ペットショップ03

 初日。
 俺は約束の三十分前よりもさらに早い、四十分前にペットショップヒラカタに着いていた。早めに出勤して好印象を与える狙いもあったのだが、正直レポートに身が入らないほどに高揚した挙句、食事もそこそこに駆けつけてしまっていたのだ。遠足を待ちきれない子供とさほど変わりがない。
 俺はすでに慣れた様子で扉を開き店内に入った。
 昨日と変わらず疎らではあるが客の姿もあり、俺はそちらのほうを一瞥してからレジへと足を進める。
「お疲れ様です」
「あっ、臣クンだ〜」
「はい。……店長は事務所ですか?」
「ん、そうだとおもうけどぉ……あ、でもいなかったらアタシが教えてあげてもいいよぅ?」
「それでは後藤さんのお仕事が増えてしまいますし、お気持ちだけありがたく受け取っておきます」
「そ〜お?……じゃまたあとでねぇ」
「はい」
 軽く会釈をして昨日と同様に事務所へ向かった。

 狭い通路を抜け辿り着いた扉をノックする。と、やや間があって『ど〜ぞ?』と昨日と同じように暢気な返事が返ってきた。
「失礼しま……あ、お食事中でしたか?」
 扉を開け中に入ると、狭い事務所の中から香ばしい匂いが漂ってきた。
 見れば、店長が丼の中身をかきこんでいる。
「……んん……ちょっほまってくれ……」
 もごもごと不明瞭な声で詫びてから、また小気味よい音を立てて箸を使う。
「ああ、慌てないでください。消化に悪いですよ」
「んむ……いや、悪いね。ちょっと忙しかったものだから昼を食べそびれてしまって……」
「いえ、僕が早すぎたんですよ。すみませんお邪魔してしまって。……前、いいですか?」
 机まで歩み寄り椅子に手をかけて尋ねると、彼は目線だけで頷いた。了承を得て、俺は引き出したパイプ椅子に腰掛けて彼と向かい合う。
「いやいや、大丈夫。大丈夫。遅刻するよりましだよ」
 そういって笑う彼の頬にぽつんとくっついた米粒に気がついて、俺は噴出しそうになるのを必死に堪えてそっと手を伸ばした。
「……失礼」
 彼は何事かと俺の指の動きを目で追って、頬に触れた指先が米粒を摘み取るのに気がつくと少し照れたように眉尻を下げた。
「え?……ああ、ありがとう」
「いえ」
 答えたものの、さて指先についた米粒をどうしようかと躊躇ったその一瞬、油断していたのか俺はその手を彼が掴んでくるのに気がつかなかった。
 驚く俺に構わず彼は器用に舌先で俺の指についた米粒を舐め取ると、にっと満足げに目を細めた。
「お百姓さんに怒られちゃうからね。勿体無い勿体無い、と」
(……まさか誘ってるんじゃないだろうな……)
 視線に熱が篭るのを抑えられない。
 だが店長はそれに気づく様子もなく食事を再開し、あっという間に平らげてしまった。まるで舐めたように綺麗になった丼を目にして、俺は少しばかり驚いていた。
「さぁて、昼も食べたし仕事の話といこうか。……ああ、まずは着替えてもらわないとね。ロッカーに移動しよう」
「はい」
 満足気に己の腹を軽く叩いてから、彼は椅子から腰を上げた。俺も倣って腰を上げ、彼の後に続いて事務所を出る。俺が出るのを待って、彼が隣の扉を顎で示した。
「ここだよ。ドアノブに使用中のプレートがかかってたら女の子が使ってるから間違っても入らないようにね。興味もある年頃だとは思うんだけど、ウチの女の子たちはちょっとばかり気が強い子ばかりでね。……と、聞こえてたらまた怒られちゃうなぁ」
 苦笑交じりに肩を竦めながら、彼は『空』と書かれたプレートを確認してロッカールームの扉を開ける。扉の向こうに消える彼を追って、俺も室内に入った。

 事務所よりもさらに狭く細長い空間。右の壁一面にロッカーが並び、左に申し訳程度にベンチが設置してある圧迫感のある部屋だった。
 店長は一番奥の名札のついてないロッカーをあけて、何もないことを確認するように覗き込んでから俺に視線を向けた。
「……え〜と、これが君のロッカー。そしてこれが名札とエプロン。ドア脇の壁にタイムカードがあるから忘れず押しておいて。それから……」
 一つ一つ確認するように俺の顔を見ながら丁寧に説明をしてくれる彼に、俺はいちいち頷いて見せる。
 終始この調子で就業に関する諸注意と簡単な仕事の内容の説明を受け、俺はそれをメモすらすることなく完璧に覚えた。

 身支度を終え、場所を店内に移すとまずはレジの操作を教わった。
 担当の後藤さんも興味津々と言った様子で眺めていたが、レジの細かい操作まで一回で覚えた俺に驚いたらしく、歓声をあげながら拍手まで寄越してきた。釣られたように店長まで拍手をするものだから、恥ずかしい上に居心地の悪い思いまでさせられてしまった。
「よし、それじゃあ今日は後藤さんと一緒にレジをやってくれるかな?後藤さんのサポートって形で。男手が必要なときはまた声をかけるよ」
「はい」
答えて、記念すべきバイト一日目の業務に取り掛かったのだった。

「お〜い、岸本君」
 客足も疎らになり、俺の就業時間も終わりに近づいた頃、店長がレジにいる俺に声をかけてきた。
「なんでしょう」
「いや、ちょっと手が空いてたらお願いしたいことがあるんだけど……いいかな?」
(そりゃ願ったりだ。いいかげんこの女の相手するの疲れてきてたしな)
 店長の申し出に内心小躍りする思いだった。後藤さんはベテランらしく仕事はきちんとしているのだが、空き時間にあれこれと話しかけられてうんざりしていたところだったのだ。
「後藤さん、店長のほうをお手伝いしても構いませんか?」
 気持ちとしては今すぐにでも店長に駆け寄りたかったが、形ばかり後藤さんに確認を取る。
「ええ〜。ん〜ダイジョブだよ、今暇だし〜」
 話の途中だったことが不満だったようだが、それでも店長には逆らえないのかしぶしぶながら承諾してくれた。
「はい。それでは行きましょうか、店長」
 心の中では開放感に浸りつつ、表立っては真面目な表情を取り繕ってレジを抜け店長の方へと歩み寄った。
「ああ、悪いね。ちょっと岸本君借りるよ〜」
 店長はまだレジにいる後藤さんに一声かけてから、視線で俺を促してくる。俺も無言で頷き彼の後に続いた。

 狭い廊下や扉を抜けて辿り着いたのは、最初に見ることができなかったガラス窓の向こうの小部屋だった。
「ペットホテル、ですね」
「ああ、今六匹預かってるんだ。君、猫好きだったよね?」
「ああ……はい」
 どうやら猫が好きだといった俺のために、特別に猫の世話をまわしてくれたようだ。
(そういえば、そういう事にしたんだったな。これがネコのほうならハーレムなんだが)
 狭いながらも清潔な印象の小部屋には、表にあるものよりも一回り小さなケージが並んでいて、それぞれに猫が入れられている。照明は店内よりも落ち着いたもので、ケージの中の猫達もリラックスした様子だった。
「この子達に餌をあげてくれないかな。あと食べ終わるのを見届けてから、餌皿の洗浄と消毒も頼むよ。やり方は今から説明するから」
「はい」
 並べられる餌皿と、それぞれ違った種類の猫餌のパッケージ。どうやら生意気なことにそれぞれ好みがあるらしく、気に入らないと食べないこともあるらしい。預かった家庭からそれぞれの好みの餌を指定され、しかもそれを好みの分量ずつ与えなければならない。店長の説明は理解できたが面倒臭い事この上もない作業だ。咄嗟に自分がついた嘘がこんな形で跳ね返ってくるとは思わなかった。
 そもそも甘やかし過ぎなのではないか。効率を考えれば餌の種類は統一したほうが良いだろうにと、それとなく進言した俺に店長は困ったように小さく笑って見せた。
「ウチはね、構えは小さいが歴史だけは古くてね。ありがたいことにウチを信用して大事な仔を預けてくれるお得意さんが沢山いるんだ。だからこっちもその信用に応えたい。……宜しく頼むよ?」
「……判りました」
 真剣な様子で念を押す店長に、些か気圧されたように頷いた。
(そこまで言われちゃ断るわけにもいかないしな……仕方ない、少し真面目にやるか)
 去っていく店長の背中を見送りつつ、俺は心の中で小さく溜息を吐いた。

 じゃれつかれたり威嚇されたりと余計な手間のかかる作業に加えて餌の臭い強さに閉口しながらも、量も分量も間違えることなくすべての猫に餌を与え終わった。
(ふん。完璧だな。俺の仕事だから当然だが)
 ケージの中で餌皿に顔を突っ込んでいる猫たちを眺めながら自分の仕事の完璧さに惚れ惚れしていると、店長が様子を見にやってきた。
 彼は餌皿の食べ残しや、猫達の状態をチェックした後、満足の行く仕事ぶりだったのか嬉しそうに笑って俺の肩を叩いてきた。
「綺麗に食べたみたいだねぇ。機嫌も良さそうだし……猫好きの岸本君に任せて正解だったな」
「はい。ありがとうございます」
(賛辞の言葉はいくら聞いてもいいもんだ)
「じゃあ後は餌皿の洗浄で終了だ。それが終わったら上がっていいよ」
「はい」
 俺は店内に戻る店長を見送ってから、食事の後片付けを始めた。
 食べ残しの臭いも強いし面倒な作業ではあったが、綺麗に平らげられた皿を洗う時だけは少し気分が良かった。

(よし、今日の仕事はすべて終わったな)
 すべての作業を終えた俺はロッカーで身支度を整えると、『岸本』と書かれたタイムカードを押して店内に戻った。
 閉店後の店内にはまだ仕事をしている店長と後藤さんの姿がある。後藤さんにロッカーの使用を促してから、店長に向かって軽く会釈をすると彼も俺に気付いて笑顔を返してきた。
「お疲れ様。助かったよ。……帰り道に気をつけてね」
「はい。それではお先に失礼します」
 挨拶を交わし、俺は店を後にした。
 高めの温度に設定された空調に晒されていたためか、疲れた体に冷えた外気が心地良かった。


岸本臣。バイト一日目。いろんな意味でまだまだこれから。