ペットショップ02

(平方〜平方〜。……もうこの辺りのはずなんだがな。ペットショップヒラカタ〜隠れても無駄だ〜出てきやがれ〜)
 不満も顕な心の声は微塵も表に出さないまま、俺は視線だけで通りに並ぶ看板を確認しながら歩いていた。最寄のバス停から数分。記憶が確かならこの辺りの筈なのだが、それらしい建物が見つけられないでいる。ペットショップというくらいなのだから、店舗もそれなりの規模の筈だ。見落とす可能性は低いと思うのだが。
(……それにしても、自分の苗字をまんま店名にするのは安直過ぎだな。覚えてもらう為とはいえ、センスというか捻りが足りない。ヒラカタだろ?……ひらかた……平方……へいほう……平方メートル……u……)
 退屈な上に見つからない不満も手伝って、思考がどんどん別の方向へ脱線していく。
(……u……いっそMとか?これで店長がMっ気あったら笑えるんだが。……俺がS寄りだから都合もいいしな……と)
 卑猥な連想に鉄仮面の裏で下卑た笑いを漏らした時、それまで散々思考を占めていた店名を見つけて漸く俺は足を止めた。
「ここ……か?」
 地味な印象の古びた看板に、無骨な片仮名で『ペットショップヒラカタ』の文字が並ぶ。確認するようにもう一度字面を追ってから、視線を看板の下へと流した。通りに面した大きなガラス窓は綺麗に磨き上げられ、遮られることなく陽光を取り入れている。室内の照明も陽光に近い柔らかなオレンジで、自然の光と違和感なく溶け込んでいた。想像していたよりもずっと規模の小さい建物だったがその柔らかな光のおかげか窮屈な印象はなかった。
 誘われるように足を踏み出し、店内へと続く大きなガラスドアに触れる。年季を感じさせるそれは当然のことながら自動ではなかったものの、抵抗少なく開いて俺を受け入れてくれた。

 ドアの開閉に反応してカラン、と気にならない程度の鐘の音が俺の入店を店員に告げる。間を置かず店の奥からいらっしゃいませ、と声がかかった。
 だがその後店員らしき人間が姿を現す様子もない。店の奥に視線をやればレジらしきカウンターの前に若い女性の姿は認められるものの、こちらに応対する素振りもなくなにやら作業をしているようだった。
(……俺を普通に客だと思っているんだから当然だよな)
 しつこく付き纏って売りつけようとする大手ペットショップに心当たりがないわけでもなかったので、この反応には内心安堵の息を吐いた。そういう店に俺はあまり良い印象を持っていないのだ。
 こちらから申し出ない限り俺が代打の店員候補だと判らないのだし、この際少しばかりこの店を観察させてもらうことにした。実際に働く前に客観的な評価を下すのは無意味ではないはずだ。幸い、指定された時間にはまだ余裕もある。
 俺はゆっくりと店内へと歩を進めた。セール品らしいワゴンを横目に突き当たりの壁へと辿り着く。一面に並んだ窓のようなケージには仔猫や仔犬が入れられていた。
 陽光に誘われたのか気持ちよさそうに眠る仔猫や、有り余った元気を布製のおもちゃに向けてころころと転がる仔犬……動物たちは人の思惑などお構いなしに思い思いの行動をとっていた。
 近づいた俺を見て小さな尻尾を振る様子を無表情に眺めながら、視線はしっかりとケージの中身に走らせる。動物なのだから多少の散らかりようは当然だろうが、それ以外で人の世話が行き届かない様子は素人目に見受けられなかった。
 俺の他にも数人の客がケージ向こうの動物たちを眺めていたが、その表情は穏やかなものだ。ケージ前面の床に置かれたペットサークルの中にも仔犬が入れられていて、通りかかる客に愛想を振りまいている。
 俺は店内の様子を冷静に観察しつつ、小動物コーナー、ペット用品コーナーと次々と移動していった。これらも目立った問題はなさそうだ。
 先ほど見かけたレジ前も通り過ぎ、店の際奥と思われる壁まで辿り着く。小さめの窓が嵌め込まれた壁の向こうにも部屋があるようで、蛍光灯の明かりがガラスを透して店内にも漏れていた。
 覗き込んで見たが、窓に直接書かれた『ペットホテル』の文字と料金らしき説明文が邪魔をして室内の様子は殆ど判らなかった。
(これで粗方見たか?……まぁ古くて狭いが悪い店じゃないみたいだな)
 ざっと店内を見回して情報を集めた俺は、素通りしたレジへと戻りカウンターの中で作業をしている店員に声をかけた。
「お忙しいところすみません。前山さんの紹介で参りました岸本と申しますが……責任者の方はいらっしゃいますでしょうか?」
 馬鹿丁寧な口調と、相手を不安にさせない程度には緩めた目元。経験から来る計算された態度は、円満な人間関係構築の為というより必要以上に他人と関わりたくない俺の防御策だった。
 環に言わせれば慇懃無礼以外の何者でもないそうだが、敵意よりは好意の方が面倒が少ないし、砕けない口調を余所余所しいと感じるなら相手が勝手に距離を置いてくれる。どちらに転んでも俺には好都合だった。
 今回も例に漏れず好印象を与えたらしい相手は、俺の顔を観察するように眺めてからきゃあ、と黄色い声を上げた。
「環ちゃんのいってた子?やだぁ、ぜんぜんいけてるじゃん!点数低かったから期待してなかったのにぃ〜!」
 大人しそうな印象と違い、厚めの唇から漏れた言葉はそんなものだった。流石は環の友人といったところか。俺は内心溜息を吐きながらも、それを表情に出す事はしなかった。
 しかし、俺が言葉を返すことはなくても店内にいた客は彼女の騒ぎように興味を引かれたらしい。ちらちらと伺うような視線に気付いて、彼女は今更のようにあ、と口元を押さえた。
「仕事中なのに騒いじゃった〜。えっと、責任者って言うと店長だよね?たぶん事務所にいると思うんだぁ。その扉から入って突き当りが事務所になってるからさぁ、悪いんだけど行ってみてくれる?アタシ今ここ離れちゃマズイからさぁ」
 謝意を表すつもりなのか、彼女は細い指先を合わせて上目遣いに俺を見上げてくる。俺は彼女の示した方向に視線を投げ『スタッフルーム』のプレートを付けた扉を確認してから、もう一度彼女に視線を戻し軽く頭を下げた。同時に、彼女に気付かれぬよう胸元の名札を確認することも忘れない。
(後藤……ね。下の名前は覚える必要もないか)
「わかりました。お忙しいところお邪魔してすみませんでした。では」
 簡潔に礼を述べ、すぐに踵を返して扉へと足を向けた。
 扉の前に立つと、プレートの下に『関係者以外立ち入り禁止』のステッカーが貼られているのが見えた。銀色に照明を返すドアノブを掴んで押すと、小さく悲鳴を上げながら扉が開く。俺は、細く開いた扉の隙間に体を滑らせるように、明るい店内から薄暗い印象の空間へと踏み込んだ。

 後ろ手に扉を閉めると、店内に流れていた音楽が遠くなる。我知らず足音を忍ばせながらどことなく埃臭い廊下を進めば、突き当たりに三つばかり新たな扉が並んでいた。
 彼女の説明通り一番奥が事務所のようで、あちこち塗装のはげた木製の扉に打ち付けられた安っぽいプラスチック製のプレートには、白地に黒で『事務所』と刻まれていた。
 俺はその文字を確認してから、軽く扉をノックしてみた。
「……ど〜ぞ?」
 少しの間をおいて暢気な声が返ってくる。
「……失礼します」
 俺はノブに手をかけて扉を開けた。
 扉の隙間から漏れたきつめの煙草の匂いが鼻を突く。心なしか空気も澱んでいるようで、喫煙の習慣のない俺は躊躇いがちに足を踏み入れた。
 事務所とは名ばかりの物置のような室内の中央には、古びた折りたたみの机とそれを挟むようにパイプ椅子が二脚置いてあった。右奥の壁には申し訳程度に引き出しのついた小さなデスクが置かれ、その上でノートパソコンのディスプレイがぼんやりと光を放っていた。左の壁面にはスチール製の組み立て本棚らしきものが備え付けられていたが、本来の目的である書籍以外にもあれこれと物が置かれていて酷く乱雑な印象を受けた。デスクも折りたたみの机も同様で、書類や文房具、果ては店屋物の食器までもが無造作に置かれている。とてもじゃないが作業効率が良いとは思えない。
 半ば呆れながら部屋の惨状を眺めていた俺だが、ふと、違和感に気がついて首を傾げた。
 そう、部屋の主の姿がないのだ。
 物が溢れて乱雑な印象を受ける部屋ではあるが、まさかこの中に人が紛れている筈も無いだろう。……ではさっき俺のノックに返答したのは、一体誰だったというのか。
(ペットショップと見せかけてお化け屋敷だった……とか?って、そんなはずないか)
 おそらくは席を外しているのだろう。タイミングが悪かったと諦め、とりあえず室内で待たせてもらうことにした。
 その間に空気の入れ換えをしようとドアノブを掴んで扉を開こうとした時、その影から突然掌が飛び出してきた。悲鳴こそ上げなかったが、流石の俺も一歩後退ってしまった。
「おお〜い。それ以上開けると挟まってしまうよ〜」
 ひらひらと振られる手と同時に、先程扉越しに聞いた暢気な声が聞こえてくる。俺は慌ててノブを引き、扉の向こうで死角になっている部分を照明に晒した。
 現れたのは扉一枚がぎりぎり開閉できる程度の空間だった。部屋の隅と扉で三角になる狭いスペースに、声の主と思われる人物がしゃがんでいた。
 瞠目したままの俺と視線を合わせて、少し困ったような笑みを浮かべる男性。年の頃は四十前くらいか。ややこけた頬と色素の薄い肌のせいか、少々草臥れた印象を受ける。どうやら彼が、環のメモにあったこの店の店長のようだ。
 観察するような俺の視線に耐えかねたのか、彼は左手の指の間に挟んでいた煙草を床に置いた灰皿に押し付けて消し『どっこらしょ』と掛け声をかけつつ立ち上がった。
 姿勢を変えても彼の目線は俺よりも下だった。最後に測った俺の身長が百八十二センチだから、角度から考えても百七十五センチ弱といったところか。華奢ではないが逞しいというほどでもない体に、地味な色合いのシャツと褪せたジーンズ、極めつけはあのカタカナ店名入りのこれまた地味な色合いのエプロン。決して不細工ではなくむしろ整った顔立ちなのに、切りっぱなしで整髪料すら使った様子の無い髪型も手伝ってか、全体的に『冴えないおっさん』といった風貌だった。
(……これならまだ環の点数は甘いほうなのかもしれないな)
 自分なりの採点と環の採点を頭の中で比較し、彼女の点数の方が高かったことが意外だった。
「……え〜っと……誰だっけ?」
 無言でじろじろと無遠慮な視線を向ける俺に困惑しているのか、小さく首を傾げながら上目遣いに彼が尋ねてくる。頼りなげなその視線を受けた瞬間、俺は足元からざわざわと這い上がってくる衝動をはっきりと感じた。
 この感覚には覚えがある。
 肉食獣が獲物を目の前にした時の高揚感と飢餓感に似たそれは、俺にとっては肉欲に他ならない。つまり俺は目の前の冴えない男に欲を煽られているということになる。
 性別も年齢も特に拘りはなく嗜虐欲をそそる相手にのみ食指が動く俺だから、四十近い男に欲情したとしてもそれほど驚くことはない。
 だが、今まで少なくはない人数を相手にした俺が、自分でも戸惑うほどの強い衝動を感じたのは初めてだった。
(……なんだ、この感じ……。ここまで反応した事は無いんだが……。まさか、このおっさんフェロモンでも出してるのか?……そんな筈は無いだろうが……何が原因か判らんな。とにかくこの状況はマズイ。コイツの顔見てると苛めたくてしょうがなくなってくる……)
 衝動を押し留めるのに限界を感じた俺は、一度視線を彼からはずし扉ををきちんと閉めてから改めて向き直った。別段行儀が良いわけではなく、緩みそうになる頬を相手から隠す為だ。
(そうか……環もS寄りだからな。微妙に点数が甘くなったってわけだ……)
 近い嗜好を持つ幼馴染の採点に納得しつつ、感情を抑えるために深く息を吸い込み細く吐き出した。
(とりあえず、第一印象は良くしておかないと後々面倒だしな。……平常心、平常心……と)
 呪文のように繰り返してから、振り向きざま深く頭を下げる。
「失礼しました。僕は岸本臣と申します。前山さんに頼まれて、彼女がお休みの間こちらでアルバイトをすることになっているはずなのですが……。お約束の日時を間違えてしまったのでしょうか?」
 怪訝そうな彼を安心させるべく、無愛想に取られない程度の薄い笑みを浮かべてみせた。
「へ?!あ、ああ、環ちゃんのね!そういう話にはなってた気がするけど……あ〜……あれ本気だったのか〜……」
 俺の言葉に思い当たることがあったのか、彼は安堵したように明るい声で相槌を打った。だがすぐに気まずそうに語尾を濁す。
 暫し考え込んだ後、ちらりと俺の顔を見上げてから小さく溜息をついて折りたたみ机へと足を向けた。無言で見守る俺の目の前で、乱雑に机上に積まれていたものを無造作に腕で隅に追いやると、引き出したパイプ椅子に腰を下ろす。またしても『どっこらしょ』の掛け声つきで。
(おっさんくせえ!……のに何故ゾクゾクしてるんだ俺は……!)
 心の叫びは当然ながら表には出さない。我ながら見事な鉄面皮だ。
「ん、まぁ座って座って。立ち話もなんだしね」
「失礼します」
 小さく会釈してから俺も彼に倣って引き出したパイプ椅子に腰掛ける。向かい合うと、彼は値踏みするような視線を俺に投げてきた。
「……環ちゃんから話は聞いてたんだけど、俺は正直本気にしてなかったもんでね。いや、別に人にはいろいろ都合があるだろうし、無断欠勤やあんまり長いこと休むんでなけりゃそのあたりはアバウトにやってるんだよウチは。……環ちゃんは気を遣う子だから、店のこと考えて休みの間代理人を出すとはいってくれたけど、気持ちだけありがたくうけるつもりで……期待しちゃいなかったんだ。まぁ手が足りないのは事実だけど、俺がちょっと気合いれりゃ何とかなる範囲だし。……まさかほんとに来るとはね……しかも君みたいな男の子が……」
 そこまで言って一つ溜息をつくと、彼は左手でシャツの胸ポケットを探ろうとして目的のモノがないことに気がついた。すぐに思い至ったのかドアの隅の灰皿を眺め、諦めたように肩を竦めた。
「……男だと、何か問題があるんですか?」
「ああ、そうじゃないんだ。むしろ男手があればこっちも助かるくらいだし。ウチはほら、ペットショップだろう?しかも男の子の興味を引くような熱帯魚や昆虫は扱ってない、居るのは女の子や子供に人気のある小動物や犬猫だけだ。面接に来るのは女の子がほとんどでね。……だから正直驚いたってわけで、気を悪くしたならゴメンよ」
「ああ、気を悪くしたわけではありませんから、謝っていただかなくても大丈夫です。男でも問題がないようですし、雇っていただけますか?」
 環との約束もあるが、こんな感情を抱いたままバイトを断られ関係を絶たれるのでは生殺しというものだ。何とかして雇ってもらわなければ、と俺は机の下で拳を握り締める。
「ん?う〜ん」
 こちらの熱意が通じていないのか、彼は困ったように眉を寄せるばかりだ。
「先ほどは、男手があれば助かると仰っていたでしょう?それとも僕では役に立てませんか?それほど貧弱なつもりはありませんが」
「違う違う、そんなつもりはないんだ。……そうだなぁ、君……えーっと、名前なんていうんだっけ?」
「岸本臣です。必要でしたら履歴書書きましょうか?」
「いや、大丈夫。大丈夫。えっと岸本君は、動物は好きかい?」
「……嫌いではないです」
(好きでもないが)
 好きだと嘘をつくのは簡単だったが、最善策とは思えない。少なくとも相手は動物を扱うプロだ。こちらの嘘など簡単に見抜いてしまわないとも限らない。多少語調は弱めたものの、正直な気持ちを口にする。
「嫌いではない、か……う〜ん」
 彼は俺の返答に困ったように眉を寄せ小さくうなり声を上げた。その反応に内心焦りつつ表向きには冷静に言い募る。
「あ、いえ、猫が好きです。ネコ」
(ちょっと意味が違うが、嘘じゃないからな)
 咄嗟に出た嘘に頭の中で言い訳じみた言葉を付け足してみる。
「お、君も猫派かい?俺も猫が一番好きなんだよ」
 同好の気安さか、彼はぱっと表情を明るくした。目を細め嬉しそうに笑う顔は、彼の好きだという猫そのものだ。
「そうですよね、いいですよね、ネコ」
(俺はタチだけど)
 我が意を得たりとばかりに相槌を打つ。心の声はもちろん心の中だけに留めておいた。
「飼ってたことはあるかい?別に猫じゃなくてもいいんだけど」
「……経験は無いです。母が熱帯魚を育てていた時期もありましたが」
「ああ、まあ、好きでも飼えない場合もあるからねぇ」
「飼育経験が無ければ雇ってはいただけないのでしょうか」
「いや、そんな事はないよ。そりゃ経験があるに越したことはないけどね。……君は猫が好きなんだろう?ならその点は大丈夫だ」
 我ながらしつこいなと内心苦笑するが、少なくとも俺の熱意は伝わったようだ。彼は腕を組んで、改めてこちらを吟味するような視線を向けてきた。
「けどウチで働くとなると猫の世話だけってわけにはいかないよ?犬は当然だがハムスターやらインコなんかもいる。その仔達の世話を頼んでも大丈夫かい?」
「はい。実は先ほどざっと店内を拝見させていただいたので、少なくとも今扱っている動物の種類は把握できていると思います」
「へえ?チラッとみただけで覚えたって言うのか?」
 彼は悪戯を思いついた子供のように口端を引き上げて笑った。俺は彼が次の言葉を継ぐ前に、記憶したままの動物の種類と大体の数を述べてやる。
 意地悪な彼の笑みがすぐに驚きに解かれるのを、俺は内心ほくそ笑みながら眺めた。
「へえ〜こいつは驚いた。君頭いいんだなぁ。……えっと、大学生だっけ?」
 彼は恐れ入ったとばかりに両手を挙げて見せる。
「いすのき学園大学部一年です。一応法学部に在籍しています」
「いすのき?!へえ、なかなか良い所にいってるじゃないか。道理で頭がいいわけだ。法学部ってことは、末は弁護士かい?」
「そのつもりで学んでいます」
 事も無げに答えると、彼は素直に賞賛の声を上げた。
「ああ、ちょっと待ってくれ。そんな難しいところに通っててバイトする暇なんかあるのかい?勉強についていけなくなっちゃうんじゃ……」
 彼は厭味でなく本心で俺を心配しているようだった。俺は彼を安心させるためにゆるく頭を振って見せる。
「ご心配なく。大学自体はもう春期休暇に入っていますし、これでも時間配分は得意なほうですから。……それに前山さんに頼まれたのは正味10日間、問題になるような日数じゃありませんよ」
「そうか?……君がそういうなら、まぁ……。……しかし環ちゃんも法学部の学生さんに頼まなくてもねぇ……」
「法学部だと問題がありますか?」
「いやいや違うよ。さっきも言ったけど勉強が大変なんじゃないかと思ってねぇ。……いや、恥ずかしい話なんだけど……俺も獣医師の資格が欲しくて勉強して大学目指したのに、ものの見事に全滅しちゃってね。と言っても、俺の場合元々頭の出来が良くなかったってことなんだろうけどね」
 そういって彼はからからと声を立てて笑った。
「そういうわけだから、学生さんの勉強の邪魔だけはしたくないってことなんだ」
「はい、お気遣いありがとうございます。でも、ご心配には及びませんよ」
「……ん、まぁ君は確かに大丈夫みたいだけどねぇ。……あれ、そういえば……」
 彼はなにかに思い当たったのか僅かに声を潜め、上目遣いに俺を見上げてきた。視線が合った途端、俺の背中を甘い痺れが走り抜ける。
(何なんだ!苛めてくれといわんばかりのその目は!)
 どくりと跳ね上がる心臓をどうにか抑え、俺は彼の言葉を待った。
「……聞いてもいいもんかな?環ちゃんと君ってどういう関係なんだい?」
「幼馴染ですが?」
「幼馴染?……幼馴染、ねぇ」
 彼は腑に落ちないといった様子で繰り返す。
「家が隣同士なので、生まれたころから兄弟同然に育ってきました。……なにか問題でも?」
「ああ、兄弟ね。なるほどそれで環ちゃんの頼みを引き受けたのか。なるほどなるほど」
 彼は漸く合点がいったのか、上体を起こして一人頷いている。視線が逸らされて、残念なような安堵したような複雑な気持ちが湧き上がってきた。
「バイトの代わりというのはそんなに珍しいですか?」
「どうだろうねぇ。ま、少なくとも俺はメンドクサくて受けないね」
「そんなに面倒な仕事内容なんですか?」
「……仕事と名がつくものに、そうそう楽なものはないと思うよ。ま、うちは鬼みたいにこき使ったりはしないから安心して。……環ちゃんのシフトは木曜から土日挟んで翌週月曜までの週五日。午後四時から閉店八時までの四時間だ。間に休憩が二十分。……業務内容は主に動物の世話だな。だが君は助っ人だから特別技術の要る仕事を回したりはしないよ。レジとか接客に回ってもらうと思う。……経験は?」
「あまり愛想良くはできませんが、コンビニのレジ程度なら問題なくこなせました」
「よし、なら大丈夫だな。ああ、いい忘れていたがウチはちょっとしたペットホテルもやっているんだ。お客さんのペットを預かったりするんだが……」
「はい。お店の奥で拝見しました」
 中の様子は確認できなかったが、おそらくあの窓の向こうに預かったペット達がいるのだろう。
「そうかそうか。ま、そっちの仕事を頼むこともあるかもしれないから、ちょっと気に留めておいてくれるとありがたいんでね」
「はい。わかりました」
「それじゃあ、悪いが環ちゃんのいない間宜しく頼むよ」
「はい。ありがとうございます」
 彼は俺の返答に満足したのか、パイプ椅子を行儀悪く傾けながら隅においてあったデスクの引き出しに手を伸ばす。倒れるのではないかと不安を抑えながら見守る俺に気づくことなく、乱雑なデスクの中身をごそごそと探りながらさらに質問を投げかけてきた。
「え〜っと、じゃあ一応聞くけどアレルギーはない?」
「いえ、特には」
(強いて言うなら環アレルギーか)
「猫に引っかかれて腫れ上がったりしたこととか、ない?」
「ありません」
(そもそも触らないしな)
 彼は目的のものを見つけたのか左手に書類を掴んで乱暴に引き出しを閉め、椅子を起こして再び俺に向き直った。エプロンのポケットから取り出したボールペンを、やや皺の寄った書類の上に走らせる。
「え〜と、きしもと……おみ、くんだったか?」
「はい」
「おみって、どういう漢字を書くんだい?」
「……失礼します」
 俺は身を乗り出し彼の手からボールペンを受け取って、『岸本』と書かれた癖のある文字の隣に『臣』と書き込んだ。
「綺麗な字だねぇ」
「ありがとうございます」
 彼は感心したように俺の字を眺め、次いで俺の差し出したボールペンを眺めてふむ、と頷いた。
「君はいまどき珍しいくらい礼儀正しいねぇ。親御さんの躾が行き届いているのかな」
 ボールペンを受け取りながらそんな言葉を口にする彼に、俺は曖昧な笑みを薄く浮かべるだけで何も答えない。彼もそれ以上詮索する気はないようだった。
 続いて俺の電話番号や住所などの必要事項を尋ねられ、俺はそれに正確に答えていった。
「えーっと、今口座の番号とかってわかるかい?まぁ明日でもいいんだけど……」
「口座、ですか?」
「そう。銀行でも郵便局でもいいんだけど。ウチは給料振込みなんだ。金の管理は人に頼んでいるもんでね」
(そうだろうな。計算が得意そうには見えないし)
 悪態は心の中だけにとどめ、俺は殊勝な表情を作ってゆるく首を振って見せた。
「すみませんが、給料は環のほうにお願いします。僕はあくまで代理ですし」
「はぁ!?まってまってタダ働きになっちゃうよ?!」
 彼はぽかんと口を開けて動きを止めたが、すぐに焦ったように身を乗り出してきた。
「構いません。もともとお金が目的ではありませんから。……ああ、もちろん仕事の手を抜いたりはしませんからご安心を」
「い、いや、でも、ねぇ……そういうわけには……」
「問題ありませんよ。それに、僕がお役に立てるかどうかやってみなければわかりませんし。もしも役立たずだと判断されたらすぐに解雇して下さって構いません」
「……うぅん……君は……本当にそれでいいのかい?」
「ええ」
(結果的に体で払って貰えばいいわけだしな)
 彼は珍しい動物でも見るように無遠慮な視線を向けてきたが、俺の内心まで読み取れるはずもない。やがて諦めたように肩を竦め、再び書類にボールペンを走らせた。
「……まぁ、君がそういうならねぇ……俺が口出しすることでもないだろうし……。……よし。じゃあ早速だけど明日から来てもらえるかな?簡単に説明をしたいから三十分前くらいに来てもらえるとありがたいんだけど……」
「はい。わかりました。十日間お世話になります」
 深々と頭を下げると彼は複雑な表情を浮かべて肩を落とし、再び目的のものがないシャツの胸ポケットへと手を伸ばした。顔を上げてそれに気づいた俺は、そのまま無言で席を立ちドアの隅の灰皿へと足を向けて床に置いたままのそれを拾い上げようとした。
「あ、ああ、ゴメンゴメン。それはそこでいいんだよ」
 何事かと俺の動きを目で追っていた彼は、漸く俺の意図に気付いて慌てたような声を上げた。思わぬ制止の声を受けて伸ばしかけた手を引き、訝しげに彼を振り返る。
「そこにね、空気清浄機があるんだけど……もう古くてね。買い換える余裕もないからせめて近くで吸ってるんだよ。ま、気休めにしかならないけど」
 そういいながら彼はパイプ椅子から腰を上げ、ゆっくりと俺のほうへ歩み寄った。俺は表向き無表情を装いながら舐めるように彼の所作を眺める。
 彼はまたしても、どっこらしょと声を出してその場にしゃがみこみ、皺の寄った煙草のパッケージと安っぽい百円ライターに手を伸ばした。
「ああ、時間取らせて悪かったね。俺もコレ吸ったら店に出るし、君ももう帰って構わないよ」
 俺が無言で見下ろしているのが気になるのか、彼は少し居心地悪そうに肩を竦め左手でパッケージから取り出した煙草を唇に挟む。
(……煙草じゃなく別のものを咥えさせたら、どんな顔して鳴くんだろうな……)
 湧き上がる嗜虐的な衝動を抑え、俺は彼の言葉に答えることなく膝を折る。驚く彼の手からそっと百円ライターを取り、流れるような所作で彼の咥えた紙筒の先にオレンジ色の炎を翳した。
 彼は一瞬目を見開いたがすぐに軽くフィルターを吸って火を移し、そのまま深く吸い込んで満足そうに目を細めた。
 煙とともに立ち上る濃い煙草の匂い。だが、不思議とそれほど不快には思わなかった。
「君はなんと言うか……完璧だね。さぞかしもてるんだろうなぁ」
「それほどでもありませんが」
「ははは。俺なんかにしたら羨ましいけどね。……ああ、忘れていた……コレを」
 彼は煙草を口端に咥え空いた手でごそごそと尻ポケットを探り、傷の目立つ財布を取り出した。レシートで膨らんだ財布の中から少し端の折れた名刺を取り出すと、それを俺に差し出した。
「これは?」
「店の連絡先だ。俺はここの上に住んでるから、何かあったらここに連絡して」
「ヒラカタ、ソウイチロウさんとお読みして間違いないですか?」
「ああ」
「わかりました」
 俺は名刺をコートの内ポケットに滑らせて、彼が灰を落とすために視線を外したのを合図にゆっくりと腰を上げた。もう少し話をしたいような気もするが、これ以上居座っても良い印象は与えられないだろう。ここが潮時だと判断した。
「……それでは僕はこれで失礼します」
「ん、気を付けてね」
「はい、では明日」
 しゃがみこんだままひらひらと手を振る彼に頭を下げてから、俺はドアノブを引いて事務所を後にした。

 後ろ手に扉を閉めると、どうにもおさえきれぬ笑みに頬が緩む。仕方なく片手で顔を覆いながら再び廊下を進み、軽く頬を叩いて表情を固めてから店内へ戻った。
「あ、おつかれぇ。長かったねぇ〜」
 扉を抜けると、もう同僚気分なのか先程の店員が馴れ馴れしい素振りで声をかけてきた。
「はい。突然のことで店長も混乱されていたようでしたので」
「え〜。でもでも、キミ環ちゃんの代わりにくるんだよねぇ?なんだったらアタシが店長に言ってあげるよぅ?」
「ありがとうございます。ご理解頂けましたので、明日からこちらでお世話になります」
 軽く頭を下げると、後藤さんはきゃあ、と再び黄色い声を上げた。
「あ、ホントにぃ?よかったぁ!岸本臣君だったよね、よろしくぅ。えっとねアタシはねぇ……」
「後藤さん、ですね。宜しくお願いします」
「え〜!何でアタシの名前しってるの〜?!」
「名札に書いてありますから」
 自分の左胸辺りを指し示すと、彼女は己の胸の名札に気がついて照れたように笑った。
「あ〜そっかぁ!そうだよねぇ。あはは」
「……それでは僕はこれで。お仕事中すみませんでした」
「あ、うん。じゃあ臣クンまた明日ねぇ〜!」
「はい」
 頬を薄く染め必要以上に大きく手を振って見送る彼女に軽く頭を下げてから、俺は漸く店を後にした。

 特に急ぐわけでもない家路を、今度は徒歩で辿りながら俺は思考を巡らせる。
(あのおっさんに欲情したのは間違いない。……今までの奴らとはちょっと毛色が違うが、俺が苛めたくなるタイプだっていうのは事実だ)
 交渉する相手には性差より性癖を重視する俺は、男であろうが女であろうが嗜虐心を刺激する相手ならどんな汚い手を使ってでも手に入れてきた。
 今まではどちらかといえば見るからに華奢で儚げな相手が多かったのだが、些か飽き始めていたのも事実だった。自分なりに新しい刺激を求めたということなのだろうか。
(……体の欲求に従わないのは健康によくないからな。きっちり愉しませて貰うとするか。狙った獲物は骨まで食い尽くさないと、な)
 十日という決して長くはない期間にどうやってあの店長を落とすか。俺は頭の中であれこれと考えを巡らせながら、久しぶりに感じる高揚感に自然早くなる歩調を抑えることができなかった。


岸本臣。平方総一郎との出会い。まだまだ続きます。