ペットショップ01

 いまだ冬の抜けきらぬ早春の、よく晴れた午後だった。
 柔らかい日差しに満ちた公園。長閑を絵に描いたような風景の中、俺……岸本臣(きしもとおみ)は隣り合ってベンチに腰掛けた幼馴染……前山環(まえやまたまき)の少し早口な説明を長閑とは程遠い心境で聞いていた。
「私のお願い断るわけないわよねぇ、臣?」
 久しぶりの休日にアポなしで強引に呼び出して、長々と言い訳じみた説明を並べ立てた挙句のシメの言葉がこれだ。お前はナニサマだといいたくなるほど不条理なその言葉を言い放った後の彼女の顔ときたら……小悪魔通り越して魔王のようだった。甘さのある可愛らしい顔立ちが、逆に憎らしさを強調している。もう何度目かわからない殺意を覚えたが、悔しいことにこの悪魔のような幼馴染に弱みを握られている俺はその言葉に従うしかないのだ。
(いや、いっそ弱みになってしまったガキのころのあれやこれやの記憶と一緒に、こいつをこの世界から消し去ってしまえばいいんじゃないのか?そうすればいつまでもこんな面倒事に巻き込まれなくて済むし……)
 目の前の悪魔のいない世界。そのあまりに甘美な想像に一瞬我を忘れそうになる。……だがいくら優秀な俺でも完全犯罪となると一朝一夕にはいかないのが現実だ。計画に費やす時間だって惜しい。……不本意だが、結局のところ彼女の不条理な言葉に従うのが最善策なのだ。
「ちょっとぉ。聞いてるの、臣?」
「ああ」
 不満げに頬を膨らませた顔を一瞥しながら、俺は内心の惨憺たる想像を微塵も滲ませることなく無表情に相槌を打った。不本意ではあるが、彼女の説明はきっちり理解できている。いっそ聞き流してしまいたかったが、俺の優秀な脳は少しばかり融通が利かないのが玉に瑕なのだ。
『彼氏と急に旅行に行くことになったから、その間バイトを代わってほしい』
 彼女の話を簡潔に纏めるならこうだ。旅行のプランや彼氏の愚痴に至るまで多岐に渡って脱線した為、実際のところこの何倍もの長さだったのだが。
「……私、今回の旅行に賭けてるの」
 彼女は瞳を伏せて声のトーンを落とした。普段勝気な彼女には珍しい様子に、その決意の強さを垣間見る。賭けている、というのはその彼氏との結婚か。年上の幼馴染は、子供の頃からお金持ちの奥さんになると豪語していた。その夢に手が届くかどうかの瀬戸際なのだろう。うんざりするほどに付き合いが長い俺には、彼女の思惑など容易に想像がついた。
 だが、だからといって俺達の間に情なんてものはない。あるのは幼馴染という腐れきった縁だけだ。
「でもぉ、今のバイト先も捨てがたいのよねぇ。お金もいいしぃ、いろいろ演出にもなるしぃ」
「……あっそ」
 しおらしい態度はものの一瞬で消え去り、語尾を延ばした独特の口調で言い募る。そんな彼女の切り替えの早さも当然予想の範囲内だ。慣れない相手だと驚くところだろうが、俺は少しだけ眉を顰めただけだった。
(二兎追うものは一兎も得ず。って言葉もあるんだがな。……いや、わかってるから俺を使うつもりなんだよな)
 怒気を含んだ深い溜息に怯む様子もなく、彼女は強引に俺の手を取ってパステルカラーの紙切れを押し付けた。
「じゃあ、十日間お願いね〜」
「……ああ」
 断られるはずが無いと確信しきっている彼女は、こちらの意思を尋ねることすらしなかった。明らかにやる気のない俺の返事にも構うことなく立ち上がると、にっこりと極上の笑みを向ける。オマケとばかりに俺の頭を子供に対するように軽く撫でてくるのには、間の抜けた呆れ顔で肩を落とすほか無かった。
 細いハイヒールの踵を返し、そのまま軽やかな歩調で雑踏に消える彼女の背中を恨みがましい視線で見送った後……俺の手元に残るのは甘い移り香と無理やり握らされたメモ用紙。それと肩に圧し掛かるような疲労感だった。
(大体なんだこのメモ用紙。ノートの切れ端のほうがまだマシじゃないか。……どうせこれも嫌がらせの一環なんだよな。どこまで性格悪いんだか、あいつは!)
 男が持つにはファンシーすぎるパステルカラーのメモ用紙を、衆目から隠すように軽く握りこむ。だがしかし、彼女との契約を遂行するためにはその中身に目を通さないわけにはいかない。俺は不機嫌さを眉間に刻んだ皺で地味に表現しながら、つられるように皺の寄ってしまったそのメモ用紙を開いた。
 女の子らしく丸みを帯びた可愛らしい文字は決して読み辛いものではない。だがその内容を理解するにつれ、無意識に眉間の皺が深くなるのを抑えることができなかった。
(ペットショップ……ヒラカタ?俺に動物の世話しろってのか?!)
 メモ用紙にはバイト先の名前と住所と電話番号。そして……。
(店長、平方総一郎(ひらかたそういちろう)……三十八歳。独身。……ルックス五十五点。性格六十点。経済力五十点。……備考……この年まで独り身なのにはなにか理由があるかも。ネタにはいいけど残念ながら戦力外かな〜。……っておい。あの馬鹿、何余計な情報添えてるんだ……)
 見ず知らずの他人とはいえ、こんな点数をつけられてしまった相手には些か憐憫の情が沸いた。バイト先の店長とやらがこれなら、勝負をかけてる彼氏サンはどれだけ高得点なのだろうか。どちらにしろ同じ男としては気の毒というほかない。
(ガキのころから虐げてきた俺なんか、点数どころか男の数にも入っちゃいないだろうがな。……逆に環に男と見られてるほうが嫌だ……)
 背筋を震わせる暗い思考を現実に引き戻すべく、俺は再び手の中のメモに視線を落とした。メモの最後には、強調するためなのか赤いペンで指定時間と『今日絶対会うこと!』の文字が書き殴られている。俺はその文字に背中を押されるように重い腰を上げた。
 先ほど見送った彼女とは対照的に重くなる足取りで、目的地を経由するバス停へと足を運ぶ。指定された住所は徒歩で辿り着けない距離ではなかったし、指定された時間には余裕があったのだが、万全を喫する為にバスを利用することにした。不本意に押し付けられた仕事とはいえ、遅刻などして己の立場を悪くするのは俺の主義に反するのだ。
 途中、公園の屑籠に中身を記憶して不要になったメモ用紙を投げ込む。綺麗な放物線を描いたそれは、吸い込まれるように屑籠の中へと落ちて乾いた音を立てた。


岸本臣。物語の始まり。続きます。