ペットショップ09

 目覚めはあまり良いものではなかった。帰宅してからいつもより多めに睡眠時間を取った筈なのだが、心なしか身体が重く感じられた。
 だからといってこれ以上惰眠を貪るわけにはいかない。連日のバイトで学習が遅れ気味なのだ。このままでは、休暇の前に設定した目標まで到達するのが難しくなってくる。
 俺は気分を切り替えるべく勢いをつけて起き上がり、薄く光が漏れたカーテンを開けた。続けて窓も開けた途端、早朝特有の澄んだ空気が流れ込んできて靄が掛かっていた思考が明瞭になるような気がした。


 身支度と朝食を終えて自室に戻り机に向かったところで、俺の部屋に設置してある子機がけたたましい電子音を響かせた。見れば内線のランプが点滅している。タイミングの悪さに内心舌打ちしながら受話器をとると母親が出た。
『臣さん、貴方に電話よ。平方さんて方から』
 俺の携帯番号は教えてあるのに自宅に直接掛けて来るところを見ると、あまり良い話題ではなさそうだ。
(まさかとは思うが昨日の続きでもするつもりじゃないだろうな……冗談じゃない)
「……悪いけど、外出しているとでも言っといて」
『あら無理よ。だってお待ちくださいって保留にしてあるんだもの』
 呑気な母親の声に苛立ったものの、早く早くと急かされて仕方なく外線に切り替えた。
「はい、お電話代わりました」
 感情を抑えた声で告げると、相手が緊張した空気が電話越しに伝わってきた。
『あ、き、岸本君?平方だけど……』
 機械を通した僅かに不明瞭な店長の声が小さく耳に届く。
「……なにか御用ですか?」
『あ……いやその……用というかなんと言うか……』
 事務的な口調に怯えているのか、彼は言い難そうに言葉を濁した。
「何かお手伝いする事でもありますか?」
『ああ、いや、ないこともないんだけどね……そうじゃなくて』
 態とらしく話題を変えると一瞬だけ声色を明るくしたものの、すぐに語尾が力を無くして萎む。それっきり、暫く彼は無言だった。躊躇しているのか、上手い言葉が思いつかないのか。あるいはその両方か。
 俺は特に急かす事もせず、同様に黙ったまま店長の次の言葉を待った。
『……昨日は、すまなかったね。その、謝りたくて電話したんだけど……』
 漸く口を開いた店長の言葉は俺の予想とは違っていた。昨日の剣幕から考えて、解雇だと言われてもおかしくはなかったし、そこまではいかなくとも暫くは拗ねて口も利いてこないのではと思っていたのだが。
「昨日?」
 意外に思う気持ちを表には出さず、態とらしく問い返してみる。
『……その、俺もムキになって言い過ぎたと思ってね。君は休みの日にまで手伝いに来てくれたのに……』
 歯切れの悪い口調ではあったが、謝罪したいというのは本意のようだ。電話の向こうで眉を寄せて首を傾げているであろう店長の姿を想像して、俺は愉悦に口端を引き上げた。
「謝って貰う程の事ではありませんよ。僕が差し出がましいことをしただけですし」
『いや、それじゃあ俺の気がすまないんだよ。……君だって腹が立っただろう?』
「いいえ」
 腹が立つよりも不快なだけだったのが、素直にそう言ってやる義理もない。
『……正直に言ってくれて構わないんだよ?』
 店長は安堵と疑いの入り混じった声色で、こちらの真意を探るように尋ねてくる。溜息を吐きたくなるのを抑え、あくまで冷静な口調を心がける。
「腹は立ちませんでしたよ、本当に。……逆にこんな問答を続けるほうが、関係悪化に繋がるように思いますが」
 何度も同じ問答を繰り返すのは時間の無駄だ。
『ああ、それはだめだ!仲直りしようと思って電話したんだから』
「では、もう目的は果たせたわけですね」
『それはそうなんだけど……もし時間があるなら飯でも奢らせてくれないかい?その……お詫びといったらなんなんだけど』
 相手の申し出に俺は目を見開いた。謝るだけでも意外だったのだが、飯を奢るなどと言い出すとは。これが彼なりの誠意の表れなのだろうか。
「お詫びは必要ないですよ」
 飯でなく、彼自身を食えるというのなら考えないこともないが。もともと俺は他人と食事をするのはあまり好きではない。
『ま、まぁそう言わずに。ほら、君のコートも返してないだろう?必要なんじゃないかい?』
 断ってもしつこく食い下がってくる。些かうんざりしながら言葉を返した。
「コートなら他のものがありますから、次の出勤日で構いませんが。……それに、お仕事中でしょう?」
 忙しい、時間がないと昨日喚いていたのは誰だったのか。
『いや、仕事といっても俺も昼休憩は取るんだし、そのときにでも……どうかな?』
 どうあっても俺に食事を奢らないと気がすまないようだ。俺は心の中で両手を上げると、彼の提案に従うことにした。
「そうですね……それで店長の気持ちが落ち着くなら御馳走になります」
『そうかい!?いや〜良かった良かった。じゃあ、岸本君の希望のものにしよう。何が食べたい?……あ〜……といってもあんまり高いものは無理なんだけどね』
 了承の言葉を告げると、一転して彼の口調が明るくなった。わかりやすい人だ。
「僕の希望といっても、あまり遠くへ出かけてお店を空けておくわけにもいかないでしょう?ハムスターは大丈夫なんですか?」
 希望が通るのなら彼を食わせていただきたいところなのだが、さすがにそれを提案するのは控えた。
『ああ、あの子はだいぶ回復しているよ。今朝もちゃんと餌を食べていたしね。……でも、君の言う通りだね。あまり遠くに行くわけにはいかないか……』
 指摘されて思い出したのか、彼が考え込むように唸り声を上げた。
「お店の近くに食事のできるところはないのですか?」
『店屋物くらいだなぁ……』
「では店屋物にしましょう」
 どこかに出かけるのも面倒だし、彼のことだからあの店のセンスのないロゴ付のエプロンで現れそうだ。さすがにそれは避けたい。
『ええっ!そんなものでいいのかい?カツ丼だのラーメンだのしかないよ?』
「ええ。出前をとればお店から離れなくても良くて安心でしょう?店長のご自宅で手料理をいただくというのも楽しそうですが」
 料理が出来るとは思わないが試しに提案してみると、案の定嫌そうな声を上げた。
『おいおい俺が料理得意なように見えるのかい?』
「あまり栄養が足りてるようには見えませんね」
 華奢ではないが肉付きのよくない体を思い出して同意した。
『……わかった。君が良いなら店屋物にしよう。……昼前までに店に来られるかい?』
「大丈夫ですよ。ではお昼前にお伺いします」
『ん。待ってるよ』
 通話ボタンを押して会話を終えると、無意識に深い溜息が漏れた。
(面倒なことになったな。お袋に昼食は必要ないと言っておかないと……。バイトで遅れ気味だった勉強を進めるはずの予定も狂ってしまったな)
 肩を落としながらも、少しだけ奇妙な高揚感を感じていた。


 約束の時間。
 仕事中のバイト仲間に適当に挨拶をしてから事務所に入ると、待ちかねたように店長が迎えてくれた。キリがないからと釘を差しておいたのに、もう一度謝罪の言葉を口にしてから、彼は机の上に並べた色も形も様々なメニューを俺に見せてくれた。
「……これで全部なんだけどね。ホントに店屋物で良いのかい?」
「提案したのは僕ですよ。むしろ、店屋物にこれだけメニューがあることが驚きです」
 正直に告げると、店長が照れたように笑った。
「世話になってるからねぇ。気がついたら殆どコレクションになってたよ。……岸本君は出前とか取らないのかい?」
「ええ。僕はまだ親元にいるので必要ないですしね。……しかしこの量では僕には判断しかねますし、店長のお勧めでお願いします」
 正直いちいち目を通すのも面倒だった。もともと俺は必要な栄養さえ摂取できれば食事にはあまり興味がない。
「え!そりゃ重大任務だなぁ……う〜ん……」
 店長は焦ったようにパイプ椅子に腰をすえると、身を乗り出してカタログを吟味し始めた。
「……う〜ん……若い子の口に合うというと、中華のほうが良いのか……いやいや……」
 あれこれと手に取ってみたり、並べてみてはああでもないこうでもないと唸り声を上げている。優柔不断なのは知っていたが、このままでは日が暮れてしまいそうだ。
「……店長の好きなものでかまいませんよ?」
 見かねて提案すると、彼は少しだけ躊躇う様子を見せた。
「ん?そうかい?……じゃあ、天そばにでもしようか?ざるで良いかな?」
 だが余り間をおかず具体的なメニューを口にするところを見ると、どうやら彼は本気でそれを食べたいようだった。
「ええ。ではそれでよろしくお願いします」
 俺には好き嫌いはないので、彼の提案に特に異論はなかった。
「よ〜し!じゃあここだ、ここのは旨いからね」
 彼は数あるメニューの中から蕎麦屋のものと思しき一枚を取り出すと、デスクの受話器をとって慣れた様子で注文の電話をしていた。俺はパイプ椅子に深く腰掛けてその様子を眺めていた。
 やがて注文を終えた店長が電話を切り、一仕事終えたような表情で俺の前に座った。
「30分くらいだそうだけど……待てるかい?」
「ええ。大丈夫ですよ。ではその間なにかお手伝いでもしましょうか?」
 俺は時間を無駄にするのが好きではない。30分もあれば一仕事終えられるだろう。
「ああ、いや、大丈夫だよ。……手伝いを頼むために呼んだんじゃないし」
 腰を浮かしかける俺を店長はあわてて制した。
「でも、お忙しいのでしょう?僕も邪魔をするためにきたわけじゃありませんから」
「いや、いや。ああ、そうだ、じゃあ少し話をしようじゃないか、ね?」
 こんなことをしている間にも仕事はあるはずなのに、彼なりの矜持があるらしい。
「話、ですか?構いませんが」
「……」
「……」
 話をしようと持ちかけたのだがら聞きたいことでもあるのだろうかと黙っていたが、彼はなかなか口を開こうとはしなかった。暫し沈黙が続いた後、緊張に耐えかねたのか小さく噴出して、彼は漸く口を開いた。
「……いや、意外と話題って思いつかないもんだね……」
 照れたような笑みを浮かべて、同意を得ようとするかのようにこちらに視線を向けた。
(……仕方ないな。こっちから話題を降ってやるか)
「……では僕のほうから質問しても構いませんか?」
「え!?俺に?」
 予想もしなかったのか、彼は素っ頓狂な声を上げた。
「はい、店長に」
「なんだろう……あんまり難しいことじゃなければいいんだけど……。……なんだい?」
 何故だか彼は居住まいを正した。恐る恐るといった様子で促されて、俺は薄く笑みを浮かべる。
「先に断っておきますが、昨日の話を蒸し返すつもりはないです。……ただ、少し疑問に思ったもので……。店長は、動物がお好きですよね?」
「ん、うん、まぁ……」
 昨日のことが心にあるのか、少々言い淀む。
「でも、昨日のお話しから受ける僕の勝手な印象だと……ペットショップというのは動物が好きには辛い選択もしなければならない仕事ではないですか?」
「……まぁ、そうだね……」
 あまり歓迎できる話題ではないのか、店長が視線を彷徨わせる。
「それなのに何故、このお仕事に就いたのですか?」
「……う〜ん……」
 困ったように唸り声を上げ、そのまま俯いて考え込んでしまった。
「ああ、差し障りがあるなら答えてくださらなくても結構ですよ?僕のちょっとした興味で質問しているだけですから」
 悩んでいる様子に助け舟を出す。実際、どうあっても答えを聞き出したいというわけでもなかった。
「……いや、そんな大袈裟なことじゃないんだ。……ごく簡単に言えば……この店は祖父の代からやっていてね。長男だった俺は子供の頃から当然のように跡継ぎとして育てられたんだよ。……そのことに疑問を感じたことはないねぇ、うん」
 なにかを思い出すのか確かめるのか、ポツリポツリと口にする。
「疑問を持たないと仰るわりに、歯切れが悪いように感じますが?」
 口調の切れの悪さを指摘すると、彼はいやいや、と小さく首を振った。
「……仕事を選ぶどころか、選ぶという行為があることすら考えなかったからね。それでは君の質問の答えにはちょっと違うような気がしてね」
 両腕を軽く組み、パイプ椅子の背もたれに深く体を預けて、彼はそんなことを口にする。
「自分で望み選択してこの仕事に就いたわけではない、と?」
「そうなるねぇ。だからといって、この仕事が嫌だというわけじゃないよ。やりがいも感じているし、楽しいことも沢山ある」
 今度は迷いのない口調だった。
「やめてほかの仕事に就こうとは思わないのですか?」
「そりゃ、辛いときは頭を過ぎったりもするけどね。……俺はやっぱりこの仕事を続けたいと思ってるんだよ」
 照れたような困ったような笑みを浮かべる。
「僕は数日お世話になって、ペットショップというのが命を扱うリスクの高い仕事という印象を受けたのですが……それでも続けたいと思うのは何故ですか?」
「……そうだなぁ……」
 この質問には即答できないのか、彼はパイプ椅子を引き足を組んだ。つま先ををゆらゆらさせながら、暫し無言で考え込んでいる。俺は子供じみたその仕草を楽しみながら彼の次の言葉を待った。
「てんちょ〜。出前来たみたいですよ〜」
 何の前触れもなく事務所のドアがノックされて、後藤さんが入ってきた。
「お〜きたきた!岸本君悪いが待っていてくれ。すぐ受け取りにいてくるから」
 店長は弾かれたように顔を上げ、俺の質問に答えることなく立ち上がった。俺は満面に笑みを浮かべた後藤さんに捕まり、事務所を飛び出して裏口へと走り去る背中を呆然と見送ることしか出来なかった。
 店長が盆を手にして戻ってくると、漸く俺相手のお喋りをやめて後藤さんは店内に戻っていった。後藤さんから開放されてほっとしている間にすべての器を並べた店長は、心底嬉しそうな笑みを浮かべて席に着いた。
「よし、伸びないうちに食おう!」
「いただきます」
 勧められるままに箸を取る。外食自体少ないが、店屋物となると本当に久々だった。からりと揚がった天麩羅……定番の海老と茄子とイカ……これはカボチャだろうか。ざるに盛られたそばと薬味。……見た目はそれほど悪くなかった。栄養価というと少々不安があるが。
 だが、困った事に量的に足りない。身長や年齢、現在の体形を見る限り彼はこの量で十分なのだろうが、俺はこの3倍は食うのだ。どうしたものかと悩んだが、相手に任せた手前、これは俺の落ち度でもある。仕方なく、ゆっくり食うことで空腹感を補うことにしてとりあえず箸を付けた。
「……味、どうだい?」
「……美味しいです」
 正直、あまり味に拘りがなかったのでなんとでも言えるのだが、俺の無難な答えにも彼はほっとしたように笑った。
「おお!そりゃ良かったよ!さぁ、どんどん食べて食べて」
「はい」
(どんどんも何も……足りないんだがな……)
 心の中で溜息をつきつつ、極力ゆっくりとそばを啜った。
 が、そこまで時間がかかるものじゃない。結局満腹中枢が満たされる前に食事が終わってしまった。ほぼ同時に店長も食べ終えたが、こちらは満足しているようだった。
(つゆを飲んでも足しにはならないだろうな。塩分過剰だし)
 仕方なく勧められた茶を飲んで空腹を誤魔化していると、同じように湯飲みを手にした店長が湯気の向こうでポツリといった。
「……なあ、岸本君」
「はい?」
 湯飲みを置いて店長の顔を見る。彼は一回俺の顔を眺めてから、湯気の立ち上る水面に視線を落とした。
「……さっきの話だけど……食いながらちょっと考えてみたんだ」
「はい」
(……なんだ、誤魔化されたわけじゃなかったんだな)
 店長は、ふ、と息を吐いた。湯気が彼の吐息で一瞬掻き消え、またすぐに細く立ち上った。そのタイミングに合わせるように、彼が言葉を続ける。
「まず言えるのは……俺は動物が好きだから、好きなものに囲まれる生活はそれだけで楽しい。命がかかっているのをリスクと君は言ったが、それだけやりがいのある仕事だとも思う」
「はい」
「……でもそれだけじゃない。今君とこうして飯を食っていて思ったんだけど……一人ぼっちの食事というのは味気ないものなんだよ。……俺だけなのかもしれないけどね、飯を食うときが一番寂しい、と思うんだ。いや、いい年した男がみっともないと思われるかもしれないけどね」
 自嘲めいた笑みを浮かべて肩をすくめる。
「いいえ。でも、僕には経験のないことなので正直よくわからないです」
(そんな寂しい状況になったことはないからな。これからなる予定も無いし)
 ただ、彼の言葉から容易に連想される情景には、少しだけむずがゆいような感情を覚えた。
「まだ親御さんと一緒だといってたものねぇ。一人暮らしでもしたら君でもわからないよ?」
 店長は悪戯っぽく笑って見せる。
「そうかもしれませんね」
 予定に無いと思いつつ、一応相槌は打っておいた。
「……もちろんこれは俺の例で、君には君の、他の人にはまた別の、さまざまな形の寂しい瞬間があると思うんだ。近年のペットブームの根底になるのは、その寂しいという感情じゃないかと思うんだよ、俺は」
「……」
 ありきたりの言葉の羅列だと思うのに、何故か俺の興味を引いた。俺は茶々を入れず続く彼の言葉に耳を傾けた。
「一人暮らしだったり、子供が独立した後だったり、連れ合いに先立たれたり……何かが足りなかったり、何かが欠けて寂しいと思うときに、欠けた穴を塞ぐためにペットを欲しいと思う人が少なからず居るんじゃないかな」
 何か思い当たることがあるのか、彼は切なげ表情を浮かべた。
「……」
「……俺が嬉しい事の一つに、ペットを買ってくれたお客さんが大事にその仔を育てて、大きくなった姿を見せにわざわざ店につれて来てくれることなんだよ。嬉しそうに、大事そうにペットを見せてくれるお客さんの笑顔が、俺はとても好きでねぇ。……俺は、このお客さんに新しい家族を紹介できたんだなって、ね。それがこの仕事を続ける大きな理由なんだよ」
 店長の言葉は理解できた。だが、少なくとも俺には今目の前にある彼の笑顔のほうが価値があるように思えた。昨日と同じ人物とは思えないくらい、穏やかな口調だからだろうか。
「……すみません。僕には理解は出来ても同じ気持ちを共有することは出来ないようです……」
 俺は物心ついてからペットを持ちたいとも寂しいとも思ったことはない。家族も俺とさほど変わらないだろう。
「ははは。まあそうだろうねぇ」
 店長は言いたい事を言えて満足したのか、話すことで乾いた喉を潤すように湯飲みに口を付けた。
「……店長は、今、寂しいのですか?」
 出来るだけさりげない口調で、核心を突いてみた。
「ん?ん〜まぁ、寂しくないといえば嘘になるね。こうやって誰かと差し向かいに飯を食うのも久しぶりだし。いや、つくづく誰かと一緒に食う飯は美味いね」
「相手が僕でも?」
 特に意図はなかったはずなのだが、殆ど無意識に言葉に出てしまっていた。失言だと思ったが撤回するのも面倒で、そのまま彼の言葉を待った。
「何故そう思うのかが分からないけど……俺は実際に普段より飯を美味いと感じるし、楽しいと思ってるよ?……ああ、もしかして君は違うから……かな?」
 彼は何度も瞬きを繰り返した。挙句不安そうに俺を見上げて首を傾げるものだから、不覚にも欲を煽られる結果となってしまった。
「いえ。僕も楽しいですよ」
(いろんな意味で)
「ホントかい?それならいいんだけどね」
 安堵の息を吐いて、店長はゆっくりと湯飲みを傾けた。


「いや〜結局手伝わせてしまったなぁ……申し訳ない」
 その後、俺はお礼にと食器を片付け、そのままなし崩しに裏方の仕事を手伝った。謝意を表すつもりなのか、店長はわざわざ裏口から俺を見送ってくれた。
「いえ、僕が無理やり手を出したようなものですから。むしろお邪魔になってないといいのですが」
「いやいや、とんでもない。正直助かったよ。ありがとう」
「こちらこそ。お昼をご馳走になって、興味深いお話も聞けて参考になりました。有難うございます」
「ああ〜いやいやこちらこそ」
 深々と頭を下げると、慌てたように店長も頭を下げた。
「キリがないのでこの辺でやめませんか?」
「あ、ああ……すまない」
 こういう空気はあまり好きではないのできっぱりと告げると、彼はバツが悪そうに頭をかいた。
「それでは僕はこれで。今日は昨日の分もゆっくり休んでくださいね」
 コートを手にし、もう一度頭を下げる。
「ああ、ありがとう。君のおかげで今日はのんびり出来そうだよ」
「ではまた明日」
「気をつけてな〜」
 背中越し振り向いた俺に、店長は子供のように手を振った。恥ずかしいことに、俺が雑踏に消えるまでやっていた。背後に気配を感じながら、俺は他人のふりをしてやり過ごした。
 だが、不思議とそれほど嫌な気分ではなかった。


 夜。
 今度こそ学習予定を進めておこうと机に向かっていた俺に、能天気な携帯の着信音が邪魔をした。相手が誰かなんて確認するまでもない、環からだ。嫌だというのに勝手にこの着信音に設定した張本人だ。
 とても出る気にはなれなくて無視を決め込むつもりだったのだが、環はしつこく掛け直してきた。寝ていようが食事中だろうが用を足していようが……どんな状況でも俺が出ると信じて疑っていないのだろう。うんざりしながら俺はしぶしぶ携帯を開いた。
『ちょっとぉ!せっかく私が掛けてやってんだからさっさと出なさいよ!』
「……俺は忙しいんだよ。お前だって旅行中なんだろ?」
『そうよ。その忙しい合間を縫って掛けてあげてんの。てゆうか聞いてよ〜凄い海キレイなの!ガイジン多いって〜当たり前なんだけどさぁ。でも日本語通じるから困んないし〜。ちょっとご飯はあれなんだけど〜。あ、でもさぁ昨日タレントの〜なんだっけほらあの、秋のドラマに出てた人に会ってさぁ!もうびっくりって言うか〜』
「わかったから!さっさと用件を言えよ環」
 マシンガンのように早口で捲くし立ててくる環の言葉を無理矢理遮る。彼女は不満げにに小さく唸り声を上げた。
『もう〜せっかく旅行に行けない可哀想なアンタのために、気分だけでも分けてやろうと思ったのに〜』
「もう充分だ」
『あっそ。じゃあ聞くけど、バイトちゃんとやってるんでしょうねぇ?』
 やはりか。彼女がこれを持ち出すだろう事は予想の範疇だった。
 どういう意図が隠れているかわからない以上、受け答えには慎重にすべきだとわかっているのだが、湧き上がってしまった悪戯心を抑えることができなかった。電話越しだという、まるで安全地帯にいるかのような油断もあったのかもしれない。
 感情の揺れを悟られないように、俺は乾いた唇を湿らせ勤めて冷静に言葉を返した。
「……クビになったよ。俺には向かないってさ」
 彼女が息を呑む音が聞こえた。一拍置いて耳障りな金切り声が俺の耳に飛び込んでくる。
『はぁ!?なにやってんのよアンタ!』
「煩いな。勝手に押し付けといて怒鳴るなよ」
『バカバカ!!どうしてくれんのよ!』
 環の反応も予想内だ。笑い出したくなるのを抑え、態とらしく溜息をついて彼女の言葉を遮ってやる。
「……あのな、そもそも俺に向いてないだろ、動物の世話なんか。お前だってそれを解ってて俺に頼んできたんじゃないのか」
 環が暫く口を噤んだ。図星で言葉が返せないのかと思っていたが、どうやら怒りで言葉にならなかったようだ。漸く続けた言葉が感情のままに震えていた。
『……アンタならちゃんとやってくれると思ったのよ……っ!』
「俺はちゃんとやったつもりだがな。向いてないというなら仕方ないだろう?」
『まさか店の仔たちに何かひどい事したんじゃないでしょうねっ!』
「はぁ?あんな女共俺の趣味じゃないぞ」
 短い期間共に働いた彼女らの顔を思い浮かべながら告げた言葉に、今度こそ環の怒りは頂点に達したようだ。
『違うわよっ!!アンタって頭イイのにホント大バカ!』
「……どっちだよ」
『店の仔っていったら動物たちに決まってんでしょ!』
「……環?」
 怒りの中にはっきりと涙を含んだ環の声。彼女のこんな声は子供の頃以来聞いていない。
『アンタだから……臣だから任せたのにっ!!……もう!!アタシ帰るからね!覚えてないさいよっ!!』
「ちょ、ちょっと待て環!冗談だ!」
 あまりの剣幕に思わず叫んでしまっていた。切れる寸前だった回線は俺の叫びで辛うじて繋がったままだったが、重く張り詰めた空気に俺はそれ以上言葉を発することができなかった。
『……はぁ?』
 俺には酷く長く感じられた時間に、環はため息交じりに心底呆れたといった声色で終止符を打った。
 俺は怯みそうになる心を叱咤して無理やり軽めの声色で答える。
「……俺がそんなヘマするわけがないだろ?うまくやってるよ」
『あっそ。言いたい事はそれだけ?……覚悟しときなさいよ、臣』
 叩きつけるような音を最後に唐突に電話は切られた。
「お、おい、環!……なんなんだよアイツ……」
 一方的に切られた携帯からは虚しい連続音が響くばかりで返答はなかった。
 本当に旅行を切り上げてまでバイトに復帰するつもりだったのだろうか。俺の知っている環ならそんな行動をとる筈もないのだが、涙交じりのあの剣幕は勢いだけの言葉とは思えなかった。
(それほどまでに大切なのか?何が?動物たちが……?)
 一気に重さを増したように思える携帯を閉じて机の上に置きながら、俺は初めて知った彼女の意外な一面に困惑していた。


岸本臣。和解と誤解と混乱と。