ペットショップ13

九日目。
(明日でバイトも終わりか……)
 すっかり慣れてしまった身支度を終え店に足を向けると、俺と入れ違いにスタッフルームへの扉を通ってきた店長に声を掛けられた。
「ああ、岸本君。今日は後藤さんが休みだから、接客を頼むよ。俺は事務所にいるから何かあったら声を掛けて」
「はい」
 最終日を目前に、店長に劇的な変化は無いように見える。指示を出している時も、視線をさらっとこちらに流しただけだ。時折見せる小さな変化を鑑みれば、確かに手応えはある筈なのだが。
(もともと淡白なようだし、あまり顔に出ないタイプなのかもしれないが……。最悪、バイトが終わっても会える口実を作っておいたほうが良さそうだな)
 とはいえ、このままバイトを続けるつもりも無い。何か別の方法は無いものかと思案しながら作業していると、カランと小さな音を立てて扉が開いた。反射的にいらっしゃいませと声を掛けはしたものの、思考の海に浸っていた俺は敢えて誰何しようとはしなかった。……油断していたのだ。
「「「臣〜」」」
 唐突に背中にかかった声には覚えがあった。背筋を走る悪寒に耐えながら振り返れば、想像通りの顔が三つ。合コンの頭数合わせに呼ばれたとき紹介された環の友人なのだが、それ以降何かと言うと纏わり付いてくる女共だ。女三人寄ればなんとやらを体現してるような奴等で正直鬱陶しいのだが、環絡みでは邪険にすることも出来ない厄介な連中だった。
「……何故……」
 内心怒鳴って追い返したくなる気持ちを無理やり抑え、とりあえずそれだけを口にする。奴等は可愛い動物達には目もくれず真っ直ぐ俺の方に向かってきた。猪のようなその姿を視界に捉えて、俺はらしくもなく後悔する。最初にきちんと誰何していれば、彼女達から逃げることも出来たかもしれないというのに。
「やだ、マジで臣じゃん!てか、エプロン似合わね〜」
「え〜そんなことないよぅ!臣君なら何でも似合っちゃうもんね〜?」
「また環の我侭でしょ?臣ってばなんだかんだ言って環に優しいよねぇ。アタシたちにももうちょっと優しくしてよ〜」
 女共は三人で俺を取り囲み早速ぺちゃくちゃやり始めた。静かだった店内に突然現れた嵐に、他の客も何事かと遠巻きに俺達を見ている。これ見よがしに眉を顰める客もいた。
(……不快な気持ちは分かるが、俺のせいじゃない)
「……すみません。店内ですので静かにしていただけませんか?」
 片手を挙げて言ってはみるものの、あまり応えた様子はない。さりげなく身を引いて女共から距離をとるのがせいぜいだ。
「ごめ〜ん」
「ほら、ちょっと黙ってよぅ。臣くん困ってるじゃん」
「え〜そんな騒いでるかなぁ……臣が黙れっていうなら黙っとくけどさぁ」
 俺の顔色に不安を覚えたのか、女共がとりあえずは静かになったところで、俺は堪えきれなかった溜息を零した。
「……で?どうしてここが?」
 問い掛けに一度だけ顔を見合わせた彼女らは、我先にと争うように口を開いて喚きはじめる。勢い込んで詰め寄ってくるのを往なしながら、人語には遠い言葉を聞くのは本当に苦痛だった。
「環がさぁ、ちゃんとやってるか見てきて欲しいって〜」
「そろそろだらけてるかもしれないから、だってさぁ。臣くんがそんな無責任なことするはずないのにねぇ?」
「てゆか、もうすぐ終わりでしょ〜?そんなに心配なら早く帰ってくればいいのよねぇ、環ってほんっと我侭。幼馴染ってだけで臣くん使いすぎだっての〜。ムカツク〜」
 女共の言葉に俺は軽く眩暈を覚えた。環は俺がこいつらを嫌っている事を知っている筈なのだ。それなのに敢えてこのメンバーをチョイスするとは。やはりあの電話で彼女を怒らせてしまったのは失敗だった。おそらく帰国すれば嫌がらせの追撃が待っているのだろう。
(環のやつ……どこまで俺に嫌がらせすれば気が済むんだ……)
「……営業妨害をしにきたのですか?」
 悪い予感にぎりぎりと痛むこめかみを指先で押さえ、不機嫌を滲ませながら問い掛けると、彼女らは心外だといわんばかりに唇を尖らせた。
「やだ!ひど〜い!私そんなつもりないもん!」
「アタシら臣が心配なんだよ〜?」
「そうだよ〜」
 三人揃ってブーイングの嵐だ。これでは冗談でなく営業の妨げになる。
「お気持ちは大変有難いのですが、僕は今仕事中です。お店の迷惑になるようならお帰りいただくことになりますよ」
 表面上は笑みを浮かべながらも声音には威圧を込めて口にすると、途端に彼女らの腰が低くなった。
「え〜ごめんってば、臣〜」
「じゃあさ、環にはちゃんとお仕事してるってメルしとくからさ〜。仕事終わったらアタシらと遊ぼうよ〜?」
「カラオケとかさ、ストレス発散になるよ?」
 女共の一人が馴れ馴れしく腕を取ってくるのをやんわりと外して、困ったように眉を寄せて見せる。
「……すみません。今はバイトと勉強の両立であまり自由な時間が取れませんので、また機会があればその時に」
(誰がお前らとカラオケなんざ行くか。余計ストレス溜まるだろうが!)
 引き攣ったこめかみを隠し努めてすまなそうに口にすると、今度は環が槍玉に上がった。
「ええええ〜も〜環ったら自分がいないときでも臣くん独り占めだよ〜」
「……臣くんやっぱり環に気があったりするの?」
「え〜やだ、そんなことないよねぇ?」
 三人ともがそれぞれ瞳を潤ませながら見上げてくる。彼女らの気持ちは分からなくもないが、それに応えることはできなかった。と言うかもう面倒臭かった。
「……環は大事な幼馴染ですが、それ以上でもそれ以下でもありませんよ」
 おつむの弱い子供に言い含めるように言葉を返すと、女共は一気に顔を綻ばせる。
「そっか〜よかった〜」
「じゃあ、しょうがないから諦めてかえろっか?」
「うん。臣を怒らせてもヤだしね〜。でもバイト終わったら絶対遊んでよ〜?」
 どうやら環に恋愛感情は無いと答えた事でご機嫌が直ったらしい。女共は急にしおらしく身を引くと、俺に軽く手を振ってから踵を返した。
「「「じゃ〜またね〜」」」
 けたたましい笑い声と共に、嵐のような女共は店を去っていった。漸く静けさの戻った店内にほっとした空気が流れる。みな思うところは同じなのだろうか、妙な連帯感が生まれているようだった。
(……塩撒いとくべきか?)
 この静寂を再び壊されるのは御免だ。半ば本気で塩を探そうかと事務所へ足を向けた時、スタッフルームへの扉を細く開けて隠れるようにこちらを見ている店長と目が合った。
 彼は俺に見咎められて咄嗟に身を隠そうとしたものの、すぐに意味のない事だと気がついたのか、曖昧な笑みを浮かべながら扉を通ってこちらに歩いてきた。
「……お騒がせして申し訳ありません」
 俺の方からも彼に歩み寄り、謝意を込めて頭を下げた。店長はいやいやと軽く手を振って見せた後、女共の姿を確認するようにちらりと店外に視線を向けた。
「……学校の友達かなにかかい?」
「いいえ。前山さんの友人です。僕とは前山さんの紹介で何度か遊びに行った程度の知り合いですよ。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」
「ああ、いや、それはいいんだよ。それほど長い時間じゃなかったしね」
 店長は店の外から目を戻したものの、そのまま俺と視線を合わせることなく俯いてしまった。
「店長?」
 不審に思って声を掛けると、店長は俯いたまま深い溜息を吐いた。
「……いや、君はホントにもてるんだなと改めて思ったものだから……まあ、当然だよねぇ。実際、君目当てっぽいお客さんも増えてきたし」
「もてている訳ではありませんよ。前山さんの交友関係が広いので、僕も自然と知り合いが多くなるだけです」
 俺の言葉に、顔はそのままで視線だけを流してくる。拗ねているようにも媚びているようにも見える彼の瞳は思いの外艶っぽく、俺は心の中だけで愉悦の笑みを浮かべた。
「……環ちゃん、か。……君はホントに環ちゃんを大切に思っているんだね。こんなバイトも引き受けてしまうくらいに」
 僅かに尖らせた唇からは、やはり拗ねたような言葉が零れ落ちる。俺は笑い出しそうになる頬を引き締めながら、惚けた振りで小首を傾げてやった。
「以前申し上げたとおり、兄弟のようなものですから。それ以上でもそれ以下でもありませんよ」
(この言葉には?はないな。いっそ居なくなってくれればどれだけいいか)
 店長は言葉の真偽を確かめるように顔を上げ、俺の瞳を覗き込んできた。
「……そう、なのかい?じゃあ今好きな……は……」
「……好きな?」
 問い返したのには意図があった訳ではない。あまりにも語尾が弱くて聞き取れなかったのだ。
「ああっ!いや、いいんだ!うん。気にしないでくれ」
 今吐いた言葉を掻き消すかのように慌てて両手を振った彼は、その両手で自らの頬を軽く叩いた。
「あの」
「ホントになんでもないんだ!忘れてくれ」
 叩いただけではないのだろう、薄紅く染まった頬を隠すように背を向けた彼が、深呼吸を繰り返しているのは大きく上下する肩で見て取れた。店長の動揺が治まるのを待ってから、線の細い背中に声を掛ける。
「……店長、時間ですが」
「えっ!?……ああ……時間か」
 思わずと言った様子で振り返った彼は、すぐにしょんぼりと肩を落とした。
「そうだね……もうすぐ終わるんだよね」
 赤くなったり青くなったりくるくると表情を変える。見ていて飽きない人だ。もう少しその変化を愉しみたいところだが、ここは畳み掛けたほうが良い反応が見られそうだ。笑いが声に滲まぬように気をつけながら、怪訝そうな表情を作って見せる。
「終業時間にはまだ早いですよ」
「何言ってるんだい、君の……」
「僕の?僕は猫の餌の時間をお知らせしたのですが」
 切なげに歪んだ視線を態と躱して眉根を寄せれば、漸く合点がいったのか店長があっと小さく声を上げた。ほんのり薄紅だった頬が一気に鮮やかな紅に染まる。
「あああ!そうだね!うん、餌だ餌だ!今日も頼んだよ岸本君!」
「はい」
 大袈裟に両手を振り、誤魔化すつもりなのか何度も俺の背中を叩いてくる。加減を知らないその手に少々苛ついたものの、頷いて了承を示すと店長はその手で赤くなった頬を撫で下ろし、そのままスタッフルームに足を向けた。
「あ〜俺は、ちょっと一服してくるから……」
「わかりました」
 覚束無い足取りで事務所に向かう彼の背中を、俺は一人愉悦の笑みを浮かべて見送った。


 仕事を終え帰宅する俺を、店長はいつものように見送ってくれた。珍しく言葉少なではあったが、まだ熱を残したままの瞳は雄弁に彼の恋情を表している。どうやら延長戦の必要はなさそうだ。確信を得て、自然と足取りも軽くなる。
 明日は最終日。給料代わりに彼の身体を戴けば、この面倒なバイトも終わりだ。目的を果たしてしまえばもう彼と会うこともないだろう。
 ふと、胸に落ちた痛みに足を止める。慣れぬその感覚を吟味してみれば、どうやら寂寥感に近いもののようだった。
(……いや、気のせいだな)
 自嘲の笑みを形作った唇から覚えのない感情を吐き出して、俺は再び歩き始めた。


岸本臣。決戦前夜。