ペットショップ08

 忙しかった週末が明けて、再び巡ってきた月曜日。環のシフト上での休日だ。当然代役の俺にとっても休日になる。
 だが、休みなのは俺だけではなく、今日は珍しく店そのものもお休みなのだそうだ。とはいえ、それとなく後藤さんから聞き出した情報によると、決算に備えて在庫の整理と書類作成だそうで、実質休みとは言えないものだった。
 もともと盆と正月以外は無休で開店しているそうだが、そうでなくても生き物を扱っているのだから休みらしい休みはないのだろう。つまり彼にとっては年中無休というわけだ。
 そうなるとあの草臥れた背中も大いに納得がいく。このままでは過労死も冗談ではなくなるのではないだろうか。俺への報酬を貰う前に倒れられては、ここまでの苦労も無駄になってしまう。
 俺は少しでも彼の負担を減らすべく、休日返上で出勤して作業を手伝うつもりでいた。彼の性格上、申し出ても素直に受けてくれるとは思えない。だが、強引に押しかけてしまえば、後はどうにでも言いくるめる自信はあった。
 俺は普段よりも早く起きてさっさと身支度を済ませると、不審そうな母親に適当な理由を告げて家を飛び出した。


 逸る気持ちを抑えきれず、休日だというのに普段の開店時間よりも早く店に辿り着いてしまった。
 当然閉まっている店の裏口に回り呼び鈴を押す。だが、呼び鈴を鳴らしてから暫く経っても反応がない。念のためもう一度ボタンを長めに押すと漸く扉が開き、その隙間から店長が顔を覗かせた。
 現れた店長に声をかけようとして、その表情が暗く視線もどこか遠い事に気がつき口を噤む。店長もすぐには俺だと認識できないようで、戸口に突っ立ったまま無言だった。憔悴した表情は仕事の為ばかりではないようで、両手を緩く合わせて胸元に押し当てている姿が妙に痛々しい。
「……店長?どうしたんですか?」
「きっ岸本君?!どうして君……」
 声をかけられて漸く俺に気がついたのか、店長は驚きに目を見開いた。俺は驚かれたことよりも反応があった事に安堵する。
(……というか、レンズで確認くらいしないのか、不用心だな)
「あれ?今日君お休みだったよね?……と言うか今日は店自体お休みなんだけど……言ってなかったのかな?」
「いえ、お休みなのは知っています。でも決算の為のお休みで店長は仕事をなさっているのだと聞いたもので……。差し出がましいようですが、店長はお疲れのご様子でしたし、僕でも何かお手伝いできないかと伺ったのですが……」
「ああ……そうか……それは気を遣わせてしまったね……」
 押し付けがましくならないよう遠慮がちに口にすると、彼は咎めるでもなく追い返すでもなくただ頷いた。だが、すぐにまた心ここに在らずといった様子で、胸に当てた手に不安げな視線を向ける。
「やはり、具合が悪いのでは?」
「ああ、いや、そうじゃない……そうじゃないんだが……」
 促すような店長の視線を追うと、重ねた手の中に茶色い毛玉が見えた。よく見るとどうやらハムスターらしき小動物が、店長の掌に包まれていた。
「……それは?」
 店長は俺にも良く見えるように掌をこちらに向けた。そこに現れた小さな体を目にして、今にも泣き出しそうに眉を顰めて呟く。
「今朝、店のシャッターの前にケージごと置き去りにされて居たんだよ……。休みだから気がつくのが遅れてしまって……」
 覗き込んだハムスターは見た目に呼吸している様子がなかった。手足も奇妙に突っ張ったまま動かず、最悪の状況を連想させる。
「……死んでるんですか?」
「いや!まだわからない……。もしかしたら冬眠で仮死状態になってるだけかもしれないんだ、だから……」
 店長は俺の視線から隠すように、大事そうに合わせた手を再び胸元に引き寄せた。
 俺は一つ溜息をつき、彼の返答を待つことなく扉の隙間から室内へ体を滑らせる。彼も押される様に体を引き、俺が室内に入るのを咎めようとはしなかった。
 完全に室内に入ると、俺は扉を閉めて施錠してからもう一度店長に向き直った。
「……差し出がましいようですが、獣医師に見せたらどうですか?」
「……」
 店長は俯いたまま答えない。まるで叱られている子供のようだ。
「失礼ですが、プロに見せたほうが確実だと思いますよ」
「……わかってる」
 無理矢理絞り出した声は、痛みを堪えるように細く掠れていた。
「判っているならどうして実行に移さないのですか」
 言い募る俺に耐え切れなかったのか、彼の感情が爆発したようだ。彼は勢い良く顔を上げ、潤んだ瞳で俺を睨み上げてきた。
「……君は……っ!君には分からないだろうが……ウチにはそんな余裕はないんだよ。生き物を商品として扱っている以上……俺は……飼い主ではないんだ。儲けに繋がらない動物にお金をかけても……商売として成り立たない。そのお金を店の仔たちに回して、飼い主さんが見つかるまで少しでも快適に過ごして欲しいんだ。……本当はこうして助けたいと思うのも俺のエゴでしかない……わかってるんだ……わかっているんだけど……」
 初め勢いのあった口調も後に行くに従って衰え、語尾は震えてすらいた。その姿は俺の嗜虐心をそそるのに十分だったが、今彼の感情を占めているのが目の前の小動物だという事実が気に入らなかった。
 ただ苛めたい訳ではない。相手が俺に好意を持ち、愛してくれと懇願する程になってから……そこからじわじわと甚振ってやるのが好きなのだ。更に、相手が望んで身を投げ出すのだから、少々手酷く扱っても問題ないときている。
 目の前の男も、それくらい俺に傾倒させてから料理したほうが良いだろう。ぞくりと這い上がる欲を俺は無理矢理押さえつけた。
「……僕に何か手伝えることは?」
 一呼吸置いて切り出した俺に、彼は潤んだ瞳を驚きに見開いた。
「……え?……いや……俺もこうして暖めることしかできないし……」
 戸惑ったような口調は、しかし確実に俺への期待を滲ませていた。
 俺は答えることなく上着を脱ぎ、薄着のままの彼の肩にかけてやった。
「き……岸本君?」
「少しは違うでしょう?……何も出来ないと諦めるのはあまり好きではありませんし」
「……でも、君が風邪を……」
 店長は戸惑った様子で、自分の体を覆うコートと俺の顔を交互に見る。
「そこまで柔ではありませんから。……店長はこのまま事務所でその子を暖めてあげてください。その間に指示を下されば、僕が他の動物の世話をします」
 俺の申し出に彼は一瞬だけ躊躇いを見せたものの、一度手の中に視線を落とした後決心したように頷いて見せた。
「すまない……。じゃあまずは……」


 店長の指示した仕事をすべて終え再び事務所に戻ってくると、彼は最後に見た姿勢のままパイプ椅子に座ってハムスターを暖めていた。
 仕事を終えたことを告げると労いの言葉をかけてきたが、そのまま動こうとはしない。 俺は彼の向かいの椅子を引いてそこに腰を下ろした。
「……こんなとき獣医師の資格があればと心から思うよ」
 暫しの沈黙の後、彼が呟くように言った。
「今からでも遅くないんじゃありませんか?」
「いや、さすがにこの年ではねぇ。もう覚えも悪くなってしまったし……」
 なんとなく癇に障る物言いに冷静に言葉を返すと、彼はばつが悪そうに口の中でもごもごと答えた。
「それは言い訳でしょう。努力する気がないだけじゃないですか?」
「……痛いとこをつくなぁ、君は。でもね、若いころは俺なりに必死で頑張ったんだよ?……結果は全滅だったが……」
「大学に入って資格を取ることはできなくても、学んで知識を得ることはできますよ。少なくとも暖めることしかできない現状よりは改善されるはずですが」
 言い訳染みた彼の言葉が無性に気に障る。もともと俺は彼のように口ばかりで実際に動こうとしない人間が嫌いなのだ。
 促すようにデスクの上のパソコンや、積み上げられた本棚の飼育書に視線を向けると、俺の意図を悟ったのか店長が大きく溜息をついた。
「……もっともだ……。だけどね、言い訳といわれるかもしれないけど……誰もが君のように覚えが良いわけじゃないんだよ……」
 彼の中の捻くれた感情が滲み出るのか、呟いた声は陰湿で弱弱しい。俺はじわじわと湧き上がる不快感に耐えながら、勤めて冷静に言葉を返した。
「僕は努力を怠ったりはしませんが」
(俺みたいな天才でも努力は必要だし、それを無駄だとも無理だとも思わない。そもそも、考えるだけ言うだけで何も行動しないなら天才も凡才も同じだろうが。行動して結果出してこそなんだよ)
「……俺だってまったく努力をしていないわけじゃない。店の経営に心血注いでるつもりだ!そんな中で獣医の勉強する時間なんて限られてるじゃないか!」
 店長の言葉は媚びるような色合いを含み、まるで意図したように俺の不快感を煽った。
(才能がない自分自身を認めたくないだけじゃないか。それじゃ逃げてる事と同じなんだよ)
「では、認めるべきです。あなたに店の経営と獣医師の資格の両立は不可能だと。店の経営者を選ぶなら、獣医師として動物を救うことはできません。せいぜい真似事ができる程度です」
「真似事って……そんな言い方ないだろう!」
「努力して獣医師の資格を取った人間から見れば真似事ですよ」
 鼻で笑ってやりたいのをどうにか堪え、劣等感に擦れた彼の言葉に勤めて冷静に切り返す。
「……真似事でも……俺はこの子を救いたいと……」
「救いたいのならプロに診てもらうのが最善策でしょうに、貴方はご自分の仕事の内情を振りかざしてまでそうやって手元に置いている。けれど、貴方がそうやってそのハムスターを暖めている間ほかの動物の世話が滞ってしまっては、貴方の本来の仕事であるペットショップ店長としての職務すら全うできていない。本末転倒というほかありませんね」
「君は俺にどうしろっていうんだ!!」
「どうしろと仰られても、僕は先程からいくつか提案しているはずですが。貴方がなんだかんだと理由をつけて実行に移さないだけでしょう」
「……提案だって?!素人の理想論じゃないか!!」
 堪らずといった様子で吐き出された言葉は、殆ど叫び声に近かった。恨みがましく睨みつけてくる視線を冷ややかに受け止めながら、俺は一先ず口を閉ざし様子を窺う。もっとも、昨日今日始めたばかりの素人には違いないのだから反論するつもりもないのだが。
「……この業界はどうしたってこういう問題が付き纏うものなんだ!理想を実行に移したくても……現実は感情だけで乗り越えられるものじゃない!生きていく為にはお金だってかかるし、時間だって限られているじゃないか!俺の物覚えが悪いのだって悔しいが現実なんだ!それを……!」
 店長が感情も露に吐き出す言葉の、内容自体は実に下らないものだ。だが、何時も穏やかだった彼の初めて見せた激しい一面に、俺は冷ややかな仮面の裏で劣情を煽られていた。穏やかな店長だけでなく今こうして噛み付いてくる彼をも、限界まで苛み辱めたい欲求がむくむくと膨れ上がってくる。
「……感情で乗り越えられるものじゃないなら、感情を切り捨てるしかないでしょう。……それでも切り捨てられないなら、現状を変えるしかない。この場合、貴方がどうやっても獣医師の資格を取れないというなら、獣医師の真似事をするよりほかの方法で変えていくべきじゃありませんか?」
「……どうやって」
「それは貴方が考えることでしょう?僕はほんの五日働いただけの『素人』ですよ」
 警戒心を隠そうともせず低く問う彼に、意趣返しとばかりに口端を上げて答える。
「……言いたい放題言っておいて今更……」
 俺の言葉に含まれた意図を感じ取ったのか、店長が拗ねたように視線を逸らした。それ以上言い募る言葉は無いようで、視線を合わせないまま暫く沈黙が続く。
(さて、どうしたものかな。もう少し苛めてやってもいいが、クビだと言われては目的が果たせないし……こちらから少し歩み寄ってやるか?)
 俺はこれ以上店長を刺激しないように、これまでより幾分声の調子を和らげながら言葉を紡いだ。
「……僕は一般的な意見を述べたまでです。敢えて『素人』の意見を付け加えるなら、良心的な値段で診察してもらえる提携獣医師の確保と有事の際の予算枠を設けることですね。どちらも、お店を経営しながらでもできることでしょうし、貴方の努力次第で実現も可能だと思いますが。それも無理だというなら感情は捨てて経営に徹するべきでしょう。悩み苦しんだ挙句、大事な動物たちまで被害を被るようでは何のメリットもありませんから。……まぁ、蛇足でしたね」
「……そんな事は俺だって……」
 こちらの声の調子に気を良くしたのか、彼はちらりと媚を含んだ視線を俺に寄越しながらぼそりと呟いた。だがやはりそれ以上の言葉は無いらしい。
 劣情に抑えられていた嫌悪感が、彼の視線を受けて再び燻り始めた。
(言い訳しかできないのなら、端から希望ばかり語るものじゃないだろうが。……ああ、面倒になって来たからこの辺りで切り上げるか……)
「では聞きますが、実際に獣医師に交渉しましたか?予算を組み込めるか、人任せでなく自分で計算してみましたか?……或いは経営を一番に考え、商品でない動物への感情を切り捨てて行動しましたか?」
「……う……」
「何一つ実行していないと言うのなら、『素人』に言いたい放題言われてしまうのも仕方がないかと思いますよ」
「……も、もういい!もう十分だ!……これ以上君と話してると自分がどうしようもない人間に思えてくる……」
 畳み掛けるような俺の言葉がよほど堪えたのだろう。彼は懇願するように俺の言葉を遮ると、そのまま力なく項垂れ痛みを堪えるようにきつく目を閉じた。
 俺は無言で彼の表情を眺め、次いでもう一度彼の手の中のハムスターに視線を流した。
 金銭に拘らず獣医師に診せることもできなければ、店の動物ときちんと区別して適切な処置をする事もできない。店長の手の中の小動物は彼の優柔不断な本性が具現化したものなのだろう。小さくて無力で臆病でそのくせ何処か狡猾で……俺の中の獣の本性を煽る。
「……悪いが、もう帰ってくれないか……」
 店長が絞り出すような声で退場を促してきた。意図を判っていて、俺は態と気遣う様な素振りをしてみせる。
「……他にお手伝いすることはありませんか?」
「大丈夫だ……後は俺が何とかする」
「そろそろ猫の餌の時間じゃないんですか?」
「大丈夫だといっただろう!!」
 これまで言葉では感情を露にしても、頑なに手の中の小動物を守っていた店長が初めて荒々しい動作で立ち上がった。パイプ椅子が耳障りな音を立てると同時に机が揺れる。
 流石にハムスターの安否が気になり視線を向けると、ふと、彼が立ち上がった振動だけではなくその手の中の茶色い毛玉が動いたような気がした。もう一度、今度は目を凝らして見る。間違いない。微かだが呼吸に合わせて毛皮が上下しているのが見て取れた。
(……あんな拙い手当てで生き返った……のか?)
 信じがたい事実に戸惑いながら、怒りで俺の視線にすら気付かない店長を呼んだ。
「店長」
 注意を促すように店長の手を指差してみたのだが、彼は煩わしそうに顔を背けるばかりだ。
「大丈夫だといったら大丈夫なんだ!いいから早く帰って……」
 その手の中で確かに反応を返しているのに、彼自身は気が付いていないらしく苛立たしげに俺を追い返そうとする。
「……動いているように見えるのですが」
「何が!」
「ハムスター」
「え!?あっ!」
 怪訝そうに自分の手の中を覗き込んだ彼は、漸く小さな命の証に気が付いて驚きの声を上げた。
「息を吹き返したようですね」
 店長はハムスターに耳を近づけたりいろんな角度から覗き込んだりしてから、満面の笑みを浮かべて俺に視線を移した。
「ホントだ!!やったよ岸本君!!」
「良かったですね」
 心なしか潤んで見える瞳に、素直に頷き返してやる。
「ああ、良かった!ホントに良かった!やっぱり冬眠だったのかな」
「かもしれませんね」
 店長はごそごそと動き始めたハムスターを嬉しそうにケージに移してから、俺を振り返り得意げに背を反らせた。
「どうだい!君は真似事だと言ったが、ちゃんと助かったじゃないか!」
「そうですね。正直驚いていますよ」
 この言葉に嘘も裏もない。正直なところ、素人が手を出したところで回復は絶望的だと思っていたのだから。
 だがそれまで口論していた俺が、あまりにもあっさりと彼に同意を示した事が不満だった様だ。心もち唇を尖らせて、窺うような視線を寄越してきた。
「……なんだか反応が薄いな。負け惜しみの開き直りかい?」
「僕は貴方と勝負していたわけじゃありませんよ。重要なのはこのハムスターが助かるかどうかでしょう?結果として助かったのならそれが最善ですから、僕にこれ以上言葉はありません」
「…………」
 俺の言葉に反論はなかった。それでも店長は何か言いたそうに唇を動かしていたが、上手い言葉が見つからないようだ。
 諦めたのか口を閉ざし逃げるようにハムスターのケージに視線を向ける彼を、これ以上苛めたところで意味は無いだろう。潮時だと判断した俺は徐に腰を上げ、逸らされたままの視線に構わず彼に軽く会釈をした。
「では僕はこれで失礼します。店長もあまり無理はしないで下さいね」
「え、帰るのかい?」
 突然の申し出に驚いたのか慌ててこちらに視線を戻した店長に、俺は態とらしく肩を竦めて見せる。
「帰れといったのは店長ですよ」
「あ……そ、そうだったね……」
 厭味にならないような口調を選んだつもりだったが、自分の言い放った言葉に多少なり思うところがあるのか店長はバツが悪そうに俯いた。
「それでは」
 そのまま躊躇うことなく背を向けて事務所を出たが、店長は引き留めようとはしなかった。


 俺は自分の放った言葉に自信も責任も持っていた。店長にも立場や経験上の正義はあるのだろうが、俺の意見も一つの正論であることに変わりはないのだ。
 お互いの主張がどうあれ結果的にハムスターは息を吹き返したのだし、とりあえずの問題は解決したわけだ。
 それなのに、俺は何が気に障っているのだろうか。
 理由はわからなくとも、帰途に付く自分の足取りがいつもより少しだけ重く感じられるのは紛れもない事実だった。


岸本臣。休みも押しかけバイト。