ペットショップ11

 七日目。
 今日もいつも通りの時間に出勤し身支度を終えると、店長の指示を仰ぐために事務所へ向かった。
「今日は」
「ああ、岸本君……」
 ノックの後室内に入ると、困り顔の店長が迎えてくれた。
「どうかされましたか?」
「いや……実は今日シフトに入る子が風邪ひいちゃったみたいでね。……休むと連絡が着たんだけど……」
 語尾は溜息交じりでさらには肩まで落とした姿に、俺は深刻ぶって眉根を寄せながら問いかけた。
「……手が足りませんか?」
「正直そうなんだ。後藤さんも休みだしね……」
「僕で出来ることでしたらお手伝いしますよ?」
 当然のように口にしたのだが、店長はますます申し訳なさそうに首を竦めてみせる。
「……いや……まあ……君にやってもらえると有難いんだけどね……」
「難しい仕事ですか?」
 語尾を濁す相手に少しばかり苛立ってくる。
 言葉が重くなったのを感じたのか、店長は慌てて首を振った。
「いや、そうじゃない……んだけどちょっと頼みづらいというか……」
「僕は遊びに来ているわけではありませんから、仕事でしたらやりますが?」
「……そう、かい?……頼みたいというのは、その、糞便の処理なんだけど……大丈夫かい?」
 強く申し出ると、躊躇いがちに視線を彷徨わせながら、恐る恐る切り出してきた。
(……きたか。店長のことだから遠慮して言い出してこないかと思ったんだが。……仕方ない。ここで断ったら今までの努力も水の泡だしな)
 彼の申し出は予想の範疇だったが、正直あまり歓迎しかねる内容だった。人間の排泄物は程度によれば耐えられなくもない。だが動物となると話は違う。出来れば避けて通りたかったがそうもいかないだろう。
 俺は困惑を表情に出さないよう努めながら、どうにか覚悟を決める。
「……作業の手順さえ教えていただければ。皆さんやっていることでしょう?」
 店長は真意を確かめるように俺をまっすぐに見つめ、やがて納得したように頷いた。
「そうだね。じゃあ申し訳ないけど頼むよ。……こっちに来てくれるかな」
 促すように手招きする彼の後に続いて店の裏手へ入る。そこで彼の説明を受けて作業を開始した。


 さほど間を置かず作業を終えた俺は事務所へ報告に戻った。
「終わりました。確認をお願いします」
「え?!もう?」
 驚くのも当然だろうが、臭いや視覚的ダメージを最小限に抑えるためにもスピード重視でやった結果だった。
「手順に沿ったつもりですが、初心者なので完璧とはいえないかもしれません」
「いや、君のことだから大丈夫だと思うけどね。……どれどれ」
 一通りチェックを終えて彼は感心したように頷いた。
「ん、完璧だ。消毒もしてくれたんだよね?」
「はい」
「いや、ほんとに助かったよ」
「いえ、お役に立ててよかったです」
「役に立つなんてものじゃないよ。……この仕事にはどうしても汚い作業が多いものでねぇ。バイトを雇っても、匂いや汚れに耐えられなくて酷い時にはその日に辞めちゃう子も少なくないんだよ」
(そりゃそうだろう。かなりハードだったからな)
 内心そのバイトに同情しつつ、表向きは心外そうに眉を寄せて見せる。
「僕も同じように思われていたわけですね」
「いや!いやいやそういうわけじゃないよ!!」
 彼は慌てて両手を振った。
「ただ、君は正規に雇ったわけじゃなくあくまで助っ人だからね。……できるだけ楽な仕事を回そうと思っていたんだ」
「これからはそういった特別扱いは出来るだけ控えていただけませんか?僕なりに皆さんと同じように働きたいと思っていますので」
「ああ、そうだね。いや、申し訳ない。……これからはガンガン頼むよ!」
「望むところです」
(……とは言っても真面目に頼まれても困るんだが。言葉通りに受け止めそうだからな、この人は)
「ははは。君はほんとに……なんというか、いい性格だね」
「褒め言葉だと思っておきます」
 店長の言葉には少々引っかかるものがあったが、とりあえず突っ込まない事にした。
「褒めてるとも!」
 握り拳を作ってうっすら頬を上気させてまで断言してくる。人から賞賛されることには慣れた俺だったが、それでも心地良いものだ。だが店長が続けた言葉は俺の期待したものとは少し違っていた。
「俺は最近思うんだよ。俺に君のような息子がいたら、どれだけ頼もしいだろうかってね。まあ俺はこの年になっても独身だから……それ以前の問題なんだけどね」
 店長はおどけた様子で肩を竦めて見せる。しかし、自嘲を含んだ笑みはどこか寂しげで、俺は肉欲以外の何かが心を掠めたような気がした。だが、その意味を深く掘り下げるほどの衝動は起こらなかった。
「これからいくらでも良縁はあると思いますよ。動物たちのことを話す時の貴方の目の輝きは情熱的で、僕から見ても眩しいくらいですし」
 適当な褒め言葉を口にすれば、面白いように表情を変える。照れ隠しの笑みのなかに、確かに期待を孕んだ媚を滲ませて。
「……いくらなんでも褒めすぎだよ。……四十路目前で独り身の冴えないおっさんなんだから」
「周りに見る目のある女性がいなかっただけですよ。少なくとも僕は、この数日で貴方から沢山の事を学ばせていただきました。……環に感謝しないといけませんね」
 薄く目を細めて意味ありげな笑みを浮かべてやれば、店長は居心地悪そうに視線を彷徨わせた。勿論悪い意味ではない。緩みそうな唇を無理やり尖らせて、それでも隠し切れない嬉しさが上気した頬に浮かんでいる。
「……若輩者が生意気な口を聞いてしまって申し訳ありません。お気を悪くされましたか?」
「え?!い、いやそんなことはないよ、うん」
 目を合わせない店長に傷ついた振りをして眉尻を下げれば、店長は慌てたように振り向いた。俺と目が合うと誤魔化すように咳払いをする。
「……君のような優秀な子に褒めて貰えて嬉しかったよ。ありがとう」
 そう言って俺の肩をぽんぽんと叩く彼の、はにかんだその口元に噛み付きたい衝動に駆られる。だが、まだその時期ではない。
 俺は店長の言葉に安堵したように、ぎこちない笑みを浮かべて見せた。勿論内心はそんな殊勝なものではなかったのだが。
「じゃ、じゃあ早速だけど、ゴミの処理をお願いしようかな。それが済んだら今日も猫の餌を頼むよ。猫たちも君に慣れてきたようだしね」
「はい」
 無意識なのか、火照った頬を冷ますように片手で顔を仰ぎながら事務所へ戻る店長の背を見送って、俺は口角を引き上げた。今、もしも彼が振り返ったなら、俺の歪んだ口元に不穏なものを感じ取っていただろう。だが、彼は振り返ることはなかった。
(猫たち『も』ね……)
 獣の前に無防備な背を晒す獲物は、捕食される時を待つだけだ。その時が迫っているのを、牙を立てられる瞬間まで知らないままで。

 
 ゴミ処理は予想以上にハードで、自分の吐いた言葉を撤回したい衝動に駆られた。糞便の処理がまだマシかと思うほどだ。店長にはもう少し空気を読むことを覚えて欲しい。万事がこんな調子なら、女性に縁がないのも当然だろう。
 少しだけ警戒を解いた猫たちの世話を淡々とこなしながら、俺はその姿に店長を重ね、そして彼の言葉を心の中で反芻した。そういえば気付かぬうちに彼らとの距離も縮まっていたようだ。途中で預かり期間を終え飼い主の元に帰っていった猫たちもいるが、新しく来た猫にも威嚇されることはなくなった。
(動物といえど、これだけ完璧に世話をして貰えれば感謝ぐらいするだろう。世話に支障がなくなって手間が省けるのはありがたいことだが、それだけのことだ)
 ……それだけのことなのだが。それでも、差し出した指先に頬を擦り付けられれば悪い気がしないのは事実だった。
 一日の仕事を終え、いつものように俺の帰りを見送る店長に懐いて来た猫の話しをしようとして……何故か出来なかった。彼が喜ぶと確信しているのに、だ。
 心の隅がちりちりと焦げるような不可解な痛みに眉を寄せながら、俺は家路を急いだ。


岸本臣。懐いたのはどちらなのか。