くときの金属がこすれるような音が響く。毒ガスのような埃が舞う中を、一切気にせず彼は進む。 【長かった。本当に、永かった。だが、やっと。その時は来た】 足が地面につくと同時に、前のめりに倒れ込むシンジに、声の主は近づいていく。声の抑揚、音量などは些かの変化もないが、だが確かに彼が興奮していることを感じさせる声だった。 【光の翼…! 彼女と、同じ! 間違いない!】 役目を終えた…と言わんばかりに光は消え去ったが、だが彼の闇を見通す目は的確にシンジの姿を捉えていた。金属の腕が伸ばされ、シンジの髪の毛を、頬を撫でつける。まるで、何かを懐かしむように。 【懐かしい、本当に……懐かしい。どこかあいつに、静に似てる…。色々、話したいことは、たくさんある。本当に、色々。だが、まずはあそこに、墳墓に案内しなくては】 シンジの体を出来る限り優しく転がし、仰向けにすると、彼は膝の裏と脇の下から両手を差し入れた。そのまま軽々と担ぎ上げられ、ぐったりと力をなくしたシンジの手足、首が垂れ下がった。いわゆるお姫様だっこというやつだが、のけぞったシンジの艶めかしく開いた唇から、小さく呻き声が漏れた。 【………なんだ、この妙な気持ちは。ち、違うぞ! お、おれはノーマルだ。信じろ!】 無いはずの心臓がドキドキと脈打つような不思議な感覚に戸惑いながら、彼は慌てて闇の奥に消えた。なぜか心の中の旧友に言い訳しながら、ガチャガチャと足音を響かせる。その足音は、どこか忙しげで危なっかしく聞こえた。 【やばい! 水が、水が切れる! み、水!】 謎の言葉を残して。 【ギュチチチチッ!】 レイの召還により姿を現した巨大甲殻類、クラーケンクラブが高々とハサミを振り上げて雄叫びをあげた。レイキュバスには声帯はないが、間接を擦り合わせることで鳴くような音を出すことが出来る。正直、黒板に爪を立てるような物で、あまり聞いていて気持ち良い物ではないが、表情を変えないまま小さくレイは頷いた。 「レイキュバス、凍てつく嵐を」 しっかりと足を踏ん張り、レイキュバスは赤く光る目をモノリスに向けた。 【キィ─オォ!!】 ギザギザの顎が左右に開き、白い冷凍ガスが噴射される。本来無色透明な体液は、途中の空気とそれに含まれる水蒸気を凍り付かせてたちまち白く濁った煙と化す。氷点下200を軽く下回る液体ヘリウムの体液だ。 じゅわぁ〜〜〜〜っ。 熱した鉄板に水をぶちまけたような豪快な音が響き、狂ったように文字の羅列を浮かべていたモノリスは白く凍り付いていく。 いや、モノリスだけでなく室内の全てが凍り付いていった。10M以上離れたところにいたマユミの髪の毛や服に、星がきらめくようにキラキラと氷の欠片が張り付いていく。 10Mどころか、至近距離にいたレイは通常の人間なら即死しそうな凍気の中、心地よさそうにうっすらと笑みを浮かべた。銀の煙の中の妖精…レイはまさに氷の妖精だった。 (…綺麗。女の私が見とれるくらい) 普段のぽえ〜とした半分寝ているような無表情と違う、奇妙に大人びて見える横顔を見ながら、マユミはふとそんなことを考えた。改めて確認することではないが、レイは本当に綺麗だと思う。あのきめの細かい、染み、黒子一つない肌は本当に羨ましい。口元だけでなく、脇の下とかに黒子のあるマユミは結構気にしているのだ。 「ふぅ…やっと過ごしやすくなったの」 家に帰ったら、もう少し室温を下げてあげた方がいいんでしょうか? と、マユミは場違いなことを呟いた。本気でそう思ったとしたら…。おっとりしてるにしても、もう少し限度って物があるだろうに、と思いながらもアスカは合図した。 「あんたの番よ」 「あの…本当に、するんですか? やっぱり、私、こういう直接的なことは」 「今更何言ってるのよ。もうレイはやっちゃってるのよ」 「でも…」 「もう遅い! さっさとやる! そもそも、あんた本気で反対する気なかったでしょうが!」 キュン、と怯えた犬みたいに顔を伏せながらも、ドキドキと心臓が高鳴るのをマユミは感じていた。 確かにそうだ。内心、人を小馬鹿にしたようなことをしてくれたあのモノリスに、正しくはこの遺跡自体に彼女は敵意に近いものを抱いている。シンジと引き離される…それも、魂のつながりを感じられないような所にシンジを連れて行かれる、というのはここ数ヶ月で初めての経験であり、なおかつ心細いことだった。今は側にアスカ達がいるから、まだなんとか正気でいられるけれど、もし側に誰もいなくなったら…。不安と寂しさでパニックに陥り、うずくまって湿っぽくなったかも知れない。 他人が聞いたらそんな大したことには思えないかも知れないけれど、マユミにとって、シンジは自分自身より大事な存在だ。 (そう…よね。怒っても、良いんですよね。本気で…。だって、私の大切な人を奪い去ったんだから。それっきり、何も聞いても返事をしてくれない。 シンジさんを、シンジさんを返してくれない! 酷い!) 普段大人しいからこそ、怒ったときは溜め込んでいた物全てが爆発する。半分アスカに誘導されたと言っても、憤り自体は本物だ。 だからマユミは躊躇しなかった。たがが外れた彼女は止まらない。 「シンジさん…。待ってて、下さい」 掲げた右手に魔法の杖を具現化させると、氷の欠片を粉々にうち砕くほど強く、その石突きを床に叩きつけた。普段、黒曜石のように黒い瞳が、無機王の力が、魔力が渦巻くのに比例して赤く輝いていく。 「燃え上がる意志、大地の奥底を流れるマグマの力。我、汝と契約を結びし者なり! 炎の戦士の正義の心を我が身に具現化させたまえ。 私の息は戦士の息吹! 私の腕は戦士の腕! 私の言葉は戦士の叫び!」 マユミを中心として、炎の帯が魚が跳ねるように地面からわき上がり、渦を巻きながらその勢いを増していく。アスカでさえも熱を感じ、一瞬怯むほどの熱量が迸る。灼熱の火炎地獄の中、マユミは静かに、一定の抑揚を守りながら呪文を唱え続ける。 「マグマの王よ、炎の貴公子よ。煉獄から祝福を」 杖の先端が熱せられたガラス細工のように形を変えていく。ねじくれた木の根のようだった形から、指先を揃えて真っ直ぐ伸ばした腕のような形に変わっていく。 ゆっくりとマユミが杖の先端をモノリスに向けると、彼女の周囲の炎がそれにつられたように、次々と螺旋を描きながら杖の先端に集中する。 燃やせ燃やせ真っ赤に燃やせ。そんな風に歌ってるみたいに空気が唸った。 「轟きうなれ、妖炎の吹雪よ! 炎神撃滅螺豪旋!(ファイアーマンズブリザード)」 極低温に固められたモノリスに、炎の嵐が襲いかかる。 その極端に温度差にさらされたモノリスは、たとえ正体不明の物質であったとしても、その分子構造自体が激しい影響を受けるだろう。良く知られた物質である鉄などだけでなく、ミスリルやアダマンタイトなどの稀少金属などであっても、極端な温度差にさらされるともろく崩れてしまうのだ。それは最強金属(ただしくは金属ではなく磁器)として知られるオリハルコンであっても例外ではない。 表面を覆っていた氷は一瞬で溶け去ったが、代わりのようにモノリスの表面に大小さまざまな亀裂が、歪な蜘蛛の巣のように走った。もはや文字と判断することもできないような光が、断末魔の痙攣のようにチカチカと輝いた。 「いよっし! 抜けば玉散る炎の刃!」 同時にアスカが炎の渦の中を駆け抜ける。 「炎じゃなくて氷です」 「氷」 ちょっとツッコミが痛かったが、顔を赤くしただけでアスカは無視した。『えーい、調子が狂う』とか思ったりもしたが、今は言い訳するよりこっちの方が大事なのだ。そもそも、持っている剣は炎の剣なのだから、氷でなくて炎であっているのだ。うん。 とはいうものの、今回アスカはメギンギョルズを剣として使うつもりはない。 「メギンギョルズ・ガントレットフォーム!」 彼女が選んだ形、それは籠手だ。 赤熱したメギンギョルズは、溶けるようにその形状と質量、体積を変えていく。厚みを増し、昆虫か鎧竜のような装甲が幾重も重なっていく。アスカの右腕を肘の上までを鉄板が包み込み、握りしめられた拳の所から鋭利なスパイクが小さな指のように飛び出す。古代生物アノマロカリスにどこか似た形状の籠手が、厳めしくもアスカの右腕を包み込んだ。 「烈風! バニシング・マグナムっ!!!」 爆炎の中、アスカは叫び、拳が唸る! お前の一撃魅せてやれ! 「きゃっ」 「…熱い」 爆音が轟き、破片が混じった爆風が室内一杯に吹き荒れた。 マユミとレイは、2人揃って小さな悲鳴を上げた。それぞれバックドラフトのように逆流する熱風に顔を押さえて結界を張り、あるいはレイキュバスの陰に隠れてやり過ごす。 プラズマ化し、ほのかに光る空気の中で2人は肩をすくめた。 「やりすぎですよアスカさん」 「多少は加減という言葉を覚えてないといけないと思う」 きちんと韻を踏み、同調させたわけではないが…それでも三人が力を合わせた結果に内心マユミは恐れを抱いていた。結界の中に守られていてさえ、全身に熱を感じて汗が浮かぶ。今は良いが、しかしこの力の使いどころを間違えたら…。正直、自分一人の力も持て余しているところがあるのだ。それはマユミだけでなく、レイも、ひょっとしたらアスカ自身もそうかも知れない。 「んぐぁっ、おごごごごごっ!?」 モノリスを打ち砕いたは良いが、勢いがつきすぎ、止まることも出来ず物凄い勢いですっころんで部屋の端にぶつかったアスカの末路に、本気でマユミはそう考えた。吹き出す光は先の魔法で生まれたプラズマか、それとも摩擦熱か。下ろし金で大根でも下ろすように、顔面で地面を削っていったが…無事だと良いな。 「大丈夫、生きてるわ。痙攣してる」 「…私の考え読みました?」 「読んでないわ。そう思っただけ」 いつの間にか右手にしがみつくようにして甘えるレイに、ちょっと困った目を向けながらマユミは肩をすくめた。まあ、良いですけどね。でも、仮にも友達に向かって痙攣してるとか言わない方が良いと思いますよ、と注意しながら、マユミは煙が火山のように噴き上がっている部屋の中央に近づいていった。 見事に赤熱するクレーターが出来ている。 あの異様に神経を逆なでするモノリスは消え去ったが…。 さて成り行き上、破壊することにしたけど、これがどういう結果を生むことになるのか。良い結果になると良いのだけれど。でも…と思う。 たいてい、良い結果になるわけがないのだ。特にこのメンツでは。 「…マユミちゃん、何か聞こえる」 爆音に重なるようにして聞こえる音に、レイは首を巡らし、周囲に注意深く目を向ける。レイに言われるまでもなく、マユミにもその音は聞こえていた。何か、人間味を感じさせない適当に合成したような音が、いや声が何かを呟いている。 (第1期帝国語…かな。あんまり、意味が分からないわ) 耳に手を当てて聞き入ったが、残念ながら帝国語がわかるのはアスカだけだ。 数ヶ月の内に完璧に覚えてやる。とリベンジを誓いながらも、今はわからないので途方に暮れる。レイは期待を込めた目で自分を見ているので、そのやるせなさはいかばかりか。レイがかしましくないのがせめてもの救いかも。 それはともかく、一体なんて言ってるのだろう。 「緊急事態発生、防御プログラム作動。コダイゴンを起動します。 とか言ってるわ」 いつの間にか生き返ったアスカが、まだ涙のにじむ目を押さえながらそう言った。鼻の頭が赤いのは、ちょっと擦り剥いているから。ちょっとで済むところが、とにかく凄い生命力だ。屁の突っ張りはいらんですよ。人のことが言えないけどマユミはそう思った。 しかし、今はともかく…赤い瞳を戸惑いで震わせるレイと、予想と違う結果に渋るアスカの青い瞳を見る。 「コダイゴン?」 「私に言われてもわかんないわよ。マユミこそわかんないの?」 「…ごめんなさい」 最近、わからない、できないって事が多いな。と内心落ち込む。尤も、先の質問の答えはすぐにわかった。 「あー、アレの事ね、きっと」 「ゴーレム?」 「それにしては、ほとんど魔力反応はないですね。魔法で動いてるんじゃないのかしら?」 ズシン、ズシンと足音を響かせながら巨大な人型が三人の方に歩いてくる。それも1、2、3…10。 前掛けのようなラメラーアーマーを来た、岩の巨人…とでも言えばいいのだろうか。それにしては手足の動きが滑らかだ。通常のロックゴーレムのような軋みや動作の遅れが見えない。どこかぎこちない感じはあったが。 「それはねぇ。あいつら金属製の筋肉と、高ストロークの油圧シリンダーで手足を動かしているからよ」 なぜかふんぞり返るアスカ。一体全体、なんでそこまで断言できるのか、と思うが2人にはその言葉を否定する理由もないしその度胸も気力もない。 「…どうせユイお義母さまからの受け売り。もしくはキョウコおばさんから」 「そうなんですか。じゃあ、きっとそうなんでしょうね」 「なんなのよあんたらのその態度は!?」 こいつら…。天使も土下座する伝説の美少女であるアスカ様をこうまでないがしろにするとは…。いや、確かにレイの言うとおりなんだけど。だから金属製の筋肉って何? とか、油圧シリンダーって何? とか聞かれても応えられなくてかえってつっこまれなくて助かったとも言う。いや、もしかしたら気を利かせて聞かなかったのかも。 でもそれはそれ。これはこれ。 やはり、レイとだけでなくマユミとも一度勝負を付けなければなるまい。そう固く誓うアスカだった。しかし、今はそれよりも。 「この人達の相手が先ですよね」 「なの」 「ああっ、私のセリフ!」 特定地域の古代人がしていたような、髪の毛を頭の左右で俵のようにまとめた髪型をした石の巨人が周囲を取り囲んだ。その上から兜をかぶっているのだが、さて、いったい何で三人には髪型が分かったのだろう? 髪型がどうあれ、石の巨人、ゴーレムと似ているがそれとは内容が違う相手だ。ざっと見たところ、その力や反応の早さは、そこらに普通はいないが、とにかく普通のゴーレムとは比べ物にならない。それだけでなく、鋼鉄文明の遺産ならどんな奥の手を持っていることか。 噂では、体内に炸裂する矢を束ねているとか。 よくよく見てみれば、石の体なのではなく、埃か汚れか、あるいはその両方が巨人の表面を薄く覆っているのが見て取れた。数百、いや数千年ぶりに動いたことで垢のようにこびり付いていた汚れが剥がれ落ちていく。その下から見えたのは、うっすらと光沢を持った金属の皮膚。 メタルゴーレム…いや、違う。マユミは彼らを言い表すのに、最もふさわしい言葉を知っている。 「ロボット…? 初めて見ました」 「鋼鉄文明独特のゴーレム。科学で動く禁断の技術の落とし子」 「ま、多少毛色が違うだけで今までの相手とそう変わる訳じゃないけどね」 [000101010101010100101010100101010100110101010010101010] 不気味な振動のような声を漏らし、巨人…コダイゴンは一斉に腰に帯びていた剣を抜いた。輪郭が霞のようにぼやける刃が10本、血に飢えた餓鬼のように唸る。 刹那、三人の視線が交錯する。 ズバシュッ! 渇いた音を立てて床に10の亀裂が口を開けた。しかし、超振動素子で作られた剣が振り下ろされたとき、三人が三人ともその場にはいなかった。ある者は超絶的な体さばきで剣の林をすり抜け、ある者は光の中から突如現れた怪物の肩に乗って攻撃をかわし、またある者は貫かれたと思った瞬間、コダイゴン達の背後に数秒前とまるで変わらない様子で佇んでいた。 「ほんじゃ打ち合わせ通りに!」 炎を吹き上げる剣をかざしたアスカの言葉に、レイとマユミは共に頷き返した。柔らかい唇を軽く舐め、それぞれ魔法の詠唱を開始する。 いつの間に打ち合わせた…と思う人もいるかも知れないが、三人は生まれたときから一緒だったかのように、あるいは心が通じ合ってるいるかのようにお互いの考えを理解していた。 伊達に喧嘩ばかりしているわけではない。お互いの考えてることは、ちょっと視線を合わせただけで手に取るようにわかるのだ。 いや、本当にそれだけだろうか。もしかしたら、それ以外にも理由が? ケンスケの爆弾をくぐり抜け、涎と悪臭をまき散らしながら下級妖魔達が一斉に飛びかかる。 その牙や爪、あるいは毒でぬめぬめと濡れた刃がトウジ達を引き裂こうときらめいた。 『ぎゃうあう!』 『ぐおおおおっ!』 『殺せ、食らいつくせ!』 そのままなら、ほんの数秒で彼らの言葉通りになっただろう。 ただし、彼らが相手をしようとしているのは、ただ者ではなかった。貫頭衣の長い裾を揺らしながら、ヒカリが前に進み出る。一度閉じ、見開かれた瞳が金色に光った。 「………………!」 全ての者達の鼓動が一斉に止まった。恐怖を感じる暇もなく、自分に何が起こったのかもわからないまま。皮膚が、肉が、血管が、神経が、血が、骨が、内臓が、脳が、全てが固まり、引きつり冷たい光沢を帯びる。 全てが石となる。石の世界。大地の骨が世界の全てだ。土よりなる物は、全て土に帰る。石は土、大地の骨なり。 どごん、ごどっ。ばきゃっ。 鈍い音が轟き、巨人の足音のように室内を震わせた。そのまま、飛び出した勢いのままそれは地面にぶつかり、粉々に砕け散ったのだ。もし近くに人間の村があったら、当分家屋の建材に困ることはないだろう。 「凄い…これが、メデューサの石眼か」 「い、いいんちょ?」 髪の毛を逆立たせ、決して顔を見せないヒカリの後ろで、トウジとケンスケは驚愕に息をすることも忘れた。ケンスケは噂に聞く石化能力に単純に驚き、トウジは守ってやらなければ…と考えていた少女が、もしかしなくても自分より圧倒的に強い事実に顔を引きつらせていた。 ごくりと唾を飲み込む音が、いやに大きく響く。 「怯むな! 下魔ども左右に散開しろ。取り囲んで一斉に押しつぶせ!」 馬にまたがったまま、メガール将軍が檄を飛ばした。そして、規律のきの字も知らない下級妖魔達が、その号令に素早く反応する。鋭く、早く、無駄のないその言葉から、彼が戦士としてだけでなく、将軍としても高い実力を持っていることは容易に分かった。 『ぎっ、ぎぎっ!』 『将軍の言うとおり目を見るな! 盾で顔を隠すんだ!』 下級の妖魔達が一斉に左右に散った。 思いの外速いその動きに、ヒカリは右に左に素早く視線をさまよわせるが、頭の中に靄がかかったように良い考えが浮かばない。高い能力を持っている彼女だが、戦いの経験が不足していることは明白だ。こういった時、考えるより先に身体が動かないようでは、本物の戦いのプロが敵になったとき、実力の半分も出すことができなくなる。 (くっ、盾で顔を隠してる! これじゃ、石化なんてしてくれないわ。それに、妖魔達だけじゃなく…) 正面から、各々異なる獲物を手に混沌の戦士達が歩み寄ってくる。手繰り、捕らえ、滅ぼすために。彼らにとって死は最も身近なもの。死を他者に与えることは赤子の手をひねるも同然だ。妖魔達も厄介だが、石化することを恐れもせずに近寄る戦士達の方が遙かに恐ろしい。 (どっちから、相手にすれば…!) 空気を裂いて矢が飛んでくる。左右に散った妖魔や傭兵達が、三人を針鼠のようにしようと弓の弦をかき鳴らす。 足下の岩畳に突き刺さった矢にヒカリは戦慄した。顔を隠しながらの射撃のため、狙いはあまり正確ではないが、それでもこのままだと、確実に…殺されてしまう。それも妖魔の弓矢で射殺されると言う、およそ考えられる限り最もみっともない死に方だ。 このまま、彼女は…無惨に殺されてしまうのか。 いや、そうはならない。 「ケンスケ、後ろは任せたで!」 「おう! だが、大丈夫か!? 正面は本命だぞ!」 「任せとけ! いつまでもシンジ達ばっかりに目立たせてたまるかい!」 ケンスケが火口を切った丸い陶器の壺…中に火薬がたっぷり詰まった…を投げつける。悲鳴と言うにはあまりにも短い叫びを漏らし、数体のゴブリンやコボルトが細切れの肉片に変わった。仲間の血のシャワーに一瞬怯んだ半オークの胸に、無慈悲な死神の指先のように鷹の尾羽の矢が突き刺さる。 『ぐ、ぐぇぇ』 自分が死ぬのが信じられない…。目が裏返り、その場に崩れ落ちた彼はその時何を考えていたのだろう。続いて第2,第3の矢が隣のコボルトの片目に、ハイエナ人間の額に深々と突き刺さる。 そしてトウジが剣を中段に構え、威嚇するように軽く振る。 『………』 混沌の戦士達は無言だったが、重い軍靴の音が止まった。 兜の奥の目が赤く瞬き、軽く頷きあうと武器を構えてトウジに向き合う。明らかに…彼を敵として、少なくとも下級妖魔達で踏みにじれるようなレベルの敵ではない、と認めたのだ。自分達が自ら相手をしなければ…。 確認するように、一人が背後に振り返る。彼らの考えを悟ったメガール将軍は重々しく頷き返した。その判断を尊重すると同時に、鉄の規律を思い出させる目をして。 敗北は、すなわち死だ。 『………………』 「1対6。普通なら負けやな。せやけど、そう簡単にやられてやらん」 ギリッと音がするほどに歯を噛みしめると、トウジは破裂しそうな心臓を押さえつける。以前なら、とてもそんな軽口をきくこともできなかった。 「あ、あなた達…」 自分の思考以上の早さで目まぐるしく移り変わる展開に、ヒカリはそう言うのでやっとだ。なぜ、彼らはこうも的確に行動することができるのだろう。なぜ、圧倒的な力の差がある相手を前に、一歩も引くことがないのだろう。 「どうして、戦えるの? そんな、迷いもなく? 私は、私はわからないわ」 「慣れてるからな」 「え…」 もの凄い勢いで矢筒から矢を取り出し、弓につがえて放ちながらケンスケが答えた。言葉の意味を考えあぐね、とまどう彼女にトウジが背中を叩くように答える。 「左右の妖魔は任せた。魔法が使えるんやろ。ああいう手合いには、魔法が一等効くはずや」 「え、あ、うん」 いずれ、自分も分かるようになるのだろうか。とりあえず、今はトウジの言葉に従おう。自分にできることをするのだ。頭めがけて飛んで来た矢をかわし、ヒカリは軽く息を吸い込んだ。脳裏に、何度も何度も練習し、自分の名前と同じくらい当たり前のように覚えた単語が浮かび上がる。 「子らよ! 大地の子らよ! 豊饒の遣い、豊かな恵み。しなやかな虹色の鱗に包まれし、口縄の群をここに生み出せ! もう一つの大地の顔を、我が敵に示せ! ガラシャープ・ダート!」 ヒカリの前髪が跳ね上がり、髪の毛が弾丸のように幾本も放たれた。まるで研ぎ澄まされた針金のように、ヒカリの髪の毛が投げ矢と化したのだ。運悪く、剥き出しの部分に突き刺さった妖魔がぎゃあぎゃあと悲鳴を上げる。そしてすぐに顔を紫色にし、赤混じりの泡を口から吹きだして動かなくなった。彼女の毛針には猛毒が含まれているのだ。 だが、その毛針の威力は盾を突き抜けるほどはない。 ニヤリと笑うと、朋輩の身体を踏みしだきながら妖魔達は盾の後ろに完全に身体を隠した。このまま安全なところに身を隠したまま、牽制として矢をうち続けるだけで十分なのだ。彼らの目は、トウジを囲んで剣を繰り出す混沌の戦士の姿を捕らえている。彼らが戦いを始めたとき、余計なことをしては行けない。強烈な彼らの攻撃に巻き込まれるだけ損という物だ。 そう、全く楽な仕事だ。 『ぎゃあ!』 突然、盾を構えていたホブゴブリンが悲鳴を上げてその場にうずくまった。隣にいた別のホブゴブリンが、何事が起こったのかと仲間を省みるが、彼もまた短い悲鳴を上げるとその場に昏倒した。 『な、なんだ!?』 折れそうなほどに背骨を仰け反らせ、口から泡を吹く彼らの姿に、小隊長である人間傭兵は言葉を失った。攻撃は盾で完全に受け止めているはずなのに。 『ぐぉあ!?』 次の瞬間、彼はくるぶしを襲う鋭い痛みとその直後全身に広がる灼熱の激痛に言葉を失った。なにか、小さな何かが足下をはいずっている。沸騰した血液で眼球が爆ぜる直前、頭から倒れ込んだ彼は突然の苦痛の原因を見つけていた。 (へ…び) 小さな、10センチにも満たない虹色の蛇が幾匹も床を這い回っている。 (どくへび…これの、せいで) ヒカリの髪の毛は、ただの毛針などではなく…毒蛇に変化するのだ。得意げに、魔法で生み出された蛇は首をもたげて歯をむき出しにした。 突然パニック状態に陥り、攻撃どころでなくなった妖魔達の様子に、ヒカリは先の魔法が上手くいったことを悟った。本音を言えば、あまり趣味がよい魔法ではないため使いたくはなかったのだけれど…。 「あっちはこれで良し。次は、あなた達の番よ!」 素早く振り返り、先ほどから矢をうち続けている左翼の妖魔達をにらみつける。 反対側の仲間の悲鳴に恐れおののいていた彼らは、一斉に一歩後ろに下がった。基本的に彼らは魔法を恐れるのだ。そして同じく、自分より強い相手を本能的に恐れる。 その隙を逃さず、ヒカリは呪文…いや祈りの言葉を捧げた。 「銀の涙に濡れる月光! 天神の光満ちたる光輝よ! 祈りを聞きとどけ、汝が僕に閃光の大鎌を遣わしたまえ! 邪悪なる魂を刈り取る、光の農夫の刃を! ホリゾンタル・ギロチン!」 前の伸ばされたヒカリの右手から、長く横に伸びた三日月型の光が解き放たれる。空気を焼きながら、光のギロチンが妖魔達のど真ん中に突撃した。 『ぎゃー!』 『ぐぇぇ──!』 悲鳴と血煙が吹き上がり、切断された首や胴体、手足が空中に舞った。目の前の発狂しそうな光景に、生き残ったよう真達は完全にパニックに陥って攻撃することも、身を守ることも忘れてしまった。ある者はその場にうずくまり、ある者は蜘蛛の子を散らすようにでたらめな方向に逃げ、ある者は少しでもヒカリから離れようとして邪魔な仲間に襲いかかる。 「不手際だな」 『申し訳ありません』 完全に統制がとれなくなった妖魔達を見ながら、テラーマクロは忌々しげに呟いた。トウジ達に対する彼の見立てが間違っていた…訳なのだが、それを認めようとしない彼の自意識は、無意識の内に部下であるメガールに責任を押しつけていた。 それがわかっているのかいないのか、メガールは僅かに頬を引きつらせただけで素直に頭を垂れた。 「…ドグマ兵は役にたたん。見ろ、あのメデューサの娘が混沌の戦士達の戦いに加わったぞ。大丈夫なのか?」 『…私が鍛えた彼らですが、確かにあのメデューサの方が強そうです。しかし、やり方次第でどうとでもなります。お任せください』 「このようなところで、無駄に部下を失いました…などとみっともなくてタブリス様に報告できん。この上、おまえまで戦いに加わった…など、死んだって報告できん。わかってるな、あくまで混沌の戦士達にあの三人を引き裂かせるのだ」 テラーマクロの言葉を聞きながら、彼は混沌の戦士と戦う三人に視線を戻した。テラーマクロはあくまでヒカリしか問題にしてない…というような感じだが、一体どういうつもりなのだろうか。どうにも敵を見下す部分があるようだ。確かに、実力的には普通の戦士と偵察兵で、メデューサであるヒカリとは力の差は歴然である。 (だが、明らかに戦いの核はあの戦士だ) 瞬きもせずに攻撃を見切ろうとするトウジの顔は、未熟ながらも明らかに戦士の顔をしていた。凍り付いていたはずの、彼の血を沸き立たせるような、どこか懐かしい目をしている。 (テラーマクロ様はああ言っているが。だが、私は部下である前に、一介の武人なのだ) とあることがあり、人生に絶望し、自殺寸前の所を救って貰ったという恩はある。だが、全身を流れる心地よい感情の奔流はいかんともしがたい。 『…私も参戦します』 「なに? 貴様、先の話を聞いていなかったのか? 第一、貴様が参戦して誰が私を守るというのだ?」 『お叱りは後で受けます。しかし、今だけは我が儘を許していただきたい』 「武人故に…か。勝手にしろ」 蝋燭の火を吹き消すような勢いで息を吐き、テラーマクロは顔をしかめた。戦いたいというなら、勝手にすればいいのだ。所詮は出来損ないの人間だ。 だが、あとで…メガールの首をすげ替えよう。親衛隊の中の適当な顔を思い浮かべながら彼は暗い考えに身を浸した。 ゆっくりとシンジは目を開けた。 薄暗い広さの分からない部屋の中に、シンジは一人ぽつんと横たわっていた。恐る恐る上半身を起こし、今の状況を確認しようとつい先ほどまでの出来事を思い出そうとする。 あまり気持ちのいい目覚めではなかったが、一体何がどうなったのだろう? とりあえず、朝食抜きだったからお腹がとにかく空いた…と思った。 「ここ、どこなんだろ?」 デジャビュを感じるようなことをまた呟き、シンジは途方に暮れた。たしか奇妙なところに飛ばされ、適当に歩いたら床に開いた落とし穴に落ちたはずだ。深さも底で待っている物も分からない落とし穴。 「そうだ、僕は。確か穴に落ちて、それから」 思い出したように手足を曲げ、痛いところがないか、上手く動かないところがないか確認する。手際よく指先まで動き、特に痛むところは見られない。とりあえず、行動に支障がないらしいことを確認して、シンジはホッと安堵のため息をついた。 「とりあえずは大丈夫か。となると、今自分がいる所なんだけど…」 頭上を見てみるが、かすかに天井のような物が見えるだけで、自分が落ちてきた穴は見えない。いや、そもそも自分は落ちてきた場所にそのままいるのか? 漠然としたことしか分からないが、どうも違うらしい。となると、一体誰が? いや、何が自分をここまで運んだのだろう? 突然、一人っきりにされた5歳児のような不安に襲われた。 正体は分からないが、得体の知れない何かがこの部屋にいるのだ。 慌てて腰に手をやり、直後指先に触れる金属の堅い感触を確かめて僅かに安堵する。マユミから貰った魔法の剣。そして、父親の形見…かどうかは知らないが、物心ついたときから持っている魔法の短剣、プログレッシブナイフ。ユイは本当の名前は別にあると言っていたが、とりあえずそれは意識の隅に置いておく。 武器があることで多少心に余裕ができたのか、シンジは自分が寝かされていた寝台…というより、作業台のように広い机の上から降りた。ヒビ一つない床の堅さを確かめるように爪先でつつき、鞘から抜いた剣を軽く振る。青白い魔法の軌跡を残しながら空を切る剣に、 「どうしよう。このままここにいて成り行きを見守った方が良いのかな。それとも…」 その時、空気が唸るブーンという音が響き、反射的にシンジは身を竦ませた。こういう気弱なところは、改めようとしてもそうそう治る物ではない。マユミと結婚してから、多少は頼られるように、守ってあげられるようにと無理して強気に振る舞うことがあるが、こう人目がない状況だと覚悟が鈍る。 「な、なんの音だよ」 一千の蜂が一斉に周囲を飛び交っているような恐怖感。もしかしたら、自分が床に降りたからこんな事になったのだろうか。だったら、ずっと何か起こるまで寝ていれば良かった。 なんとも後ろ向きなことを考えるシンジ。いや、多少は分からなくもない。急転直下に自分の置かれてる環境が激変すれば、よほど肝が据わっている人間でもなければ、多少は焦る物だろう。 「マユミさん、アスカ、綾波…。感じられない。誰も」 先ほどと同じく、今自分は一人っきりなんだ…。痛いほどそれだけが分かった。自分を一人にした、と理不尽な怒りがマユミ達に向かいそうになり、反射的にそんなことを考えようとした自分に嫌悪した。 「僕は、ぼく…俺ってやつは」 項垂れ、力の抜けた手から剣の柄が僅かに滑り落ちる。胃が痛むのか、剣を持ったままの右手で押さえる。自分はここまで何もできない奴だったのか。何もかも、マユミやアスカ達におんぶしていたのだ。情けなさのあまり、泣きたかった。 「……せめて、明かりがあればまだ気持ちは落ち着いたんだろうな」 どうにか憂鬱になる一方の気持ちを切り替え、シンジは忌々しげに不気味な光を呪った。こんな薄暗い緑の光ではなくて、もっとまともな色をしていれば良かったのに。。 そう言えば、この光はどこから射しているのだろう? クイズの答えを思いついた知識の神のように顔を輝かせて、シンジは周囲を見渡した。先ほどは、壁自体がうっすらと光っていたが、この部屋は違う。どこかにそんなに強くはないが光源があるのだ。それは一体、どこに? 「あれか!」 探すまでもなく、彼の正面から僅かに右にずれたところに、緑色の光の固まりを認めた。一見、蛍が集まって光っているようにも見える淡い光だが、間違いはない。 とりあえず、あそこまで行こう。 拳を握りしめ、剣先で床を確認しながらゆっくりとシンジは光に向かって歩き始めた。異様に鋭くなった夜目は、薄暗い室内の中でも障害物をよけながら的確にシンジを導いていく。まるで、フクロウの化身にでもなったように。しかし、シンジはそのことに気づかない。今はまだ。 「なにか、いるのか…な」 近づくにつれ、光の中に何か影のような物が見えることに気づき、シンジの心の中に冷静さが戻ってくる。まだ距離がかなりある ─── 30メートルほど ─── ため、詳しいことは分からないが、それは人型のようにも見えた。胸のまで手を組んだ細身の人間。 くびれを持った腰つきから見て、もしかしたらそれは女性なのかも知れない。 さらに近づくことで、シンジの疑問は確信に変わった。 光の中心の中に、明らかに誰かが、それも女性らしい影が見える。眠っているようにぴくりとも動かないが間違いない。 「女性…女の、子?」 さらに近寄り、ほんの数メートルのところで歩みを止めたシンジは、信じられない物を見た ─── 実際に見たのだが ─── ように呟いた。 緑の光の中で、一人の少女が眠っている。 年の頃はシンジとほぼ同じくらい。つまり17前後だ。背の高さはほぼシンジと同じくらいで、人好きのする優しい顔をしていた。閉じた瞼から判断すると、感じの良い垂れ目をしているのだろう。 髪の色は緑の光の所為でよく分からないが、黒か、茶色なのではないだろうか。 「なんだってこんなところに」 伸ばした手が、不可視の壁…ではなく、ガラスに遮られる。僅かに手の平に感じる温もりに、シンジは首を傾げて考えた。 壁に埋められ、まるで飾られているような彼女はいったい何者なのだろう。彼女が自分をここまで運んだのだろうか。いや、そんな感じはしない。どうもずっと眠っているようだ。ずっと、長い間…。根拠はないがシンジはそう考えた。 何者かが、彼女を飾っているのだろうか。権力者が戯れに美女を侍らせるのと同じように。 文字通りの壁の花だ。 そうだとしたら、許せない。そう思う。 確かに目の前の少女は綺麗だ。美人と言うより、可愛いという感じがする。さらって、その笑顔を独占したいという気持ちがするのも、無理はないかも知れない。しかし、彼女の意志を無視してこんな事をしているのだとしたら…。 「でも、なにか理由があって眠ってるだけなのかも知れないんだよな」 かつてのマユミのように。あるいは、不注意な侵入者に対するトラップなのかも知れない。迂闊に近づき、彼女を起こそうとした物に襲いかかる食虫花だ。 そう思って彼女を見ると、よこしまな期待で口の中に唾が溢れてきた。ごくりと唾を飲み込む音で正気に返ると、脳裏に浮かんだ映像をかき消すように首を振る。そんなつもりじゃなかったんだ…。 説得力のない赤い顔をしたまま、誤魔化すようにシンジは少女の顔を見つめた。 頬のところで外側にはねた髪の毛が特徴的だ。短く刈られているが、それはかえって彼女の健康的な美を強調している。細くしなやかな手足は剥き出しで、目を凝らせば産毛まで見えそうだ。手足を包まない、胴体だけにぴったりと張り付いた水着のような、奇妙な衣服を着た少女の姿は、どこか艶めかしい。 ともあれ、迂闊なことは、しない方が良いだろう。 「でも、そうとなると…これからどうすれば、良いんだろう?」 大人しく、マユミ達が来るだろう事を期待して待っていた方が良いのか? それとも、どうにか彼女を目覚めさせ、事態の展開を促した方が良いのか? あるいは…。 ゆっくりとシンジは振り返る。 彼の背後から静かに近づいてくる何者かがいる。音を立てていないし、見えないが、だが確かにシンジは近づく存在に気づいていた。目で見えなくとも、音が聞こえなくとも空気が動き、肌をなぶる感触と、気配を感じ取ることはできる。 右手の剣の柄の感触が痛々しいほど強く感じる。冷たい、魔法の鉄は痛みさえ感じるような鋭さで、シンジの意識を刺激した。研ぎ澄まされるような感覚に、僅かに陶然としながらシンジは剣先を闇に向けた。 「誰だ!?」 返事のように、闇の中で緑の光が瞬いた。 三つの場所で同時に始まった三つの事柄。 はたして彼らは一体どうなるのか。 そして謎の少女の正体は!? 続く 初出2003/09/23 更新2004/12/26
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