【目が覚めたかい】

 身構えたシンジに帰ってきたのは、予想を遙か眼下に望むほどずれた返答だった。奇妙に優しい声と言葉に、シンジは無意識の内に力を抜いてほっとした。予想通りの敵対的な返答が帰ってくるより、ずっとずっとましだから。

「はい、おかげさまで」

 つられて、ついついこちらも丁寧な口調になって返事をしてしまった。それこそ学校の教師や友人の親に対するみたいに丁寧に。声にそんな風に彼を誘導する重みがあるからかも知れない。ちなみにユイは違う。
 ユイに丁寧な口調で話しかけたら『なに企んでるのよ?』と勘ぐられるか、『ぷっ』と母親の顔で大笑いされるだけだから。若々しい顔の所為もあってあれでも一児の母なのか、と常々思うが事実なのだから仕方がない。きっと自分の性格は父に似たのだろう。

「え、えーと。あの、その、あなたは?」

 シンジの質問に、どこか奇妙な響きのする男性の声は途絶え、返事のように緑と青色の光が様々に明滅した。反射的にシンジは身構える。それなりに鍛えられた彼の反射神経のたまものだ。

【私が、誰か………。誰?』

「聞いたのは僕なんだけど」

【忘れちまったな。ずっと、そんなことを考えることが無かったから】

 何かを懐かしむような、どこか遠くの世界を彷徨う流離い人のような返答だった。微妙に噛み合ってないのは気のせいではない。全くシンジの言葉を聞いていないのだから。
 また緑色の光が、今度は星の瞬きのように明滅した。太陽や星の光とも、ランプの光とも違う稲光に近い光だ。
 本能的にシンジは悟る。この声の主は、彼が想像もつかないくらい長い時を生きてきたのだ、と。
 言葉を挟むことが出来ないままシンジはじっと次の言葉を待つ。



(私は…何者、だったのだろう?)

 途切れ途切れの記憶はほんの僅かなことしか留めていない。意味のあることも途切れ途切れで、ほとんど染みかゴミのようなものだ。
 ただわかっているのは孤独だったこと。




 ずっとずっと1人だった。




 話す相手はいない。
 側にいて、悲しみに一緒に身を浸してくれるものはいない。彼の悲しみを理解できるものはいないのだ。彼しか知らない歌を歌えるものも、彼しか知らない知識を共有できるものも。

 永遠の闇の中で、静かにその時を待っていた。

 最初の数百年間はすることがあり、なおかつ半ば不死になったことに異様な興奮を抱いていたため、待つことも苦にならなかった。気がついたときには数百年がすぎていたくらいだ。
 時が満ちるのと同じく周囲に鋼が満ちていく。
 彼が属した文明の遺産とでも言うべき様々な機械達。鉄の体に電気と油の血液を流す彼の子供達。寂しくはない。
 そして、目覚めの時を待つ『彼女』のが側にいたから。
 全てが崩壊し、彼の属する全てが消え去った中、ただ一つ残った彼にとっての1番がいたから。彼に死という安寧を拒絶させ、鬼道へ堕ちさせた原因となった鋼鉄の天使。
 例え呪われても、彼女が目を覚まし、彼の名前を呼んでくれる日を天上の夢のように思い描いていた。彼の名前を。
 名前…。なま…な、なま…なっ、なま…え。

【私は…誰だった…のかな】
「だから僕に言われても」

 当たり前だがシンジは聞かれても応えようがない。無茶言うなよ、そんな顔をしてシンジは緑の炎を見つめた。こう言うとき、シンジの子犬のような視線は心に突き刺さる。戸惑うように光が揺らめいた。

【そう、だ。………でも、名前は…必要だ。私が私であるために。もう少しで、思い出せ、そう…なんだ。あと、少し、なにか、きっかけが、あれば】
「きっかけ、ですか。じゃあ、僕が色々質問して、答えられることをヒントにして、とかはどう…ですか?」
【良い考えだ。シズカのように勘がいい】

 誰だ、シズカって。洞木さんみたいな髪型の女の子…なんてことは絶対にあるまい。
 口調は女の人…という感じではなかった。
 記憶喪失みたいだけど、微妙に思い出してるのか…敢えてシンジは聞かなかった。知ったからどうなるということもある。そもそも当面自分に関係ないし、いずれわかることかもしれない。
 興奮で額にじっとりと滲む汗を手で拭いながら、シンジはそう思った。
 その時シンジはふと気がついた。

(そう言えば、普通に言葉が通じてる。少なくとも、この人…かどうかはわからないけど、人間の文明に属している、いや、いた人なんだ)

 彼から見えるのは闇の中で揺らめく緑の光だけなのだが、あっさりとシンジは『人』と認めていた。彼らしい思い切りの良さと言おうか、あまりにも周囲に対しておざなりにすぎると言うか。脳天気なだけかも知れない。
 自分以外の存在を、それも自分とあまりにも違う存在をあっさりと受け入れすぎる様にも思える。お人好しとも言えるだろう。シンジに言わせれば、自分以外の存在という意味で言えば、他人と野の花や虫もそんなに違いはない、と言うことらしい。だったら、言葉が通じるぶん虫よりも自分と近しい存在だと考えたわけだ。
 そう言ったことを脇に置くとしても、いたく好奇心を刺激されてシンジは多少の興奮を覚えていた。

(この人は、一体いつからここにいるんだろう?)

 一息おいて、ゆらゆらと揺らめく光を見つめる。マユミよりも、ずっと昔のことを知っている人かも知れない。いつの頃の文明に属していたのか、シンジならずとも興味が湧く。しかし、考える必要もないのだ。なぜって、ヒカリの言葉が正しいのならば、この遺跡は鋼鉄文明の遺跡だから。
 彼は鋼鉄文明の事を知る文字通りの生き証人というわけだ。

 1万2千年前に消滅した文明の生き残り…。
 歴史に対して興味のないシンジと言えど、興奮を感じる。
 機械という鉄の生物を使役し、科学という魔法を使って鉄の鳥を空に飛ばし、大地に石の塔を無数に林立させた。そしてその力は再び人類を宇宙へと旅立たせたと言われている。
 マユミがいたら、新たなる知識の源に巡り会えたことで狂喜したに違いない。文字通り知識の奔流に身を任せて泳ぐだろう。
 マユミのそわそわ、クンクン、ワンワンといった感じの表情が瞼の裏に浮かぶ。
 きっと子犬みたいにはしゃぐんだろうな、可愛いだろうな、くいくいっといろーんな事をしてあげよう。
 とかなんとかいらん事を想像するのが彼らしい。
 さすがは第三新東京市の好色一代男。このどスケベめ。

【そうだ。名前を思い出すまで、便宜上私のことを鉄王(くろがねおう)……テッちゃんとでもよんでくれ】
「わかりました。くろがねおうさん。僕は…碇、シンジ…です」

 後半は無視した。微妙に残念そうに光が瞬いたけどやっぱり無視。馴れ馴れしく呼ばれたかったのかも。
 いい人だ。
 興味深かったが、本当にどうでも良かったのでシンジはその期待に応えることはなかった。
 名前を語ったとき、驚いたように光が瞬いたのは気になったが。

「それで、ここは…どこなんですか」
【…通常世界を0と見たとき、虚数方向に位相のずれた空間に作られた施設だ。絶対値に直すと、およそ43ずれている。なんの施設だったかと言えば…たしか、単独での研究、生産が出来るように設計された研究所だったか】

 と、言われてもシンジに何のことかわかるはずもない。とりあえず、話の腰を折らないように適当に頷き返していた。覚えていたら後でマユミかアスカに聞こう。

【そうだ。滅び行くアイアンメイデン連邦の、人類最後の英知を結集させた、文明と知識の殿堂だ。聖堂と言っても良い。全てはここに収束し、いつの日か志を受け継ぐ者が目覚めたときに継承されるはずだった】

 喋ってる間にも徐々に意識が鮮明になっていく。瞬きをしない目がより大きく見開かれていくようだ。重い体とは対照的に、頭の中の靄が晴れて軽くなっていく。久方ぶりの独り言ではない言葉に、新鮮な喜びを感じる。感動していると言ってもよい。
 芳醇なスパイスを舌に塗りつけたような刺激が全身を貫き、全てが鮮明に色つきで蘇り、昨日のことのように思い出せる。
 嫌なことも楽しかったこと、嬉しかったこと、全てが。







 雷電の星の周囲を回る紫紺の巨人。




 あの回収とそれに続く実験の直後、呼び水に導かれたように世界に破滅が解き放たれた。
 全ては無力だった。

 大陸を、いや地球全体で猛威を振るう12の悪魔達。
 その物理法則すらねじ曲げる力は、鋼鉄文明の全戦力を文字通り赤子のように捻りつぶしていった。

 星振の成就と共に黒き巨神が大地を海に、海を陸に変える。
 地の底より現れた単眼の巨神は暴風と雷を呼ぶ。
 変形する数多の魔物を従える全てが黒の男(マンインブラック)。
 翼持つ魔物達を率いる巨大な吸血鳥。
 三目の怪竜は太古消え去った都市…死霊都市を甦らせた。
 空飛ぶ鉄の城が人々をさらい、奇々怪々の怪人・怪生物を替わりに降らせていく。
 五十鈴のような形の空飛ぶ船に乗り、世界に死を振りまく触手。
 全てを石に変える暗黒の化身が、沈んだ大陸と共に海の底から現れた。
 元は世界随一の科学者でありながら、世界を救うためにと人類滅殺を誓った男。
 かつて人々が創り出し、その能力の高さから反乱を恐れて破壊したはずの計算機械。
 大地の奥底深くで脈動する闇の心臓。
 隕石が転じた三首黄金竜は地球を死の星に変えんと暴れ狂った。

 彼らが一斉に活動を始めてから僅か三ヶ月で、人類はその生存域と人口を70%以上失った。魔法と科学の両方を駆使し、地べたを這い蹲り、泥水をすするような絶望的な戦いを続けながらも、賢明ではないが愚かではない人類は悟っていた。
 一切の例外はない。
 種族、
 思想、
 性別、
 年齢…数多の違いなく全ては滅び去る。全ては灰燼に帰す。
 彼らの文明は失われる。

 自分たちは滅びる。

 それはただ自分や親しい人、愛する人が殺されることよりもショッキングなことだった。考えてみると良い。滅びが避けがたい絶対的事実として目の前に突きつけられたときのことを。
 人類は慟哭した。
 自分たちという存在がいた証が消滅することを嘆いた。
 そして、その運命を不承不承ながらも受け入れた。かつて、多くの国々、種族を押さえつけ、征服してきたから、自分たちもそうなる覚悟は出来ていた。ただ、そんな日が来るのは、もっとずっと先のことだと、そう思っていた。


『世の中なんてそんなもの』


 全ては女神から生まれ、女神に帰るのだ。生まれた道をたどって。
 だが、ただ滅びるつもりはなかった。全ては無理だとしても、ほんの僅かで良いから自分たちの生きてきた証を残しておきたかった。いつの日か、自分たちの血を引く者が目覚めることを信じて。あるいは、自分たちという存在がいたことに誰かが気づくことを信じて。



(そうだ。この施設…万能要塞U40は人類の最後の砦であると同時に、箱船だったのだ)

 様々な生物の遺伝子や、科学技術がデータキューブに取り込まれて保存された箱船。そこに数十組の家族が乗り、変異が収まるときまで異次元に逃れるはずだった。
 しかし、悪魔達の力はあまりにも強大で、そして執拗だった。ほんの数十名の人間達くらい、見逃しても良いだろうに。しかし、彼らは憑かれたように異次元まで逃げた彼らを追いかけてきた。彼らの1人は言っていた。

『全てはリリスより生まれてリリスに帰るのだ』

 アレに興味を持たなければ良かったのに。

 次元回廊の中、遂に追いつめられ、鉄王として覚醒した自分と親友は黒き巨神に挑んだが…。




『はぁっ!』

 漆黒の巨神の真っ直ぐに伸ばされた指先から放射された光線は、彼の胸に握り拳の数倍はありそうな大穴を開けた。血飛沫、金属の外殻の破片が飛び散った。苦痛なのか衝撃なのか、意識に捕らえられない刺激が全身を貫いた。

【うあああっ!?】

 崩れ落ちる自分を見ながら、巨神は瞬きしない目に悲しみを浮かべていた。圧倒的な力の差に怯むことなく戦った自分に敬意を表しながらも、本気を出す必要もなかった自分に失望した目をする。非情な破壊神だというのに、その目はどこか優しさに満ちていた。
 地響きを立てながら倒れ伏す自分に、ベルトも失い満身創痍の親友が駆け寄ってくるのが目に入った。顔を染める血、あさっての方向を向いた左腕。彼も致命傷を負っているのは一目でわかった。

「あ、アイアンキング…!」

 死に行く自分自身のことも気にかけず、ただ、役立たずの自分を案じている。だがもう、どんなに応援されても、気力を振り絞っても、立つことは出来なかった。既に時間は1分を切った。エネルギー源である水…水素が急速に失われ、等身大に縮んでいく。変身が解ける。

【…負け、なのか。ダメだ、ダメ…なのか。水、水が足りない…。このままでは、U40…が。ま……】
「アイアンキング、頼む、立ってくれ! おれも、戦うから…!
 立ってくれ、立て! アイアンキング! きりし…」

 友の魂を奮い立たせるような熱い叫びが空しく響く。応えることもできず、そのまま闇の底に意識が沈んでいった。
 消え行く意識は、凄まじい轟音をあげて吹き飛ぶU40の断末魔を悲しみと共に受け止めていた。
 自分は…大切なものも人類の明日も守ることは出来なかったのだ。









 まさか再び目を覚ますことが出来るなんて思ってもいなかった。
 そして、目を覚まさなければよかったと後悔した。

 目の前で醜い傷口をさらすU40は外装だけでなく、機能の大部分を破壊されていた。生命維持装置まで損傷したU40で、生きていられたのは、人間でない自分だけだった。
 全員死んでいた。
 父も、恩師も、友人も。
 そして…彼女も。

 目を覚ますまで彼の看護をしていた女性は…そう、女性は悲しそうな顔をしていた。ああ、彼女は一体何者なのか。全ては運命の神のいたずらだったように思える。あるいは喜劇か。
 今更ながら疑問に思う。異次元空間を生身で移動できる存在。色々な意味で好奇心を刺激される。だが、当時の自分はそう言ったことにまるで注意が行かなかった。
 ただ、ただ圧倒されていた。

「まにあわ……なかった」

 まるで、全ての責任が自分にあると、そう感じているような顔をしていた。光の矢を放っていたときの、魂を呼び覚ますような顔とは違うが、それもまた美しい。かつてとある聖人は、人類全ての罪を一身に受け止めて死んだと言われているが…。彼女こそ、新たなる聖者なのかも知れない。

(ただし、何もかも全てが遅かったがな)

 その時の自分は責める対象が欲しかっただけだ。だから、彼女のそんな態度は好都合だった。
 助けに来るなら、なぜもっと早く来なかった。
 みんなお前の所為で死んでしまった。

 今思い返せば、鋼鉄であっても自己嫌悪で萎び、よじれていきそうな罵詈雑言を浴びせかけたものだ。自分にあそこまで語彙が豊富だったと、他人を呪うことが出来たとは思いもよらなかった。
 しかし、一言と言わずいくらでも言い返して良いはずなのに、その女性は何も言い返さなかった。文字通り、全ての責を負うように小さく項垂れただけだった。経帷子のような服を着た彼女の体が小さく揺れた。

「ごめんなさい。全て…私のせい」
【そう思うのなら、返してくれ! 助けてくれ! みんなを、いや、せめてこの子だけでも!】

 胸に抱く少女の体は冷たく、軽い。半分以上が吹き飛び無くなっていたから。温もりは…既に失われていた。

「………これを」

 差し出された手に握られているのは、小さな陶器の欠片のような物体だった。例えるなら、さざ波一つない湖に映る切り抜かれた月の光だ。見つめる瞳がジリジリと痛い。

【これは、確か…あの、悪魔の】

 言語を絶する戦いの末、彼女が破壊神の心臓ごとえぐりとったもの、その一部だった。心臓よりも、それを奪われたことが堪えたのか、破壊神は復讐の呪詛を吐き散らしながら逃げ去っていった。その言葉は単純明快。いつかかならず復讐をしてやる、それまで健やかなれ! と矛盾した言葉だった。

【それは、一体?】

「これは欠片。生命の実よ。アダムそのもの。一言で言えばS2機関の源よ」

【……S2…機関? いや、まさか】

「これがあれば。これと、科学の力を結集させることができれば、あるいは彼女は」

【生き返るのか!? まさか、死んだ人間が生き返るなど、それも、ここまで全身を破壊されて!】

 欠損部分を機械に置き換えたサイボーグにしても無理に決まっている。脳だけでなく、全身の半分以上が塵になってしまってるのだから。
 我ながら滑稽な言葉、考えだったと思う。生き返らせろと言ったのは自分なのに。だが、現実と常識が彼女の言葉を信じさせるのを否定した。あまり頭が良い方ではなかったが、それでもそれなりの科学レベルの持ち主なのだ。
 しかし、彼女は頑なだった。緑の瞳は真っ直ぐに彼を見据えた。物憂げに髪を撫でつけ、また言葉を繰り返す。

「私を信じて。いいえ、あなた自身を、自分の考えを…違うわ、思いを信じて。
 あなたが信じなければ…たとえアダムの力があったとしてもどうにもならない」

 魂を揺さぶるような言葉だった。経験に裏打ちされたとでも言うべきか。深い後悔と鋼のような決意に作り物の自分の体が震えた。彼女は、信じられる。そう思った。
 彼女になら騙されても良い。

【でき…るのか。彼女を、生き返らせることが】

「あなたが信じれば。でも、本当の意味で彼女が生き返るわけではないわ。私の言っている意味は、あなたにならわかるでしょう」

【…わかる。確かにこのアダムがあなたの言うとおりのものなら。だが、それでも彼女が目を覚ます可能性はほんの僅かしかないし、その時は、一体何年後のことになるのか。それにもう細胞は死んでしまっている。目を覚ましても、過去の記憶は留めていない。見た目は同じかも知れないが、だが中身は…彼女とは言えない。
 いや、それより、大事なことは………もう人間とは言えなくなる】

「それでも、彼女に生きていて欲しいのなら。
 この星が宇宙を巡り、太陽と月がある内に彼女が、再びこの地に生を受けるその時が待てないと言うのなら。そうするしかないわ」

 彼女の目は深い悲しみに満ちていた。深淵からのぞき込むような瞳は、自分の醜さをさらけ出してしまう。とてつもなく辛かった。彼女は、自分のわがままと傲慢さを見抜いている。

「あるいは受け入れなさい。死は終わりではないわ。始まりなの。いつの日か、彼女も」

【転生のことを言っているのか? 私は…彼女に、今を生きていて欲しい】

 生まれ変わりはあるというなら、彼女の死は一時的なことにすぎない。彼女の魂は既に死の世界に旅立ち、次の復活の時を待っているのだろうか。自分は、安穏とした死の世界に旅立った娘を、無理矢理辛い世界に呼び戻そうとしているのではないか。

【私が彼女に生きていて欲しいと思うことはエゴなのだろうか】

 彼女は否定も肯定もせず、アダムの欠片を自分の手に握らせた。欠片の熱いのか冷たいのかよくわからない感覚と、柔らかい手の感触が荒んだ心を和ませた。そして覚悟を決めさせた。

(…死ねないと言う罰は甘んじて受けよう。彼女を死の世界から無理矢理引き戻す、自然の摂理を無視するという大罪を犯すのだ)

 彼女は自分を見ていた。

「いずれ、その時が来るわ。全てが許され、彼女が目を覚ます日が。いえ、あるいは始まりの日なのかも知れない。全てに決着を付けるための。
 その時こそ、良かれ悪しかれ全て終わるわ」

【この子も…なのか?】

「生命の実で新たな命を手に入れたものの宿命よ」


 現実はそんなに甘くない。報いは受けなければならない。
 ならば自分はその時のために、せめて準備をしていよう。



















Monster! Monster!

第32話『ハウ・メニ・ロボット』

かいた人:しあえが

















 コンコン、とガラスの表面を叩きながらシンジは呟いた。皮のグローブ越しに感じる感触は奇妙な弾力を伝える。ガラス…ギヤマンかと思ったがどうも感じが違う。
 形容しがたい温もりを感じる。噂に聞く『ぷらすちっく』という奴かもしれない。しかし、取っ手も指を引っかける部分も見えないが、開けるにはどうすればいいのだろうか。叩き割るわけにもいかないし。

「どうやったら開くんだろ?」
【って何をやってるんだ君は!?】

 思わず声が大きくなったが、気がついたらシンジは鉄王に背中を向けていた。視線はこれでもかと少女に固定。いや、確かにちょっと長めの回想シーンに行っていたけど。
 度胸が良いのか、それとも後先考えていないのか判断に困る。
 まあ、控えめで内気な彼女には彼のような性格が合うのかも知れない。根拠はないが。

「す、すみません。急に黙り込んじゃったから、その…忘れられたのかな、って」
【いや、謝らなくても良い。考え込んでいた私が悪いのだから。それに…彼女が気に掛かるのだろう】

 言葉に出さず、小さくシンジは頷いた。
 本音を語れば、正体不明の鉄王よりもエメラルドの光に包まれた眠り姫の方が万倍気になる。名前、年齢、3サイズと好みのタイプって待て。待て待てちょっと待て。
 ともあれ、シンジは疑問の答えが解き明かされようとしていることに、興奮を隠しきれなかった。

 …鉄王とこの遺跡の関係はなんなのか。
 全てが謎に満ち満ちている。
 特に人間そのものにしか見えない彼女は、大渦のようにうねる謎の中心だ。

【そうだな。君は私がいつの時代に生きていたか…それはわかっているか】
「一応、あなたが1万2千年前に滅んだ鋼鉄文明の時代の人じゃないかな、っておもってたんですけど、えっと、違うんですか?」
【鋼鉄文明か。言い得て妙だ。ああ、確かに私は君の言う鋼鉄文明の生き残りだよ。いや、死に損ないと言うべきだ。そうだ、私は死ぬことも出来ずにただこの虚無の廃墟で待ち続けていた。時が満ち、過去と現在、未来の全てを受け継ぎし者が来るのを】

 感極まったのか、緑の光が瞬いた。言葉尻が震え、泣くようにかすれていく。同じくシンジは空気が揺らぐのを感じた。恐らく、両手を天に突き上げるか何かしたところなのだろう。と言うことは、鉄王は実体のない光というわけでなく、闇の中に実体を隠していると言うことになる。

【そして潮が満ちるように時は満ちた】

 闇の中から銀色にきらめく鋼の腕が伸ばされた。まっすぐに伸ばされた指先は、まごうことなくシンジの顔を指し示している。

「えっ」
【少年、碇シンジ。君を鋼の継承者と認める。彼女の言葉を成就するために…。古の盟約に基づいて封印を解き、鋼鉄の眠り姫を…目覚めさせてくれ】
「…話が見えないんですけど」
【ノリが悪いな、君は】
「ごめんなさい、よくそう言われます」

 勝手に納得している鉄王も強引だ。と、シンジは本気で謝りつつも鉄王に渋っていた。でも口にはしない。周囲に自己中心的な人間が多いから、そう言った人間に行動パターンはよく把握していたから。例えばアスカとかアスカとかアスカとか。ユイとかユイとかユイとか。ユイとかユイとかユイとか。
 とりあえず、言いたいことは全部言わせてしまう。無口とか聞き上手と言われることもあるが、それならそれで良い。それが彼の処世術だ。

【順に説明しようか。君はこの部屋にまで来ることが出来た。ずっと封印されていたこの部屋にまで。そうだね】
「…はい」
【それはつまり、君には封印を解く資格があると言うことだ。いや、資格があるからこそここまで来ることが出来たんだ。次元の扉であるモノリスは、一定以上のアダムの力にのみ反応するようになっていたからだ】

 ピクリとシンジの目が動いた。耳に飛び込む初めて聞く…だがどこか嫌悪を催す言葉に無性に心がざわつく。

「アダム…?」

(ほう。雰囲気が…研ぎ澄まされた。まるで鍛え抜かれた刃だ)

 急に雰囲気の変わったシンジに、内心の評価を良い方向に書き換えながらも鉄王は言葉を続けた。

【そう。知ってるかい?】
「いえ。初めて聞きます。でも、初めて聞くはずなのに、どこかで聞いたことが…あるような。ずっとずっと昔に」


 それはどれくらい昔のことなのだろう?


 年上の男性の顔だ。炎を背景に背中を向けて、何かを言っていた。知らないはずなのに、頼りに出来る人だと知っている。
 だらしない雰囲気で心を押し隠していた。軽薄な態度から見え隠れする、不可思議な感情。破滅を望まないのに、敢えて破滅へと足を進めていく矛盾した男。
 そしてもう1人。
 一瞬、脳裏に女性の厳しい顔が浮かんだ。20代後半の黒髪の女性だ。
 ユイではない。弱さを偽りの感情で塗り固めた雰囲気はどこか似ているような気もするが、どこか違う。少なくとも、ユイのような強かさは感じられない。


 ドクン…心臓が大きく動いた。パズルのピースが滑るように心の間隙に埋まる。

「…………か…あ、あれ」
【どうした?】
「いえ、こっちの話です。その、気に…しないで下さい」

 小首を傾げているらしい鉄王に内心冷や汗をかきながら、シンジはなぜあの、自分に地獄をかいま見せたミノタウロスのお姉さんの顔を思い出したのだろう? と、不思議に思っていた。それからあったこともないはずの男性の顔も。
 だが、何度考えても答えはわからない。いつか、わかる日が来るのだろうか。


『お姉さんが色々干涸らびるまで教えてあげるわよん♪』

 思い出さない方が良いかも知れない。








【とにかくだ。君はアダムの力を持っている。彼女の欠けていた箇所を補い、その眠りを覚ます事が出来るんだ】

 自分がそんな特別な存在だったなんて思いたくもないが。
 普通で良いんだ。
 間違っても特別な存在だからと、いきなり呼びつけられて世界を救うために戦えとか言われたくない。ましてや、自分が特別と言うか親が特別だからと厄介事に飛び込むことをそれとなく強制なんてされたくない。

 ともあれ、促されてシンジは眠れる美女に目を向ける。眠れる森ならぬ、眠れる遺跡の美女だ。
 眠っている彼女は改めて見ても、粗を見つけることが出来ないほど美しい。どこか作り物めいた雰囲気を感じさせる。レイはよくアスカに人形みたいと揶揄されるが、それは感情の希薄さから来る言葉だ。しかし、目の前の彼女はそれとは違う意味で人形のような雰囲気を持っていた。
 端的に言えば空気か置物のように希薄な印象を持った。

 しかし…。

 魅力的だ。
 受動的とは言えシンジも男だ。それなりに支配欲のある男として、彼女を目覚めさせる唯一の存在だと言われて嬉しくないわけがない。正直、胸がドキドキと高鳴るほど興奮している。彼女の唯一と断言! 男なら涙を流して喜ぶべき状況だね!
 役得でも構わない。こう言ったとき、姫を目覚めさせる方法は古今東西不変なあの方法に決まっているからだ。
 鼻息がムフーと我知らず荒くなる。
 歯を磨いたか? 宿題は大丈夫か? 大丈夫、今朝方しっかりと。
 4人の美女相手に鍛えた舌技の冴えを見せてくれるわ!

【だから君に私は問いたい。君は、彼女を…守ってやってくれるだろうか。
 目覚めた彼女はここから旅立たないといけない。ここは死者の住む場所だからだ。目覚めた彼女に相応しいところではない。つまり、私とは離ればなれになると言うことだ。もう、私が守ってやるわけには……いかない】
「いきなり舌を入れたら大胆すぎるかな、でもせっかくの機会なんだし」
【君?】
「イエソノナンデモナイデスヨ。えっと……守るって…なにかに、いえ、誰かに狙われてるんですか?」

 小さく嘆息し、鉄王は嘆くように光を瞬かせた。

【ある意味、そうだとも言えるしそうで無いとも言える。まだ実際に何かに狙われたことはないが、外の世界に出れば確実に狙われるだろう。君の言う、鋼鉄文明の全てを継承する者、と言うことを差し引いたとしても】

 それは責任重大だ。彼女の正体が知られれば、盗賊や常軌を逸した魔導師などの有象無象が彼女をつけ狙うと言うことになる。急にその肩にずっしりとした重みを感じてシンジは言葉を失った。
 果たして、自分に彼女を守れるだろうか…って、守る?

【それでなくともか弱い女の子だ。知り合いの1人もいない世界に放り出されてどんなに戸惑うことか。かつて、生きていたときの彼女はとても内気で、大人しい子だった。さながら雨で霞む庭に咲く紫陽花。目の覚めるように赤い山奥の紅葉。
 ちょっとしたことでポロリと花が落ちてしまう。それくらい弱々しい…いや、儚い子なんだ】
「? ? ?」

 なにか、話が盛大に噛み合っていない気がする。

【頼む、彼女を…守ってやってくれ。私に出来なかったことを、君に、果たして欲しい】

 ちょっと待て。言いかけた言葉をかろうじてシンジは飲み込んだ。
 鉄王の目は本気だ。やばいよこの人。シンジは思った。
 鉄王の中では、シンジが彼女を守ると言うことで話が落着しているらしい。つまり、彼女の身柄を引き受けろと。命に代えても彼女を守れと。
 さしものシンジも一瞬躊躇した。
 冷たいとか薄情とかそう言った感情論以前に、あまりに飛躍した言葉に反応することを忘れてしまった。それは確かに、知り合いが1人もいない世界に一人っきりという彼女の境遇には同情するが、だからといって、シンジは『はいそうですか』と彼女の身元を引き受けることは出来ない。

 曰く、
 なんで煮えたぎった油の中に飛び込むような真似をしなければならないんだ?

(お、おかしいよ! 確かに彼女は美人で、アスカ達とは違ったタイプで、そんな子が僕の側にいてくれるなんて凄く嬉しいけど。この人飛躍しすぎだよ! おかしいよ、母さん!)


 三色の髪の持ち主の反応が瞼の裏に浮かんで消える。

 もし、彼女のと親しげにしているところ見られたらどうなるだろう?
 あろうことか、面倒を見るようになったと伝えたとしたら。


 アスカはその象徴する物、炎のようにわかりやすい反応をしてくれるだろう。特に昨晩の出来事が出来事だけに、その怒りは想像を絶する。ああ見えて凄く情が深いのだ。骨の二三本を覚悟し…たくはない。

 レイはもっと可愛らしく…無言で刺してくる。いや、シンジをじゃない。相手をだ。マユミやアスカ相手ならともかく、そうでない普通の人間だったとしたら…ぞっとする。明日の瓦版一面間違いなし。

 マユミはある意味最も対処しがたく耐え難い。
 泣くから。
 そして、シンジさんの選んだことなら、と男にとって凄く都合の良いことを言うだろう。かえって痛い。まだ喧嘩された方が、罵倒された方が精神的に楽だ。

 そもそも基本的に根性なしのシンジは、どんなに嬉し恥ずかしイヤンイヤンな事が待っていようと、アスカ達の意向に逆らうことは出来ない。結局尻に敷かれてる、と言うこともあるが誰にも悲しい思いをさせたくない、と優柔不断な感情がどうしても先に立つ。
 別にシンジでなくとも、真剣に誰かを愛しているならその相手を悲しませたくないと思うはずだ。愛情表現の形はともあれ、自分に好意を抱く相手を傷つけたくない。マユミも、レイも、アスカも。
 ただ、シンジはその対象が不特定多数で、ふらふらしすぎると言う致命的な部分があるわけだが。
 浮気というわけではない、全員本気なだけだ。余計タチ悪いわい。


【名前をつけてやってほしい】

 そんなシンジの心に気づかず、――― 普通気づかない ――― 鉄王は言葉を続けた。
 考え込んでいたシンジは反応が僅かに遅れ、それから少し眉根を寄せた。鉄王の言っている言葉の意味が、少し読みとれなかったのだ。もし、シンジが魔法使いだったとしたら、漠然とではあるが真意をつかみ取ることが出来ただろうが。

「名前…?」

 そう言えば、鉄王は先ほどからただの一度も彼女の名前を口にしていなかった。【彼女】とか【この子】としか呼んでいない。まだ考えあぐね躊躇しているシンジを促すように、星のような煌めきが強さを増した。


 ブン……ブゥーン。

 何百何千もの蜂の羽音のような鈍く響く音が室内に木霊した。壁に埋め込まれていたガラスの棺桶がせり出し、なんの支えもなしに空中を滑るように泳ぐ。魔法…のようにも思えるが、だがどこか違う雰囲気にシンジは言葉を出すこともできない。ただ、ゆっくりと水平になるガラスの光と間近に迫る少女の寝顔に息をすることがやっとだった。

「な…なんで、勝手に」
【勝手にではない。私が操作したんだ】
「操作? え、それは…」
【アダムの力を持つ者が来た。全てはこの時のために。
 既にこの施設内部は共振するエネルギーで満ちあふれている。動力が無くて死んでいたほとんどの装置が蘇りつつある。1万2千周期の時を越えて。
 それにしても、これほどとは。接続しなくとも、空間の余波だけで…まさか動き出すとは】

 シンジには意味の分からない『空間電位が…』とか『イオンが満ちて』とか呟く鉄王の声は感動に震えている。

 宇宙の果てを見通すように光が瞬いた。それは鉄王が人で言う遠い目をしたのかも知れない。
 しかし、シンジはそれよりも違ったことに度肝を抜かれて、動き出した遺跡にも目の前の少女も忘れてしまっていた。少女の背後から溢れる緑の光、突然室内の至る所で灯った硬質の光が室内の闇をうっすらとだが払う。
 闇の中に隠れていた白銀の巨人が、その姿をシンジの目の前にさらしていた。



 かいま見えた腕から、人間ではないと思ってはいたが…。

 プロポーションは人間そっくりだが一回り大きい。身長2.5メートルはあるだろう。
 胴体は赤の下地に、月光を溶かした川のように銀色の線があり、まるで全身にぴったりと張り付くなめし革の服を着ているようにも見えた。
 明らかに人間とは違う少々バランスの悪い大きな頭は金属の仮面に覆われていた。いや、顔だけでなく頭部全体が一本角の生えた兜(ホーンドヘルム)に包まれている。その表情は目の光までも伺い知れない。

 シンジの喉から、絞り出すように一つの言葉が漏れた。

「…ゴーレム」

 木、粘土、岩、金属、死体など様々な素材から作られた動く人形。その能力は素材と制作者に準ずると言われるが、概ね魔法か魔法の武器でしか傷つけることの出来ない不死身の存在。
 初めてマユミと会ったときに見た、スフィンクス型のゴーレムとも、蛸型のゴーレムとは似ても似つかないが…それでもシンジの目にはそうとしか見えなかった。ちなみに、第三新東京市の元守護神『ジェットアローン』の存在をシンジは知らない。蛇腹状の手足をブン回すJAを知っていたら、彼ぐらいの異形は屁でもなかっただろうに。
 ともあれ、鉄王としてはゴーレムと呼ばれたことは甚だ不本意だったようだ。表情に変化はないが、微妙に醸し出す雰囲気が出涸らした茶のように渋くなる。

【ああゆう自意識のない機械人形と一緒にしないで欲しいよ。こう見えても、元は人間だったんだから】

 尤も…と付け加える。

【もう、人間と呼べないだろうけれどね。この子と同じく、肉と骨と血を捨て去った今では…】
「は、はぁ。そう、なんですか」
【おっと、話が脇にそれすぎた。さあ、彼女に名前を付けてやってくれ】

 鉄王の促しと同時に、眠り姫の寝台の一部が変形した。甲虫の羽根のように外側に開き、中から鎌首をもたげた蛇のように奇妙な形状の棒竿(ワンド)が飛び出してきた。金属と綿で作った土筆のオブジェのようにも見えるが、シンジはそれが何をする物なのかはわからない。
 自然、身構えながら鉄王に疑問の目を向ける。

「なんですか、これ?」
【…マイクもわからないのか。君たちの文明レベルがどの辺りなのかきちんと聞いてみたいよ。それはともかく、それは一種の音声伝達機械だよ。その先端部分に向かって話しかけることで、別の遠く離れた場所などに音を伝えることが出来るんだ】
「へぇ〜(マユミさんが興味持ちそうだな)」

 しげしげとマイクを眺めるシンジ。好奇心が旺盛なのは良いことだ。特に男の子はそうでなくてはならない。と過去の自分と重ねつつも、鉄王は行動の遅いシンジに少々焦れていた。勢い語気が荒くなり、叫ぶようにシンジを促した。

【さぁ、早く名前を。真名(まな)を!】

 それがどんな結果をもたらすか知っていたら、彼はどうしただろう。シンジが相手の言葉をオウム返しに聞き返す癖があると知っていたら! そんな癖なかったかもしれないが今決めた。

「まな?」

 反射的にシンジは呟いた。
 カチリ…と金属の牙が噛み合うように渇いた音がして、緑の光が橙色に切り替わった。

『管理者からの真名の入力確認。
 起動プロセスを実行します。
 登録シーケンスに移行…移行完了。
 オペレーション再起動処理終了。
 コード再設定完了。
 以後、本機は「人造人間M1号」から真名「マナ」と呼称されます』



 鉄王の永遠に変わらない顔が呆気にとられた様に見えた。
 なにか拙いことをやってしまったのか、とシンジの顔が永遠の虜囚のような不安に彩られた。
 君は凄く拙いことをやったんだよ、と言い放つように部屋の照明が狂ったように乱舞した。

 そして世界は震えた。


【何をやってるんだ君わっ!? 頼りなさそうと思ってはいたがこれほどとは!】
「す、すみません! でも、だって、まさかあれくらいで、こんな事になるなんて…わかるわけないじゃないですか!」

 じつはあまりに感度の良いマイクに鉄王自身内心驚いていたが、勿論そんなことは口にしない。ただ粗忽なシンジに呆れ、逆切れするところに気概を見いだし、一方で彼女を…『マナ』を任せて良いんだろうかと凄く不安になっていた。

 今更遅いとも言う。鉄王とシンジ、色んな意味で2人ともマーベラスだ!

(早まった…んだろうか)

 それは力一杯断言できる。

 しかし、当初の興奮も徐々に薄れた数分後には、彼は少しばかり考えを改めていた。
 確かに、きちんと考えて良い名前を付けて欲しかったという思いもあるが…きちんと説明せずに急かしたのは自分だ。ある意味自分の責任と言うこともできる。

 一拍、一拍、鼓動が一つ打つたびに霞んだように染まっていた視界が鮮明になっていく。
 誰かに…心の底から信頼できる友人に肩を叩かれたように、気持ちが静まっていった。

 考えてみれば、マナというのは名前としてそう悪い物ではない。いや…なにか忘れ去った記憶を刺激する名前な気がする。そう、とてもしっくりとはまっている。そんな気分だ。それ以外の名前は、自分が戯れに考えていた名前はどれもこれも惜しいところで外していた。
 もしかしたら、自分はかつてマナという名前の人物を知っていたのかも知れない。
 いや、彼女の本当の名前は…人間だったときの名前はなんだったんだろう。

「や、やり直しとか、できないんですか? その、名前が悪かったんだったら、僕」

 ふと気がつくと、シンジは見ていて可哀想なほど取り乱していた。
 男が取り乱して良いのは親が死んだときと財布をなくしたときだけだというのに。
 右手を振り、ゆっくりと首を振る。シンジはその動作を否定と受け取ったようで、強ばっていた顔がよりいっそう強ばった。違う違うと改めて大きく手を振り、落ち着かせるように首を傾げた。

【いや、心配ない。そんなに緊張しなくて良い。
 マナか…懐かしい名前だ。
 こうなっては仕方ないが、幸い名前としておかしい物ではない。いや、改めて考えてみても良い名前だ。だが君が気に入っていないのなら…】

 ぶるぶると大げさにシンジは首を振る。
 ここで鉄王の言葉を否定するほどシンジの肝は見事なまでに据わっていない。それはもう完膚無きほどに。
 もっとも、シンジ自身偶然から付けてしまった名前ではあるけれど、悪い名前ではないと思っていたが。

「くろがねおうさんがそう言うなら、良い名前…じゃないかな、って思います」

 眉をひそめるように鉄王は首を傾げた。実際にそう思っているようだが、自分に自信がないと言外に滲ませるシンジに、少しばかり不安を覚えたのだ。ここまで来ることが出来た位なのだから、それ相応に腕は立つはずなのに。
 果たせるかな。シンジのように気弱な男に彼女を、マナを引っ張っていくことが。

(まあ…なるようになるか。私の…もとい、俺の仕事はここまでだ)

 徐々に記憶も蘇っていく。口調も丁寧な物からかつて生身だった頃のぶっきらぼうで少々乱暴な口調に戻っていく。とは言っても、どこか生真面目なアルペニストのような部分は残っているが。

 視線を自分とマナとに交互に変えるシンジを見ながら、鉄王はあっさりと言った。

【じゃああとは任せた。彼女を頼む】
「え、ええっと、任されても、そのちょっと」

 言い淀むシンジに鉄王の気配が変わった。シンジが不必要に戸惑い、おどおどしていた理由がわかったのか。剣呑な刃のような空気が室内を満たす。さながら今の彼は篝火だ。近づく者は容赦なくあぶられる。

【なにか問題があるのか? まさか、彼女が…マナが気に入らないとでも言うんじゃないだろうな!?】

 例えそうであってもこんな剣幕ではうんと言えまい。

「ち、違います。き、気に入って…ます! 違うんです!」
【じゃあ、どういう理由だ!】

 それこそ返答次第では首の骨をへし折りそうな剣幕だ。命の危機を感じ、ゴクリと音を立ててシンジは唾を飲み込んだ。

「えっと、その、ぼ、僕…もう、彼女が…つき合ってる人が、いるんです」

 結婚(結魂)してると言わないところが微妙に根性なしである。しかし、シンジの言いたいことは鉄王には伝わったようだ。

【なるほど、それは困った。しかし、君はもう真名をつけちゃったしなぁ】
「え、真名を付けたって言われても、それは…まさか」

 言い淀むシンジに鉄王はうんうんと大きく頷いた。
 勘のいいシンジに説明の手間が省けたと言いたげだ。

【うむ、だいたい君の想像通りだ】
「はい?」
【と言うわけで、悪いがその彼女とは別れる方向で頼む】

 いえ無理です。
 だろうな。

 凍り付いたように固まるシンジに、さすがに言い過ぎたかと鉄王は困った顔をする。振り返ってみれば詳細を何も語らず、ただ名前を付けることを頼んだ訳だから詐欺とも言える。と言うか詐欺以外の何物でもない。
 だがだからといって問題は何も解決はしない。する訳がない。
 そして更に物事をややこしくすることが起こり始めていた。

「はぅ……あぅぅ〜〜〜」

 2人の背後でもぞもぞと上体を起こす小柄な影。
 誰かって…改めて確認するまでもない。
 ゆっくりゆっくりとシンジと鉄王は首を回し、鉄の寝台の上で大きく伸びをする少女を見つめた。

「う、ううぅぅ〜〜〜〜ん! よく寝たぁ」

 無駄な贅肉が微塵もないスレンダーな体を、見ていて心配になりそうなほどに反らせ、少女は更に一回大きく息を吸い込む。薄い胸がそれと共に大きく上下した。見てはいけない物を見てしまったように感じて、シンジと鉄王は思わず目を逸らした。
 意外に初だ。

「ふに?」

 栗色の頭を掻きながら少女は目を向けた。なぜかビクリと体をすくませる2人。
 猫みたいに目を擦りながら興味深げに少女はシンジと鉄王、交互に視線を変える。そして胸の前で腕を組むと、何かを咀嚼するように考え込む。

 ごくりと唾を飲み込むシンジと鉄王。もし、何かが間違って彼女が、マナが彼らにとって敵対する存在になっていたとしたら…。今はまだその力のほとんどを使いこなすことは出来ないだろうが、いずれ極めて恐るべき存在となるだろう。

(その時は命に代えても私が彼女を破壊しなくては。そして彼は無事に元の世界に)

 復活に自信はある。しかし、不安もある。
 果たして彼女は…。
 慈愛の心に満ちた聖天使となるか、悪魔の化身となるか。









「えーと、そっちのおっきい人が私の『パパ』で…」

【ぱ、パパ!?】

 そんな風に呼ばれるとは全くもって予想外だ!
 でもそれはそれで良し!
 なにかを疑うようなシンジの視線に、こいつどうしてやろうかと血塗れたことを考えつつ、鉄王は流れるはずのない冷や汗を流す。
 あと人を指さすのはやめなさい、まいどーたー。

 続いてマナは、くりくりっといたずらっぽく瞬きをし、シンジににっこりと微笑んだ。

「そしてこの人が私のご主人様なんだ」
「ご、ご主人様!?」

 そんな風に呼ばれるのはシンジにとって全くもって予想外だ! 鋼鉄文明ってすげぇ(変)!
 でもちょっと嬉しいかも。

「ん〜反応が鈍いな〜。もしかして、こう呼ばれるのは嫌だった?」
「い、いや…。そうじゃないけど」
「じゃあ嬉しいんだ」

 ちょっと頭を傾けてそう言うところが可愛いらしい。しかも意識してそうしているわけでないようだ。天然…という単語がシンジの脳裏をよぎった。

「で、でもぼく、ご主人様なんて呼ばれるのは…さすがに、ちょっと」
「ちょっと?」
「その、恥ずかしい…かな」

 意外そうにマナは目を見張り、それから確かめるように鉄王の顔を見た。結露のような水滴…汗が張り付いた鉄王の顔が新鮮だ。

 お前の趣味か。

 責めるような蔑むようなシンジの視線に居たたまれなくなったのか鉄王はプイスと顔を背ける。大丈夫、シンジも人のこと言えないから。

 彼も彼でかなり予想外の事態に戸惑っているようだが、シンジには勿論そんな相手の事情を考慮する必要もなければ義理もない。

「ふーん」

 垂れた目を半開きして鉄王を見ていたマナは、そういうことか…と1人納得したように頷いた。猫っぽい口がいたずらっぽく歪む。あとで覚えていなさいよ。
 多少偏った知識の入力があるようだが、基本的なパーソナリティは手を加えられない。だから今はよしとしていよう。
 まあ、『ぱぱ』の事はとりあえず脇に置いておいて。

「それじゃあ、マスター」
「それもやめて」
「アレはダメ、これもダメってわがままな旦那様ね。じゃあ…なんて呼べばいいのかしら?」
「僕はシンジ。碇シンジ。碇が名字でシンジが名前。
 友達とかはシンジとか、シンジさんとか碇君とか馬鹿シンジとか呼ぶよ」
「…シンジ様」
「それは絶対にやめて」

 内心ゾクリとしてしまった。ことによったらアスカに馬鹿シンジと蔑まれたときよりも。もしかしたら、自分はそう言った願望があるのかも知れない。そんな彼の葛藤を感じたのか、嬉しそうに小さく体を震わせるとマナはにっこりと微笑んだ。

「じゃあ、じゃあ。シンジ…って呼んで良い?」
「良いよ」
「かわいいっ!」

 満面の笑みを浮かべながらマナはシンジに飛びついた。
 胸というか、体全体で体当たりするようにシンジに抱きつき、頭を掻き抱いて猫のスキンシップのように頬を擦り付けた。

「う、うわっ!?」
「えへへ、シンジの匂いがする〜」

 頭に感じる頬の柔らかさと眼前に押しつけられたそれなりの胸の感触に、逃れることも出来ずに成すがままのシンジ。鼻腔の奥に感じる清涼な香りに心が和む。ひとしきり子猫のじゃれあいのような事を繰り返した後、唐突にマナはシンジから距離を取った。
 戸惑うシンジから1メートルほど距離を取り、まるで定規で測ったように真っ直ぐ背筋を伸ばしてマナはシンジを見つめた。シンジを改めて観察しているようだが、それは同時にシンジにもマナを観察できると言うことでもある。
 まじまじと…薄布一枚に包まれただけの彼女の体を見つめる。
 年齢はシンジとほぼ同じ。16〜7歳。尤も、鉄王の言葉が正しければ彼女にとって年齢という物はほとんど意味を持たないだろう。
 背はそう高くない。とは言っても、シンジとほぼ同じくらいの身長だったので女性としては普通だろう。そして少々やせぎすと言えた。

 発展途上のレイとも、豊満なアスカやマユミとは違うタイプの肉体。どこか少年のようにも感じられる。まるで鏡に映したように正確に左右対称の髪がいたずらっぽく揺れた。
 唐突にマナは右手を差し上げ、指を揃え伸ばした右腕を額の前で掲げる。

「うふふ。どこ見てるのかな〜」
「……」
「私こと…」

 そこで止まって首を傾げる。物を問うようにシンジを、次いで鉄王を見る。鉄王も戸惑ったのか首を傾げた。その仕草だけ見るなら、なるほど親子だ…とシンジは勝手に納得した。

「ねぇパパ」
【なんだ?】
「私の名前はマナ…ってのは書きたてホヤホヤのメモリー見ればわかるけど。名字はなに? アイアンメイデン連邦では普通、個人名称識別は名前と名字があったはずだけど。勝手に付けて良いの?」
【ああ、そうか。俺の名前は霧島ゴロウだから…霧島かな】

 いつの間にか本当の名前を思い出したことにも気づかず鉄王、もとい霧島ゴロウはマナに自分の名字を伝えた。
 虫の触角が触れるように、マナの髪の毛がぴょこんと振れた。

「おっけい。それじゃあ、改めて仕切り直しよ。
 えっと、私こと霧島マナは、碇シンジ君に見せるために、3分12秒前に起きてこの服を着てきました! どう、似合うかしら!?」

 マナの頭の先からつま先まで、シンジはゆっくりと視線を動かす。
 産毛の生えた素肌の上に、胴体部のみを隠した銀色のぴったりした布地が張り付いている…ようにしか見えない。レオタードという単語はシンジの脳裏には存在しない。だからシンジは水着じみた、あるいは下着のような格好でしかない。
 切れ上がった股のラインや脇など、ただ普通の裸でいるよりどこか嬉しい。でも、少なくとも服ではない、とシンジは思った。
 それとも、鋼鉄文明ではこれがいわゆる普段着なのだろうか。

 こんな皮膚に張り付くようなタイツ姿が?

「…似合う…んじゃないかな。たぶん」
「微妙な言い方ね」
「ごめん」

 どうにも歯切れの悪い返答はマナのお気に召さなかった。もっとはっきり、あるいは恥ずかしそうに頬を染めて似合ってると言ってもらいたいのに。マナはあからさまに眉根を寄せ、しげしげとシンジの服装を見た。

(なんだかワイルドね)

 なるほど、確かにシンジと自分は少々服飾に関しての感覚が違うのかも知れない。黒い布の上着とズボン、その上から魔法の鎧を着たシンジと自分は明らかに違う。2人並ぶとなにか冗談じみた仮装パーティのようだ。いや、鉄王がいるから見る者が見たらデパート屋上の怪獣ショーだ。
 ただし、本物の血の匂いがする服装だったが。

 マナからすればかなり時代遅れだが、それがシンジ達にとっての普通だと言うことだろう。

「文明レベルは5…ってところかしら」
【私もそう見た。ただ、部分的に6,ないし7になってるところもあるようだ】
「なんだかごたまぜって感じね。地上はどんな世界になってるの」
「どんなって…。一部の持てる者が持ってない者から搾取して、魔物が世界の大部分をうろついて、人間は自分達が支配できる一部地域にしがみついてしみったれた生活を送ってるよ」

 なにもそこまで卑下しなくても良いだろうに。
 自分どころか自分の属する世界そのものに自信がないのか。あまり胸を張って威張れないって所はその通りかも知れないが。

 一言で言えば、暴力と死が渦巻く剣と魔法の世界。
 気弱で受けっぽい顔をしていても、シンジはそんな世界の住人というわけだ。

「なるほど。それならこっちも準備したのに」
「え?」
「ちょっと待ってて。それ用に衣装を換えるから」

 ぴょんと飛び上がるようにしてマナは闇の中に消えた。数秒後、ぷしゅーと空気が抜けるような音がして何かが動く気配がした。シンジの皮膚を温度の違う空気がすり抜ける。まったく見えないが、扉を開けて別の部屋にマナは入っていったらしい。
 言葉を信じるなら、お色直し…をしに行ってるわけだ。お色直しは少々例えが違うかも知れない。

「なんだか…明るいって言うより、忙しない子だ」

 マナの姿が見えなくなり、鼻歌もくぐもって聞こえるようになったとき。大きく息を吐き出すと、シンジは疲れ切った顔を隠さずに呟いた。

「ま、いいか」
【いいのかよおい】
「今更…じたばたしたって、何がどう変わる訳じゃないでしょう」

 急に重く痛くなった肩を回しほぐしながら、シンジは責めるように鉄王を睨む半歩手前の目で見つめた。事実なので鉄王は何も言えない。

【そんな目で見ないでくれ。まさか、あそこまで予想の斜め上を行くとは…あんな性格だったかなぁ】
「おしとやかだとキャラがかぶったから丁度良かったかも知れません」
【優しく可憐な子だったと思うんだが…】

 遠い目をしながら過去を懐かしむ。

 虫も触れない深窓の令嬢のようなマナが記憶にいたが、それにしては言葉に出来ないようないたずらをされた記憶もある。もしかしたら、長い間に記憶の改竄をしてしまったのかも知れない。いや、その可能性は至極高い。

(俺の娘だもんなぁ)

 野の花のように淑やかになる、と考える方がやはり無理があったか。
 今頃彼女はフンフンと鼻歌を歌いながら着替えをしているだろう。シンジに合わせるためにと、恐らくドレスか何かに。全時代対応衣装ダンス〜とか間延びした声が聞こえてきたが無視した。そんなモンあったかなと思うがあるんだろう。たぶん。
 どこかマイペースなところはまさしく自分の娘だ。そう思った。


















「これでぇ、らすとぉ―――っ!!」

 炎の剣と炎の鞭の連撃が炸裂し、オイルの血と歯車の骨をまき散らしながらコダイゴンは地面に崩れ落ちた。そして他のコダイゴンと同じく、水を失った苔のように縮み、小さな神像へと戻っていく。

 ズシン

 その埴輪に似た神像を巨大な足が踏みつぶした。固まった溶岩のような剛毛をはやし、2つに割れた蹄を持った足はそのまま挽き潰すように踏みにじる。岩を擦り合わせるような軋り音がし、炎と煮えたぎる鉄が噴き上がって空気を揺るがせた。

「ふっ、この私にちょっとでも勝てると思ったなら、大間違いだったわね!
 そっちはどう!?」

「………………こっちも終わり」

 業火が爆ぜるような声に氷河の軋み音のように重々しく響く声が応えた。炎の化身はレイヨウに似た巨大な角を生やした頭を巡らせた。鼈甲のような光沢を持った角が煌めき、炎の中で鍛えられた宝石のような青い瞳が、自らに勝るとも劣らない異形の存在を捕らえた。

 それは青白い光に見えた。
 光に包まれ、人間の身の丈を越えるような大鋏が噛み合わされた。鋏と言っても鉄や真鍮で出来た道具としての鋏ではない。もちろん、遊具のシーソーでもない。蟹やサソリのそれに酷似した、キチン質の無骨な大鋏だ。詳細は前述の光と空気が凍り付く白い煙の所為でわからない。

 土塊の砕ける鈍い音を立て、別のコダイゴンが崩れ落ちた。

 コダイゴンの強固な装甲と言えど、単位圧力が軽くトンを越える暴力の前には紙同然だ。股間から頭頂部までを一気に切断され、そのコダイゴンは機能を停止した。そしてその残骸はたちまち凍り付き、刹那粉々に砕け散った。

「…問題ないわ」

 幾つもある複眼を複雑な色に揺らめかせながら、それは軽く頭を回した。ありとあらゆる感覚器官で、背後の闇を頼もしく見つめる。


 それは一見したところ雲のようにも見える巨大で濃密な闇だ。ときおり濃い部分と薄い部分が混じり合い、濃淡が骸骨のようにも見える。その顔は不気味な表情を浮かべていた。
 この闇は生きているのだ。
 矛盾した言葉だがこの闇は負の生命に満ち満ちている。暗黒の力の乱流は、文字通り大渦のようにうねっていた。その奥からはゴゴゴッ…と重苦しい音共に、何か堅い物を挽き潰す石臼のような音が響いていた。

「…………えい」

 やたら可愛らしい、ぬばたまの闇とは似ても似つかない声が聞こえたかと思うと、ゴミを放り捨てるように中心から何かが吐き出された。
 継ぎ目のない床にぶつかり、糸の切れた操り人形のように惨めに転がる。
 ぐちゃぐちゃに捻り、引きむしられたかつてコダイゴンと呼ばれた存在だ。その数千年の時間の流れにも耐えた装甲は、萎びねじれ、錆くれていた。

「私も終わりました」

 凝集した闇がうねりたわみ、骸骨の腕のような影を形作った。腕は渦の中心にさし込まれ、再び引き出されたその細い指先に掴まれているのは、また別のコダイゴンの残骸だ。前述の物と同じく腐り果て、粘土細工を捻ったように前と後ろの違いが無くなっていた。

 ほんの数分前まで、不滅の岸壁のように雄々しい姿を見せていたコダイゴンは全滅した。


 炎と氷と闇。

 性質に違いはあれど、それは恐るべき死を振りまく。
 猛々しく、冷徹に、無慈悲に。
 滅ぼし、砕き、蹂躙する。





「それじゃあ、そろそろ元に戻りますね」

 返事を待たずに闇の中心が吸い込まれるように蠢き、ジェット気流のような音が響く。

「あんた結構溜まってたんじゃないの?」
「……そうかも、しれません」

 静かに響くつぶやきと共にマユミは小さく頷いた。闇の塊はもうどこにも見えない。
 目前の惨劇とはあまりに対照的な儚げな様子もそのままに、眼鏡のずれを直し、赤毛の同輩に微笑みを浮かべる。飾りの少ない黒いドレスだけが、先ほどの闇の片鱗を留めていた。

「ちょっとは手強かったかしら?」

 轟々と熱と空気が蛇のように渦巻く中心で、アスカはあごの先に人差し指を当て、数分前のことを思い返していた。
 炎を吐くわ、爆発する光線をばらまくわとやたら手こずらせてくれたが、本気になったアスカ様の敵ではないわね、と自画自賛する。
 勿論、あんた達もなかなかだったわよ、と友人達に対する一応の賞賛も忘れない。
 ふてぶてしいが、彼女ならそう言う物言いも許される…そんな風に感じさせる微笑みだ。

「別に……変身しなくても良かったと思う」

 そんなアスカの気持ちに水を差すような一言をレイは呟いた。当人に悪気はないのだが、どうして一々そんなことを言うのか。そんなことを言うなら、何で彼女も右に倣えとばかりに変身したのか。
 わかってはいるが、ムッとした顔でアスカはレイを睨む。
 アスカの視線を受けて、レイの周囲を舞い踊っていたダイアモンドダストが熱波に翻弄され、空気と混じり合って消え去った。直前までそこにいた、甲殻をもった異形の姿はどこにも見えない。
 しかし、アスカはそれら一切を気にせず、ただレイに敵意剥き出しの視線を向けていた。

「どうしてあんたって…。
 滅多に喋らないくせに、喋るときはいつも一言余計なのよ」
「そう、良かったわね」
「それしかないのか、あんたわ。いい加減そればっかりだと飽きられるわよ」
「どうしてそういうこと言うの」
「だからそれやめろってのよ」
「いけず」

 仲が良いなぁ。

 舌を出すアスカに可愛らしく唸りながら睨むレイをまあまあとなだめながら、マユミは間に割って入った。

「あの、それよりアスカさん。あっち…このゴーレムさん達が来たところに、通路が出来てますよ。あそこから別の部屋に行けそうです」

 なるほど、確かにコダイゴンが入ってきた入り口が開いたままになって、その先の通路が黒々とした口を開けていた。まるで三人を誘っているようだ。

「どっちにしろ、このままここにいても進展はなさそうだし、あの先に進むのがベターな選択だと思うんだけど」
「その意見には賛成するわ。でも、どっちに行くの?」

 レイの瞳は、入ってすぐに左右に分かれる通路を見ていた。どちらも先は見えず、通路の自体の大きさは全く同じに見える。案内図などの類は勿論見られない。
 ここがどこか知らない彼女達にとっては、右に行くのも左に行くのもそう大した違いがあるわけではない。どっちにしろ、彼女達に友好的とは言えない場所だ。
 と言うわけではないが、特に根拠なくアスカは言った。無駄にズビシと胸を張り、偉そうに。

「右に行くわよ」

 間髪入れずレイは呟いた。聞こえるようにぼそっと。

「左にしましょう」

 再び睨み合う2人。




 わざとやってるんでしょうか?

 この2人は汲めども尽きぬ喧嘩の泉を持っているに違いない。
 じっと期待を込めた瞳で自分を見るアスカとレイにマユミは目眩を感じた。あーあもう2人とも散歩寸前の犬みたいに尻尾を振ってるみたいな目をしてからに。

(可愛いんですけど、これはちょっと困るわ)

 正解を選んでも間違っても、いずれかからの非難に満ちた眼差しは避けられないのだから。どっちを選んでも角が立つ状況は正直勘弁して欲しい。まさかと思うけど、それを見たいからってわざと対立意見を出してるのでは?


「えーと」

「「どっち?」」

 シンジさん、こんな時私はどうしたら良いんでしょうか?















「どうしようもない」
【なにがだい?】
「いえ、なんだか質問されたような気がしたんです」

 マナの着替えを待ってる間、なんとなく壁を背に座り込むシンジと鉄王の2人の姿があった。夜かどうかはわからないが、奇妙に黄昏た2人だ。体育座りでぼーと疲れた顔をして空を見上げるシンジは、これから起こるだろう事に今から胃が痛いようだ。
 衝撃的な始まりをした割には、些か拍子抜けの展開だった。

(アスカ達は…当然渋るだろうな。でも、基本的に優しいから)

 認める認めないは別として、マナの境遇には同情するだろう。
 どうするにせよ、地上に出て彼女が人並みの生活を送るための支援は最大限行うに違いない。勿論、知り合ったのも何かの縁である。シンジも精一杯の手助けはするつもりだ。当面、彼女が生きていくことに問題はない。そのまま、友達にだってなれるだろう。
 ただ、彼女がシンジをご主人様と呼んでどうこうするとなると話は別だ。

 鉄王も今更、彼女(複数人いるとはさすがに思ってもいない)と別れてくれ…などとは冗談でも言わない。たとえとっさに出た言葉とは言え、それがどれだけシンジを、そしてアスカ達を傷つける言葉だったか思い至り、海より深く自己嫌悪に陥っていた。
 しかし、シンジの心はもう決まっている。

「とりあえず、地上に…マナと一緒に出ようとは思います」
【そうしてくれるとありがたい。ここは、死者の住むところだ。
 思えば、あまりにも一方的だったよ。君の意見を、事情を知ろうともせずただマナを復活させることだけを強要した。この困った事態は、それに対する罰なのかも知れない】
「そんなことありませんよ。僕は…会ったばかりだけど、彼女のことが、嫌いじゃないです。だから、僕はマナの悲しい顔を見たくありません」
【君の彼女はどうするつもりだい?】
「精一杯説明して、説得します。納得してはくれないかも知れないけど、でも何も言わないままよりはずっと良いです」
【君は優しいな。でも、損をする性格だ。誰も傷つけたくないと言う考えが、間違っていると思いたくはないが…】

 2人は顔を見合わせ、それから深く溜息をつく。
 耳に聞こえるマナのはしゃぎ声だけが、渇いた砂漠に吸い込まれる水のように室内に空しく響いていた。

『う〜ん、やっぱりこのドレスは些か時代を先取りしすぎてるわ。宇宙海賊の相棒って感じ。
 やっぱりこの白のワンピースで! それとも、本当の私を知ってもらうために、この装甲服が良いかしら?』

 どんな基準で選んでいるのやら。
 明るいマナの声は、悩んでいるのが馬鹿らしくなるほど朗らかだ。知らず知らずの内に、唇の端がつり上がる。夜道を照らし出す街灯のような明かりを心にともしてくれる。

 そうだ。形はどうあれ、きっかけは何であれ。

(僕は彼女を知ってしまった)

 霧島マナという少女と出会った。太陽のない闇に包まれた鋼の城の中で。
 朗らかで脳天気で、活発で、無邪気。アスカやレイ、マユミやヒカリとは違うタイプの女の子。好きなのかどうかはわからない。
 いや、もっと積極的に、騎兵の突撃ぐらい好きだと言っていい。

 ようやく着替えが終わり、先ほどとは一変したマナの姿になぜか視界が潤むのを感じる。
 なんでだろう。

 決まっている。考えるなんてナンセンスだ。
 改めて心に問うまでもない。

 よく似合う白いワンピース姿。セットの品らしい、白い帽子を手に持った姿は過去未来にわたって二度と得難い絵画のように美しい。
 清楚でありながら、奇妙に刺激的だ。夏服なので肩が剥き出しになり、薄地であるため背後から強い光を当てると体の線が透けて見えそうだからかもしれない。

「どう?」

 マナはくるりとその場で一回転してスカートの裾をはためかせる。

「似合う?」
「うん。…似合ってるよ、とっても」

 今度は心の底からそう言えた。心臓が激しく、だが心地よく高鳴る。
 口下手の自分が、そんな台詞をあっさりと言えるなんて夢にも思わなかった。相手がマナだから言えたのかも知れない。素直で開けっぴろげで、明け透けのない性格の彼女だから。

「良かった。結構ドキドキしてたんだ」

 恥ずかしさ半分、うれしさ半分ではにかむ笑顔がまた心を捕らえ、何かを呼び戻そうとするようにリフレインを繰り返す。心が和むのをシンジは感じた。暖かい太陽の下で、何の悩みもなく昼寝したときの安心感にどこか似ている。

 本当になぜだろう。
 初めてマユミにあったとき、レイにあったとき、アスカにあったときにも同じ様な気持ちを感じた。美しさと心根に魂を奪われた。側にいて落ち着くことが出来た。自分が自分自身でいることが出来た。
 しかし、マナに微笑まれたとき感じたそれは、心の琴線を揺さぶった。
 パズルのピースが揃った。そんな感じだった。





 目眩にも似た平衡感覚の喪失、性的衝動にも似た高揚感がシンジの全身を指先まで痺れさせた。瞳孔が両開きの『窓』のように広がり、その奥の闇が切り開かれる。目を見開いたシンジは漠然と悟った。



 鍵が錠前を開く。



(あ…弾ける)








 心の奥底に誰かがいた。
 
 公園の砂場で小さな子供達が何かで遊んでいる。
 赤くキラキラと光る手の平に乗るような何か。
 青い瞳の女の子の横にいた黒髪の男の子が、ニコニコ笑いながらそれを手の上で転がす。赤い瞳の女の子が、また一つその手の上で転がした。黒髪の女の子がおずおずと男の子に光を手渡した。茶色の髪の女の子が、猫みたいに甘えながら光を男の子に手渡した。
 ひとつ、ふたつ…三つ、四つ、五つ。

 五つの光が舞い踊る。
 それに惹かれるようにたくさんの光が周囲に集まってくる。猛々しい光、優しい光、臆病な光、ねじれた光、たくさんの光。
 光と共に、たくさんの人達がいた。

 世界を染め上げる光を、子供達は静かに見つめ続けた。












 いま夢から覚めたように、昂揚した声でシンジは言った。

「…僕たち、どこかで会ったことがあったかな」
「? それはないと思うよ」
「そうだよね。そのはずなのに」

(本当に僕どうしたんだろう。どうしてこんなに顔が熱を持つんだろう。こんなに、隠せないくらいに汗が出るんだろう。どうして、こんな…胸がドキドキするんだ。僕は、そんなに臆病で恥ずかしがりやだったかな)

 誤魔化すように汗を拭いながら、シンジは暴れる心臓をなだめるように静かに深呼吸を繰り返した。

(僕は…欠けていた欠片を見つけたのかも知れない。僕が僕自身であるための、大切な絆を)

「泣いてるの?」

 そっと優しく髪の毛を撫でられた。髪の毛を撫でさすられる感触に敏感に反応してシンジは頬を赤らめた。熱い物が流れた後も生々しい頬が、火傷のように疼く。

「…なんでだろ。どうして涙が出るのかな?」
「私に会えて嬉しい…の? でも、なんで」

 戸惑うマナを慰めるように、そっと目尻を親指で撫でる。潤む茶色の瞳に、一瞬陰りを帯びたシンジの姿が映った。親指に触れる滴はずきずきと熱かった。

「あれ…私まで、なんで? 起き抜け…だからかな。変なの」








(また会えたね)
(また、会えた。私を殺したあなたに)








 なんでそう思ったのかはわからない。
 でも、シンジはそれを感じ取っていた。無限の闇の彼方から、最後の欠片を見つけだしたことを。
 彼が彼自身であるため。

 今度こそ、繰り返さない。

















 鉄王は静かに、物音一つたてずにその場を離れた。

 マナ、俺はそんな子に育てた覚えはないぞ! とか、俺の娘にいきなり大胆なことするんじゃない!
 と怒鳴りそうだったが、なぜか…声が出なかった。手が出なかった。
 マナの右腕が剣呑な気配と共に自分の方に向けられたから、ということもある。むごい。
 しかし本当のところを言えば。




(俺は…妬いているのか)

 確かにシンジにマナのこれからを頼みはしたが…だが、それは正直な気持ちではない。建前かも知れないが、父としてはマナにまだ目の見えるところにいて欲しかった。
 なにしろ、彼女の目覚めを1万2千年の長きにわたって待っていたのだ。もう少し、親子水入らずで色々語り合いたいと考えても、それは我が儘とは言わないだろう。親馬鹿とは言うかも知れないが。

 いや、言わない。

 これくらいは許容範囲だ。

 シンジと砂糖菓子のように甘ったるい会話をするマナは、ある程度の記憶や知識を持って復活したとは言え、まだまだ子供だ。シンジをどきまぎとさせているが、それはあくまでシンジが内省的な性格だからだ。
 本当のマナはまだまだ経験不足が形を持った程度と言える。

(彼にマナを助けて欲しい…それは本当の気持ちだが、だが、まだ…私が側にいて彼女を見守っても良いかも知れない。そう、もう少し彼女が大人になるまで)

 だが、現実のマナはなにかをシンジに感じ取ったのか、不思議な反応を示していた。懐かしい初恋の人に出会った乙女のような反応だった。そんなことは絶対にあり得ないはずなのに。


「シンジ、今日は…いい天気だよね」
「あ、うん。外は…晴れて、いたっけ?」

 何をいっているのやら。昔の自分のように微笑ましい。
 見つめる先に、急にしおらしくなり、言葉が続かなくなった2人がいた。もう2人の意識の表層に自分の姿はあるまい。
 目覚めて10分としない内に彼の手から羽ばたいた娘に一抹の寂しさを感じたのも事実だ。

 たとえ子供が親を必要としなくなっても、子を命に代えても守り、その成長を見守るのは大人の務めだ。



(だからこそ、俺は彼女の側にいるわけにはいかない)

 マナは復活した。もはや自分が存在を続ける理由はないはずだ。

 平和な世界なら。

 マナを守るために自分はまだ活動停止するわけには行かないのだ。おぼろげな記憶の中で、それだけ闇を切り裂く稲妻のように鮮烈な映像がある。

(命に代えても…お前を守る)

 表の世界からマナを守るのは、支えるのはシンジの役目だ。ほんの僅かに、ほんの僅かな言葉を交わしただけだが、彼はシンジを信用していた。きっと、命に代えてもマナを守って…魂を救ってくれるだろう。
 もしそうできなかったら、世界のどこにいても絶対説教しにやってくるからな。覚悟しろ。特に泣かせたりしたら、この世に生まれたことを航海させてやる。


(そして俺は、闇からお前を、お前の信頼する男を守ろう)



 あの日、彼女は言っていた。

『彼女が目覚めたとき、アダムを狙って彼らが必ず活動を開始するわ。アレに比べれば随分と小さいから、しばらくは目を誤魔化せるとは思うけど。でも、いずれ間違いなく彼女も狙われる』

 12の魔神達。

【今度は負けない】

 目に鋼のように強い意志の光を宿し、鉄王は闇の中に消えた。



















 オリハルコンの壁が粉砕される轟音が響く。
 天地創造並にありえない現象に、シンジとマナは目を見開いて姿を現す鬼を見ていた。
 瓦礫と埃のカーテンの向こうから、文字通り怒髪天を突いた赤鬼が姿を現した。

「……なにやってんのよあんたは?」

 地の底から響く吊るべ井戸もかくやと言う軋り声が陰々滅々と響いた。
 鬼の視線はぴったりと体を、唇同士を密着させる2人の男女の姿を余すことなく捕らえている。引きつった手の筋は白く浮かび上がり、長く伸びた爪が金剛石のナイフのように煌めいた。

 ちゅぷ…。と甘い音を立てて唇が離される。

「あ、あ、あ、あああ、アスカ?」

 哀れなほどに体を震わせるシンジの顔は死人のように真っ青だ。直前の高揚は一瞬で地獄の底の底まで届くような勢いで真っ平らになる。例えようもなく美しいアスカの顔は、かえって恐ろしく見えた。
 って、待て。ちょっと待て。おまえ何をしていた。

「そぉよ。アスカ様よ。姿が見えなくなったと思ったら、まさかよその女と乳くりあってるとはね。
 あんた、それ洒落になってないわよ」

 すみませんすみません。
 ごめんなさいごめんなさい。
 違うんです、違うんです。浮気じゃないんです。

 反射的にそう呟き謝りながら土下座したい気持ちに襲われる。しかし、首に回されたマナの両腕がそんな逃げを許さない。
 ぽやんと惚けた目をしたまま、マナはアスカを一瞥した。シンジの超絶極まる舌技に我を忘れたのか、アスカの放つ殺気に気がつかない。

「んん……なに、誰この人。ねぇ、シンジ?
 覗き? 女の子の覗きって、趣味悪いわよね」

 そのままゴロゴロと喉を鳴らす錯覚と共にシンジの胸に頭を預ける。
 ピシリと音を立ててアスカのこめかみに青い筋がのたうった。
 声にならない悲鳴を上げて体を硬直させるシンジ。

 よりにもよってこのタイミングにそんな嬉しいことを!

 そんな彼を更に追いつめる冷たい声が後ろから聞こえる。ついでに背筋が文字通り凍り付くような冬の凍気も。

「………………碇君」

 それ以上言葉はいらない。
 どんな言葉であっても、彼女のたった一言に勝るものとはなりえない。

 空気が凍り付き、床や壁に張り付いた霜が不気味なまだら模様を作った。まるで彼女の複雑な内心を象徴するような模様だった。
 一言で言うならドクロ。


 綾波…怒ってるんだね。
 ははは、僕、君が本気で怒ってるの見るのは2回目だよ。
 えっと、マナが標的なのかな?


 肯定するようにレイは小さく頷いた。






 そして、闇を纏ったマユミがしくしくと当てつけがましく泣いている。
 色々な意味で、心が激しく痛かった。


「だ、誰か…助けて」




 勿論助けない。







続く








初出2003/11/01 更新2004/12/26

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