ペットショップ10

 六日目。
 今日は季節のためか、朝から風が強かった。
 髪を乱す風に心の中で悪態をつきながら逃げるように店に入ると、入り口付近にいた店長と目が合った。
「今日は」
こちらに近づいてくる店長に声をかけると、気遣わしげに俺の顔を見上げてくる。
「ああ、岸本君。外は風が強かっただろう?」
「はい。でも今は治まってきているようですよ」
「お、そうかい?どれどれ」
乱れた前髪を手櫛で整えながら答えると、店長は俺の脇をすり抜けて窓の外を眺めた。俺もその後に続き、彼に倣うようにガラスの向こうに視線を向ける。
「ああ〜こりゃずいぶん散らかったなぁ……」
 風に舞い上げられ、あるいは吹き寄せられたゴミや木の葉の類が、店の前に散らばっている様子に店長が眉を寄せた。いつもは磨き上げられている窓も、吹き付けられた埃で白くくすんでいるようだ。
「窓も砂で汚れているようですね」
「ん〜……岸本君、悪いんだけど外掃除してもらえるかな?」
 暫し店の外を眺めたあと、振り返った店長が申し訳なさそうに言った。
(面倒臭いが……最近やけに馴れ馴れしくなった後藤さんの相手をするよりはマシか)
 躊躇いは一瞬。俺はすぐに彼の言葉に頷いて見せた。
「はい。掃除用具はロッカーにあるものを使用して構いませんか?」
「ん。ホースもあるはずだから。あ、あと蛇口も忘れないようにね」
「わかりました」
 更に細かい指示を受けてから、俺は着替えるためにロッカールームへと向かった。

 風も随分治まっていたので、掃除は能率よく進んだ。ごみを箒で集め、埃のついた窓を磨き、店の前に水を撒いた後、デッキブラシで擦り落とした汚水を排水溝へ流す。
 仕上げに流水で道路を洗浄していると、突然ホースの口から流れていた水流が止まった。
(……なんだ?詰まったのか?)
 不審に思ってホースの口を覗き込むが詰まった様子はない。原因を求めてそのまま手元から視線で辿っていくと、途中で店長に踏まれ形を変えたホースが目に入った。
 一瞬嫌がらせかと思ったが、思いっきり踏んでいるというのに気がついていないようだ。綺麗になった辺りを見回し、満足そうに頷いている。
「おお〜さすがは岸本君。ぴかぴかだね〜」
「……あの、店長」
 半ば呆れながら声をかける。
「ん?」
「踏んでます。ホース」
「え?!あ〜これは失礼」
 指差してやると、漸く自分の足元に気がついたようだ。
 店長は慌てた様子で足を上げる。当然、そこでせき止められていた水流が、ここぞとばかりに勢いよく流れ始めた。咄嗟に顔に向けていた放水口を背けたが、噴出した水流は弧を描いて俺の頭上に降り注いだ。
「あ……」
 店長が間抜けた声を上げる。俺は内心苛つくのを抑え、水を噴出し続けるホースを下に向けてこれ以上の被害を防いだ。
「……とりあえず、水、止めていただけますか?」
 俺の声に漸く我に返ったのか水元へ走り蛇口を閉めた店長は、足音も荒く駆け戻ってきた。
「だっ大丈夫かい岸本君!!」
「……大丈夫ですよ」
「スマン!申し訳ない!」
「本当に大丈夫ですから。お客様に被害がなくてよかったです」
 謝罪を繰り返しながらおろおろと俺の髪や肩口にかかった水を払い落とそうとしている。濡れて張り付いた髪を掻き上げ笑って見せたが、彼は否定するように首を振った。
「それはそうだけど、君が風邪をひくのも困る!早く着替えないと!着替えは持っているかい?」
「着替えを持ち歩くほど周到ではありませんよ」
「じゃあ、申し訳ないが俺の服を貸すからそれを着て!ともかくロッカーへいこう!ほらほら!」
 そう言って俺からホースをひったくって蛇口に巻きつけ、すぐさま俺の腕を取って歩き出す。店内に居た客の奇異な視線を受けながら、俺は彼に引きずられるようにロッカールームへ向かった。

 店長は慌ただしくロッカールームに駆け込むとすぐに暖房を入れ、返す足で棚からタオルを取り出し俺に押し付けた。俺は呆然としたまま、何時になく機敏な彼の動きを眺めるばかりだ。
「ほら、とりあえずタオル!暖房入れといたから近くで着替えて。すぐに着替えを持ってくるから!」
「……ありがとうございます」
 ロッカールームを飛び出していった店長の足音が遠のくのを聞きながら、俺は一人ロッカールームに残された。
(そんなに濡れてるわけでもないが……確かに風邪を引くのは面倒だな。水分はきちんと拭き取っておいた方がいいか)
 一つ溜息を吐いてタオルをベンチに置き、カットソーを脱いだ。下着代わりの半袖シャツはそれほど濡れてはいなかったが、襟刳りが冷たく感じたので一旦脱ぐ事にした。一気に捲り上げ首を抜いたあたりでまた騒々しい足音が近づき、ノックもないまま店長が飛び込んできた。
「岸本君!これなら君でも入るんじゃないか……と……」
「ああ、どうも」
 脱いだシャツをベンチへ放りながら店長に軽く会釈をするが、彼は飛び込んだ姿勢のまま動きを止め俺を凝視していた。
「……」
「店長?」
 怪訝そうに声を掛けられて我に返ったのか、思い出したようにロッカールームの扉を閉める。
「ああ、いや、すまない。あまりにいい体だったもので見惚れてしまったよ。ははははは」
 動揺を隠せないのか、最後の笑い声は妙にぎこちなかった。
「そうですか?ありがとうございます」
「そういえば腹筋も割れてると言ってたよね。なるほどこれなら納得だ」
 衣服を抱えたまましげしげと俺の体を眺める。
 勉強の合間に鍛えた身体に、賞賛の視線は慣れたもので。俺はタオルで拭くフリをしながら内心ほくそ笑んだ。
「店長」
「ん?」
「着替え、持ってきて下さったのではないのですか?」
 態とらしいほど冷静に衣服を指差すと、店長は慌てて抱えていた衣服を差し出した。
「ああ!すまない!これでいいかな。ちゃんと洗濯してあるから安心して」
「お借りします」
 綺麗に畳まれた衣服を受け取って、一旦ベンチに置く。渡されたのはランニングシャツとパーカーだった。それらを一枚づつ慎重に身に付ける。少しだけ胸の辺りに余裕がないように感じられたが、息苦しいというほどでもない。仄かに防虫剤の移り香がして、それがとても彼らしい気がした。
「……ん〜……やはり少し窮屈そうだね……」
 店長は着替えの終わった俺の姿を、難しそうな表情で眺め呟いた。
「いえ。この程度なら激しい運動でもしない限り大丈夫だと思いますよ」
「そうかい?……すまないね。これなら大丈夫だと思ったんだけど……君は少し着痩せするのかな?」
「どうかお気になさらず。これ、お借りしますね」
 申し訳なさそうに首を傾げるのは、俺の嗜虐心を煽る店長の癖だ。苛めたくなる衝動をどうにか抑えて、丁寧に礼を述べると店長も漸く安心したようだった。
「ん。遠慮せず汚してしまって構わないからね」
 そう言ってぽんと俺の背中を叩く。
「濡れた服はハンガーに掛けておけば乾くだろう。後は髪かな。俺の服で店に出るのも嫌だろうから、裏方と……あと時間になったら猫の餌を頼むよ」
「外の掃除はどうしますか?まだ後片付けがありますが」
 俺の申し出に店長は両手を振った。
「それは俺が責任もって今からやりにいくよ。時間は気にしなくていいから、髪はしっかり乾かすんだよ?」
「はい。ありがとうございます」
 俺の答えに満足そうに頷いて、彼はロッカールームを出て行った。


 結局その日一日は裏方で作業をし、仕上げにいつもの猫の世話で終わった。
 どうにか乾いた服に着替えさて借りた服をどうしたものかと思案していると、ロッカールームの扉を遠慮がちに叩く音がした。
「はい?」
「あ、俺だよ岸本君。今大丈夫かな?」
「どうぞ?」
 答えると扉が薄く開き、店長がひょこりと顔を出した。
「女性ではありませんし、そこまで遠慮なさらなくても大丈夫ですよ?」
「い、いやそうなんだけども、ね。やっぱりマナーだしね、こういうのはね」
(心持ち頬が赤いのは少しは意識しているということか。良い傾向だな。)
 店長は照れくさそうに笑った後、俺の姿を改めて眺めてなにやら頷いている。
「うん。やっぱり君はセンスがいいね。センスなんかまるでない俺の服でもイケメンはイケメンだったけど、その服のほうがずっと似合ってる」
「ありがとうございます」
 当然だと頭の中で返しながら、表立ってはやわらかい笑み付きで礼の言葉を口にしておいた。
「ところで何かご用事でしょうか?」
「え?ああ、いや特に用事があったわけじゃ……あ!そうだその、服をね、取りにきたんだよ」
「ああ、ちょうど僕もお伺いしようと思っていたところです。クリーニングして返却しよううと思うのですがお時間いただいてもよろしいですか?」
「いや!こんな服にクリーニングなんて必要ないよ!そのまま返してくれれば俺が洗濯するし」
「そういうわけにはいきません」
「いいんだって!元はといえば俺が君に水をかけちゃったんだから」
 縋り付くような視線は力を持っていて、こちらが何を言っても引く様子はなかった。
 俺は暫し考える振りをしてその視線を堪能した後、困ったように眉根を寄せて見せる。
「……すみません。ではお言葉に甘えさせていただきます」
「うん。そのほうが俺も助かるよ」
 店長は心底安堵したように笑みを浮かべた。
 俺は差し出された手に素直に畳んであった彼の服を乗せてから、ほんの少し彼のほうへ顔を近づける。
「……ありがとうございました。この服とても着心地が良かったですよ。センスがないと仰ってましたけどこれは貴方の服なのだから比べられるものではないと思います」
「そう、かな。でも安物なんだよ?」
 少し恥ずかしそうに視線を伏せた彼に、俺はさらに体を寄せる。
「高価な物が必ずしも良いものとはいえませんし、着る人にあったものが一番だと僕は思いますよ。……機会があったら是非その服を着て見せてください」
「え?でも、そんなの見たって楽しくもないと思うけど……っ」
 思わずといった様子で視線を上げた彼は俺が意図して浮かべた笑みに言葉を詰まらせる。ほんのり上気した頬に満足して俺はゆっくりと彼から顔を離した。
「僕は根拠のない褒め言葉を口にするのは嫌なんです。貴方が自分の為に選んだ服を貴方が着てそれで初めて真価が問われるでしょう?」
「そ、そうだけど。そんな風に言われるとかえって君の前でこの服は着れなくなりそうだよ……」
 もじもじと居心地悪そうに呟いた彼にここを潮時と判断して、俺はそれ以上言葉は口にせず軽く肩を竦めて笑って見せた。


 店長は今日も帰る俺を見送ってくれたのだが、その視線に少しだけ今までにない色が混じっているように見えた。朝から散々な目にあったが、その分の収穫はあったようだ。
(あと少し……ここから追い上げていくか)
 俺は口端に上る笑みを白く濁る吐息の向こうに滲ませながら家路を急いだ。


岸本臣。じわじわと縮まる距離ならぬ包囲網。