俺と兄と婚約者の秘め事

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  三.



「……元姫……」

 王元姫が『待っている』と言い残して室《へや》を立ち去った後、司馬昭は大きく息を吐き再びその場にうずくまった。
 結局昨晩のあれは何だったのだろうか?
 そのことを話してしまえば心が軽くなるのだろうが、きっと今の関係が大きく崩れ去ってしまい修復困難なところにまで行きそうで怖い。

「俺は……頼りない、か……」

 確かに現状では父親である司馬懿や兄である司馬師、そして婚約者の王元姫に頼り切っているのは判っていた。否、自分自身の支えがないと不安だとも言えるだろう。だからこそ昭は父や兄よりも自由奔放に振る舞うことが出来る。それが原因で周囲からは快く思われていないのも理解していた。

「けど、俺は……誰かと一緒でないと怖いんだ……っ」

 何が『怖い』のかは判らない。漠然とした恐怖なのだ。

「……兄上と元姫は、俺の事が邪魔なのか?」

 昨晩目に入ったのはまさしく男女の性の営みだ。師が巧みに腰を振り、呼応するように元姫が甘い嬌声を上げて受け入れていた。
 昭と性交する時もあるが、あのように甘えている姿は初めて見かけたかも知れない。それに声からして心底司馬師の性技に酔いしれているようだった。

「俺は……、どっちも嫌いになんかなれない……!」

 目頭が熱くなっていき涙がこぼれ落ちる。
 どうしたらいいのだろうか? この関係を壊さず円満に済ませる方法はないのだろうか?
 ……一つだけ、ある。

「俺が黙って全て、事実を受け入れる……」

 そうすれば周囲に司馬師と王元姫が不倫をしている事もばれない。知っているのは弟の昭のみ。辛い現実を我慢するのも昭だけでいいのだ。
 それに夜の営みで例え元姫が満足しなかったとしても、師が彼女を満たしてくれるだろう。弟に持っていないものは全て兄が持っている。仮に師と元姫の間に子供が出来たとしても、それは司馬子上の子供として育てればいい。師がどう動くかは不明だが……。



  *  *  *



「げーんき! 待たせて悪かったな」

 遅れて広間に到着する司馬昭の姿を見て、元姫はどこか安心したように微笑んで迎えた。

「またサボるのかと思った」
「サボらないっつーの! 今日こそ出ないと兄上に怒られそうだしな」
「判っているではないか、昭」

 背後から突如声がし、昭は一瞬息を呑むと慌てて声の主の方へと振り返る。

「あ……」

『兄上』と呼びたいのに声が出てこなかった。その代わりに元姫と濃厚に絡み合っている兄の姿が脳裏に浮かんだ。

「ん? どうした、昭。私の顔に何かついているのか?」
「あ、ああいえ、違います! あまりにも突然だったので」
「ふむ。お前らしくないな」

 何気ない兄の一言に、先程言われた元姫の『不甲斐ない』が重なり、昭の心の奥底に重石となって押し潰す。陰りの見えた弟の表情を見逃さなかった師は、首をかしげた。

「……何かあったのか、昭。相談ならいつでものるが……」

 普段とは違う言葉だった。師がそういう事を言う時は、何か思うことがあるという可能性があると、以前父親が話していた記憶がある。
 昭は覚悟を決め、兄の双眸を見据えて思いを口にする。

「兄上、元姫。俺から話がある。……ここでは話しづらいから、中庭でいいか……?」

 以上を話した途端、元姫の肩がピクリと震え、司馬師の表情は更に硬くなった。

「ああ、判った」
「……判ったわ、子上殿」

 断られるかと考えていたので、案外容易に承諾をもらえホッと胸をなで下ろす。
 あとは上手く自分の想いが二人に伝われば、と、司馬昭は思案していた。



   *  *  *



 人気のない中庭に司馬昭、司馬師、王元姫が佇んでいた。近くには古びた納屋があり、そこで話がしたいと昭が言うと、二人は黙って着いてきた。納屋の中は時々誰かに使用されているのか、人が入った気配が残っていた。床も抜け落ちそうで、饐《す》えた匂いもするこの場所を、よく使う気になれるなと司馬昭は思った。
 司馬昭と司馬師が気付かない横で、元姫は頬を赤らめて内股気味に立っていた。
 ここは元姫が初めて司馬師と結ばれ、処女を喪失した思い出の場所でもある。この饐えた匂いは古い木造の香りもあるだろうが、師が放った精液の匂いも混じっていると考えただけで下腹部が疼く。

「昭。話とは何だ?」

 二人にお構いなしに師が開口一番に聞いた。

「…………」
「……昭、下らぬ話だったら――」
「俺、昨晩見たんです。……兄上と元姫が性交している姿を」

 その言葉に師も元姫も言葉を失う。二人の様子を見て『見間違いだったらいいな』という淡い期待は露と消えた。昭は言葉を選びながら続きを話す。

「……不倫、いや、まだ俺と元姫は婚姻関係を結んでいないから、浮気という事でいいんですよね? いつから関係を持っていたのですか、兄上」

 師は向けられた視線から逃げようともせず、弟から投げかけられた質問に淡々と答える。

「お前と元姫が婚約を発表してから三日後からだ。……私も、元姫の事が好きだった」
「っ!?」

 初めて耳にする兄の想いに昭は驚き、双眸を見開いた。

「子上殿……」

 泣くのを我慢しているのか、元姫の丸い双眸には涙が溜まっていた。

「……ごめんなさい、子上殿。あなたを騙していたのも同然だわ」
「元姫は……――」

 一番耳にしたくない質問をぶつけた。

「兄上の事、好きなのか?」

 恐らく元姫も口にはしたくなかっただろう。ただ黙って首の振りで肯定を示した。我慢してきた彼女の涙がとうとうこぼれ落ちてしまい、その場にしゃがみ込んでしまった。

「そう、か……」

 それ以上昭も何も言わずに立っていた。

「ごめんな、元姫……。ごめん、ごめん……」

 当時の彼女の心境はどれほど辛かっただろうか? 想いを寄せていた相手に婚約した事を伝え、婚約者に背を向け想い人と関係を持ってしまった事実。しかし、本当に『辛い』と思った事はあるのだろうか? 暗く闇に包まれた思考が昭の脳裏に過ぎる。
 おそらく「二度と関わるな」と言ったところで関わらないでいられないと思う。余計に熱が上がり、逢い引きの度に思慕が深まっていくだろう。

「俺、二人の関係に目を瞑るよ」

 驚きを隠せないと言わんばかりに、司馬師は目を見開いた。

「昭!」
「俺も元姫の事が好きですよ、兄上。だからこそ、彼女の悲しむ顔は見たくないんです。俺が頼りないときは……、兄上が元姫の傍にいてやって下さい」

 ――上手く笑えているだろうか?
 ぎこちない笑みを浮かべながら昭は言う。そして大事なことを口にした。

「それで、もし、兄上と元姫の間に赤ん坊が出来たら……。俺と元姫の子として育てます」
「昭っ!?」
「子上殿!?」
「もしこの先、兄上がご結婚されて子に恵まれなければ、その子を養子にして下さい」

 予想もしなかった昭の言葉に、司馬師も元姫も目と口を開き身動き一つしなかった。

「それが……俺が二人の関係を黙っている約束です」

 司馬師は沈黙の後、形の良い唇をゆっくりと動かして言葉を紡ぐ。

「…………判った。その条件、のもう」
「子元殿!」
「元姫と共に居ることが出来るならば……。昭の条件を受け入れる他はないのだろう?」
「はは、兄上は本当に元姫の事が好きなのですね」
「勿論だ。彼女の姿も心も体も全てが愛おしい」

 照れもせず堂々と公言出来る師が僅かに羨ましかった。それを聞いている元姫は顔から炎が出るのではというくらい赤く染まっている。元姫もまた、師と同じ気持ちなのだろう。

「し、子上殿!」

 紅潮している顔を上げ、元姫は昭の方向を見つめた。

「私、あなたのこと嫌いではないわ。それだけは……、覚えていてほしいの」
「元姫……」



 この日のやりとりがきっかけで、司馬昭・司馬師・王元姫の中で危険な密約が交わされた。
 ――それが三人の性を大きく乱すことになる事とは、司馬師のみしか知らなかった。



   ==続く(2012/03/25)==
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