ペットショップ12

八日目。
普段通りに出勤した俺は、スタッフルームへの扉に辿り着いた所で後藤さんに呼び止められた。
「あ、臣クン!いつも早め出勤だねぇ〜えらいえらい」
後藤さんは嬉しそうに背伸びまでして俺の頭を撫でてきた。最近後藤さんは何彼と俺に触れようとしてくる。その度に不愉快さを表に出さないよう努力しなければならなかった。
「有難うございます。……店長は?」
さりげなく顔を逸らして尋ねると、彼女は少しだけ不満そうにしたもののすぐに笑って手を引いた。
「ん〜お昼前から事務所に篭ってるみたいだよ〜。そんな忙しくないからいいけどさぁ〜」
「何かあったんですか?」
「んん〜まあ、ねぇ〜。店長も大変だから〜」
 歯切れの悪い物言いに何か引っ掛かるものを感じたが、このまま彼女に事情を聞くのはかえって面倒だ。直接本人に事情を聞いた方が良いだろう。
「……少し様子を見てきます」
「あ〜うん。でも〜店長忙しそうだったらアタシが仕事教えるからね〜」
 言い募る彼女に笑みだけを返して、逃げるようにスタッフルームへの扉を潜った。


 辿り着いた事務所の扉をノックする。が、返答がない。
「店長?いらっしゃいませんか?」
 もう一度ノック。やはり返事はなかった。
「……失礼します」
 思い切ってドアを開ける。いつも通りの乱雑な部屋、そのデスクに向かう人物の姿。見慣れた背中はデスクに突っ伏しピクリとも動かなかった。不穏なものを感じ慌てて駆け寄ってその顔を覗き込むが、予想に反して力の抜けた寝顔がそこにあった。
(……なんだ、寝ていたのか。涎まで垂らして……)
 安堵の溜息を吐いて、暫し間抜けな寝顔を堪能した。疲れた印象のせいか実年齢よりも年上に感じられる彼だが、寝顔は幾分か若く見えた。悩みを感じさせない緩みきった頬がそう思わせるのだろうか。
 熟睡しているのを確認してそっと頭部に触れてみると、癖のある髪は予想以上に柔らかく俺の指に絡んできた。
(この髪掴んで緩んだ唇に俺のを咥えさせたら……どんな顔して啼くんだろうな)
 この平和な寝顔が苦痛と快楽に歪む様を想像して、俺はぞくぞくと背筋を震わせる。無意識のうちに力の入った指先が絡んだ髪を引っ張ってしまい、その痛みに店長が顔を歪めたものだから俺は即座に手を離した。
「ん〜……」
「……こんなとこで居眠りすると風邪を引きますよ?」
 先ほどまでの自分の所業を棚に上げ、態とらしく気遣わしげな声をかける。
「んん……えっ!?岸本君?」
 店長は慌てて上体を起こし、驚いた顔で俺を見上げた。
「はい。すみません、お返事がないのに勝手に入ってしまいました」
「いや、それはいいんだけど……俺、寝てたのかい?いつの間に……」
 そこまで言って自分の口元を伝う唾液に気がついたのか、あたふたと手の甲で拭った。
「お疲れなのではないですか?」
 見咎められているのではと不安げな視線を向けてくるのに、態と気付かない振りで言葉を続ける。
「ああ、いや……そうだね。少し、ね」
 一度否定しかけた彼は、その行為の無意味さに気がついたのか、薄らと影を落とした目元を隠すように俯いてしまった。
「睡眠不足のようにもお見受けしますが」
 図星だったのか、店長が伏せた目を更に逸らして俺の視線から逃れようとする。俺はそれを許さず、覗き込むように距離を詰めた。
「う、うーん……これでも一応寝たのは寝たんだけどね」
「足りてないんですね?」
 語調を強めると、彼は叱られた子供のように首を竦めた。
「……まぁちょっと忙しくてね。いや〜年には勝てないねぇ」
「何か問題でも起こったんですか?」
「……問題というか……まぁ俺の力不足が招いたことだからね。問題があるとすれば俺なんだけど……」
 誤魔化しが効かないと悟ったのか、不明瞭な声色で言い淀んでは視線を彷徨わせる。心持ち尖った唇は俺の欲を煽った。勿論彼の意図するところではないのだろうが。
「何かお手伝い出来る事はありますか?」
「いや、これは俺の問題だからねぇ」
 緩く両手を振ってあしらおうとする仕草が気に障る。どうあっても聞きだしてやろうと、俺は更に言い募った。
「……人に話す事で問題を客観的に纏められるという利点もありますよ?僕で良ければ話していただけませんか?」
「ん?……ああ、そうか。それも一理あるかもしれないね……」
 漸く視線を俺に戻した彼は、そのまま暫くじっと眺めてから諦めたように肩を竦めた。椅子の背もたれに背中を預け、疲労と気掛りを吐き出すように重い溜息を吐く。
「君も気づいていたかもしれないけど……ケージに出してる仔はね、言葉は悪いがいわゆる行き遅れなんだよ」
「あの、コーギーがですか?」
 彼の言葉に、小さな尻尾を千切れんばかりに振って客の笑顔を誘っていた仔犬を思い出した。愛らしいその姿に『行き遅れ』という言葉は似付かわしくないように思える。
「そうだよ。あの仔は大きくなってしまっていてね。……悲しいけど、お客さんは小さな仔にばかり眼が行くもんで、この先売れる確率は低いんだよ」
「……そういうものなのですか?ある程度成長したほうが扱い易いのでは?」
(小さいうちは手もかかるし、病気もする。面倒だと思うんだが)
 俺の言葉に店長は一瞬目を見開き、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「ははは。君のような考えの人ばかりなら良いんだけどね。まあ、実際躾の面から言えば若い方が良いわけだし、小さな仔が先に売れてしまうのもしょうがないことではあるんだよ……。そういうわけで、お客さんと接触する機会を多く持って、買ってくれるようアピールするためにもケージに出しているんだけどね……それもそろそろリミットなんだ」
「……売れなかった動物はどうなるんですか?」
 俺の問いはやはり彼には辛辣なものだったようで、暫く口を閉ざしてしまった。組んだ両手で口元を押さえ眉根を寄せるその姿は、痛みを堪えているように見える。
「……悪い例はあまり言いたくはないので控えさせてもらうよ?俺はそれを避けるために、今頑張っているんだしね」
「はい」
 重い沈黙の後吐き出された彼の言葉は、組まれた指の向こうで低く掠れていた。
「良い例……というか悪あがきに近いんだが……まずはスタッフで引き取ることだけど、俺を含めてちょっと難しい状態だね……。今まで随分みんなにも無理を言ってきたし、これ以上はねぇ……。次はブリーダーに安く譲る。だがあの子は特別良い血統ともいえないから、あまり現実味がない。さっきから知り合いに打診してはいるんだけど、あんまり良い感触じゃなかった。とりあえず検討するとは言ってくれたけどね……」
 言いながら確認するようにちらりとデスクの上のノートパソコンに視線を向ける。画面に彼の望む結果は表示されていないようで、落胆に項垂れてしまった。
「他には?」
「……ここで大手のチェーン店なら支店と相談してどうにか買い手を見つけられるかもしれないけど、ウチではそれも無理だしねぇ……」
「悪い選択しか残っていないのですね?」
「いや!いや……そうはしたくないんだ……」
 俺の言葉に狼狽した様子で顔を上げた店長は、開放された唇から悲痛な声で否定して縋るように俺を見上げてくる。途端、俺の背筋を衝動が走り抜けた。
(なんて顔してるんだ……)
 切なげな視線は確かに好みのものではあったが、俺ではなくあの仔犬の為に感情を揺らしているのは面白くなかった。
「……お客様に買っていただく事が最良の選択なのですね?」
「それは勿論そうだけど、売れればいいってものでもないんだ。飼い方に慣れてないお客さんに無理やり勧めるわけにもいかないしねぇ」
 店長は再び視線を落とし、半ば諦めたような口調で溜息混じりに言った。そこに僅かに含まれた媚びた声音に、気付かない俺ではない。
「……僕に、時間をいただけませんか?今日の就業時間内で構いませんので」
「へ?」
 俺の言葉は予想外だったのだろう。店長は随分と間の抜けた声を上げ、呆けた様子で俺を見上げてくる。
「今日は僕に接客を担当させてください」
「……あ、ああ。今日は特に男手が必要なわけでもないから、それは構わないけど……」
「有難うございます。では」
 店長は戸惑う素振りを見せるものの、俺の申し出には頷いてくれた。謝意を表す為軽く頭を下げると、俺は透かさず踵を返した。
「き、岸本君?」
 背中に掛かる狼狽した声に振り返ることもせず、俺は足早に店内へ戻った。


 就業時間も後半に近付いた頃、俺は再び事務所のドアをノックした。
 応答を確認してから中に入ると、最後に見た時と変わらない姿勢で店長がパソコンに向かっていた。疲労だけが増した背中は俺を振り返ることもない。俺は逸る気持ちを抑え、努めて冷静に声を掛けた。
「コーギーお買い上げです。契約手続きをお願いします」
「……へ?え?えっ?」
 一拍の間を置いて返って来た彼の言葉は、振り向いたその顔と同様に間抜けなものだった。俺の言葉が理解出来ないらしく、瞠目したまま首を傾げる。
「お客様は、犬種こそ違いますが既に2匹飼っていらっしゃるそうですし、飼育環境もお話を伺う限りは問題ないと思います」
「そ、そうかい?それは願ったりだけど……」
 俺の説明に頷いては見せるものの、俄には信じ難いのか怪訝そうな視線を向けてくる。
「お客様がお待ちですよ。……店長はあの仔が心配だったのでしょう?」
 漸く俺の言葉の意図を悟ったのか、彼はがたがたと派手な音を立てて立ち上がった。
「ああ!申し訳ない!今行くよ!」
 そうして嬉しそうに笑って、足音も荒く事務所を飛び出していった。
 騒がしさが遠のいた事務所で一人、俺は店長の笑顔を反芻して口端を引き上げる。疲労と不安で萎れた先程までの彼とは別人のような、晴れやかな笑顔だった。
 その笑顔のまま嬉しそうに子犬を送り出すだろう店長を見ていたい気もしたが、ここで俺が出てしまっては意味がない。俺はあの冴えない彼に華を持たせてやりたかった。


「……いや〜驚いた。君はいったいどんなマジックを使ったんだい?」
 俺が事務所で回収した廃棄商品を処理していると、契約を終えたのか店長がほくほく顔で事務所に戻ってきた。
「普通にお勧めしただけですよ」
 謙遜するでもなく言葉を返すと、店長はニヤニヤと見慣れぬ笑みを浮かべて俺の肩を叩いてきた。どうやら相当上機嫌のようだ。
「いやいや、そんな筈はないだろう。……後藤さんが絶賛していたよ?ホスト向きだってねぇ?」
 彼にしては珍しく含みのある視線を向けてくるのに、俺は辟易しながら肩を竦めて見せた。
「……売り込んだのは僕自身ではなくコーギーですよ」
(まあ、店長に俺を売り込むつもりはあったけどな)
「そりゃそうだけど……。いや〜しかし俺も見てみたかったな、君の売り込みっぷりを」
 俺が乗ってこないのが不満なのか、店長が唇を尖らせる。媚を含んだ仕草を見てふと湧いた悪戯心に、俺は手にしていた廃棄商品を置いて立ち上がった。
「……店長」
「ん?なんだい?」
 体を寄せ瞳を覗き込む俺に、店長は不思議そうな視線を合わせてくる。俺はさりげなくその手を取り、両手で挟むようにして緩く撫でた。店長が少しだけ眉を寄せる。嫌悪の色は無いが明らかに戸惑っていた。
「手、荒れていますね」
「え?あ、ああ、まぁ、こういう仕事だからね。消毒液やらいろいろねぇ」
 俺の唐突な行動の意図に思い当たったのか、店長は少し恥ずかしそうに笑う。それでも俺の手を振り解こうとはしなかった。
「……貴方の仕事に対する熱意は尊敬に値します。……けれど、少し残念です」
「残念?何故だい?」
「貴方の手に触れたくても……荒れている手では貴方に痛い思いをさせてしまいそうで。貴方の手が荒れていなければ、もっと長くもっと強く貴方に触れていられるのに……それが残念なんです」
 囁くように言葉を紡ぎながら握る手に力を籠める。店長の手が僅かに汗ばんだ。
「……き……岸本……君?」
 躊躇いがちに手を引こうとするのを許さず、指先を滑らせて擽るように撫でる。荒れた手には少しの接触も刺激になるのか、小さく彼の指先が震えた。
「僕の知り合いに薬品を扱っている者が居るのですが、とてもよく効く軟膏があるんです。こういった手荒れに特化して開発されたもので、効果は僕も保障します。……ですが、少々高価なので……お勧めして良いのかどうか……」
 挟んだ手に痛みとも快楽ともつかない程度の曖昧な刺激を送りながら、上体を傾けて店長の鼻先に限界まで顔を寄せる。話の内容に色を添えるように、甘さを増した優しい声音で言葉を続けた。
「……な、軟膏?……」
 店長が近すぎる俺の顔と握られたままの手に交互に目を向ける。困惑も顕に視線を泳がせる彼は、それでも俺の手を振り解こうとはしなかった。吐息が掛かるほどの距離もそのままだ。
「出来れば僕がそれを貴方にプレゼントして差し上げたいのですが……僕もまだ学生の身で自由になるお金がありません。情けない限りです。……お金さえあれば、もっと貴方に触れていられるのに……」
 語尾に熱を籠めて囁きかけ更に体を密着させると、店長は頬を薄紅に染めて逃げるように顔を逸らしてしまった。
「いや、あの、その……そんなこと言われても……」
 しどろもどろに言葉を探す彼の意外と長い睫が震える様を楽しんでから、俺はスイッチを切り替えたように唐突に体を離し、掴んでいた手をそっと開放した。
「……こんな感じですが」
「へ?」
 急に外気に晒された掌を行き場もないのか中空に浮かせたまま、店長は思わずといった様子で顔をこちらに向けた。潤んだ瞳と紅い目尻が俺の目を愉しませる。ぞくぞくと背筋を走る愉悦を隠し、あくまで表面は平然と言葉を繋ぐ。
「売り込みっぷりを見たかったと仰ったでしょう?」
「あ、ああ!……って君、こんな調子であのお客さんにも?」
 漸く一連の行動の意図が理解できたのか、店長はへなへなと体の力を抜いた。
「もう少し控えめですが」
「……参った……後藤さんが絶賛するはずだよ……」
 恥ずかしそうに笑いながら肩を竦めて見せる店長が、胸元に引き寄せた己の手をそっと撫でる仕草を見逃す俺ではない。
「この方法では問題がありますか?」
「いや……まぁ……無くもないのかもしれないけど……契約の時に話をする限りでは安心できるお客様だったし……問題どころか、あの仔には良い事だったと思うよ」
「それなら良かったです」
「……は〜。いや、おかしいな。同じ男なのにドキドキしたよ。……君はホントにホストにでもなったらあっという間に大金を稼いでしまいそうだなぁ」
 店長は身の内に溜まった熱を、深い溜息に乗せて吐き出した。それでも拭い切れない感情を振り落としたいのか、それとも単なる照れ隠しのつもりなのか、だらしなく頬を緩ませたまま両手をひらひらと振って見せる。
「それほど甘い世界ではないと思いますよ」
「いや、君なら通用するよ。俺が太鼓判押してもいい」
 店長に力説されても俺は苦笑するしかない。ホストの何たるかも分かっていないだろうに、無責任な発言もあったものだ。
「……褒め言葉と受け取っておきます」
(俺は一匹の獲物に集中したいし……当面はコイツだけでいい)
 おざなりに返事を返して、この話題を打ち切るべく口調を変えて言葉を継いだ。
「お話の途中で申し訳ありません。時間もありますし、次の仕事の指示をいただきたいのですが」
「えっ?ああ、そうだね。じゃあ例のごとく猫達の餌をお願いするよ。ちょうど時間だしね」
 俺の言葉に事務所の掛け時計を確認して店長が言った。切り替えが下手な彼の目元には今も薄く紅が差している。
「わかりました」
 横目に店長の艶を含んだ姿を愉しみながら、俺はペットホテルへと足を向けた。


 今日の仕事を終え帰宅する俺を、店長は何時ものように見送ってくれた。
 その頬に先程の紅こそなかったが、合わせた視線は僅かに熱を潜ませたままだ。慣れた秋波も店長からだと思えば一層心地良い。
 手応えに満足しながら、俺は足取りも軽く帰途についた。


岸本臣。元論そんな友人は居ません。