ペットショップ07

 五日目。
 昨日の経験からいつもより早めに出勤した俺は、予想通りの賑わいを見せる店内に内心うんざりしながらも表向きはいつもよりも効率よく仕事をこなしていた。
 休日だから当然なのかもしれないが、平日に比べて家族連れの姿が目立つ。正直、子供の相手は面倒だった俺は、自然と普段よりもオクターブの高いざわめきを避けるように移動していたようだ。気がつくと店の隅で所在無げにきょろきょろと店内を見回す不審な母子連れとかち合ってしまっていた。
 面倒事だと直感して落胆した俺に対し、母親は安堵したように笑みを浮かべて声を掛けてくる。
「あの、すみません。総一郎……じゃないわ、えっと、店長います?」
「てんちょーてんちょー」
 彼女が口にした名前とその足元に纏わりつくようにはしゃいでいる幼い女の子の姿に、俺は一瞬反応が遅れてしまった。
「はい、おりますが……何か御用でしょうか?」
 取り繕うように笑みを浮かべて答えたが、問いかけは少々険のあるものになってしまったようだ。母親の表情が少しだけ曇った。
「用というほどじゃあないんですけどねぇ、この子が会いたがって聞かないものだから…もしかしてお忙しいのかしら」
 おっとりした彼女の口調が妙に癇に障った。
「暇ではないですね」
(なんだこの女。店長とどういう関係なんだ?……子供まで連れてるし……)
 苛立つ気持ちのまま言葉は硬くなったが、母親はそれほど堪えていないようだ。おっとりとした口調そのままの緩慢な動作で、口元に指先を当て眉尻を下げる。
「あら〜それはごめんなさいねぇ。鈴、お仕事の邪魔しちゃいけないから帰りましょうか」
「ええ〜やだ〜」
 女の子は母親の言葉にいやいやと首を振る。
「お店が終わった後にでもお電話してみましょ、ね?」
「やだ〜!にゃんこ抱っこさせてもらう約束だもん〜!」
 今にも泣き出しそうに眉を寄せて、母親のスカートをぐいぐいと引っ張る。デパートなどでよくある光景だ。
 諦めて帰ってくれることを期待しつつ見守っていたが、ふと、ある事に思い至った。
(……このまま返したらどういう関係なのか謎が残るな。それもすっきりしないし、うまく話を振って聞きだしたほうが得策か?)
 考えを改め、小さく咳払いをして二人の注意を引く。
「猫でしたら、きちんと消毒してくだされば少しの間なら触っても構いませんよ?」
 いかにも見兼ねた風に親切を装って声をかけると、母親はあからさまにほっとした様子で頬を緩めた。
「まぁ、ごめんなさいね気を遣わせてしまって。鈴、お兄ちゃんに猫ちゃん抱っこさせてもらいましょ?」
「……てんちょーはー?てんちょーも一緒じゃなきゃやだもん〜!」
 女の子は言葉の内容を確かめるように俺の顔を眺めた後、すぐに不満げに唇を尖らせた。そして更に大きな声で喚く。
「こまったわねぇ」
 困った様子を見せても、振り回されるばかりで一向に子供を叱ろうとしない母親に苛立ちを覚えた。このまま騒がれては他の客にも迷惑がかかる。咎めようと口を開きかけた時、背後から声がかかった。
「京子!」
 聞き覚えのある声に振り返れば、店長が慌てた様子で小走りにこちらへ来ていた。
「あ!」
「てんちょー!」
 親子も店長に気がついたのか嬉しそうに表情を緩め、自らも相手へと歩み寄った。
「騒がしいから誰かと思えば、鈴も一緒か。どうしたんだ?」
 店長は母親の足元から離れて駆け寄ってきた女の子を抱きとめ、そのまま膝を折って彼女と視線を合わせた。
「すーとの約束忘れてる!にゃんこ抱っこさせてくれるって言ったのに〜!」
 女の子は不満げに唇を尖らせる。店長は彼女の言葉でなにやら思い出したのか、あ、と小さく声を上げた。
「……そういうわけなのよ。ごめんなさい忙しいのに」
「ああ、いや、俺も悪いよ。すっかり忘れてたからなぁ。ごめんな〜鈴。にゃんここっちにいるから、おいで。でもちゃ〜んと手を洗ってからだぞ〜」
「あ〜い!」
 元気よく手を上げて答える女の子の頭を優しく撫でて、店長はすまなそうに見守る母親に目配せしながら立ち上がった。
 待ちきれないのかエプロンの裾をひく女の子をそのままに、店長は漸く俺に視線を向けると眉尻を下げた。
「俺の身内が騒がせて悪かったね、岸本君。ちょっと奥で猫見せてくるから何かあったら声かけてくれ」
「……はい」
 俺が答えると安心したように笑って、店長は二人を連れて店の奥へと姿を消した。
(身内、だと?……確か環情報じゃ独身のはず……。まさか隠し子とか?それか隠してるだけでバツイチ?不倫の線もあるか……)
 俺は今まで人のモノだからといって遠慮したことはない。勿論今回も同様だ。たとえあの女と店長に恋愛感情があったところで手を引くつもりはなかった。
 何も問題はないはずなのだが……僅かばかりの焦燥感と喪失感にも似た奇妙な感情が沸きあがってきて、俺は暫くそのまま立ち尽くしていた。

「岸本く〜ん」
 小一時間も過ぎた頃、再び店長が店内に戻ってきた。
 暢気に声を掛けられて振り向けば当然あの親子も一緒に居て、何故だか少し面白くなかった。
「はい」
(仕事中に一時間も何をやってるんだ。ここはわんにゃんふれあい広場じゃないぞ)
「ホントに悪いんだけど、この二人を送ってくるから店を頼むよ。すぐ近くなんだが、もし遅くなってもいけないしね」
 こちらの感情に気づくはずもない相手は、すまなそうな笑みを浮かべて更に俺を逆撫でする言葉を口にする。
 俺は一瞬沸いた反抗心を抑え、無表情のまま頷いて見せた。
「……はい、わかりました」
 店長が『すまないね』と続けると、後ろにいた母親も軽く会釈をしてきたのが妙に癇に障った。
 だが苛立ちを口に出来る筈もない。店長が親子を連れて店を出て行くのを、暗澹たる思いで見送るしかなかった。


 それから30分も経っただろうか。
 そろそろ就業時間も終わりに近づいた頃、漸く店長が店に戻ってきた。当然だが今度はあの親子の姿はなく店長一人だった事に、俺は無意識に安堵した。
 店長は駆け足に俺の居るレジカウンターに近づいてきて、詫びの言葉を口にした。
「今戻ったよ。すまないね店を空けてしまって。なにか問題とかなかったかい?」
「お帰りなさい。もうお客さんも少なかったですし、大丈夫でしたよ」
「そうか、良かった良かった。助かったよ、岸本君」
 薄く笑みを浮かべて迎えると安心したように頬を緩めた。
 その笑みにつられるように、心の中で渦巻いていた言葉が零れる。
「……可愛い子でしたね」
 勿論本心でそう思っているわけではない。子供を褒めたのは、効率よく情報を引き出す為の潤滑剤のようなものだ。
「何?京子のことか?アレはだめだよ、人妻だから」
 店長は何を誤解したのか焦ったように両手を振った。
「いえ、お子さんのほうですよ」
(ぶっちゃけどっちも興味ないんだがな)
「ああ、鈴か。可愛いだろう〜」
 子供の事だと分かると、途端に店長は照れたような笑みを浮かべる。親馬鹿丸出しな表情だ。これはやはり、そういう事なのだろうか。
「店長に似てましたね」
「お、そうかい?俺に似てるとなると、ちょっとばかり将来が不安だなぁ。ま、血は争えないってことか」
 店長はますます笑みを深くする。逆に俺は眉間の皺をこれ以上深くしないよう、努力しなければならなかった。
(血、だと?隠し子決定か?……それにしてはあまり後ろめたい雰囲気でもないのが気になるが……。……まあいい、俺が相手にするのはコイツ自身だしな。子供が居たとしても関係のないことだ)
「……美人になると思いますよ」
 腹の奥で揺れる後ろ暗い感情を隠し、それでも悪意を滲ませながらおざなりに褒め言葉を口にした。
「いや、君からそういわれるとなんだか本当に美人になりそうだな〜。けどまぁ、美人になろうがそうじゃなかろうが、鈴は俺の自慢の姪っ子だよ」
 更に続く店長の親馬鹿話に適当に相槌を打とうとして、『姪』という言葉に我に返った。
「は?……姪……ですか」
「ん?妹の子で娘だから姪だろう?……甥じゃないよな」
 驚いて思わず問い返した俺に、店長は怪訝そうな視線を向けた。
「姪ですね」
(姪だと!?俺としたことがその可能性がすっぽり頭から抜け落ちていた……)
「姪だよな?ははは。君に言われると自分が間違ってるような気がしてしまうなぁ」
「大丈夫です、間違ってませんよ」
 内心叫びだしそうなほど驚きながら、それでも店長の質問にはしっかり頷いて見せた。
「良かった良かった。俺もまだボケちゃいないな」
 冗談めかして笑う店長にとりあえず同調して笑っておいたものの、内心脱力感に崩れ落ちたい気分だった。
「……そうだなぁ……鈴もあと十五年もすれば年頃になる。彼氏の一人二人作っちゃうんだろうなぁ……」
 ふと、笑いを収めた店長が、感慨深げに口にした。
「そうですね」
 今度こそ適当に相槌を打ってはみたが、もうあの子供の事はどうでも良かった。むしろキレイサッパリ忘れ去りたい気分だ。
「岸本君みたいな彼氏なら俺も安心なんだけどなぁ……。なあ岸本君、年下の子はどうかな?」
「特に年齢に拘りはありませんが……その頃には僕は三十代後半ですよ」
 突然自分に矛先を向けられ内心驚いたが、諭すような口調で現実を口にすると、店長は今やっと気がついたように膝を打った。
「ああ、そうか……。それまで君が独り者でいる保証もないし、そういえば今彼女がいるのかも聞いてなかったな。どうなんだい?」
 店長にしては珍しく、更に質問を重ねてくる。思わぬ展開ではあったが、ここは好機とみて間違いないだろう。恋愛感情に疎そうな彼に、少しばかり刺激を与えてみることにした。
「特定の相手はいません。……気になる人ならいますが」
 相手の目を見つめ僅かに熱を籠めて口にしたのだが、鈍感な彼は俺の意図に気付く事もなく素直に驚いていた。
「へえ〜。君ほどの男なら、告白すれば二つ返事で付き合ってくれるんじゃないのかい?」
「どうでしょうね。随分と鈍感な方のようですし。……何より僕自身この感情がどういった種類のものなのか判断がつかない状態なので、安易に告白というわけにもいかないですね」
 これは嘘ではなかった。彼に嗜虐心をそそられるのは事実なのだが、それと同時に何か別の感情が混じっているような気がするのだ。今までに感じたことのない、酷くあやふやな何かが。
(苛めたいとは思うんだが、同時に酷く不安にさせられる。……なんなんだろうな、本当に。一度寝てしまえばはっきりするような気もするんだが……)
「……ふ〜む、そんな難しいものなのかい?どうも俺はそういうのに疎くてぴんと来ないんだけど」
 こちらの思惑を毛ほども感じないのか、彼は他人事のように聞いてくる。あまりの反応の薄さに、これ以上の刺激を諦めて話を切り上げることにした。
「いえ、意外と単純なものですよ」
「どっちなんだい」
「人それぞれということです。……どちらにしろ姪御さんと僕では、残念ながらご縁がないように思いますよ」
(ここは一応釘を刺しておかないと、本気で縁談を持ち込まれても困るしな)
 僅かに眉を寄せ申し訳なさそうな表情でそれでもきっぱりと断ると、彼は残念そうに溜息をついた。
「そうなのかい。……そりゃあ、残念だなぁ」
 気のせいだろうか、呟いた彼の言葉が少しだけ嬉しそうに聞こえた。
「おっと、そろそろ時間だ。岸本君は猫の餌を頼むよ。俺もサボった分片付けぐらいはきっちりやらないとね」
 店長は思い出したように店内の時計を見上げて、肩を竦めて見せる。そういえば就業時間も終わりに近いとはいえ、レジで長々と私語をしてしまっていた。
「すみません、仕事中なのに僕が色々聞いてしまって」
「いや、それを言うなら俺も同罪だしね。時間は戻らないんだし、これから挽回すればいいさ、ね?」
 深々と頭を下げると、店長は宥めるように俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「……はい。それでは僕は猫に餌をあげてきます」
「ああ、よろしく頼むよ」
 俺は店長の笑顔に送り出されるように、ペットホテルへと向かった。


 猫の世話も問題なく終わり、いつものように店長に見送られながら店を後にした。
 気がつけばペットホテルの猫の餌はすっかり自分の担当になってしまっているような気がするが、それも俺の実力を店長が認めた結果だろう。
(五日も俺の有能振りを目の当たりにしたのだから当然の結果だな……。ん?ああ、そうかもう半分過ぎたのか……)
 環の代役として契約した期間は十日。そのうちの半分をこなしたことになるのだ。
 終業間際の会話から考えてもそれなりに手ごたえはあるのだが、就業時間内に限られているためもう一押し足りないような気がする。明日からの二日間、環のシフト上では休みになっているのだが、ここは無理にでも手伝いを申し出たほうが確実かもしれない。
 出勤することに決めたものの、そのせいで学業が遅れては本末転倒だ。少しでも学習時間を確保するべく俺は家路を急いだ。


岸本臣。バイト五日目。